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2010年5月20日 (木)

「情況」的場所へ(3) ―〈核〉という迷妄―

 いままた、〈核〉をめぐる喧騒がわきあがっている。冷戦構造下における時代は、〈核〉保有こそが世界の覇権というものを実質的に象徴していた。1945年のアメリカによるヒロシマ、ナガサキへの原爆投下の目的は、なかなか敗北を認めない日本帝国への駄目押し的な報復ではなく、来たるべき戦後支配を見据え、ソ連を牽制するものだったことは、いまや定説化しつつあるといっていい。つまりそれは、〈核〉が、ミリタリーバランスをコントロールしていくものとしてあったと同時に、〈国家〉を肥大化・強大化させていく根拠にもなっていたことを意味する。確かに、冷戦下は、いつでも、米ソによる〈核戦争〉が生起する危機が、内在していたといえる。だが、それは、けっして、外在化することはありえないということを含むものであった。だから、〈核〉というものは、けっして使用されることはないという意味において、〈幻想の所産物〉といってよかった。現実的な軍事戦略としては、〈核〉を搭載するか否かに関わらず、高性能のミサイル開発(宇宙開発とリンクしているのはいうまでもない)の方が、急務であり切実なものだったといっていい。冷戦構造が崩れ、アメリカ帝国一国支配がグローバル資本主義を推進していくなかで、〈核〉を保有することそのものは無価値化になっていったといえる。ただし、〈核〉を頂点とする軍事的なるものが、産業構造を最も下支えするものであることは当然のことであった。そして、行使されざる〈核〉ということは、ある意味、逆説的な〈核なき世界〉を現出させたともいえる。
 だからこそというべきか、他国や他集団の核開発疑惑、核使用疑惑を言挙げて指弾するアメリカの帝国主義的発言は、〈核なき〉軍事攻撃を正当化するためのものでしかない。
 バラク・オバマが、これまでの政権との違いを鮮明にして、核廃絶へのアプローチを表明(プラハ演説)したのは、昨年の4月のことだった。しかし、一方でアフガニスタンへの米軍増派を決定している。このアンビバレンスな施策は、そもそも「核なき世界」を謳えば、なにをしてもいいという帝国主義的表象でしかない。イラクは、核武装を目論むフセイン独裁国家だから、民主化しなければならないとして無差別的な軍事攻撃をし、多くの無辜なるイラクの民衆の死を招いたブッシュJr前政権と同じ位相をそのことは示している。そして、凝りもせずというか、先の「核安全保障サミット」では、〈核テロ〉の危機を表明し、アルカイダをスケープゴートにして、既視感を覚えるような対テロ戦を宣し、さらにはフセイン・イラクの次は、同じような手法で核開発疑惑をイランに向けて、挑発している。
 オバマが主導する「核なき世界」というのは、一国核保有主義であって、「戦争のない世界」ではない。わたしたちは、直截に、「核=戦争」であり、「非核(反核)=平和」と考えてしまいがちだ。〈核〉が不使用でも、これまで、何十年間も戦争が途絶えたことがなかったし、戦争が捏造されてきたことをもう一度、想起すべきなのだ。
 かつて、『風狂えれじい』や、『血染めの紋章』、『唐獅子警察』といった傑作群でわたし(たち)を魅了したかわぐちかいじは、近年、『沈黙の艦隊』、『ジパング』といった作品を発表してきた。古くからの読者は、その“右傾的”モチーフに反発を感じ距離を置き始めていったといえる。この二作品に共通するのは、〈核〉という位相を通じて、自衛隊を明確に「国軍」であることを露出させ、そのことによってどんな事態を招来させることになるのかを問うことであったと思う。つまり、国家とは何か、九条理念は現実的に有効なのかどうかということであったといっていい。『沈黙の艦隊』は、日米共同で、計画され建設された原潜をめぐって起きる、まさしく〈核テロ〉の問題である。核ミサイルを搭載した原潜を日本人乗員が「独立戦闘国家」と宣言して米ソへ対峙していくという物語だった。