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2009年12月11日 (金)

ミハイル・アファナーシエ・ブルガーコフ著 真木三三子訳『ブルガーコフ戯曲選集』(七月堂刊・09.8.20)

 ロシア、ウクライナ出身の劇作家・小説家のブルガーコフ(1891~1940)は、スターリン体制下のなかで絶えず弾圧を強いられながらも、収容所に収監されることもなく、また亡命することもなく作家活動を続けた稀有な存在であった。ただし公的にその作家的評価が容認されるようになったのは、訳者解説によればスターリンの死の二年後のことであったから、本人が亡くなって十年以上経過していたことになる。わが国では、昨年、池澤夏樹個人編集『世界文学全集』(河出書房新社・刊)の一巻として代表作の『巨匠とマルガリータ』の改訳版が出されたのを端緒に、今年になって『アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム』(戯曲)の刊行、『季刊iichiko』が、No.103、No.104と続けてブルガーコフ特集を企画している。そして、本書の刊行である。ブルガーコフに対する新たなる再評価の動きが、これから活発化すると思われる。
 本書には、三編の戯曲が収められている。『トゥルビン家の日々』は、ブルガーコフの最初の長編小説『白衛軍』を1926年に戯曲化したものだそうだ。上演にあたっては、他の作品同様、何度も検閲され改稿を余儀なくされたと訳者は述べている。
 作品は、ロシア革命直後が舞台となる。当時、ウクライナは、民族独立派、ボリシェヴィキ派、マフノ率いるアナキスト派、そして、ブルガーゴフ自身も軍医として志願していた皇帝派(白衛軍)とが、激しい内戦状態にあった。アレクセイ、エレーナ、ニコライのトゥルビン家三兄妹を中心に物語は進んでいく。長兄のアレクセイは皇帝派政権下の白衛軍砲兵大佐、弟のニコライは仕官候補生、エレーナはニコライの姉で、その夫タリベルクは参謀本部大佐、エレーナに好意を寄せるシェルヴィンスキーは陸軍中尉、それに三兄妹の従兄弟ラリオーシクらが加わり、トゥルビン家の住まいは、様々な人間模様を醸し出していく。諧謔に満ちながら、知的でフレキシブルなセンスをもってなされる会話は、底流する情況を浮き彫りにしていくだけでなく、悲痛な物語性を潜在させているのだ。
 皇帝派政権下の軍人たちは、後ろ盾だったドイツへと敗走していくという指導者たちによって裏切られることになる。それは、参謀本部大佐でもあったエレーナの夫が、妻を残して自分だけ安全地帯へ亡命しようとしたことを意味していた。トゥルビン家に集った人たちは、アレクセイの勇気ある死の代償によって戦渦から逃れてきたのだが、これから行く場所を漂流せざるをえなくなったところで物語は閉じていくことになる。その最終の第四幕はこうだ。トゥルビン家では、アレクセイの死を乗り越えながら、内戦終結の予兆と、エレーナとシェルヴィンスキーの新しい門出を祝って、宴が進行していた。ニコライはいう。
 「赤軍がペトリューラ軍(引用者註・民族独立派)を破りました。(略)赤軍がやって来ました。ですから、ここは明日にもソヴィエト共和国になるわけです。そこで、われわれは何をなすべきか――それはまだ分かりません。」
 これに対してムイシラエフスキー(砲兵二等大尉)は、「だが、赤軍が来たら――徹底的に締めつけるだろうよ」といい、ニコライは、「それは大変なことですね」と応答していく。この作品が一九二六年に書かれ、よく上演が許可されたものだと思う。そして、ラリオーシクのいう「今夜は新しい歴史劇の偉大なる幕開けですね」という台詞に対して、ムイシラエフスキーは次のようにいって終景へと導いていく。
 「いや、ちがう、幕を開けた人もいようが、俺は幕を閉じたよ。」
 わたしは、アンジェイ・ワイダ監督作品のポーランド映画『灰とダイヤモンド』を直ぐに思い起こした。時制や場所は違うものの、革命政権の暗部を鋭く批判する視線は共通のものがあるといっていい。ドイツ軍降伏を祝って夜明けまで宴が続き、ショパンのポロネーズが響いている。外では、愛国青年マチェックが、共産党幹部の後を追い、殺し、そして自らも殺される。イデオロギーに翻弄され、いつも犠牲になるのは無辜の人たちなのだ。アレクセイの死とマチェックの死を象徴させて、二人の作家は鮮烈な体制批判を悲痛な劇として描出したのだ。
 『ゾイカの家』(一九二六年)と『イヴァン雷帝二人』(一九三五年)の二作品は、まさしくソヴィエト社会を戯画化しているといってもいい。『ゾイカの家』は、未亡人のゾイカが、生活していくために洋装店を開くが、やがてそこは、夜になれば、廃頽的な場所と化していき、やがて殺人事件を生起させて幕を閉じていくというものだ。象徴的なのは、住宅管理委員長という人物を登場させて、住宅不足のため住宅の統制と管理(監視)を行う立場なのだが、賄賂によって、認可するという様態を描いている。
 『イヴァン雷帝二人』は、発明家のチモフェーエフが、タイムマシーンを作り、十六世紀のロシア皇帝、イヴァン雷帝を呼び寄せてしまい、代わりにイヴァン雷帝によく似たアパートの管理人ブーンシャを十六世紀へと送り出して、こちらとあちらで混乱した様を描いて、ソヴィエト社会をエスプリの効いた諷刺劇にしたものだ。SF的喜劇仕立てにしたところが、ブルガーコフの才気たるところかもしれない。
 「国家権力の介入は常にブルガーコフにつきまとう深刻な問題であった。彼は権力筋により作品の発表を禁じられて自殺まで考えた末、政府に自己の信念と主張を述べ、認められないなら国外追放を、と直訴した。それに対するスターリン直々の電話で、彼はその巧みな言葉に誘導されてモスクワ芸術座の仕事を貰い、生きる糧を得た。」(「訳者解説」)
 最近、例えば、ショスタコーヴィチをめぐる評価が変わってきている。交響曲第五番は、スターリン体制下の代表的なプロパガンダ作品と見做されてきたが、曲の中に作家の抵抗が散りばめられているといった批評がなされるようになった。スターリン体制下にあった表現者たちのほんとうの苦悩というものを、作品の奥底に流れているものから掬い上げていく作業が、いまこそ切実なこととして必要な気がする。

(『図書新聞』09.12.19号)

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