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2009年7月17日 (金)

菊地信義 著『装幀思案』(角川学芸出版刊・角川グループパブリッシング発売・09.3.15)

 「装幀とは、物でなす作品への批評である」と述べる装幀家・菊地信義が、雑誌『本の旅人』(角川書店刊)に五年間連載した「装幀雑記」を中心に纏めたものが本書である。著者は、連載の主旨を「自分の求める装幀を人様の仕事に探ること」や、「来るべき装幀表現を探ること」だと記している。それは、装幀を仕事として意識したいい方ということになるわけだが、「雑記」の文章のひとつひとつに接してみれば、むしろ書店の平台で見つけ、心惹かれた本に対して、丁寧に、しかもあたたかく、言葉を重ねていく読者の視線のようなものを、わたしたちは、感ずることになる。このあたたかさは、なによりも、本というものをセンシブルな思いで読んできたことを率直に表明していることの証しでもあるといっていい。一冊一冊に込められた菊地の言葉たちはなによりもその本の装幀家たちだけにではなく、編集者そしてもちろん本の著者に対してもしっかりと向けられていて、その本に対して際立った批評としても成り立っていることがわかってくる。
 例えば、片岡義男の『文房具を買いに』について、次のように述べる。
 「本は人の心を作る道具。本に盛られた作品は読者を得、読む人の心に意味や印象を結ぶ。読んだ人の心の数だけ作品が生まれる。文芸であろうと実用の書であろうと、文を綴る言葉の真の役割(読むという行為を得て意味や印象を生む)に誠実であれば、本を作る側(著書・編集者・装幀者……)は本のあと半分の作り手である読者に己を提示するに謙虚でなくてはならない。(略)本書は、著者気に入りのノートやペン、消しゴムに定規、押しピンから輪ゴム等々。著者みずから構成し、撮影した写真とそれぞれに紡いだ上等の文で編まれる。文は紹介にとどまらない。道具を具体的に記す言葉が見事なデザイン論、いや文化論としての深みをたたえる。」(「装幀の慎み」)
 言葉というものは、一方通行的なものではない。伝達つまりコミュニケートする、あるいは、されるものだ。「読んだ人の心の数だけ作品が生まれる」といった見方や、「本のあと半分の作り手である読者」といった捉え方ができる著者だからこそ、「文字は言葉の姿かたち。いずれも意味と印象をになっている」(「文字の役目」)といえるのであり、文字を独特に配置した菊地信義の装幀世界を表現できるのだと、思う。
 わたしが、菊地信義の装幀をいつ頃から意識して見るようになったのかは、もう覚えていない。たぶん、八十年代前半だったはずだ。『相対幻論』の本の仕様書のような装幀、『マスイメージ論』の著者名の印鑑も配置して文字への拘りに徹した装幀、いずれも本の内部を見事に醸し出して鮮烈な印象を持った装幀だったといっていい。もちろん、わが「図書新聞」のデザインフォーマットも、菊地によっていることを加えておくべきかもしれない。
 菊地が、本書のなかで述べている本のこと、あるいは本の装幀のことは、当然、自身のこれまでの仕事から裏打ちされたものであるとしても、あくまでも読者としてこれまでに長い時を経て出会ってきた本たちのことを率直に語っていることになるのだ。装幀というものは、確かに、その人のセンスや技量といったものが問われる仕事かもしれない。しかし、それ以上に、自分がこれまで、外部はもちろん内部も含めてどれだけ本たちから影響を受けてきたかということが、大事な根源となって、初めて装幀というかたちにいかされていくはずだと、わたしならそう考えたい。
 「司修の名を知ったのは三十数年前。初めは『杳子 妻隠』の装幀。読後、装画の女人が心に染みて、目次裏、装幀司修の文字を心に刻むように見つめていた。(略)司さんの仕事から装幀の種が心に落ちた。(略)それから八年後、一人の作家を介し、手練の編集者と出会い、その人の導きで装幀の道を歩み出すことになる。」(「装幀の種」)
 「心に染み」る、「心に刻む」、「心に落ち」るといった言葉を重ねて、自らの装幀家としての「初期」を語っていることに、わたしたちは、菊地信義の紛れもない立ち位置を知ることになる。だからこそ、菊地は、書店の「平台で装幀と出会う」ことを「一瞬の劇を楽し」むことだと、述べることができるのだ(「取り寄せ」)。取り寄せして出会う本は、「一瞬の劇」を楽しむことができないとしながらも、採りあげている本が、うらたじゅんの漫画作品集『嵐RANDEN電』であることが、わたしにとって親近なる作家とその著作なだけに、なんとも「心に落ちた」といえる。
 本書の装幀は、もちろん著者自ら施したものだ。三分の二以上を占める赤地の帯の右側に「来るべき装幀を探る。」と、題字や著者名よりも大きな活字で配している。左側上にやや小さめに「装幀思案 菊地信義」とある。著者名は帯にも印字している。帯をはずして見れば、白地に、「装幀思案 菊地信義」がそのまま配置していて、右下隅に小さな文字で版元名が記されている。大きな空白が、全体を占めていることになる。それがなんとも、「来るべき装幀表現を探」ろうと思案げにしている著者の貌を想像したくなるのは、わたしばかりではないはずだ。

(『図書新聞』09.7.25号)

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