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2009年7月24日 (金)

陶山幾朗 編集・構成『内村剛介著作集第2巻』            (恵雅堂出版刊・09.3.30)

 昨年の八月に刊行開始された著作集(全七巻)の二回目の配本となる。この間、内村自身の「死」が、挟まっている(09年1月30日逝去、享年88)。
 わたしが、内村剛介の著作に初めて接したのは、六十年代末の全国的な学園闘争渦動期だった。『生き急ぐ』(67年)であり、『呪縛の構造』(66年)であり、『わが思念を去らぬもの』(69年)ということになる。そして、さらにあと一冊、翻訳書を加えれば、『エセーニン詩集』(68年)だ。どれも、繰り返し読んで、わたし自身多大な刺激を受けたことをいまだに鮮明な記憶として残っている。『わが思念を去らぬもの』のカヴァー挿画、『生き急ぐ』に収められた多数の挿画で、香月泰男を知ったことも、大きい。『試行』誌上の、吉本隆明との往復書簡形式の論稿で、中国の文化大革命やわが国の学生運動に対して、厳しい視線を向けていたのを、驚きと異和感とともに読んだものだ。『わが思念を去らぬもの』の「あとがき」では、通常、謝辞を述べるところを、担当編集者に対して厳しい言葉を投げ掛けていた。なにかに、苛立っていると感じさせた内村のそうした言辞に対する戸惑いは、『わが思念を去らぬもの』に収録された諸論稿を丹念に読み通していくうちに、わたしのなかでそれは氷解していったような気がする。
 わたしのなかで、当時、拘泥していた国家と権力の問題は、ロシア十月革命後が辿っていくナロードを圧制し続けていったレーニン・スターリン主義の切開にあった。スターリニズムをマルクス主義から逸脱したイデオロギーとして捉えるのではなく、ロシアという相貌のなかに見立てながら、その対極なものとしてアナーキーなナロードという存在性を見据えていく内村の思考の方位は、なによりもわたしを喚起してくれるものであった。いままた、あらためて本巻収録の論稿(初見となる未収録稿も多数ある)を読み直してみても、そのことの思いは変わらない。
 「国家は本来暴力機構である。その暴力を権力といい、そのむくつけき権力に法の名が冠してある。法はそのぎりぎりの本性において国家が市民に向けるところのものである。(略)革命の名に値する革命をわれわれはまだ持っていない。市民が市民みずからを管理する情況を継続的に恒常的にもたらすような変革、それだけが革命の名に値するのだが、われわれは今までのところ一つの権力が他の権力へと交替し、その権力が『人民の国家』を僭称する図を見せられるばかりだ。つまり、われわれは『人民の国家』において『人民に対峙する国家の犯罪』を見るばかりである。ロシアにおいても中国においても、情況はわれわれにもはや何のイリュージョンも許さない。」(122~123P)
 もとより、それは、スターリン主義国家だけの問題ではない。暴力機構であるところの国家の抑圧性が、寡少に感じられたとしても本質的には、欧米国家群(もちろんわが国も)とて同じことだ。
