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2009年3月21日 (土)

笠原伸夫 著『銀河と地獄―西川徹郎論』(茜屋書店刊・09.1.15)

 西川徹郎に対し、よく冠せられることとして、異端の俳人とか、俳壇の異端者という言辞がある。わたしには、西川の場合、異端という称揚は、何か似つかわしくなく、釈然としない思いがしてならなかった(この場合、異端を前衛と置き換えても同じ感慨を、わたしは持つ)。確かに、俳句的世界、あるいは俳壇というものを前提に捉えれば、西川に対して異端の俳人とか俳壇の異端者と称することは、まったく見当違いのことではないと思うのだが、そういう視線には、必ず正統な俳人(俳句)というものに対する異端、あるいは俳壇という確固たる体制に対してのアウトロー的に位置しているといった考え方が潜在していて、ほんらい異端性が有しているはずの思想(表現という言葉と置き換えてもよい)の深度というものを度外視しているように感じられてならないのだ。
 かつて吉本隆明に『異端と正系』(1960年刊)という評論集があった。この場合の“と”は、対立軸としての“と”ではないのだ。吉本は、このように述べている。
 「わたしが(略)もっとも格闘したのは、異端と正系という問題であった。そして、ついに到達したのは、正系なくして異端もなく、異端なくして正系もないということ、また、アプリオリな正系も異端もなく、両者は、一つの契機があれば相互転換する相対的なものに外ならないということであった。」
 この吉本の言説にならっていえば、西川を異端と称するのは、けっして称揚したことにはならないということになる。当然、そのことを一番、了解しているのは西川自身であるはずだ。俳壇の異端者とか、異端の俳人といった狭量な位相に、自らの表現領域を押し込めているわけではないはずだ。異端も正系も相対化し、それらを俯瞰した地平からの自己表出だけが、確たる表現水位なのだという、切実たる思いを根拠としていると、わたしは西川俳句を捉えている。だからこそ西川は、どんな集団的背景をも拠所とせず、単独で〈存在性〉を基層に〈世界文学としての俳句〉を指向しようとしてきたわけだし、してきたのだといっていい。
 本書の著者は、そのような西川徹郎の屹立した作品世界の相貌を、第十三句集『銀河小學校』を中心に据えながら、その他の既刊句集とともに、「抒情的清冽さ」、「映像喚起力」といった角度で渉猟し、多彩なキーワードに収斂させながら縦横に論じている。
 ところで本書は、単著としての『西川徹郎論』としては五冊目にあたる。そのことが、多いのか、少ないのかといったことにわたしの関心はない。全冊を詳細に望見したわけではないが、「暮色の定型」、「虚構の現実」、「世界詩としての俳句」、「極北の詩精神」、そして本書は「銀河と地獄」というように、それぞれが多様なテーマを持って論及している。それはつまり、いかに西川俳句における作品の奥深さがあるのかを指し示しているということになるといってもいい。
 わたしが、考える本書の核心部分は、次に引く箇所になる。もとよりこれは、西川俳句の基層となるべき場所を真っ芯に照射していることにもなるのだ。
 「すくなくとも西川徹郎が人間存在の根底に視座を据え、〈自己〉の究明に的を絞って〈俳句〉の製作を推し進めてきたことに変わりはなく、それを自ら〈実存俳句〉と呼んだとしてもなんの問題もないはずだ。/彼は早くから〈口語〉を用いてきたし、〈定型〉の意味も問いつづけてきた。有季定型か、無季非定型か、といった単純な二者択一ではない。かれは〈反定型〉であっても〈非定型〉とはいわないのである。(略)〈反〉とは〈正〉があっての〈反〉であって、〈非〉は〈正〉との確執、葛藤ではなく、あくまで無関係、無関心なのである。(略)しかし〈反〉というかぎりつねに〈正〉への激しい叛意が内在する。西川徹郎の立場は定型を選びつつ反定型を主張し実行する。〈反定型の定型詩〉というわけだ。」(83P)
 著者の捉えかたに対して、わたしもまたほとんど同意したい思いだ。だが、わたしが、どうしても拘りたいのは、異端や前衛、そしてここで論及されている〈反〉という措定のしかたに対する理解の有様にだ。確かに、初発の西川俳句は、そのような理解の地平にあったといっていい。だが、現在、あるいは、著者も引いている雑誌「國文學」に、「反俳句の視座―実存俳句を書く」を西川が発表した時(2001年)は、遥か彼方の地平へと超え出ていこうとする宣明だったと思う。個人編集誌『銀河系つうしん』(現在は「銀河系通信」に改題)を創刊したのが、1984年のことだ。〈銀河〉というのはそういう意味でいえば、西川にとって最も核心的な詩語であったことは、間違いない。その〈銀河〉を句集名に冠したのは、ようやくにして第十三句集『銀河小學校』(2002年刊)においてだった。このことは、西川の現在を捉えることにおいて、非常に重要なことだという気がする。
 西川が〈銀河〉や〈反〉に込めたものは、親鸞が提示した〈横超〉に近いものだと、わたしなら考える。〈反〉は、たんに〈正(実は擬似なるもの)〉に対峙するものではない、“超えゆく”ものでなければならないのだ。〈銀河〉とは、まさしくそのことの代象であるといっていいのではないかと思う。

