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2010年11月 6日 (土)

髙德 忍 著                                  『対立と対話――「いじめ」の問題から「対話」の教育へ』                (つげ書房新社刊・10.4.30)

 「いじめ」問題は、依然、現在においても、難題性を持ったものとして在り続けている。たんに、家族関係と教育現場だけの問題に収斂させるには、あまりにも、深層部分が拡張されてきてしまったからだ。しかし、発端は、学校であることには変わりはないが、その教育現場も、「校内暴力」といわれた時代から、内閉化、陰湿化していく「いじめ」が横行する時代のなかで、右往左往しながら浮遊し続け、変容してきたといえる。その変容の様を、長年、高等学校の教育現場に身を置いてきた著者は、「市場原理が導入され」たことによる後退として捉えている。
 「教育改革により学校教育は、完全なサービス業となり、学校の中に消費者中心の市場原理が導入されることで、生徒、保護者は、サービスを受ける側の『顧客』となった。学校での生徒の問題行動は、サービスを提供する側の教師だけの問題になって、生徒にとって不利益だと思われる、校則違反に伴う特別指導では、親の協力は得られなくなった。それどころか親は、塾や予備校と比較して、学校のサービスの質の悪さを批判するクレーマーと化した。その結果、小学校では『学級崩壊』、中学校では『校内暴力』、高校では『私語』や『授業崩壊』が問題になり、精神疾患での教師の休職が増加した。」
 これは、結局、「ゆとり教育」の導入の失態も含めて、「学級崩壊」や「校内暴力」といったことへの対策が、表層的なところでしかなされていないことの証左だと思う。つまり暴力行為と犯罪行為、あるいは、いじめと例えば恐喝といった犯罪行為との境界を、精査することなく、なるべく、極小な現象に押し込めようとした結果だと見做していいのではないか。
 本書の表題は「対立と対話」であるが、そもそものこの対称的な言葉(わたしは、対立と対話はけっして対立する関係の言葉ではなく、対称性を持ったものだと考えている)が発生するのは、関係性が表象される場ということになる。関係性のなかにあって、わたしたちが、なんの齟齬もなくスムーズに通交しうるかといえば、大人社会であっても、それは至難なこととなる。インターネット(パソコンや携帯)の急激な普及によって、子供同士の関係といえども、大きく変容してきているのは確かだ。まずは、携帯を持つことが関係性を取り結ぶことの前提であるとすれば、携帯を持つことを是としないわたしなどは、いち早く排除される側になってしまう。
 「学校の中でも、(略)『平等』が、『集団性』『同質性』として形式的に解釈され、それが中心的価値基準となり、『みんな仲良く』『みんなと同じように……』と、思いやりや協調性を重視した教育活動が行われていくと、そのことがかえって生徒一人ひとりに異質性(差異性)へのこだわりを持たせることになる。/私はそのことを、現在の学校教育の抱える問題として『平等のパラドックス』(略)と呼んでいる。『みんなと同じでないから……』『みんなと同じことができないから……』といった差別感や優越意識は、排他的で制裁的な感情を生じさせる。」
 「校内暴力」や「いじめ」の淵源を、ひとことでは、いい表わすことはできないとしても、著者のいう「平等のパラドックス」は、核心的な視線だと思う。関係性や共同性というものは、同等性や均一性を意味するわけではない。一人ひとりが違う、差異があるという個体性を汲みいれて、はじめて成立つのが、関係性や共同性というものである。差別意識や優越意識が排除する感性を醸成させていくのだとしたら、それは、そもそも関係性というものが転倒していることになる。そしていま、ますます、関係性は転倒したかたちで拡張しているといえる。
 学校などの直接的な場での「いじめ」から、パソコンや携帯上の、つまりIT上での「いじめ」が、現在では頻繁に起きていて、子供たちが自殺する契機にもなっている。ブログへの陰湿で中傷的な書き込み、いわゆる掲示板などでのいやがらせといったことは、拡大化する一方だといっていい。著者がいう「平等のパラドックス」は、いまやIT世界で現出しているといってもいいのだ。
 「『場の空気』を読むために『ノリ』『ぼかし表現』『フリ』などのやさしい関係が、集団への同調圧力として働いているために、その閉塞感が、現実の格差社会の中で『自分だけが何か損をしている』『仲間はずれされている』『悪口を言われている』『自分だけが負け組みである』などの、さまざまな被害妄想を生じさせる。(略)またそれが単なる妄想でなくても、思い込みから、妬み、嫉み、ひがみなどの感情を生じさせ、『ネットいじめ』に発展する。」
 「対立はするが対話が成立しない」関係性が、「いじめ」を増長させるとしても、だからといって「対立をさけ対話が成立しない」関係性というものも、「いじめ」やさまざまな問題を現出させうると著者はいう。「対立と対話」は、わたしならある種の往復運動のようなものであると考える。関係性を繋ぐ機縁として、「対立」から、「対話」への通交は、現在の子供たちをめぐるアポリアを切開する糸口になるはずだと、本書を読み終えて感じたことだ。

(『図書新聞』10.11.13号)


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