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2009年10月23日 (金)

藤沼 貴 著『トルストイ』(第三文明社刊・09.7.7)

 ドストエフスキーと並んで、ロシア文学最高峰の作品を生み出したトルストイの、壮大なる八十二年(1828~1910)の生涯をフォーカスした大著である。
 わたしたちは、トルストイにどんな予見を持ってきただろうか。『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』といった長大な物語を創造した偉大なる作家、トルストイ主義といった表象に見られる反戦平和への強い思い、さらには、徹底して権力(国家権力や教会的宗教権力)を否定するアナキズム的思考といったことなどが、挙げられることができそうだ。もちろん、これらのことが、本書では、丹念に触れられているのは当然としても、著者は必ずしも、それらが、ひとつの線で切断することなく繋がっていたとは、見なしていない。偉大なるトルストイですら、紆余曲折、停滞、挫折を繰り返しているからだ。
 そもそも小説家を目指して作品を書きはじめたわけではないとする、初期トルストイ像の活写に、わたしはまずは喚起されたといっていい。
 「トルストイは言うまでもなく稀有の文学的天才だった。(略)しかし、二十歳をすぎるまで、トルストイ自身も身近にいる者も、彼の文学的天才に気づかなかった。(略)かれが二十歳すぎまでに書き残した文章のほとんどすべてが理屈っぽい哲学的なものである。(略)小説のようなものに手に染めることになったのには、特別の原因があったわけではない。迷走と模索の時期に、理論的分析、官庁勤務、軍務、学士候補試験、領地経営、ビジネス、音楽、スポーツ、ギャンブル、結婚など、いろいろ試みた末、最後にやっと文学にも手を出してみたのだった。」(124~125P)
 かなりの広大な土地を持つ名門貴族の出身であればこその、「迷走と模索」の過ごした方をした初期のトルストイが、やがて、「文学にも手を出してみた」というのは、この評伝を読むかぎりでは、ひとつの必然だったといえそうな気がする。それは、「理屈っぽい哲学的なもの」から、「文学」へと開かれていく道筋というものが、たんに「文学的天才」ゆえに「文学」へと突き進んでいくことよりも、後年の非暴力・反権力志向のスタンスと見合ったものだと思えるからだ。
 軍務にも服していたが、数年で退役したのは、戦争に対して懐疑的になったからだ。結婚願望とその挫折は異性間との距離感を持ちえない無垢性と不器用さが垣間見える。そもそもそういう資質では、ギャンブルで収益を獲得するのは、無理なことなのだ。貧困のなかで生活することはなかったトルストイにとって、それは、弱点であると同時に、美点でもあるというアンビバレンツな位相を抱えもってしまったといわざるをえないだろう。だからこそ、「生きていくこと」、「生活していくこと」に誠実であろうとすればするほどに、文学的なものは、哲学的な思索に比較すれば、枝葉なことにすぎないという思いが初期のトルストイにはあったはずだといいたくなる。例えば、著者もまた、「トルストイの創作は出発の時点からすでに、生活者トルストイと芸術家トルストイとの矛盾や相克のなかでいとなまれていた」(135P)とするが、むしろ、農奴制に立脚した貴族生活のなかにいる自身のアイデンティティこそが、「矛盾や相克」の最たるものだったはずだ。
