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2009年1月16日 (金)

寺田俊郎・舟場保之 編著『グローバル・エシックスを考える―「九・一一」後の世界と倫理』(梓出版社刊・08.10.20)

 〇一年の九・一一アメリカ同時多発テロ後の世界は、テロとの戦いと称して巨大軍事力を駆使したアメリカ一国覇権主義の拡張をみることとなった。その結果、グローバル世界という言葉は、そのままアメリカ的支配と読んでもいい情況を生起し、現在に至っている。
 本書は、「『九・一一』の後間もなく(略)報復戦争を行」ったアメリカに対して「異議申し立てをすべきだ」という考えによって、呼びかけられ参集し、「『九・一一』がわれわれに突きつける問いをめぐって議論するために開いた(略)『〈九・一一〉を多角的に考える哲学フォーラム』」の「研究成果の一部」(寺田俊郎「あとがき」)を纏めたものである。
 書名に付された「エシックス(ethics)」とは、規範とか倫理、道義といった意味があり、編者たちは、二〇〇年ほど前、カントが『永遠平和のために』のなかで提示した「世界市民」概念に啓発されて、グローバリズムにおける本源的な意味を考究するために、「グローバル・エシックス」を提言している。それは、編者の一人寺田が述べているように、「さまざまな社会的相互作用が国民国家の枠を超えて地球規模で活性化した時代において、正義にかなった世界のあり方を規定すべき規範、およびその規範を明らかにしその根拠を批判的に問う哲学的探究」(23P)ということになる。本書を瞥見すれば、多角的な視野からそのことを論及していることが分かる。そして「人権」、「普遍主義と個別主義」、「道徳」、「国家」、「ジェンダー」、「環境」などといった様々な主題が採り上げられ、多岐に亘った専門分野をもった十五人の執筆者たちの論稿によって全十五章として構成されている。
 伊藤博美が、「第十三章 『九・一一』その後の〈語り〉」のなかでも詳細に論じているのだが、「九・一一」の犠牲者たちの遺族の集まりで、「平和な明日を求める〈九・一一〉家族会」(「ピースフル・トゥモロウズ」)という団体があって、彼らは、積極的にブッシュ政権の「力こそ正義」に否を唱えていたことを、わたしは、本書で初めて知った。九・一一テロの二年後に世界貿易センター跡地を訪れた寺田は、そこにあるモニュメントの解説文言に、「犠牲者の死を悼む気持ちが微塵も感じられ」ず、「人々の死を国家の都合にあわせた虚偽で塗り固めて、愛国心を煽り、不正な戦争を正当化し」ていることに「憤りすら覚えた」(6P)と、「第一章 グローバル・エシックスとは何か」のなかで率直に述べながら、やがて、寺田は、「家族たちの消えることのない悲しみ、支えてくれる人びとにたいする感謝、爆撃で甚大な被害を蒙ったアフガニスタンを救援する活動の要請、イラク攻撃計画への反対などとともに、(略)テロリズムは、貧困、人種差別、無知、不平等、絶望、怒りなどから生じる兆候であり、その背景を理解することがテロリズムを防ぐために重要であること」(8P)を一周忌にあたって表明した「ピースフル・トゥモロウズ」の存在を知り、「まっとうな倫理感覚を保ち」行動する合衆国市民がいたことに、「驚嘆し、安堵するとともに、勇気づけられた」と記している。
 確かに、「ピースフル・トゥモロウズ」の「倫理」は、加害者と被害者を往還し架橋しうる普遍的な位相をもっているといえる。わたしは、かつて九・一一テロ後、吉本隆明が、加藤典洋との対談で、「存在倫理」という印象深い概念を提起していたことを、すぐさま想起した。それは、次のような発言のなかにあったものだ。
 「社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、民族的な倫理でも、何でもいいんですけれども、そういうもののほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、『存在倫理』という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。それを考慮しないと、この手前味噌な言い方とやり方(引用者註=ブッシュ政権とイスラム原理主義者たち両方の行為を指す)は理解できないんじゃないかという感じ方になっちゃうのです。『存在倫理』という倫理の設定の仕方をすると、つまりそこに『いる』ということは、『いる』ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに『いる』こと自体が、『いる』ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理を設定すると、両者に対する具体的な批判みたいなのができる気がします。」(対談「存在倫理について」―「群像」02年1月号)
 「生まれてそこに『いる』という」そのこと自体が、「『いる』ということ」に対して「倫理性」を喚起するという論旨は、そのまま、「絶望、怒りなどから生じる兆候」の「背景を理解する」という存在していることへの視線に繋がっていく捉え方だと、いっていいと思う。人権や生命といった位相で倫理を語ることも当然のことだが、「存在倫理」というように、もう少し普遍視線のようなものを考えていくならば、テロと戦争を超える方途へと   到達できるような気がしてならない。
 集中、小野原雅夫は、「第十章 カントとテロリズム」のなかで次のように論述して、グローバルな国家テロとでもいうべき現況を鋭く批判しているのが、印象的だ。
 「『九・一一』以降、『テロとの戦い』という言説が政治の世界を支配するようになり、民主主義を標榜していた先進諸国がこぞって恐怖政治の体制を敷くようになっている。テロ対策の名の下、(略)盗聴、拘禁、拷問といった『効率的手段』が多用され、(略)侵略戦争まで簡単に行えるようになってきている。これこそ『テロリズムの時代の幕開け』にほかならず、これまで巧妙に隠蔽されて行使されてきた外向きの構造的暴力が、内外への露骨な恐怖政治に取って代わられることになったのである。」(204P)
 現在のグローバル世界は、ますます「存在倫理」や「エシックス」とは、ほど遠い只中へと瀰漫させている。それでも、どこかを入り口にして、それを切開する通路を開いていかなければならないことだけは、明白なことなのである。

(『図書新聞』09.1.24号)

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