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2008年2月22日 (金)

つげ忠男・うらたじゅん・菅野修他著『幻 燈 8』(北冬書房刊・08.1.20)

 『夜行』(72年創刊、95年20集で終刊)に引き続き、漫画作品集として発行し続けている『幻燈』の第8集が、一年ぶりに刊行された。そして本集では、待望久しいつげ忠男の新作が掲載されている。
 本集に立ち入る前に、わたしなりの現在の漫画情況への見解を示しておきたい。実は、「毎日新聞」2月6日付夕刊紙上にて、信じられないような誇大妄想的言説を目にしたからである。わたしはまったく読んでいなかったのだが、「マンガの居場所」という、何人かが執筆する連載コラムがあった。このほど10年間の連載が終了したらしく、そのことを振り返る文章が、執筆者の一人でもある夏目房之介によって書かれていた。いわく、「この10年、マンガの世界化は急速に進み、『外部』の眼は市場でも研究でも大きな意味を持った。2001年『日本マンガ学会』が設立され、僕の知合いも多く参加し、彼らはまた大学からマンガ研究者として呼ばれ、僕自身今年から大学の専任教授となる」と滔々と綴っている。「『外部』の眼」のといういい方にまず反感を覚え、日本を冠した学会と称しているが、知り合いだけの閉じられたマニアックな集団の場所なのではないかと、疑義を差し込みたくなり、そして、「彼らはまた大学からマンガ研究者として呼ばれ、僕自身今年から大学の専任教授となる」といういい方に至っては、憐れみの情すら湧いてくる。そうか、マンガが学際的研究対象になることは、そんなにもすごいことなのか。そのために夏目は、これまで奮闘努力してきたのかと。極めつけはこうだ。「相変わらずの出版不況の中『マンガが面白くなくなった』という言説に対し『居場所』は一貫して『今のマンガの面白さ』を追及し続けた」と自画自賛している。
 そうではないと、声だかにいいたくなる。漫画や劇画が、マイナーな表現ジャンルとして、見做されていた長い期間、それでも優れた作品が多く生み出されている。それは、市場主義や研究対象といったこととは無縁に、ひとりひとりの作家の矜持と膂力によって達成されたものだ。また、僅かであっても、そういう作品に共感する熱い読者がいたからでもあった。そして、その読者がまた、作家となって、これらのエートスを引き継いでいったのだ。サブ・カルチャーの一翼を担っていた六〇年代から七〇年代の漫画・劇画情況というのは、そういう時代相を表象していたことになる。いまや、マス・カルチャーを主導するまでに拡大化した漫画というジャンルは、一人一人の作家性を踏み台にして、テレビドラマ化、映画化とリンクして大量消費させていくだけの巨大ビジネス産業だといっていい。それゆえ、漫画作品はたんに大量流通商品でしかないのだ。もちろん、そのなかでも、際立った秀作があることを認めないわけではないが、わたしは、現在の漫画情況をけっして楽観視してはいない。いまのままであれば、やがて作家が枯渇し、少子化が拍車をかけ、読者が離れていくことは目にみえているといわざるをえない。
 『幻燈』誌に掲載されている作品群は、明らかに、そういう事象とは対極にある。あるいは、やや強引ないい方をしてみるならば、はじめから、マス読者を想定しているわけではなく、確実に自分の作品世界が伝わっていく読者というものを作品の中に、意識的にしろ無意識的にしろ内在させているとみることができる。それは当然のことながら、作家性を消費の対象にすることを否とし、自ずから屹立させることを指向しているといっていい。
 さて本集には、対談がふたつ(鈴木翁二・山田勇男「『夜のコトバ』展をめぐって」、うらたじゅん・山田勇男「地上五センチを歩く」)と、座談会「うらたじゅん作品の多様な世界」、宮岡蓮二「瑠璃さんなんていない―山田勇男論」(久保註=映画監督・山田勇男の漫画作品を本格的に論じたものだ。深い示唆を湛えている必読論稿だ)、つげ義春「旅写真」(北冬書房Websiteで連載中)などが掲載され、漫画作品は14作品である。ここでは漫画作品のみを任意に紹介してみたい。
