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2010年5月10日 (月)

映画『カムイ外伝』の彼方

 わたしにとって、『カムイ外伝』という作品は、『忍者武芸帳 影丸伝』と並んで、白土作品群のなかで、『カムイ伝』本編よりも、大きな位置を占めている。ここでいう『カムイ外伝』とは、当然のことながら、「週刊少年サンデー」誌上で1965年から67年まで断続的に連載されていた「第一部」といわれる一群の作品をさしている。なによりも、抜け忍となって追っ手から逃れながら生き延びていくカムイの痛切な在り様は、少年期であったわたしの心奥を痛撃したといっていい。なかでも、「九の一」という挿話は、いまでも印象深い物語として、わたしのなかに潜在している。木樵集団のなかで逼塞していたカムイだったが、集団のなかで虐げられながら働いていた少女と心通わせていた。安寧の日々は長く続かない。この木樵たちもまた追忍であったのだ。死闘の末に生き延びたカムイは、少女とひと時の安息を得る。少女は鶴を飼っていて、カムイがその鶴に餌を与える。瞬間、足元に蛙を見つけ、それを取ろうとして前屈みになる。鶴は、少女以外から餌をもらうと反射的に嘴で羽毛のなかに仕込んでいる小刀を取って、目の前の対象に放射するように訓練されていたのだ。偶然、前屈みになったカムイはそれを避けることができたのだが、小刀はそのまま、カムイの前に立っていた少女の喉に突き刺さる。悲嘆にくれるカムイは、丸太に少女の死せる体を横たえながら川を下っていくという画像で物語は閉じられていく。“九の一”とは、女忍者を“くノ一”と呼び習わしていたことからの転用であるが、ここでは、少女も含む木樵集団が九人にいたことから表題は由来する。もとより少女は、カムイに殺意を持っていたとは思えない。被差別下層民という出自を持つカムイは、山の民・職能集団のなかで働く少女を自らの立ち位置と重ね合わせたことは、推察できる気がする。その少女が自らの意志で鶴を訓練させたとは思えないが、確かな目的があってそのことを任ぜられていたことは間違いない。結果的に少女もまた追忍であったという事実は、どんな意味を持つことになるのだろうか。鶴が自分以外のものから餌を与えられると小刀を放射することを知りながら、カムイに餌を託したのは、任ぜられた目的遂行のためであったとしても、それは、殺意とは別物なのだ。カムイの前に立っていたということは、カムイが鶴の放射行為をかわすことを想定していて、目的を達成できない場合は自死するという追忍の掟に従ったということを意味する。だが、わたしの記憶のなかでは、少年期に受けた、少女もまた追忍の一人だったという衝撃的な結末に、もっと別様の物語が内在しているはずだという思いがあったような気がする。その時の思いが指し示すものは、四十年以上という時間の累積があるにせよ、作品が有している深遠性として色褪せることはないといい切ることができる。少年期に抱いた別様の物語をカムイと少女との往還に敷衍していえば、関係性というものは、ほんらいなんらかの齟齬を抱え持たざるをえないし、均等な相互性というものは、そもそも成り立つことの困難性を絶えず孕んでいるものだということになる。自らの存在性が、他者の存在性を規定する、あるいは、他者の存在性が、自らの存在性を規定してしまうということが、共同性のなかでは常態的に起こりうることを意味する。そのことは、支配―被支配といった強制力や力関係の問題ではない。存在自体に内在してしまうもの、つまり、個と個が織り成す関係性が発生した段階で、既に胚胎してしまうということなのだ。それを意識的・自覚的に了解しうる位相を、個と共同性における領域にどのように屹立させていくことができるかということが問題なのだとわたしには思われる。
 だからこそ、カムイが少女の亡骸とともに川を下っていったのは、少女が、“九の一(くノ一)”であったこととは別に、少女の死の起因が、自分の存在自体にあることに苦悶し、悲痛の思いを抱いたからだ。抜け忍と追忍との往還は、自分の“生”と引き換えに相手の“死”を喚起させることであるという宿運を自らの生き様に刻印するしかないカムイの存在自体の空虚さ、孤絶感を鮮烈に描出しているからこそ、その衝撃性、鮮烈性は依然、現在までも作品のなかに有し続けているといえるのだ。

