« 2009年6月7日 - 2009年6月13日 | トップページ | 2009年7月12日 - 2009年7月18日 »

2009年6月19日 (金)

高野清弘 著『政治と宗教のはざまで  ホッブス、アーレント、丸山眞男、フッカー』(行路社刊・09.2.25)

 「キリスト教と政治との関係ということ自体は、およそ西洋政治思想を学ぶ者にとって避けることのできない問題」(39P)であるとする著者は、「宗教」と「政治」の基層を往還させながら、その空隙の位相へと深く視角を射し込んで、フッカー、アーレント、ホッブス、丸山眞男らを論じている。著者が本書のなかでモチーフとする「政治」は、国家や政府による統治の有様を指すだけはなく、公的世界、あるいは共同体社会といった拡張させた概念をも視野に入れている。もとより、中世・近代の時間軸から社会の発展段階を捉えようとするならば、必然的に西欧世界を鏡として措定せざるをえなくなる。それは同時に、宗教つまりはキリスト教世界と政治が深く繋がっている時代を透徹していくことにもなるのだ。神学が政治学・統治学として機能していた時代といえば、もっと明確化していえそうな気がする。
 それでは、著者は政治と宗教の同一化を指向しているのだろうか。ホッブスに関する単著を持ち、フッカーをこれから本格的に論究していこうと表明する著者にあっては、そのような表層的な方位を想起しているわけではない。「はざま」であり、わたしなりのいい方では「空隙の位相」ということになるそのことこそが、問題の所在の深遠さを指し示していることになるからだ。
 そもそも、「政治」も「宗教」も、人間の観念が創出したものだとわたしは考えている。「宗教」者にとって「神(あるいは仏)」は人間が生まれる以前にあって、人間は「神(あるいは仏)」が創造されたものだというだろう。しかし、そこには「神(あるいは仏)」を「神(あるいは仏)」として認知すべきものが介在していなければならず、ではあれば人間が認知・認識しないかぎり「神(あるいは仏)」が存在しないものになってしまうというアンビバレンツな様態を示すことになる。だからといって、わたしは、「神(あるいは仏)」を信ずる人たちの存在や、信仰心というものを否定したいのではない。「政治」も「宗教」も、中世・近代を経て、現在に至り、「人間」という存在性を置き去りにしてきたのではないかといいたいだけなのである。だから、「はざま」や「空隙の位相」へ視角を入れることは、「人間」という存在性へ視野を射し込むということを意味しているのだとわたしは理解したいのである。それは、「宗教的なるもの」も、「政治的なるもの」も、ますます「人間的なるもの」から離反していこうとしているのが現在なのだ、といい換えてもいいかもしれない。
 幾分、敷衍したいい方になってきたが、本書の核心へと分け入っていきたい。集中、丸山眞男に対する批判、「私の丸山眞男体験」の論稿の結語に著者が置くアーレントの言説はこうだ。
 「アーレントは、『精神の生活』において、後期ハイデガーは、『思考(thinking,Denken)は感謝(thanking,Danken)と同じで(語源上の理由からだけではない)ある』と結論づけていたと語っている。そして、次のようにも述べている。『自己はいまや「裸の事実」が少しでも与えられていることへの感謝を表現する思考にたちもどる。存在に直面して人間の態度は感謝であるべきだ』(略)『思考は感謝である』。この言葉を私が『贋ものの自我』から脱却するよすがとしたい。そしていつしかは、私も『存在』に『安住する』ことをえたい。」(128P)
 「リチャード・フッカーの思想的出立」という論稿での、フッカーへの著者の共感の表明はこうである。
 「(略)フッカーにおいては人間はいわば全宇宙に対して責任を負う存在として把えられる。このような人間理解にもとづいて、フッカーは人間の尊厳の神学の確立へと向かう。その努力の結実としての『教会政治理法論』は神が平和と秩序の神であることを強調し、ピューリタンに対して、『あなたがたも人間だということを考えよ』と訴える序文によって開始されるのである。」(211~212P)
 これらにある著者の真意は、自身の「宗教的なるもの」への揺らぎをなにか無意識のうちに表明しているかのようにも思えるのは、「神(あるいは仏)」を人間が認知・認識するものなのだと考えるわたしだけの思い込みだろうか。そうではないような気がする。まったく異論の差し挟むことのない著者による丸山眞男批判が、丸山信仰からの自身の脱却であるとするならば、もうひとつの信仰者としての著者はどうなのだろうかと、どうしても関心が向かわざるをえないのだ。
 ならば、わたしの関心は、アーレントの言説に添いながら、西欧近現代の全体主義が、「キリスト教」も「一つの不可欠な要因として成立したことになる」(53P)と著者が述べていく時、「あなたがたも人間だということを考えよ」と訴えたフッカーが指向する「人間の尊厳の神学の確立」の行く立ては、可能なのかどうか、著者のフッカー論の今後を見てみたいという思いに向かうことになる。

(『図書新聞』09.6.27号)

| | コメント (0)

2009年6月16日 (火)

