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2010年9月30日 (木)

「情況」的場所へ(7)―空白化する〈終戦〉―

 八月という時期は、いつでもわたしを陰鬱にさせる。今年は特に、猛暑続きだったため、そこに不快感が重なって、なおさら陰鬱さは過重になっていった。
 いまから、六十五年前の1945年八月十五日、天皇ヒロヒトはRADIO放送を通して、終戦の詔勅を発した。この時、国民の多くが、〈天皇の肉声〉を初めて聞いたことになる。わたしは、台湾映画『悲情城市』(侯孝賢・監督、89年)の冒頭シーンで延々流れた天皇の声に大きな衝撃を受けたことなどを記したことがあるが(『夜行17号』)、終戦の詔勅なるものが、いかようにも、終戦もしくは敗戦というものを決定付けたと理解したことは一度もない。世代間の違いといえば、そういうことになるかもしれないが、45年八月十五日を過ぎた後でもなお、“戦争状態”は依然続いていたことを忘れてはならないからだ。南方での孤立化した抗戦や、満州や北方において、スターリン国家ソ連の侵攻で占領状態になるという、およそ終戦とはいえない情況が続いたのは事実であったことを思えば、ヒロヒトの詔勅になんの意味もないことがわかる。また、こうもいえるはずだ。戦争による犠牲者(戦死者)を哀悼するというのであれば、なにも、八月十五日だけに限定すべきではない。戦死者や犠牲者にとって、八月十五日以前はもちろんのこと、以後にも多くの様々な〈死〉を刻んだ日があったのだ。それぞれに個々の亡くなった(であろう)すべての日に、天皇は哀悼すべきであり、国家(あるいは天皇)の名の下において死を強いておきながら、死後もなお、遺族から個々の哀悼の気持ちを簒奪し、遅きに失したといえる天皇が詔勅を発した日に収斂させ、統率して行おうとすることを、わたしは認めない。このことは、戦没者慰霊が靖国に祀られるべきかどうかということを論ずることよりも、遥かに重要なことだと、わたしなら思わざるをえない。
 結局、“終戦”記念日なるものは、国家や天皇の責任を回避するだけのたんなるセレモニーに過ぎないことをこの六十五年間、露呈してきたことになるといっていいはずだ。
 「天皇制の崩壊は、八月十五日の勅諭を聞いた時の、日本人の態度いかんにかかっていたのだと考えつづけていた。あの時に、おれたちが一斉に嫌だと叫んでおれば、天皇の権威はたちまち崩壊していたはずだった。どうせ敗けることは解っていた。しかし、三日間でもいい、抵抗を続け、戦争をはじめた勢力とは別の組織が、戦争の責任をとり戦後処理を担当すべきだったのだ。(略)しかし、そうした怒りも風化してしまっていた。」(高橋和巳『散華』、67年刊・63年初出)
 人間魚雷の生き残り兵であった主人公・大家の独白である。この作品は戦後十七年経った時制での物語であるが、戦争で死を目前にして生き残ったものが有する終戦(敗戦)に対するイメージを鋭利に描出しているといってもいい。ただ、天皇の肉声にうな垂れて悲しみにくれるといったわが国の民衆の有様を、教科書的な認識とするには、余りに多くの人たちの様々な思いというものが、終戦時にはあったということだ。「三日間でもいい、抵抗を続け、戦争をはじめた勢力とは別の組織が、戦争の責任をとり戦後処理を担当すべきだったのだ」という夢想を高橋和巳は、その後、『邪宗門』の世界において、さらに深く描出していったといえる。高橋和巳と同世代でもある磯田光一は、その著『戦後史の空間』に収載されている「敗戦のイメージ」という一文のなかで、終戦から戦後にかけての時空において思想家・保田與重郎がとった態度を次のように述べている。
