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2009年9月13日 (日)

つげ義春「窓の手」について

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 〈戦後〉という言葉をある文脈のなかで配置した時、わたしたちはどんなイメージを抱くことになるのだろうか。世代間での差異があるのは、当然だとしても、イメージは、どのようにでも可能なのだ。まだ生々しく実感する世代から、遠い古代史のような想いを抱く世代まで、いずれにしても、それは時間概念として感受される場合が多いかもしれない。十五年戦争、あるいはアジア太平洋戦争が終結して六十年以上の時間の経過は、戦争期の記憶それ自体をも必然的に風化させていくことになる。確かに、時間概念としては、そうなのだが、それでも、なおリアルな実態性を喚起させ、〈戦後〉ということの実相を掘り起こすことは、現在を見据える意味において、極めて重大なことだとわたしは考え続けている。なぜなら、〈戦争〉の後ということを示唆する〈戦後〉は、いまなお、浮遊する言葉としてあるといっていいからだ。あるいは、〈戦後〉という時空間は、変容し、ある意味では風化していくとしても、内在する位相それ自体から、普遍視線を取り出すことができるといいかえてもいい。つまりこういうことだ。〈戦争〉は、なにも十五年戦争、あるいはアジア太平洋戦争だけが、〈戦争〉ではない。世界規模に拡大した〈戦争〉は、この六十年以上、生起していないとしても、〈戦争〉は、依然、連続して世界域で起きているし、それは、終わりのない〈戦争〉としてあり続けている。そして、〈戦後〉というものは、そういう意味でいえば、終わることのないものとしてあるのだ。
 例えば、格差社会といわれ、現代の貧困といわれる現在を、吉本隆明は、「第二の敗戦期」と捉えている。
 「この四、五年で、日本の『戦後』が終わり、新しく『第二の敗戦期』とも呼ぶべき段階に入ったのではないか――僕はそんなふうに捉えています。」「戦中派である僕らの世代は、本当の飢えを知っています。」「働いてもプアだということはあるにしても、まだ比喩的な要素が強く、文字通り飢えたという実感を持つ若い世代はそれほど多くはない。本当の意味で貧しい育ち方をしてきたわけじゃないから、本当の問題は貧困というより、何か人間の精神的な抵抗力が弱くなってしまったことにあるかもしれません。」(「『蟹工船』と新貧困社会」―『貧困と思想』〇八年十二月刊、所収)
 ここで、吉本が述べている言説に敷衍していうならば、〈戦争〉、〈戦後〉概念を大きく拡張していることに注視すべきである。〈戦争〉というものは、国家間、あるいは民族間だけで生起するものではない。社会内、共同性内、親近なる関係性内であっても、〈戦争〉というものは露出しうるし、それは幻視できるものなのである。そして、わたしの考えでは、〈戦争〉と〈戦後〉は、時間軸として分断しうるものではなく、連結したものと見做すべきなのだ。それは、戦争終結直後期だけが、〈戦後〉を意味することではないということにもなる。だから、〈戦後〉というものには、絶えず、〈戦争〉が胚胎していると考慮しながら、変容を強いられる〈戦後〉という時空間を、幾つかの断面に割って、見通すという視座が必要である。そのうえで、〈現在〉ということを、切実な地平へと押し出していくべきなのである。吉本がいう、「第二の敗戦期」という言葉の深奥には、そのようなことが、含まれていると、いっていいはずだ。