『ジパング』では、高性能ミサイルを搭載した自衛隊艦が、海外派遣の途上、嵐に巻き込まれ、1942年という戦時下の時制にタイム・スリップしたことによって、戦時下の物語が書き換えられていくというものだ。そこでは、核が使用されることなく戦争が終結していくというように描かれていく。作品連載途上、ソ連邦崩壊を現実の事象として受け入れざるを得なかった『沈黙の艦隊』は、ある意味、リアルなことを作品化する必要が迫られたといえる。いま、詳細な検証をしないで、述べていくならば、作品におけるアクチュアリティと、現実との間隙は、読者をいかなる地平へと誘うことになったのだろうかと思う。かわぐちは〈核〉を抑止力といった曖昧な〈幻想の所産物〉から、〈現実の軍事権力〉へと作品中に露呈させて、そのことによって〈核〉を実体あるものとしてわたしたちに答えを出させようとしたことは、確かなような気がする。わたしは、“右傾的”モチーフが内在しているからといって、かわぐちの近作を退けたりはしない。むしろ、意欲的な試みとして評価したい思いはある。だが、例えば、『ジパング』における、歴史的事象を書き換えることによって起きる物語世界は、『沈黙の艦隊』からのモチーフをうまく継承しえたであろうかといえば、それは、否といわざるをえない。むしろ、九条の現実的な脆弱性への積極的な問い掛けから、後退して、オーソドックスなリベラル的な立ち位置へと収斂してしまったと捉えることができる。そして、そこに見える〈核〉へのアプローチは、バラク・オバマの放つ擬似的な〈核〉理想論とあまり違いがない位相を現出しているといえるのだ。〈核なき世界〉を実行するためには、すべての国家や民族体において軍事力すべてを無価値化していかない限り、ありえないことなのだ。唯一の被爆国ということを御旗のようにして、オバマにただ追従するだけで、核廃絶(並びに九条理念)をなんら、世界に向けて有効ある主張としてこなかったわが国政府(一方で、いまだ、原発推進を明言している)は、〈核なき世界〉こそが、平和への道だと短絡的に喧伝しながら、いち早く、「核テロ防止の拠点作り」を表明している。
 わたしが、『ジパング』に対して未消化な気分を払拭できずにいた時、『ジパング』と同じような方法で、つまり歴史的事象に想像力としての物語を対置したかわぐちかいじのもうひとつの作品を想起した。『テロルの系譜』(立風書房・80年刊)という作品だ。それは、明治時代の大久保利通暗殺から、東条英機自決未遂を暗殺未遂とした一篇まで、九篇から構成された作品集である。わたしが、『ジパング』に対して、不満に感じたのは、〈核〉に対する書き換えだけではない。石原莞爾の像型に対する異和もあるのだ。丸みを帯びた貌は、実像に近い描き方かもしれない。しかし、わたしが、石原莞爾に対するラディカルなイメージは、見事に裏切られ、穏やかなリベラリストになってしまっていることが問題なのだ。『テロルの系譜』には、そのようなことがない。例えば、大杉栄虐殺事件と難波大助事件の二篇についていえば、惨殺者・甘粕大尉と大杉栄の対峙する場面は実にスリリングである。いわゆる虎ノ門事件(難波大助による当時の皇太子・昭和天皇暗殺未遂)の一篇では、難波大助本人は登場せず、大助の学生時代の同志たち三人を描出していく。その一人、北海清次は魅惑溢れる像型となっていて、大助に対する悔恨を抱きながら死んでいく。「テロ」という事象を通して、一人一人の必死な生き様を活写しているのだ。テロというものに思い巡らしてみるならば、〈核テロ〉というものは存在しえない。あるとすれば、国家的〈核戦争〉でしかない。その基層となるのは、必ず国家、民族体レベルである。イスラエル軍は、パレスチナ民衆へ核攻撃をいつでも行うことができるが、パレスチナ民衆は、自爆テロで対峙するしかないということになる。〈核テロ〉の危機を煽って、抵抗者たちの弾圧を画策する限り、〈核なき世界〉は、たんなる妄言であり、迷妄なることでしかないといっておきたい。

(『月刊架空』10年6月号)

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