(『図書新聞』09.3.28号)

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2009年3月19日 (木)

劇画という言葉の基層へ

  劇画という言葉を、いつ、どのような時に知ったのかは、遠い記憶の彼方にある。ただ、その劇画という言葉が発する鮮烈さに大いなる衝撃を受けたことだけは覚えている。「劇画」という言葉が、貸本マンガの一つの系譜から発生したことを理解したのは、衝撃を受けた、もう少し後になってからであり、単純な二元論に絡めとられていたわけではないが、商業誌マンガは、「漫画」、『ガロ』系マンガなどを、「劇画」と腑分けして捉えてもいたことは確かだった(近年は、そういう腑分け自体、意味をなさなくなっているといってもいい)。
 わたしの場合、貸本マンガ体験(ネギシ読書会といった、新本も含む貸本店は除外)は、そんなに長くはない。小学六年生から中学一年生頃にかけて、集中的に白土三平の作品を中心にして一連の忍者マンガやその他のアクションマンガを読んでいた。いまにして思えば、たまたま知った貸本マンガから受けた面白さの感受は、当時の子供向け商業漫画誌の作品からの離別とやや大人向け作品(マンガに限らず小説などの活字作品)への志向へと、わたしの関心が向かった契機になったような気がする。
 劇画という言葉の持つ基層へと視線を傾けてみるならば、描線のリアルさや物語構造の斬新さといったことが、漫画ではなく、劇画という概念へと峻別させる根拠となったことは、当然だとしても、もう少し別様のことが、いえそうに思える。作家の側からいえば、自分の描きたいものをある程度、自由に(子供向けということを意識せずにと、いっていいかもしれない)描けるということであり、読者側からいえば、ただ漠然と、面白いマンガというものに魅せられていただけだったのを、一人の作家とその作家性へと関心を向けられていくことが、劇画をマンガから分岐した契機なのではないかと、わたしは考えている。読者側からの視点でさらにいえば、幾度となく記してきたことなので、重複することになるのだが、『忍者武芸帳・影丸伝』を読み切った後、類似した忍者マンガ作品を渉猟していったが、わたしの場合、ほとんど無意識のうちに、やはり白土三平作品に拘らざるをえなかった。この時、つげ義春の『忍者秘帳』に接見していたのかどうかは、無論、記憶していないが、ただ、白土三平という作家名とその作品群だけが、わたしの心奥に深く刻み込まれていった。少年期のマンガ体験のなかで、商業誌に名を連ねていた手塚治虫や横山光輝(『サスケ』などを発表していた白土三平も同列にしていいが、わたしの場合、掲載誌『少年』を購読しておらず、後年、単行本によって知った)には、それほど継続的な共感を抱かなかったから、不思議だ。たんに嗜好の問題に還元したくはないが、『ガロ』が創刊(64年9月)されて一、二年後には、断続的とはいえ『ガロ』を購読しだしたのは、白土三平の『カムイ伝』が掲載していたからだった。わたしのマンガ体験歴などという大げさないい方はしたくはないのだが、中学生時は、ある意味、空白期だったのが、再び、マンガへと関心が向いていったのは、高校生の時であり、その時、『ガロ』を中心としたものだったのは、現在から振り返ってみれば、偶然ではなかったと、いっていいと思う。そして、『ガロ』に接していなければ、つげ義春やつげ忠男、林静一といった作家たちとその作品に出会うことがなかったのだから、わたしにとって、僅かな期間の貸本マンガ体験は、その後の、マンガだけではない表現全般への方位に大きな影響を与えたくれたことだけは、明白なことだったといえる。