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 一九八〇年、『カスタムコミック』三月号に発表された、つげ義春の「窓の手」という作品は、一連の夢作品といわれるものとは、異質な光彩を放っていた。それは、つげ作品にあっては、めずらしく〈戦後〉ということが、作品モチーフとなっていたからである。
 銀行とおぼしき建物のなかで、何人かの男たちが働いている。開けた窓から風が入ってきたので、閉めようとしたら、窓枠の下方に手袋のようなものが二個、置いてあるのを見つける。しかし、それは、手袋ではなく、まぎれもなく人の手だった。行員たちは「窓から手が生えている」といって驚くものの、なぜか、極めて冷静に行動するのだ。色白の女性の手だと観察したり、窓の下の壁を破って、中を調べ、何もないのを確認したりする。そして、入れ歯を一個、見つける。やがて、復員服のようなものを着た男が、訪ねてくる。“窓の手”を見て、「白人人種のものではないか」といい、落ちていたという入れ歯を見せてもらい、それを受け取ると、自分の歯のなかに嵌めこんでしまうのだった。そして、男はいう。
 「この手は/グロリアだ」「グロリアに/ちがい/ない」「ああ/懐かしいなァ/………」
 その後、男は行員に「戦後まもない」頃のことを語って聞かせていく。この男は、当時、銀行の向かいに建っていたビルのなかにあった貿易会社の社員であった。やがて「上陸してきたアメリカ軍」が、そのビルをスパイ活動のための極東本部にして、同時に、貿易会社の社員たちも、「スパイに仕立てられて」いったという。なぜか、「スパイになる手続きとして指紋と歯型をとられ」る。だが、「スパイ活動は一度も指令されず」に、三年間が過ぎ、歯型を採取した上司のイギリス人・サンダーソン中尉は、本国へ帰国する。入れ代わりに配属されてきたのが、同じイギリス人女性のグロリアだった。グロリアは、重い病気に患っているようで、ビルの一室に隔離されたままだった。男は、「孤独なグロリアが気の毒に思え」て、部屋を訪ねていく。男は、グロリアの奥歯が入れ歯であることを聞いて、その入れ歯を自分の奥歯の位置にはめ込んでみると、ピタリとおさまったのだ。グロリアから入れ歯を借りて、入れたまま二、三日過ごしていると、サンダースが戻ってきて、グロリアの入れ歯をしているのを見咎める。「敗戦国民の/くせに/なれなれしい/まねするな」の罵られながらも、男は、歯型が自分のものだから、入れ歯も自分のものだと主張するが、「本国に」問い合わせて、「回答があるまで」グロリアに返しておくように命ずる。その後、グロリアは、行方不明となる。銀行に入っていった後姿が、男の見たグロリアの最後だった。こうして回想が終わり、男は銀行員にいう。
 「人目を/さけて/こっそり死んだ/のでしょう」「しかし/遠い異郷での/さみしさに/たえられず」「それで窓から/出ようとしたの/ではないで/しょうか」
 そして、男は、「戦後三十年/私の戦後は まだ/終わっていない/のです」といいながら、“窓の手”のグロリアに別れを告げて去っていく。
 〈戦後〉というモチーフとともに、超現実的なストーリーながらもリアルで重厚な画像によって描出されたこの作品について、後年、つげ自身、幾つかのことを語っていて、興味深い。
聞き手・権藤晋に「『窓の手』以前の夢ものと絵柄」の違いを聞かれ、つげは、「夢の中でも荒唐無稽が少なくわりとシリアスだった、戦後風景なので重厚にきっちりと描く方がふさわしいと思った」(『つげ義春漫画術・下巻』)と述べている。そして、次の様に率直に語っている。
 「夢にしてもまったく不思議で、なぜこんな夢を見たのか理解できないことですけど、戦争や戦後がぼくの深層におよぼした影響が出て来たのかね。(略)ぼくは戦争批判を表層的にとらえるのは嫌いです。政治意識や知性のない庶民は深層で何か深い傷を負っているのではないかという気がするんですが。」
 つげがこのように自らの体験を、戦争や戦後ということに絡めて語るのは、極めて稀有なことだといえる。それは、この作品が、いかにつげにとっても重要な作品であったのかということを示唆するものだといえるような気がしてならない。「戦争批判を表層的にとらえるのは嫌い」であると述べながらも、「敗戦国民の/くせに/なれなれしい/まねするな」と、サンダースにいわせ、「戦後三十年/私の戦後は まだ/終わっていない/のです」と男に吐露させるのは、つげ作品のなかでもめずらしい直截ないい方でもある。終戦時、八歳であったつげは、世代的にいえば、自ら語るように、戦争や戦後が、自身の深層に深い影響を与えたことは、確かである。
 それまでの夢作品では、必ずといっていいほど描かれる直截的なエロス性が、この作品にないことも、異彩をもたらしている、もうひとつの事由だといえそうだ。
 「主人公とグロリアの入れ歯が合致する」ということが、つげ自身によれば、エロス性の象徴ということになるようだが、わたしは、むしろ、終景の〝窓の手〟の別れを惜しむ手の動きの方に、哀切感とともに、奇妙なエロス性を感受したと記憶している。それは、かなり意識的に書き込まれたシークエンスだったといっていい。
 だからこそ、二人を、「もっと深い男女の関係のような気もして、哀切に描きたかったですね」と、つげ自身は述べているのだ。