「無頼(やくざ)」映画・断想―『仁義の墓場』を中心に

 「無頼」というものを、「やくざ」と同義に捉えるのは、いささか強引な視線かもしれない。組織になじまず単独者として行動することを、「無頼」たるゆえんであるとするならば、「やくざ」者は、必ずしも単独者とは限らず、徒党を組んで振舞うといったイメージがあるからだ。
 六〇年代末から七〇年代中期にかけて、主に東映、日活で一連の任侠(やくざ)映画群といわれる作品が作られ、わたし(たち)を熱狂させたものだった。東映に関していえば、映画産業の衰退とともに、時代劇から、股旅映画へと推移し、そして明治・大正期を時代背景とした任侠映画、さらには『仁義なき戦い』シリーズを象徴とした現代やくざ映画(実録やくざ映画)なる括りで作られた作品を量産したのち、『仁義』シリーズの菅原文太を主演にして、東映の寅さんシリーズと揶揄された『トラック野郎』シリーズをもって、いわゆるヤクザ映画と訣別していった。
 やや堅苦しいいい方で述べてみれば、わたしが、一連のやくざ映画群に魅了されたのは、そこに「個」と「共同性」の確執を通した様々な難題(アポリア)を感受できたからであり、当時(もちろん、依然、現在までも)の情況的態様との往還の通路を模索しうる方位と見做しえたからであった。
 実録やくざ映画群のなかでも、一際、異彩を放っていた作品があった。75年に封切られた深作欣二監督、渡哲也主演の『仁義の墓場』(東映―脚本:鴨井達比古・松田寛夫・神波史男、撮影:仲沢半次郎、『映画芸術』誌75年度日本映画ベストテン・第四位、『キネマ旬報』誌同・第八位)である。津島利章の音楽による京琴の音色が、鮮烈な印象を与えながら、物語はひたすら救済のない破滅の先へと向かっていく。
 渡哲也演ずる石川力夫は、戦後の混乱期を疾走した実在の人物である。石川は、直情的で暴力的な若者として描出される。しかし、それは、ある意味、純粋で繊細な資質が反転したかたちで表れたものだ。敵対する組の人間が、自分たちの縄張りで大きな態度をしているのに我慢がならず、抗争に発展することも顧みず、その場で、暴力的な制裁を加え瀕死の重傷を負わせる。自分の組長(河田組組長・ハナ肇)や幹部(室田日出男)から、直情的な行動を叱責されてしまう石川は、組のことを思ってやったにもかかわらず、なぜ叱責されてしまうのか理解できないのだ。
 本来、やくざ組織という共同体は、組長という絶対的存在によって共同体の成員(組員)を完全統治下に配置させているものだ。天皇制の本源をどう解するかによって、対照化の構造は差異を含むことになるのだが、わたしは、天皇制とどこかで通底する位相をそれは内包していると考えている。ただし、絶対的な強固な支配円環構造を指示してのことではない(天皇制は、ひとつの社会構造だけに収斂させて存立しているわけではない。下部構造が非資本主義制を採っていても、それは成立すると思えるからだ)。それはつまり、垂直的な共同体は、いつでも横からの共同体の侵入によって、内的変換(転換)が可能となっていくことを意味している。映画で描出されるやくざ組織は、そのような内実を孕んでいる。だから、敵対も親交(親近)も、表裏性にあって、ぎりぎりの共同体的せめぎ合い(これは、いうなれば政治性の発露といっていいかもしれない)が、必要となってくる。
 石川にとって自分が属する共同体は、自己を充足させてくれる唯一のものとしてあるのだ。だから、そこでは、敵対する組も親交(親近)ある組も自分にとって異和なもの以外、なにものではないという反政治・非政治的な思い(情緒的、情念的な思いといい換えてもいい)が強く働くことになる。河田組組長の兄貴分にあたる野津組組長(安藤昇)に対する反意も同様である。腹いせに野津の車に放火したことを、河田に厳しく断罪され、石川は逆上して河田を刺してしまう。これは、後に、少年院で知り合い兄弟分として契りを交わした今井(梅宮辰夫)を殺してしまうことと同じ衝動によるものだ。親近性は、いつでも憎悪に転化しうることは、関係性が濃密になればなるほど、生起することである。家族間での生々しい事件が、頻出する現在、人間の精神の底部を問題視していくこともひとつの方途かもしれないが、わたしは、共同性の基層にある発露していくしかない感性の必然性のようなものを思わないではいられない。
 ありうべき共同性を希求していけば、いくほどに共同性との軋轢を発生していくアンビバレンスな様態を示す石川力夫の生き方と死に方は、「個」を「共同性」と同位させようとするイノセント性を表出しているといってもいい。
そのような象徴が、情婦・地恵子(多岐川裕美)との関係性であり、今井との齟齬を生んでしまう関係の有様だといえる。自分の親分を刺すというやくざ社会における絶対的な禁忌に抵触したことによって一年八ヶ月の懲役で出所後、十年間の関東所払いの処分を受けた石川を、様々に手を差し伸べてなければいけなかったはずの今井は、一家(組)を構えたことによってやくざ共同体社会に包括された一組長といった存在に転換していき、石川を大阪へ放置したまま、石川との距離を置くようになっていた。そのことを敏感に察知する石川が、自分の側へと引き寄せたいという感情の発露として今井と対峙してしまうのは、忌避できないものとしてあったといえる。
 今井を殺した後(二度も襲撃して止めを刺すという執拗さであった)、地恵子の身を粉にした犠牲によって、仮釈放となって戻ってきた石川は、さらに惨憺たる様態になっていた。
 地恵子との関係は、ほとんど言葉らしい言葉を交わすことなく、黙契と沈思する有様を示している。「個」と「共同性」のなかで、もがき苦しむ石川にあって、地恵子との有様だけが、心意的充足を得るものであった。
所払いで大阪に暮らしていた時に、知ったヘロインをうっている石川の傍らで地恵子が見詰めながら臥せっている。恍惚とした石川の表情のアップ、そして、窓外には赤い風船のショット。地恵子はそんな石川の姿を、寂びしけに見据えながら、やがて吐血する。朦朧とした状態で、血を拭ってやる石川に対して、「ありがとう」と言って泣き崩れる地恵子。画面はその後、手首を切って自死する地恵子を俯瞰で映し出す。ナレーションは、地恵子の自死の一週間前、石川の籍に入ったことを告げる。
 二人の関係を、ほとんど詳細に描写しているわけではないにもかかわらず、深作にしてはめずらしいほど、情緒的映像を二人の場所に対して採っているから、荒んだ破壊的な生き様が、奇妙に無垢で繊細なものとして映ってくる。地恵子と今井と自分の三人の墓石を作る費用を捻出するために、河田のもとを訪れ、骨壷から地恵子の骨を取り出して齧りながら、ただ、河田の前で黙している石川の像は鬼気迫るものがある。
 墓石には、“仁義”の文字を刻んだ。
 今井殺しの残りの刑期(懲役十年の判決に対する上告が棄却されたため)で再び収監された石川は、地恵子の死から三年後の同じ日に、刑務所の屋上から飛び降りて二十九年の生涯を閉じる。独房に、遺書にあたる文字が刻まれていた。