 わたしは、映画『カムイ外伝』を観終えて直ぐに、どのような言葉を発したらいいのかと、しばらく逡巡した。そして、いまでも、その思いは続いているといっていい。つまり、原作とその原作を元にしてヴァリエーション化されたものは、別物だと考えていけば、いいのかもしれない。だが、かつて竹中直人監督作品『無能の人』をめぐって、わたしは、『無能の人』という作品は二つあると述べたことがあるが、その時の思いと幾らか違うものを、映画『カムイ外伝』に対して感じているからだ。竹中版『無能の人』は、原作にある井月譚をめぐる位相を忌避し日常的な家族性というものに収斂させて構成している。もとより、原作に潜在している孤立感や存在の空虚感といったことから離反していく限り、それは、二つの作品の間の乖離は大きいということだ。だからこそ、ある意味その懸隔性は納得できるものだった。しかし、映画『カムイ外伝』はどうなのか。かつて、『花のあすか組!』を近未来設定にして、原作(高口里純)の世界を無惨にも解体し荒唐無稽なものにしてしまった崔洋一が、『カムイ外伝』で同じ轍を踏むとは思えなかったが、原作に対して敬意を含ませながら、忠実に再現しようとしたことによって、原作が持っている共同性への暗い憤怒を見事に希薄化させてしまったといえる。
 ただし、幾らか留保して述べるならば、それは、映画化の原作を、『カムイ外伝 第二部』集中の「スガルの島」に求めたことからくる停滞性に起因するといえなくもない。「海」は、白土作品にあって重要なモチーフのひとつであることは、理解できる。「渡り衆」という海の職能集団を登場させるのは、「九の一」での木樵集団に通底する。だが、ここでは、カムイの立ち位置に大きな変容が見られることと、物語の基軸が「海」という場所性にあまりに依拠しすぎているのだ。『カムイ伝 第一部』と並行して書かれた『カムイ外伝 第一部』と、『カムイ伝 第一部』終了後、長いインターバルを経て、『カムイ伝 第二部』開始へ向けた試走ともいうべき意味あいで書かれた、『カムイ外伝 第二部』との間には、埋めようのない懸隔が露出しているといっていい。
 「スガルの島」では、カムイとスガルが対立していくなかで、やがてカムイが追忍ではなく、自分と同じように抜け忍であることをスガルが理解し、心を開いていくというように描出されていく。追忍が飲み水に毒物を入れたため、スガルを始め島の住民のほとんどが亡くなるという惨事によって、カムイと追忍の死闘へと物語は展開していく。しかし、例えば、「九の一」を例示するまでもなく、そこには何か緊密性が欠けて予定調和的な物語を顕在化させているだけだといわざるをえない。むろん、映画(もちろん漫画や劇画も同様だ)は、娯楽作品であっていいし、イデオロギー的主題性が明確な作品を、わたしは、了としているわけではない。だが、カムイという存在が、どのような共同性のなかにいて、生き続けてきたかということを捨象した物語は、空無以外のなにものでもない。映画の宣伝惹句は、「生き抜け!負けるな」だが、カムイを力強い抵抗の象徴として捉えるなら、それは、異貌のカムイでしかない。
 少し視線を変えて、この映画版に言葉を向けてみるならば、大島渚の『忍者武芸帳』にしても、テレビ版アニメ『カムイ外伝』にしても、実写ではなかったから、わたしは、カムイを松山ケンイチが演ずるということを知った段階で大きな期待感を持ったといっていい。監督が崔洋一ということに、幾許かの不安がないわけではなかった。これまでの作品であまり共感を抱いた記憶がないからだ。大作『血と骨』にしろ、傑作と評判の高かった『月はどっちに出ている』にしても、わたしとの距離感は埋めようもなかったといっていい。
 WOWOWで、『カムイ外伝』の撮影現場の様子が放映されたのを、公開前に観た。映画のメイキング映像というものは、オーケストラのリハーサル映像と同じで、観る側の感性を大いに刺激してくれるものだ。当然、撮影では、生身の身体の動きを捉えるものであるから、作品に対する期待感を膨らませてくれたのは確かだ。特撮を当然、多用するだろうことは想像できたとしても、ウォシャウスキー兄弟監督の『マトリックス』シリーズやチャン・イーモウ監督の『HERO』や、『LOVERS』には、遠く及ばないだろうとは思っていたものの、結果、作品におけるVFXの技術効果は、わたしに異和感しか抱かせなかった。
 確かにカムイの持っている秘術は、作品の重要なモチーフには違いない。少年期、魅了されたのは、その数々の秘術の卓抜さの描出があったからだといっていい。だが、そのことを、前面に出してきては、『カムイ外伝』という物語の深遠さは、なかなか表現しきれないだろうと思わざるをえなかった。
 映画は開巻、いきなり、カムイの秘術を特撮を駆使しながら延々、捉えていく。これには、完全に興醒めしてしまったといっていい。宮藤官九郎と崔による共同脚本は、このことを了として進めていったとしたならば、なにか、別の原作作品を対象とすべきではなかったのかといいたくなる。娯楽作品は、観客に分かりやすい物語を提供することではない。カムイの秘術は、それこそ、映画の惹句ではないが、必死に「生き抜」くためのものであり、これ見よがしに露出させていくものではないのだ。ゲームや格闘ごっこをするために、秘術はあるわけではない。このことは、この作品の製作者たちの明らかな錯誤というしかない。
 松山ケンイチのカムイは確かに存在していても、わたしたちが感応してきた劇画上の、あるいは物語上のカムイは、何処にもいないというべきなのだ。これは、誤解のないようにいうならば、映画『カムイ外伝』は、松山ケンイチの身体性に尽きるといっていい作品だといえるからだ。たぶん、松山ケンイチがカムイを演じていなければ、わたしはいまこうして、映画『カムイ外伝』について記述することはなかったといえる。少なくとも、走って走って画面を横断するカムイ・松山ケンイチは、魅惑的であった。
 「例えば『デスノート』(06)のLや『デトロイト・メタル・シティ』(08)のヨハネ・クラウザーⅡ世は役柄に際立つ特徴があるので、よく人から『難しかったでしょう』と言われるのですが、特異な部分が際立つからこそ、逆にそこの部分を糧に、『この人に百パーセントなりきる』と念じれば、すんなりと入っていくことができました。でも今回のカムイは、『なぜできない?』と思うことの連続で、撮影が終わるまで、ずっと自分の殻に閉じこもっていました。本当なら、崔監督が描こうとしたテーマについてもっと深く考えなければならなかったのでしょうが、入口となるカムイの肉体力に全身全霊で取り組んでいたので、はっきりいってテーマにまで頭が至らなかったと言えます。」(『カムイ外伝』劇場用プログラム)
 わたしは、この松山ケンイチの応答に、崔や宮藤以上にカムイの存在性に対する真摯な理解を見る思いがする。身体性は、自ずとその心的な空間を射てるものなのだ。松山ケンイチがいう、「カムイの肉体力に全身全霊で取り組んでいた」という考えは、わたしの見立てを補強してくれるものだった。だからこそというべきか、松山ケンイチの身体性を際立たせるためには、極力、特撮は抑えるべきだったと思う。劇画と実写はそもそも同じ位相にあるわけではない。特撮を駆使して秘術を忠実に再現したとしても、それは、カムイの存在性を活写したことにはならないからだ。