                 ★

 わたしが、「窓の手」という作品に、リアルタイムで接した時、当然のことながら、大きな衝撃を受けたといっていい。例えば、つげ忠男の「屑の市」(『夜行 第一集』七二年四月刊、所収)に接した時の衝撃とそれは近似していた。一九八〇年という時制は、まだ、「窓の手」や「屑の市」に潜在しているモチーフを切実なるものとして、感受できる情況にあったからだといえる。そして、さらに三十年近く時間が経過し、いまあらためて、「窓の手」という作品に、向き合った時、わたしは、不思議な感慨が沸きあがってくるのを抑えることはできなかった。真っ先に感じたことは、この作品の時制は、いったいいつなのかということだ。主人公の男に、「戦後三十年」といわせていることから、作品上では七五年ということになるわけだが、それにしても、いかにも、「戦後まもない」頃といった雰囲気を描出しているといえる。もちろん、夢を素材にした作品であることを承知の上で、そのことを捉えようとしているのだが、この時間性と空間性の齟齬が、〈戦後〉という問題の迷宮性をあえて露出させているとわたしには思えてならないのだ。あるいは、風化しきれないままの〈戦後〉の浮遊性といってもいいかもしれない。
 現実的な場所では、例えば、「戦後は終わった」、「戦後政治の総決算」、「戦後レジームからの脱却」といった妄言を発しながら、〈戦争〉と〈戦後〉を風化ではなく無化しようとした、時の執権者たちがいた。なぜ、〈戦争〉、〈戦後〉、そして〈現在〉へと連結しているはずの時空間というものを措定することなく、ただ分断して〈戦後〉という所在を否定しようとするのだろうか。もちろん、それは、〈戦争〉によって帰結した〈敗戦国(民)〉という汚名を拭い去りたいからであろうし、廃墟での混乱、悲惨、飢餓といったことから、物質的な豊かさを獲得したことによって脱却したと単純に判断したいからだともいえる。だが、どんなに時間が経過しようとも、戦前の生活より、現在の生活が上位にあると考えようとも、〈戦後〉というものは、わたしたちの精神の内部にあっては、拭いがたく在り続ける〈痛痒なる襞〉のようなものなのだといいたい。
 三十年後であるにもかかわらず、「戦後まもない」頃の風景に置かれた「窓の手」の主人公に、つげは、「私の戦後は まだ/終わっていない/のです」と語らせているわけだが、実は、二重にそのことを告知している構造を、この作品は採っていると、捉えてみたいのだ。つまり、男が、〝窓の手〟になったグロリアに、入れ歯をはめながら、別れの言葉を告げて去っていく。それに対して、〝窓の手〟は、涙を流しながら、手で男が去っていくのを引き止めようとしているかのように、描かれている。入れ歯は、二人のエロス性の象徴であるかもしれないが、もうひとつ別様にもいえる気がする。それは、〈戦後〉の表層的な豊かさを表象しているものとしてあるというように。だから、入れ歯を再び手に入れて去っていく男は、〈戦後〉を終えようとしているのだ。だが、“窓の手”だけは、終わらない〈戦後〉というものを受苦していくことになるのだと、この作品の終景を通して、わたしは、あらためて読み込むことになったといっておきたい。

(『走馬燈 第3号』09.9)

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