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2009年6月19日 (金)

高野清弘 著『政治と宗教のはざまで  ホッブス、アーレント、丸山眞男、フッカー』(行路社刊・09.2.25)

 「キリスト教と政治との関係ということ自体は、およそ西洋政治思想を学ぶ者にとって避けることのできない問題」(39P)であるとする著者は、「宗教」と「政治」の基層を往還させながら、その空隙の位相へと深く視角を射し込んで、フッカー、アーレント、ホッブス、丸山眞男らを論じている。著者が本書のなかでモチーフとする「政治」は、国家や政府による統治の有様を指すだけはなく、公的世界、あるいは共同体社会といった拡張させた概念をも視野に入れている。もとより、中世・近代の時間軸から社会の発展段階を捉えようとするならば、必然的に西欧世界を鏡として措定せざるをえなくなる。それは同時に、宗教つまりはキリスト教世界と政治が深く繋がっている時代を透徹していくことにもなるのだ。神学が政治学・統治学として機能していた時代といえば、もっと明確化していえそうな気がする。
 それでは、著者は政治と宗教の同一化を指向しているのだろうか。ホッブスに関する単著を持ち、フッカーをこれから本格的に論究していこうと表明する著者にあっては、そのような表層的な方位を想起しているわけではない。「はざま」であり、わたしなりのいい方では「空隙の位相」ということになるそのことこそが、問題の所在の深遠さを指し示していることになるからだ。
 そもそも、「政治」も「宗教」も、人間の観念が創出したものだとわたしは考えている。「宗教」者にとって「神(あるいは仏)」は人間が生まれる以前にあって、人間は「神(あるいは仏)」が創造されたものだというだろう。しかし、そこには「神(あるいは仏)」を「神(あるいは仏)」として認知すべきものが介在していなければならず、ではあれば人間が認知・認識しないかぎり「神(あるいは仏)」が存在しないものになってしまうというアンビバレンツな様態を示すことになる。だからといって、わたしは、「神(あるいは仏)」を信ずる人たちの存在や、信仰心というものを否定したいのではない。「政治」も「宗教」も、中世・近代を経て、現在に至り、「人間」という存在性を置き去りにしてきたのではないかといいたいだけなのである。だから、「はざま」や「空隙の位相」へ視角を入れることは、「人間」という存在性へ視野を射し込むということを意味しているのだとわたしは理解したいのである。それは、「宗教的なるもの」も、「政治的なるもの」も、ますます「人間的なるもの」から離反していこうとしているのが現在なのだ、といい換えてもいいかもしれない。
 幾分、敷衍したいい方になってきたが、本書の核心へと分け入っていきたい。集中、丸山眞男に対する批判、「私の丸山眞男体験」の論稿の結語に著者が置くアーレントの言説はこうだ。
 「アーレントは、『精神の生活』において、後期ハイデガーは、『思考(thinking,Denken)は感謝(thanking,Danken)と同じで(語源上の理由からだけではない)ある』と結論づけていたと語っている。そして、次のようにも述べている。『自己はいまや「裸の事実」が少しでも与えられていることへの感謝を表現する思考にたちもどる。存在に直面して人間の態度は感謝であるべきだ』(略)『思考は感謝である』。この言葉を私が『贋ものの自我』から脱却するよすがとしたい。そしていつしかは、私も『存在』に『安住する』ことをえたい。」(128P)
 「リチャード・フッカーの思想的出立」という論稿での、フッカーへの著者の共感の表明はこうである。
 「(略)フッカーにおいては人間はいわば全宇宙に対して責任を負う存在として把えられる。このような人間理解にもとづいて、フッカーは人間の尊厳の神学の確立へと向かう。その努力の結実としての『教会政治理法論』は神が平和と秩序の神であることを強調し、ピューリタンに対して、『あなたがたも人間だということを考えよ』と訴える序文によって開始されるのである。」(211~212P)
 これらにある著者の真意は、自身の「宗教的なるもの」への揺らぎをなにか無意識のうちに表明しているかのようにも思えるのは、「神(あるいは仏)」を人間が認知・認識するものなのだと考えるわたしだけの思い込みだろうか。そうではないような気がする。まったく異論の差し挟むことのない著者による丸山眞男批判が、丸山信仰からの自身の脱却であるとするならば、もうひとつの信仰者としての著者はどうなのだろうかと、どうしても関心が向かわざるをえないのだ。
 ならば、わたしの関心は、アーレントの言説に添いながら、西欧近現代の全体主義が、「キリスト教」も「一つの不可欠な要因として成立したことになる」(53P)と著者が述べていく時、「あなたがたも人間だということを考えよ」と訴えたフッカーが指向する「人間の尊厳の神学の確立」の行く立ては、可能なのかどうか、著者のフッカー論の今後を見てみたいという思いに向かうことになる。

(『図書新聞』09.6.27号)

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