 映画公開に合わせて白土三平は、九年ぶりの新作を発表した。「カムイ外伝 再会」と題された作品である。カムイの幼馴染で抜け忍の伊児奈を中心にした物語で、副題は、カムイとそして兄の隼人との再会を意味している。モチーフには、映画の原作となった「スガルの島」との共通性を見て取ることができるかもしれない。
 だが、わたしは、この九年ぶりの新作「カムイ外伝 再会」に対しても、いい澱んでしまう感慨を抑えられなかった。あえて、明快にいうならば、もはや、わたしたちが感受してきたカムイは、何処にもいないということだ。開拓地農民を描いていたとしても、そこには、虐げられていながらも快活な民衆の熱気といったものを描出していたかつての作品群とは、大きな異和を現出させている。あたかも、それは、『カムイ伝 第二部』が、物語的隘路に入ってしまったことに通じている。
 最後の丸太に仰向けになりながら川を下っていく画像でのカムイのモノローグは、こうだ。「いい風が吹いている……」、「たまにはこんな風に身をまかせるのも……」。これは、もはや抜け忍・カムイではない。流浪の人・カムイというべきだ。
 カムイが達観して漂流する時代は、まだまだ先だ。わたしたちは、カムイとは違う道筋で、未知へ行くだけだ。

(『走馬燈 第4号』10.5)

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