 「トルストイは結局、個人では自分の農民を完全に解放することはできず、六一年以降の政府による全面的な農奴制廃止に沿って解放をし、農民の買いもどし金を受け取り、法律どおり地主の特権も保存した。だからといって、この数年のトルストイの農奴解放や農業改革の試みが無意味だったとか、失敗だったと結論することはできない。トルストイの試みはほかの地主たちを敵にまわすほど先端的なもので、数年後に施行された改革を先取りしていた。」(232~233P)
 農奴制の解放、農民の子どもたちのための学校教育への着手といった試みは、わたしたちがよく知る後年のトルストイ像の初源のかたちといっていいかもしれない。
 ところで、七四、五年(作品でいえば、『アンナ・カレーニナ』を書き始めた頃)から八四年までを著者は、トルストイの展開期と捉えている。区分表記としては、七四、五年から七九年までを「危機の時期(生の停止~死からの脱出)」、七九年から八四年までを「信仰確立の時期(協会との対決~独自の信仰形成)」としている。その後を「トルストイ主義構築」期として、この評伝は、後期トルストイ像を俯瞰していく。作品としては、『生命論(邦題としては、「人生論」として流通している)』、『イワン・イリイッチの死』、『クロイツェル・ソナタ』、『神の国はあなたのなかにある』を経て『復活』へと至る時期を指している。そしてこの時期のトルストイにとって最大のモチーフは、権力との心の格闘ということになる。
 「トルストイの愛の主張と暴力否定にとって、最大の敵は戦争と国家権力だった。(略)国家を暴力と体刑を基盤とする圧政的な支配機構だと考え、国家体制に強く反発した。(略)トルストイはすべての国家機構を否定したのだから、無政府主義者のカテゴリーに入れることはできる。しかし、トルストイの無政府主義は典型的なものとは違う特徴をもっていた。(略)トルストイの場合、非暴力主義が先で、アナーキズムはそこから派生したものである。(略)暴力を使わないトルストイ的なアナーキズムは今も生き残っている。現在、反権力運動の大半は暴力を使っておらず、非暴力主義がますます広まり、強まっている。これは議論の余地のない事実である。」(467~469P)
 著者の巧みな分析と論旨展開に、些か逡巡と同意の思いを混在させている自分に気づくことになる。逡巡の方からいえば、典型的な無政府主義とはなにかということになる。これは、典型的なマルクス主義は、スターリン主義だということとは、違う観点を孕んでいる。また、「非暴力主義が先で、アナーキズムはそこから派生したもの」だから、典型的とはいえないということでもないはずだ。そもそも、暴力とはなにかということを精緻に見なければならないとわしは思う。トルストイやガンジーに象徴される非暴力主義を示威行動的なことをしない穏健な主張や行為を指すことだといっては、暴力という概念を転倒しかねないことになる。国家権力の暴力とそれに対峙、抵抗するための暴力はまったく位相の違うものだという前提に立つべきなのだ。
 トルストイは、第一次ロシア革命を見て未知の未来に理想の共同体を思い描いていく。 
 「まもなく大変革が起こり、資本主義は消滅し、社会主義社会も生じない。人々は権力のない相互扶助の平和な共同体で農耕をいそしむ。これがトルストイの考えだった。」(579P)
 結局、トルストイは、幸運にもボルシェビキ政権による第二次ロシア革命に接見することなく、妻との長年の相克に疲れて出奔し、客死した。
 こうして、著者によって誘われたトルストイへの旅は、万感の思い抱かせて、重厚な頁を閉じることになる。
(『図書新聞』09.10.31号)