 ところで、つげ義春が、『四つの犯罪』(完全復刻版・小学館刊)の挟み込みインタビュー(聞き手・権藤晋)で、「『生きていた幽霊』もそうだったようですが、編集部からなにも反応はないんですね」という問い掛けに対して、次のように応答していた。
 「(劇画が)青少年に悪影響があるとかなんとかマンガにたいして世間の目が厳しくなっているので、『あまり過激なものを描かないように』という手紙は若木(引用者註=若木書房)から来たことがありますよ。でも、若木はほかとくらべておおらかというか、さほどうるさくなかったですね。」
 昭和三十年代に、「悪書追放」運動なるものが起き、その最も苛烈な対象となったのが、「劇画」であったことを、わたしは、当然のことながら、当時、認知できる年齢ではなかった。もちろん、わたし(たち)のような戦後生まれでも、現在のように、マンガを読むことに没頭することは、いいことだとは、誰も考えていなかった時代にマンガと接していたのだ。親たちは、子供に悪影響を及ぼす(どう悪影響を与えるかということは、この際、明確な理屈と根拠があるわけではなかったはずだ)低俗なマンガから、いかに、早く引き離して、高尚で、学習に適した名作小説や伝記小説を読ませようとして腐心していたのかを、子供心に圧迫感となって理解できていた。
それにもかかわらず、わたし(たち)が、マンガ、そのなかでも「劇画」というものに魅せられていったのは、極めて、象徴的な事象だったといえる。
 繰り返していえば、白土三平を基軸として、つげ義春やつげ忠男、林静一といった作家たちを知り、共感をし、様々なことを喚起されていったことは、「劇画」という言葉が持っている基層の力だといってもいい過ぎではない。
 わたしは、現在、表現全般に対して、どんなカテゴリーも設けずに自分の関心が向かう方位だけを確信して視線を射し込んでいる。映画・絵画・音楽・文学・思想といった表現領域に、同列なものとして「漫画(劇画)」というものを位置づけることを、なんの迷いもなく可能とする視野をわたしは持っているつもりだ。
 表現それぞれに対し予見を持って差異や優劣を設定することは、転倒した思考でしかない。
ただ、わたし(たち)を喚起させる力があるのか、ないのかということだけが、表現力の問題なのである。

(『貸本マンガ史研究20号』09.3)

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2009年3月15日 (日)

彷徨する思惟

     ★

 「あなたはどんな方ですか、と問われるのはうんざりだと、何度も言っておられますね」と聞き手は、述べる。そして、「それでも敢えてお尋ねします。あなたは歴史家と呼ばれるのをお望みですか」と問い掛けていく。それに対して、歴史家の仕事には関心はあるが、自分がやろうとしていることは、もっと別のことだと応答するのは、ミシェル・フーコーである。聞き手は続けて、哲学者と呼ぶべきでしょうかと、重ねて問うと、自分がやっていることは、いかなる意味でも哲学ではないと答える。たまらず、聞き手は、ではどう呼べばいいのでしょうかと、執拗に問い掛けていく。フーコーは、こう答えていく。