 大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ

 遺句といえば、そういえるかもしれない。五七五にしっかりと収まっているそれらの言葉を発したのが、狂気、凶暴な無頼者であることは、自虐的な悲しみを醸し出しているといってもよい。わたしは、当時、リアルタイムでこの作品を見たとき、石川の遺句にどうしても共感を抱くことができなかった。俳句という形式に妙な異和感があったからかもしれない。いくらか親しんでいた短歌ならよかったのだろうか。しかし、映画『駅』(81年、東宝、監督・降旗康男)で根津甚八演ずる殺人犯が、死刑執行時前にしたためた、恩義になった刑事役の高倉健へ宛てた手紙のなかで短歌が書きしるされていて、それをナレーションとなって詠み上げられた時、わたしは、気恥ずかしさしか沸いてこなかった。倉本聡の脚本の限界性を示す一例だと、今ならいえそうな気がするが、それならば短詩型は、映像的ではないのだろうか。
 だが、いまあらためて、『仁義の墓場』を見直して、余韻を持って、「大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ」を諳んじてみるならば、不思議なことに、いいようのない切実な気分が湧き上がってくることに気づいてしまうのだ。つまり、“三十年”を“五十年”とか“六十年”に置き換えてみると、実感して、時の重層性が了解されていくことになるからだ。それゆえ、石川力夫像は、当時、感じた以上に、そのイノセントさに、率直に共感する自分を確認していくことになってしまう。無垢と狂気・凶暴はいつでも、表裏にあることを、わたし(たち)は、いま一度、実感すべきことのように思える。
 この作品は、渡哲也、久しぶりの映画出演であり、東映初出演・主演映画でもあった。六十年代後半、日活でこの作品と同じ藤田五郎原作による『無頼』シリーズがあった渡は、さらに遡っていえば、傑作『東京流れ者』(66年、日活、監督・鈴木清順)という作品も持っている。しかし、この作品で、三十代に入った渡哲也は重厚で存在感溢れる見事な演技をしたといえる。『仁義の墓場』は、翌年に封切られた『やくざの墓場 くちなしの花』(監督・深作欣二)とともに、渡哲也の代表作となった。
 本来、「無頼」映画とか「やくざ」映画、あるいは「股旅」映画といったものが、屹立してあるわけではない。「無頼」映画と括られるすべての作品が、「無頼」の深層を切開して、鮮烈な劇性を提示していたわけではないし、「やくざ」映画といわれる作品ならすべてわたしたちが感応していたのかといえば、そうではない。結局は、一つ一つの作品を前にして、共感を得ることができるのかどうかだけが、わたし(たち)には、切実だったのだ。

(『塵風』創刊号・09.6)

| | コメント (0)

« 2009年6月7日 - 2009年6月13日 | トップページ | 2009年7月12日 - 2009年7月18日 »