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2009年10月16日 (金)

奥 保喜 著『冷戦時代世界史』(つげ書房新社刊・09.4.30)

 記述化された歴史というものは、絶えず、現在という基点からの見直しを強いられるといっていい。それは歴史教科書が、政治的な思惑に晒されることと同じことを意味している。近現代史を包括的に捉えていくことの難しさは、歴史段階の読み違えと、政治的価値観の過剰な意義付けを忌避できないからだと、わたしは考えている。戦後世界史を通観することは、当然、現在というものへ直截に透徹した視線を醸成することに通じていく。この戦後六十数年の渦動は、西欧の産業革命勃興期から、第一次、二次世界大戦終結時までの二百年という時間性を超え出る激変期であったと考えてみるならば、現在という場所を、過去へと幾らか重層させて捉えていくことは、極めて切実なことになるはずだと思われる。
 本書は、一九四五年から九一年までの期間を「冷戦時代」として詳述する。このことに対し、わたしは、あらためて歴史認識の方法を確立することの困難さを戒めのように感じたといっていい。著者は、一貫して、単独で書き表わす歴史記述というものを、あえて私見からは遠い位相に置こうと試みている。それは、並大抵の膂力では達成できないことだと思う。つまり、「人はイデオロギーをもち、歴史的事実のなかの何を重視するかによって歴史叙述をおこなう者の観点は自ずと表明されはするが、筆者は叙述を客観的なものにしようと努めた。(略)できごとの解釈、歴史に対する見解を示すことを直接の主要な目的とはしない。研究者の歴史解釈を紹介し、ときには筆者の意義づけを記しはするが、その場合は段落を変えたり出典を示すなどして、なるべくできごと自体の叙述と切り離すようにした。本書の主たる目的は、冷戦時代の世界の動向に関する知識を一冊の本にまとめて提供すること」にあると著者は、「まえがき」で述べているからだ。確かに、膨大な戦後世界の情勢を、六百頁ほどの分量に纏めて著すことが、どれほど難渋を強いられたことだろうと、類推できる。結果、画期的な、「冷戦時代の世界の動向に関する」、包括性をもった「認識」を集積した一冊が、提出されたといえる。著者は、「あとがき」で、「世界史の構成」に腐心したと述べているのだが、なるほど、「構成」という包括的視線が、本書の基層を成していることは、充分に了解できる。そして、欧米、ソ連、東アジア、南アジア、中東アジア、アフリカ、中南米といった空間を横断していく視線と、三期(「一九四五~五五年」、「一九五六~七五年」、「一九七五~九一年」)に区切った時間性との連結が、戦後世界像を明確に立ち上がらせているのだ。
 冷戦時代あるいは、冷戦構造といわれるものは、米ソ対立に象徴される時代相・情況の言辞だとしても、すべてその二大帝国の対峙性に帰することではない。あるいは、また、資本主義体制対社会主義体制といったイデオロギー対立を、指し示すことでもないと、わたしは考えている。「冷戦時代」を集約的に言説として採りだすとするならば、それは絶対的「権力」主義の時代ということになる。ここでいう絶対的「権力」というのは、可視的なものであって、フーコー流の遍在せる権力のことではない。本書を通読しながら思ったことは、「冷戦時代」の国家群の「権力」の有様は、戦前の対ファシズム戦争をなんら教訓としない現れ方をしていることだ。つまり、資本主義体制であれ、社会主義体制であれ、専制権力体制(あるいは軍事政権体制)の国家が顕在していったということになる。特に、アジアではそのことは、顕著に現れている。分断国家という現実によって、そうせざるをえなかったとしても、韓国、台湾とも長らく戒厳令下にあった。東南アジア、中東においても、社会主義体制なのか、たんなる専制国家なのか混在したかたちとして現れている。
 「一九七〇年代以降。アラブ・ナショナリズムの退潮とときを同じくしてイスラム原理主義が人びとの心をとらえ、勢力を強めた。それは一九七九年のイラン革命において劇的な形で現れて世界の注目を集めた。イスラム原理主義運動は多くのアラブ諸国で強力な反体制勢力となる。」(483P)
「共産党支配の崩壊、そして民主化という、東欧で、そしてソ連でも起きたことが中国では起きなかった。同じ共産主義国家であったとはいえ、冷戦時代最後の東欧・ソ連と中国でのできごと(引用者註=「天安門事件」を指す)の相違は、両地域の世界史上の相違、文明上の位相の違いともいうべきものを示したといえよう。」(591P)
冷戦終結以後の時代は、民族・宗教対立による、あらたなる戦争の時代に突入しているといってもいい。経済システムは資本主義ロジックで貫徹しながらも、政治体制は社会主義体制をいまだ標榜しながら、周辺民族を弾圧し続けている中国の強大化(帝国化)も、冷戦終結以後の時代を象徴するものだ。本書、『冷戦時代世界史』を読み通した後、現在に視線を振り向けていけば、それは、これからの「アジア」の混沌とした時代を照らし出しているように思えてならなかった。
(『図書新聞』09.10.24号)

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2009年10月 2日 (金)

今関敏子 編『涙の文化学――人はなぜ泣くのか』            (青簡舎刊・09.2.25)