  「わたしはいわば花火師(アルティフィシェ)です。」

 フーコーが発語する思惟の断片は、鮮やかだ。歴史家でも哲学者でもなく、自分は「花火師」であるという時、凡百の、あるいはわたしたちなどが、気取って職人気質を称揚していう場合とは違う断面を切り取って見せている。フーコーが、ここでいう「花火師」というのは、「私のディスクールは一つの武器のようなものなのです。あるいは火薬の詰まった袋のようなもの、火炎瓶のようなものです」という思いを込めた「爆破技師」に近いのだ。夜空に上がる煌びやかな「花火」をイメージしてはいけないのだろうか。もちろん、イメージしてもいいのだが、花火を「打ち上げる」ということは、煌びやかなものとは反転したものを実は内在しているのだということを了解すべきなのだ。つまり、ただひたすら「火薬」を仕掛けるということであり、それは、戦争で武器を発火することと大差はないといえることなのだ。パラドキシカルなアルティフィシェというタームは、フーコーらしい言説の立て方であり、フーコーが「花火師」もしくは、「爆破技師」と自分をなぞらえるとしたならば、それは、既存の言説を無化して、いわば、煽動家として立ち振る舞うことを潔よしとすることであるに違いないと思っている。

       ★

 権力を網の目のように遍在するものとして捉えたのはフーコーだが、わたしは、このことを、権力論を超えた権力論だと思っている。マルクス主義者からアナキストまで、あるいはブルジョワ権力から反権力まで、権力の可否を問う喧しい論議は果てることなく続いてきた。わたしは、どれも駄目、これも駄目と思い続けてきた。一見、解答不能、絶望的認識に近い、フーコーの権力論だが、わたしには、そうは思わない。「『権力は必要なのか、それとも不要なのか』と問うべきではないと思います」とフーコーはいう。「権力は非常に遠いところまで及ぶものであり、きわめて深い場所にまではいりこむものです。権力は毛細血管のようなごく細い管で構成されたきわめて密なネットワークで運ばれるものなので、権力のない場所などあるだろうかと問いたくなるものです」と述べていく時、権力なるものへの透徹した認識をそこにみることができるのだ。なぜなら、フーコーの権力分析は、そこに知への反措定というべきことを意思表示しているからだ。わたしが、フーコーの権力論に論拠を得たいと思うのは、「知」を「権力」と同位相として括って、そこに権力の本源があると見做していることにある。わたしたちは、何かを他者に対して指向しようとする時、例え善意という意識をもってしたとしても、それはいつでも悪意に転位することがあることを知るべきなのだ。他者に何かを強いるということは、無意識下においてもありうることであり、人と人との関係性というものは、対峙した段階においてある種の権力関係が生起することを了解すべきなのである。そして、そのことの了解領域からしか、権力関係を切開し、無化していく方途はないのだという思いを、わたしは抱き続けている。

      ★

 木村カエラの歌『どこ』を聴いた。何か懐かしさを喚起するメロディーに乗って、刺激的な詞(ことば)(作詞・渡邊忍)が響いてきた。「感情」、「恋情」、「実情」、「温情」。これらが、断続的に、いい切りで唄われる。特に、「レンジョウ」と「オンジョウ」には、不思議な響きを湛えていた。いったい、この混沌とした「情」とは何だろうかと聴きながら思った。「感情」と「恋情」は、詞(ことば)としてはそれほど奇異ではない。だが、「実情」と「温情」となれば、幾らか違うイメージが付加されてくる。それは、わたしたちを取り巻く現況において、最も遠い言葉のような気がするのだ。「実情」とはなにか。弁明される現実なのだろうか。あるいは、現在を糊塗するための言い訳なのか。「温情」とはなにか。容赦することの善意か。そんなのは、もうないといい切れない何かを喚起するための方便か。わたしは、カエラの声に聴き入りながら、何処か彷徨する気分でいることに気づいていた。そして、彷徨いながらも思惟の底に貼り付いたカエラが発する言葉を転倒させたらどうなるかと思いついたのだ。「感情」を「情感」に、「恋情」を「情恋」に、「実情」を「情実」に、「温情」を「情温」と反転させた時、奇妙な語感がやってくることに気づき、戸惑ってしまった。そしてやがて、「情恋」と「情温」の狭間に何かが、あるかもしれないと、思い起こしたのは、この思惟の断片を刻む直前のことである。

(『走馬燈 Φ2』09.3)

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