 「みずからを生んだ『くに』に在って個体が、その『くに』が『くに』の上へ積み上げた権力を『国家』として自覚的に対象化するのは日本ではむずかしい、と私は書いた。ロシアでは(それはロシアの幸運であり不幸でもあるのだが)『国家』は『くに』のなかにあってつねに抑圧の暴力機関として人の目に明らかであった。ロシアのマルクシストが、とりわけレーニンらボリシェヴィキが、国家を抑圧的暴力機構として受けとるのは、いうなれば、“あと知恵”というものである。レーニンらはみずから生得的に得ている知識を後日マルクスの国家論で“科学的”にコンファームしたにすぎぬからである。(略)ロシア・マルクシストにとっては国家の実体はむき出しの暴力機関ということなのであって、そこには多少理性に衣をまとった形で現われるところの西欧近代風の国家像はなかった。だから幻想形態の破摧などという“たわごと”にかまける以前に、暴力の実体としての権力機関の破摧がストレートに問題になっていたのである。(略)そしてこの破摧は世のデモクラートに歓呼して迎えられた。だが人はそのとき、むき出しの国家権力を破摧するには別種のむき出しの権力を必要とし、そのようなものがロシアではロシア風に用意されてあったのだということを忘れがちである。ロシア社会主義革命の名誉(成功)と汚辱(堕落)はじつにシャム双生児であったと知る。」(160~161P)
 スターリン主義という呪縛の構造の問題は、スターリン個人の行状や志向、狂信性にだけ求めて批判しても、それは超克・解体したことにはならない。当然ながらスターリン主義が突然変異的に生起したわけではないからだ。淵源は、多くのロシア・マルクシストを輩出することになったロシアという西欧性とアジア性が混在した場所性に求めるべきのように、わたしには思われる。
 本巻は、各著作をいったん解体してテーマ別に編んでいる。そして1958年から92年までの論稿を時系列に配し、「『ソ連』から『ロシア』へとなし崩し的に移行してゆく全情況が活き活きと考察され」(「解題」)ていくことになる。フルシチョフのスターリン批判演説に関して、「本質的にはスターリンのコピーであることに変わりはな」いとフルシチョフを断じながら、「スターリンとながく同時代をすごした彼は(略)スターリン主義清算の旗を捧げ持つことがそもそも無理だったのである」(79P)と述べていく。“ペレストロイカ”、“グラスノスチ”といった言葉が、謳い上げられ冷戦時代終焉の幕開けと喧伝されたゴルバチョフ政権に対しては、さらに厳しい視線が向けられていく。「断じて権力を手放さないのがレーニン主義」であり、「このレーニン主義はスターリンに忠実に受け継がれ、いまゴルバチョフの手中にある。ゴルバチョフのヴォキャブラリーがいかにスターリンのそれの焼きなおしであるかを見ればそのことはさらによく納得できる」(335P)と捉えていく。内村が見据えるのは、「ロシアの素朴なアナーキズム」(377P)にあるといっていい。
 「ソ連社会の底辺に動く『マグマ』はまだメディアを通じては見えてない。これはすべての権力、さまざまな『イズム』を吹き飛ばす原初でアナーキーなプリミチズム。これに対して本質上反動であるゴルバチョフやエリツィンといった『小人たち』がプリミチズムな対応で右往左往している」(383P)という鮮烈なる情況分析は、いまもってわたしになによりも強い喚起を与えてくれるのだ。
(『図書新聞』09.8.1号)

