« つげ義春 著『生きていた幽霊』(小学館クリエイティブ 刊・08.7.29)・『四つの犯罪』(9.29)・『恐怖の灯台』(11.29) | トップページ | 小林善彦 著『「知」の革命家ヴォルテール 卑劣なやつを叩きつぶせ』(つげ書房新社刊・08.11.20) »

2009年1月30日 (金)

日本カント協会 編『日本カント研究9 カントと悪の問題』(理想社刊・08.9.30)

 わたしたちが、「悪」という問題を考える時、当然のことながら、そこでは対峙する概念として「善」という問題が生起してくる。だが果たして、「善」と「悪」は、二項対立、あるいはカント的にいうならばアンチノミー(二律背反)といった相反する概念として定立させることができるものなのだろうかという疑問を、わたしなら抑えることができない。
 ここ数年の加速化された欧米を軸としたグローバリズムの拡張は、先進社会を「善」、後進社会を「悪」とする転倒した二元論を瀰漫させている。“後進社会”とは、いうまでもなく、欧米的キリスト教圏域(ユダヤ的世界も包含させていい)と絶え間なく衝突を繰り返しているアラブ・イスラム文化圏域を主に指し、先進社会的「善」を絶対値として、疎外と圧制を、欧米諸国は教唆している。このことは、まさしく「善」と「悪」が、渾然とした情況を露出していることを示しているといっていいように思う。その限りでは、もはや「善」も「悪」もないということになる。
 本書は、日本カント協会の年一回刊行の機関誌である。第9集の主題は、「悪の問題」であるが、もちろん、これはあくまでも、カント研究ということが主眼であって、現況を視野に入れた論稿というわけではないが、論者の意識するしないにかかわらず、現況に対する多くの示唆を含んだ力論が掲載されていると、わたしは受け取ることができた。
 巻頭の三論稿、北岡武司「意志の原理とされた自己愛―カントにおける悪の問題―」、保呂篤彦「根本悪の克服―個人における、また人類における―」、石川文康「根本悪をめぐるカントの思考」のそれぞれが、主題「カントと悪の問題」に沿ったものとなっている。
 北岡の論稿は、道徳的善悪を軸に展開させていき、「心ね」という人格、理念、性格に連動する領域へと視線を這わせながら、「自己愛」を基準にした善悪の概念を切開している。
 保呂と石川の論稿とも、「根本悪」をモチーフに、その克服する方位を論及している。カントによる「根本悪」とは、「道徳法則に反する動機を道徳法則への尊厳という動機に優先するものとして『格率〈Maxime〉』のうちに採用してしまう『性癖〈Hang〉』であって、これが人間の『心術〈Gesinnung〉』の根底にある」ということだと、保呂は述べていく。とすれば、これはそもそも克服・超克不可能性を内在していることになるのだが、保呂は宗教的な「恩寵」概念をもって、不可能性を可能性へと道程付けしていく。
 石川は、「いわゆる悪への性癖は根絶不可能ではあるが、しかし克服可能とされる場合(略)、その克服努力こそ道徳なのである。このことは、カント哲学全体が根絶不可能なものに対する克服の努力とその可能性を開拓する試みだったということを、よく反映している」と叙述する。この示唆は、様々なことを包含している。わしの関心事からいえば、ニーチェの「善悪の彼岸」との関連で考究していく素地を残しているような気がする。
 主題に沿った三論稿に続くものが、哲学翻訳の問題性を指摘した注目すべき提言がなされている鈴木直「カントの翻訳と『輸入学問の功罪』」だ。本集の主題と関連したものではないが、鈴木の提言に反論するかたちでなされた押田連「翻訳出版における編集者の役割」と牧野英二「カント研究と翻訳者の使命」とともに、わたしにとって刺激に満ちたものとなっている。本集の評をしながら、いささか矛盾した言説を述べることになるかもしれない。特に、本集のような哲学的分野において顕著なことなのだが、なぜ、学際論文というものは、解読しにくい文体(難解という意味ではない、極端にいえば、日本語の文脈として破綻しているということに近い)で展開しているのだろうかという疑念が、わたしには常日頃ある。これは、鈴木が提示している哲学翻訳の問題とも通底していることだといっていい。鈴木は、「いまだに逐語訳的拘束のために不必要に難解になっている訳文が散見されることを」問題視し、「わずかな工夫を妨げている原因は、個々の訳者の力量不足ではなく、むしろ『哲学の訳文はかくあるべし』と信じ、あるいは信じさせられ」ている「制度」にあると述べていく。わたしは、この鈴木の指摘をほとんど同意する思いで、受けとめていった。「逐語訳」の是非を、ここでは留保しておくとして、「哲学の訳文はかくあるべし」という制度は、そのまま、「(哲学的)学際論文はかくあるべし」というもう一つの制度へとリンクしていくような気がする。哲学的言説も論理的言説も、一人の論者によってなされる時、それは、その論者の自己表現であるというのが、わたしの基底的な考えである。例え、テクスト解読という主題があるとしても、解読それ自体の内実が自己表現を含まないものは、解読したことへ到達したことにはならないと思うからだ。ただ、テクストをなぞっただけのものを解読とはいわないはずだ。
 もちろん、本集がそうだといっているのではない。絶えず、そういうことの陥穽を引き寄せてしまう可能性が、研究誌(紀要、学会誌)論稿というものにはあるということを、念頭に入れておくべきではないかと、指摘したいだけである。
 さて、本集は他に、市毛幹彦「カントの超論的自由」、佐藤慶太「『区別(Unterscheidung)』と『混同(Verwechselung)』」、千葉清史「『純粋理性批判』諸アンチノミー導出の統一的構造」、田原彰太郎「行為の道徳的判定の基準」、宮本敬子「『後見人』批判としての『理性の公共的使用』」の諸論稿と書評、海外学会報告などが収載されていることを、最後に付言しておきたい。

(『図書新聞』09.2.7号)

|

« つげ義春 著『生きていた幽霊』(小学館クリエイティブ 刊・08.7.29)・『四つの犯罪』(9.29)・『恐怖の灯台』(11.29) | トップページ | 小林善彦 著『「知」の革命家ヴォルテール 卑劣なやつを叩きつぶせ』(つげ書房新社刊・08.11.20) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« つげ義春 著『生きていた幽霊』(小学館クリエイティブ 刊・08.7.29)・『四つの犯罪』(9.29)・『恐怖の灯台』(11.29) | トップページ | 小林善彦 著『「知」の革命家ヴォルテール 卑劣なやつを叩きつぶせ』(つげ書房新社刊・08.11.20) »