 「敗戦を境に時代の価値意識が逆転したとき、いやおうなしに新時代から身を退けざるをえなかった人として、ここで保田與重郎の声に耳を傾けなければならない。(略)保田は、時代の動向がどうなろうと、思想だけは少しも変えなかったのである。窮して志を述べるのが文学ならば、保田の『日本に祈る』(昭和二十五年・祖国社)の序文は、その思想のヴェクトルがどうであろうと、占領下に発表されたすべての文章のうちで、最もなまなましい痛憤にみちたものの一つである。(略)保田の夢を裏切ることによってしか、『戦後』はありえず、歴史は『戦後』を獲得したがゆえに保田の夢想はほうむられなければならなかった。この二重構造のうちに、敗戦をはさむ歴史そのもののイロニーがある。それならば保田のいう『過ギシモノ、カクモ切ナキヤ』という感慨は、永久に日本の『戦後』と交差することはないのであろうか。」
 「なまなましい痛憤」といい、「『過ギシモノ、カクモ切ナキヤ』という感慨」といい、保田與重郎を捉える磯田の視線は、終戦から戦後へ至る過程の欺瞞性とでもいうべき位相を切開していく。その保田に思いを重ねていた一人の作家がいる。『死の棘』で知られる島尾敏雄である。島尾は、海軍特攻の震洋隊隊長として奄美群島加計呂麻島に着任しながら出撃することなく終戦を迎えた。その終戦後日記(『島尾敏雄日記』)に次のような箇所があった。
 「夕方六甲道駅前デ保田與重郎『文明一新論』ヲ買ツタ。彼ハ現在何ヲ考ヘテヰルカ、昭和十八年後半、私ハ旺ニ彼ノ書ク物ヲ読ンデソレニ傾イタ。(略)私ハ太宰治ト保田與重郎氏ヲ見ツメル、同世代ヲ歩ム縁ニヨツテ。」(昭和20年・十月二十三日)
 「余は昨年八月十五日に既にくだらぬものとして生き残つた。余が生きてゐるのはミホへのみれんだ。(略)だが俺は信ずる。俺の世界、立派に世間的に通用はしないやうな世界だが、余はそこに住む以外は生きて行けぬ。」(昭和21年・一月二十六日)
 “終戦”から、二ヵ月後、「彼ハ現在何ヲ考ヘテヰルカ」、「私ハ旺ニ彼ノ書ク物ヲ読ンデソレニ傾イタ」と、保田與重郎に思いを馳せる島尾の心情は、戦争(それは、島尾にとって絶えず死というものを孕んだものだ)が持つ非情さにどう対峙すべきなのかということへの“痛憤”としてあるといっていい。だからこそ、年明けの一月に、「余は昨年八月十五日に既にくだらぬものとして生き残つた」と独白していくことになる。
 つげ忠男の『屑の市』(72年)は、終戦以後ということについて、濃密に問い掛けてくる作品である。血液銀行に売血しにくる者たちの有様を描いた作品だが、一際、饒舌に明るく振舞っている中年の男がいる。元海軍中尉と噂されるその男は、どこか陰影を持って描写されていく。そこに、売血しにきた男たちに体を売ろうとする一人の女が登場し、元海軍中尉の男と仲間の前で抱かれることを強要される。女は仕方無く、着ているものを脱ごうとすると、肩から胸にかけてケロイド状態が露になる。それを見た元海軍中尉の男は、女を抱きしめ、ケロイドの場所に口づけをし、やがて二人は、雨が降るなかを肩を寄せ合いながら歩き去って行き、物語は閉じていくことになる。女のケロイドが戦火によるものであることは、類推に過ぎない。しかし、この元海軍中尉の男が女に寄せる感情は、「余は昨年八月十五日に既にくだらぬものとして生き残つた。余が生きてゐるのはミホへのみれんだ」という島尾の思いに通底するし、磯田が指摘する「保田のいう『過ギシモノ、カクモ切ナキヤ』という感慨」にも通底するものであると、わたしなら捉えてみたい。戦後の民主化(アメリカ化)といった“価値意識の逆転”は、“過ギシモノ”を無かったことにする意識を醸成させていき、終戦も戦後も空白化した時空を漂わせていくことになる。そこでは、戦争責任(軍部というよりも、外務官僚に対して)も国家の問題も、天皇制の問題も、なにも解き明かすことなく、“終戦記念日”というセレモニーと、“戦後”という目覚しい経済復興によって獲得されたとする平和という欺瞞性に充足しようとする人たちがいることになる。八月六日、広島で、皮相にも、核の抑止力を肯定する発言をしたわが国の首相の有様は、そのことをさらに象徴化しているといっていいはずだ。

(『月刊架空』10年9月号)

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