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2009年7月17日 (金)

菊地信義 著『装幀思案』(角川学芸出版刊・角川グループパブリッシング発売・09.3.15)

 「装幀とは、物でなす作品への批評である」と述べる装幀家・菊地信義が、雑誌『本の旅人』(角川書店刊)に五年間連載した「装幀雑記」を中心に纏めたものが本書である。著者は、連載の主旨を「自分の求める装幀を人様の仕事に探ること」や、「来るべき装幀表現を探ること」だと記している。それは、装幀を仕事として意識したいい方ということになるわけだが、「雑記」の文章のひとつひとつに接してみれば、むしろ書店の平台で見つけ、心惹かれた本に対して、丁寧に、しかもあたたかく、言葉を重ねていく読者の視線のようなものを、わたしたちは、感ずることになる。このあたたかさは、なによりも、本というものをセンシブルな思いで読んできたことを率直に表明していることの証しでもあるといっていい。一冊一冊に込められた菊地の言葉たちはなによりもその本の装幀家たちだけにではなく、編集者そしてもちろん本の著者に対してもしっかりと向けられていて、その本に対して際立った批評としても成り立っていることがわかってくる。
 例えば、片岡義男の『文房具を買いに』について、次のように述べる。
 「本は人の心を作る道具。本に盛られた作品は読者を得、読む人の心に意味や印象を結ぶ。読んだ人の心の数だけ作品が生まれる。文芸であろうと実用の書であろうと、文を綴る言葉の真の役割(読むという行為を得て意味や印象を生む)に誠実であれば、本を作る側(著書・編集者・装幀者……)は本のあと半分の作り手である読者に己を提示するに謙虚でなくてはならない。(略)本書は、著者気に入りのノートやペン、消しゴムに定規、押しピンから輪ゴム等々。著者みずから構成し、撮影した写真とそれぞれに紡いだ上等の文で編まれる。文は紹介にとどまらない。道具を具体的に記す言葉が見事なデザイン論、いや文化論としての深みをたたえる。」(「装幀の慎み」)
 言葉というものは、一方通行的なものではない。伝達つまりコミュニケートする、あるいは、されるものだ。「読んだ人の心の数だけ作品が生まれる」といった見方や、「本のあと半分の作り手である読者」といった捉え方ができる著者だからこそ、「文字は言葉の姿かたち。いずれも意味と印象をになっている」(「文字の役目」)といえるのであり、文字を独特に配置した菊地信義の装幀世界を表現できるのだと、思う。
 わたしが、菊地信義の装幀をいつ頃から意識して見るようになったのかは、もう覚えていない。たぶん、八十年代前半だったはずだ。『相対幻論』の本の仕様書のような装幀、『マスイメージ論』の著者名の印鑑も配置して文字への拘りに徹した装幀、いずれも本の内部を見事に醸し出して鮮烈な印象を持った装幀だったといっていい。もちろん、わが「図書新聞」のデザインフォーマットも、菊地によっていることを加えておくべきかもしれない。
 菊地が、本書のなかで述べている本のこと、あるいは本の装幀のことは、当然、自身のこれまでの仕事から裏打ちされたものであるとしても、あくまでも読者としてこれまでに長い時を経て出会ってきた本たちのことを率直に語っていることになるのだ。装幀というものは、確かに、その人のセンスや技量といったものが問われる仕事かもしれない。しかし、それ以上に、自分がこれまで、外部はもちろん内部も含めてどれだけ本たちから影響を受けてきたかということが、大事な根源となって、初めて装幀というかたちにいかされていくはずだと、わたしならそう考えたい。
 「司修の名を知ったのは三十数年前。初めは『杳子 妻隠』の装幀。読後、装画の女人が心に染みて、目次裏、装幀司修の文字を心に刻むように見つめていた。(略)司さんの仕事から装幀の種が心に落ちた。(略)それから八年後、一人の作家を介し、手練の編集者と出会い、その人の導きで装幀の道を歩み出すことになる。」(「装幀の種」)
 「心に染み」る、「心に刻む」、「心に落ち」るといった言葉を重ねて、自らの装幀家としての「初期」を語っていることに、わたしたちは、菊地信義の紛れもない立ち位置を知ることになる。だからこそ、菊地は、書店の「平台で装幀と出会う」ことを「一瞬の劇を楽し」むことだと、述べることができるのだ(「取り寄せ」)。取り寄せして出会う本は、「一瞬の劇」を楽しむことができないとしながらも、採りあげている本が、うらたじゅんの漫画作品集『嵐RANDEN電』であることが、わたしにとって親近なる作家とその著作なだけに、なんとも「心に落ちた」といえる。
 本書の装幀は、もちろん著者自ら施したものだ。三分の二以上を占める赤地の帯の右側に「来るべき装幀を探る。」と、題字や著者名よりも大きな活字で配している。左側上にやや小さめに「装幀思案 菊地信義」とある。著者名は帯にも印字している。帯をはずして見れば、白地に、「装幀思案 菊地信義」がそのまま配置していて、右下隅に小さな文字で版元名が記されている。大きな空白が、全体を占めていることになる。それがなんとも、「来るべき装幀表現を探」ろうと思案げにしている著者の貌を想像したくなるのは、わたしばかりではないはずだ。

(『図書新聞』09.7.25号)

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