 「涙」をめぐって、多様な文化的側面からアプローチした画期的な論考集である。編者、今関敏子と執筆者の一人、安井信子との巻頭に配置された「Ⅰ[対談]涙と文化」のなかでも触れられているが、「笑(い)」は、テクストとして、しばしば採り上げられることが多い。だが、「涙」や「泣く(こと)」は、負の要素が忌避されてしまうのか、本書のようなかたちで、本格的に論じられることは、あまりないような気がする。本書所収の安井論文「アメリカ文学と涙――へミングウェイはなぜ泣かなかったか」で、論じられているように、「母性が発達しにくい文化」を持つアメリカ的強い男の象徴として、男は涙を流すものではないという思考方法が、わが国にも少なからず、大きな影響を与えてきたように思える。
 涙を流すこと、あるいは泣くことは、男にとって女々しい行為だと思われるから、男たるもの涙は流さないものだなどといった転倒した考え方が、わが国においては明治期以降より顕在化し、十五年戦争下において、その最たる象徴期になったともいえる。そもそも、安井が指摘する「自立した個人」を強調するあまり「涙を否定し弱者を否定する」、「強者の論理」を推し進めようとするアメリカとは違い、わが国は、「Ⅳ 文学にみる涙の表象」に収められた中世文学作品に論及した諸論考で切開しているように、男性も人目をはばからずに涙することが、むしろ当然の美意識のようなものをもっていたというべきなのだ。
 しかし、考えてみれば、涙を流す、泣くということは、最も人間の感性を直截に表象しているといってもいいはずだ。山本志乃の「涙のフォークロア」(「Ⅱ 涙と文化」所載)では、柳田國男の「涕泣史談」(1940年、国民学術協会公開講座「現代文化の問題」における講演―後に46年刊『不幸なる芸術』に所収)を援用しながら、「(柳田はいう。)日本人は本来、言語以外の表現方法、たとえば眼や顔の動きで、微細な心のうちを表出する能力を具えていると思われるのに、まるで言語が表現のただひとつの手段であるかのように、これを過信していると危惧し」ながら、「『泣く』という行為は、言語よりも簡明に、しかも適切に感情を表出する。そしてその感情とは、言葉でとうてい表現できるものではないというのである」と述べている。泣くことが子どもや女性の代名詞のように語られることに対して、山本は、論考の最後を次の様に述べながら、「人間の素直な感情表現としての『涙』の復権」を提起して、締め括っている。
 「いつしか、子どもや女性は社会的な弱者となり、泣くことも涙も、女々しく、弱々しいことの象徴になってしまった。しかし、本来は、強い霊性をもった子どもや女性だからこそ可能であった魂の交信なのであり、言葉以上に強靭な呪力をもつ表現方法だったはずである。」
 確かにそうだ。泣くということは、泣くことの契機との交換行為なのだと、わたしは、山本の論考に刺激されて思い起こすことが、幾らでもあることに気づいたといえる。例えば、学生時代だった、六〇年代末から七〇年代初頭にかけて、わたしもまた、いわゆる東映仁侠(あるいは股旅)映画群に、熱狂したものだった。なぜか、それらの映画作品を見ながら、思わず泣いてしまう自分に気づいて驚いたと同時に、他者にはそのことを知られたくないと卑屈になったものだった。当時、『シネマ』という映画雑誌があり、そこで、高橋和巳もまた、映画『関の弥太っぺ』(監督・山下耕作、63年封切、後、何度も再上映される)を見て、泣けて泣けて涙が止らなかったというエピソードが書かれてあった。『邪宗門』、『憂鬱なる党派』、『悲の器』などの小説作品で、わたしに多大な影響を与えた高橋和巳が、わたしも涙して止らなかった映画を見て同じように感応したのかということを知って、以降、映画やテレビドラマや本を読んでも、なにも気にせずに涙を流すことにしたのだ。他愛もない話しだといえば、そうだとしかいいようがない。
 だからこそ、相手の率直な涙を見て、言語による伝達よりも濃密に伝わってくるものを理解するのが、関係性、共同性の有様なのだという考え方を、わたしは抱いている。現在は、過剰な携帯のメール伝達により、発語する関係性すら薄らいでいるというべきである。それゆえ、なおさら「眼や顔の動きで、微細な心のうちを」感知することこそ、「言語以外」によるコミュニケーションの機微でありうることを知るべきである。
 「文化」とは、結局、人間の生の営みの集積なのだから、安井が巻頭の対談で述べているように、「泣くというのは、感情と心の底に直結しているから。泣くっていうのは、生きている眼に見える証しみたいなもの」だということに尽きるといってもいいであろう。
(『図書新聞』09.10.10号)

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