 菅野修「キスの味」。妻を自死(首に傷痕を描出)させた中年男の妄想が、連鎖のようにして展開していく。妻の“形見”として髪の毛を鬘にして被る男は、女性に憎悪しながらも、いつしか自分が女装することに快感を覚え、男に抱きつかれキスされるところで終景となっていく。卓抜な物語性もさることながら、菅野独特の描線によって、この中年男の像型が、非在感に溢れていることが、作品の深度をさらに増幅させている。
 漫画誌『跋折羅』で活動し、二十八年ぶりとなる新作を発表した片桐慎治は、「遠雷」と「犬になる」の二作品。二作品とも黒い犬がメタファーとなって、モノローグの断片と陰翳ある画像が、詩的世界を表出している。特に、「犬になる」のモチーフとした「炎天に一度会ふべき神を待つ」(山本加人)の一句の鮮烈さと小さな人影の画像は、いつまでも心奥の襞へと突き刺さってくるかのようだ。
 オンチミドリ「双子美人様式」は、不思議な二体が踊りながら様々な場所を彷徨する。この二体の躍動が、生きていくことの視線といっていいかもしれない。永井サク「鎌倉日帰り」。柔らかな描線で紡ぎ出す、この作家の世界は、皮膜のような孤絶感を表出する。海老原健悟「ギラギラ」(他に「静謐」、「夜化粧」)は、対照的に細やかだが、黒色の描線を荒く強調するように表現していく。わたしは、彼の独特のモノローグに散りばめられた言葉の断片にいつも惹きつけられる。木下竜一「尋ね人」(他に「人形姫」)。この作家は、いつも短かめの作品なのだが、そこに湛えているものは、幾つもの言葉を重ね合わせていかなければ到達できないような叙事世界を描出する。
 西野空男「夜」。「犬になる」や「ギラギラ」に〈神〉という言葉で出てくるが、西野の場合は、〈イエス〉と直接、発する。そして、「私は/イエス/キリストを/信じません」と、マコという女を監禁していたであろう男に、語らせる。傘で刺し殺すという行為、助けに来た男と女の関係の隔絶。西野空男の世界は、ますます切り刻むような孤独感を漂わせていく。斎藤種魚「蝶番」。二体の物語。種魚ファンタジー、全面展開だ。画像はパソコン処理なのか、淡い情感が、エロス性を逆に際立たせている。そして、うらたじゅん「夜の店」について。「生」と「死」の往還の物語である。傑作「眠れる海の城」があるように、うらたじゅんの世界を際立たせる一貫したモチーフである。本作は、これまでの作品に共通するものが多くあると感じられながらも、しかし、あらたな地平を切り開いていると感じさせる。例えば、「空の上には/また海があるの/かもしれへん/空の上の浜辺で/おじいちゃん/不思議な夜店してるねん/きっとそうにちがいない/夢でみた夜店屋さん/おじいちゃんに似てたもん」と少年に語らせる場面に、うらたじゅんのイノセントな思いを強く受け止めることができる。この語らいと画面に、あらたな踏み出しをしていこうとするうらたの意志のようなものを感じるのだ。付言しておけば、この場面に挿入された、つげ義春の「石屋」を思わせる箇所は、つげ作品に対する真摯な思いの表れだといっておきたい(「石屋」シリーズでなかなか妻の顔を表さなかったように、本作では、少年の母の顔を明らかにしていない)。
 ようやく、つげ忠男「曼陀羅華綺譚」にたどりつく。すでに、「Websiteつげ忠男劇場」で発表されたものの掲載であるが(未発表の後半部分は次集掲載予定)、紙印刷で見ると、やはり、つげ忠男は健在だという思いを抑えることができない。『ガロ』デヴュー作と同じ、ゴッホがここではモチーフのひとつとなっている。終景、住職の若妻は、あたかもゴッホの晩年の傑作“麦畑”を掻き分け歩み寄ってくるかのように描かれている。後半部を期待せずにはいられない。
 このように、『幻燈』の作品群を目にすれば、漫画やアニメの海外輸出だけを「マンガの世界化」と称して、錯覚する立場を、わたし(たち)は、絶対に取らないということだけは、明らかにしておく。作品の深度だけが、〈世界〉を凌駕していくことになるからだ。

(『図書新聞』08.3.1号)

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