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2009年3月15日 (日)

彷徨する思惟

     ★

 「あなたはどんな方ですか、と問われるのはうんざりだと、何度も言っておられますね」と聞き手は、述べる。そして、「それでも敢えてお尋ねします。あなたは歴史家と呼ばれるのをお望みですか」と問い掛けていく。それに対して、歴史家の仕事には関心はあるが、自分がやろうとしていることは、もっと別のことだと応答するのは、ミシェル・フーコーである。聞き手は続けて、哲学者と呼ぶべきでしょうかと、重ねて問うと、自分がやっていることは、いかなる意味でも哲学ではないと答える。たまらず、聞き手は、ではどう呼べばいいのでしょうかと、執拗に問い掛けていく。フーコーは、こう答えていく。

  「わたしはいわば花火師(アルティフィシェ)です。」

 フーコーが発語する思惟の断片は、鮮やかだ。歴史家でも哲学者でもなく、自分は「花火師」であるという時、凡百の、あるいはわたしたちなどが、気取って職人気質を称揚していう場合とは違う断面を切り取って見せている。フーコーが、ここでいう「花火師」というのは、「私のディスクールは一つの武器のようなものなのです。あるいは火薬の詰まった袋のようなもの、火炎瓶のようなものです」という思いを込めた「爆破技師」に近いのだ。夜空に上がる煌びやかな「花火」をイメージしてはいけないのだろうか。もちろん、イメージしてもいいのだが、花火を「打ち上げる」ということは、煌びやかなものとは反転したものを実は内在しているのだということを了解すべきなのだ。つまり、ただひたすら「火薬」を仕掛けるということであり、それは、戦争で武器を発火することと大差はないといえることなのだ。パラドキシカルなアルティフィシェというタームは、フーコーらしい言説の立て方であり、フーコーが「花火師」もしくは、「爆破技師」と自分をなぞらえるとしたならば、それは、既存の言説を無化して、いわば、煽動家として立ち振る舞うことを潔よしとすることであるに違いないと思っている。

       ★

 権力を網の目のように遍在するものとして捉えたのはフーコーだが、わたしは、このことを、権力論を超えた権力論だと思っている。マルクス主義者からアナキストまで、あるいはブルジョワ権力から反権力まで、権力の可否を問う喧しい論議は果てることなく続いてきた。わたしは、どれも駄目、これも駄目と思い続けてきた。一見、解答不能、絶望的認識に近い、フーコーの権力論だが、わたしには、そうは思わない。「『権力は必要なのか、それとも不要なのか』と問うべきではないと思います」とフーコーはいう。「権力は非常に遠いところまで及ぶものであり、きわめて深い場所にまではいりこむものです。権力は毛細血管のようなごく細い管で構成されたきわめて密なネットワークで運ばれるものなので、権力のない場所などあるだろうかと問いたくなるものです」と述べていく時、権力なるものへの透徹した認識をそこにみることができるのだ。なぜなら、フーコーの権力分析は、そこに知への反措定というべきことを意思表示しているからだ。わたしが、フーコーの権力論に論拠を得たいと思うのは、「知」を「権力」と同位相として括って、そこに権力の本源があると見做していることにある。わたしたちは、何かを他者に対して指向しようとする時、例え善意という意識をもってしたとしても、それはいつでも悪意に転位することがあることを知るべきなのだ。他者に何かを強いるということは、無意識下においてもありうることであり、人と人との関係性というものは、対峙した段階においてある種の権力関係が生起することを了解すべきなのである。そして、そのことの了解領域からしか、権力関係を切開し、無化していく方途はないのだという思いを、わたしは抱き続けている。

      ★

 木村カエラの歌『どこ』を聴いた。何か懐かしさを喚起するメロディーに乗って、刺激的な詞(ことば)(作詞・渡邊忍)が響いてきた。「感情」、「恋情」、「実情」、「温情」。これらが、断続的に、いい切りで唄われる。特に、「レンジョウ」と「オンジョウ」には、不思議な響きを湛えていた。いったい、この混沌とした「情」とは何だろうかと聴きながら思った。「感情」と「恋情」は、詞(ことば)としてはそれほど奇異ではない。だが、「実情」と「温情」となれば、幾らか違うイメージが付加されてくる。それは、わたしたちを取り巻く現況において、最も遠い言葉のような気がするのだ。「実情」とはなにか。弁明される現実なのだろうか。あるいは、現在を糊塗するための言い訳なのか。「温情」とはなにか。容赦することの善意か。そんなのは、もうないといい切れない何かを喚起するための方便か。わたしは、カエラの声に聴き入りながら、何処か彷徨する気分でいることに気づいていた。そして、彷徨いながらも思惟の底に貼り付いたカエラが発する言葉を転倒させたらどうなるかと思いついたのだ。「感情」を「情感」に、「恋情」を「情恋」に、「実情」を「情実」に、「温情」を「情温」と反転させた時、奇妙な語感がやってくることに気づき、戸惑ってしまった。そしてやがて、「情恋」と「情温」の狭間に何かが、あるかもしれないと、思い起こしたのは、この思惟の断片を刻む直前のことである。

(『走馬燈 Φ2』09.3)

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