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2008年5月24日 (土)

吉本隆明 著『「情況への発言」全集成(全三巻)』(洋泉社刊・08.1.23~5.22)

 六〇年安保闘争後の六一年九月、吉本隆明・谷川雁・村上一郎の三人を同人として、「直接購読」、「自主的寄稿」を基軸に独自の発行形態をもって雑誌『試行』は創刊された。『試行』は後に、十一号から同人制を解散し、吉本の単独編集(個人誌というかたちになったわけではない。寄稿に関して、より開かれていったのは、いうまでもないことだ)となって、九七年十二月発行の七四号で終刊した。その間、多くの執筆者が、『試行』誌上を往還した。思いつくままに列挙すれば、磯田光一、浮海啓、内村剛介、桶谷秀昭、梶木剛、宍戸恭一、芹沢俊介、滝村隆一、松下昇、三浦つとむ、宮城賢、毛利ユリなどだ。吉本自身は、「思想の〈世界性〉を視野に入れた新たな表現理論を自らの手で作り上げるしかないという不可避の課題」(松岡祥男「解説 『試行』とはなにか」―全集成1)をもって、一度の休載もなく、『言語にとって美とはなにか』(一号~一四号)と『心的現象論』(一五号~七四号)の連載を続けた(付言すれば、『共同幻想論』は、雑誌『文芸』にて連載)。
 『試行』誌のなかで、一際、鮮烈な印象を与えたのが、巻頭に配置された「情況への発言」である。六八年に徳間書店から、吉本隆明講演集『情況への発言』が発行されているが、もとより書名は、この巻頭言に由来する。「情況への発言」は、第四号(六二年四月刊)から毎号開始され、吉本以外の寄稿者も執筆しているが、吉本の最初の執筆は、「『終焉』以後」と題された第六号(同年一〇月刊)である。以降、吉本の全五六論稿(「若い世代のある遺文」の「註」も含む。また、集成版には、終刊号に掲載された「直接購読者諸氏へ」も収録されている)が発表されたわけだが、このほど待望久しく、全三巻の集成版として刊行された(各巻には、吉本の「新書版のためのあとがき」と、松岡祥男の懇切で詳細な解説が付されている)。ここでは、六二年から九七年までの時制を通して、吉本隆明の思想的格闘が、凝縮されて見ることができるわけだが、吉本の〈発言〉群が包有している普遍的視線は、時間の堆積はあっても、揺るぎないものとして屹立し、現在においても充分に、通路を開いているものとしてあるといっていい。
 「情況への発言」が、鮮烈な印象を与えた多くの事由として、論敵との激しい論争ということにある。よく知られているように、五〇年代後半、花田清輝との論争をもって、吉本の論争好きといったことを喧伝されているが、そうではない。「情況への発言」での論争の多くがそうであるように、他者(匿名批判が多いのも特徴的かもしれない)からの批判があって、はじめて、吉本の方から、応答するのであって、他者を排撃して自己を正当化しようとするといったことではないのだ(批判者の多くは、そういう党派性の位相を持っている)。しばしば、吉本批判者は、自立主義者とか、自立派、吉本エピゴーネンといったことを的にして、論争しているが、そのこと自体からして、まったくの見当違いをしているのだ。
 「(略)『試行』は、はじめから、人は人に影響をあたえることもできなければ、影響をうけることもできない。ただ、〈かれ〉が〈かれ〉自身をどこまでも深化させてゆくという自己影響だけが、〈影響〉だという原則をひそかに守ってきました(略)。『試行』とはつまりひとつの〈態度〉であって、あるいは〈態度〉の共同性であって、それ以外のものでありえておりません。」(『全集成1』・121P)
 「わたしは、六〇年闘争後の〈たそがれ〉のたたかいのなかで、逃亡してゆくきみのような亡霊に追いすがることをやめて『試行』を自立せしめてきたのだ。いまさら、きみのような亡霊のおちょぼ口の御託宣などまつまでもなく、〈孤立〉、〈たそがれ〉という激烈な新旧スターリニズムの攻撃のなかで、はじめて〈自立〉は出発したのだ。いまさら何をおそれる必要がある?どんな離反や敵対をおそれる必要がある?」(『同前』・165~166P)
 こういう吉本の立ち位置を、錯覚し、曲解した批判者の杜撰さが露呈し、結局は、吉本の揺るぎない〈態度〉だけが、鮮明になっていったのが、多くの論争後の印象だといえる。太田竜、平岡正明、竹中労、岡庭昇、津村喬、柄谷行人、蓮實重彦、浅田彰、黒田喜夫、大岡昇平、埴谷雄高と例示してみれば、吉本の〈孤立化〉の深度が、理解されてくると思う。
 さて、激烈な論争だけが、「情況への発言」の骨子ではない。「アジア的ということ」(八〇年十一月~八三年九月)という重要な論稿もある。これは、吉本の代表的な仕事でもある『共同幻想論』や一連の「南島論」と、それらをさらに発展させ達成された九〇年代の最重要著作『母型論』、『アフリカ的段階について』へと、連結しうる仕事として捉えることができる。連載全七篇(同じ意味において八九年に書き下ろしで二回連載され、いまだ単行本未収録の新稿「南島論」も含めてもいい)が、第二巻に単著としては初めて収録された。これは、特記すべきことだ。吉本は『共同幻想論』の「序」において、マルクス(の思想)とロシア・マルクス主義として顕現したマルクス主義(の思想)とは、まったく別物であることを強調している。この「アジア的ということ」では、「アジア的な共同性」という基軸で、さらに論及を進めているのだ。
 「マルクスのいう『プロレタリアートの革命的独裁』の概念は、『プロレタリアート』の主導による全大衆のための近代的民族国家の解体、いいかえればコミューン型国家(「反」国家あるいは解体的な国家―引用者・註)への即時的な移行以外のものを意味していない。これなしには『プロレタリアート』もまた抑圧者、搾取者、国家的資本家階級に転化してしまうことは自明であった。レーニンは(略)『プロレタリアートの独裁』の概念を倫理的に矮小化してしまった。それはレーニンの言説が流布している画像では、国家権力を掌握したプロレタリアートの前衛と称する集団が、硬直した冷酷な公的面がまえをこしらえて、武装力で大衆をしゃにむに威圧して、政策的強制力を行使している絵図になっている。そして或る程度確実にこの画像は世界の〈アジア的〉な地帯の社会とその国家にとって、現実化されていったのである。」(『全集成2』・168P)
 この論旨は、ロシア・マルクス主義批判といったことにだけ収斂されていくものではない。国家や共同性の本源的な基層へと関わる視線をもっている。また、例えば、「連合赤軍事件」に対して向けた「わたしの〈理念〉では、〈組織〉の共同性と〈家族〉や〈個人〉とが、まったく別の次元に属するという認識をもっているのに、かれらが無理にも〈組織〉の共同性に、〈家族〉や〈個人〉の次元を封じこめようとする〈理念〉に支配されていたという差異だけである。かれらを〈狂気〉、〈異常〉、〈非人間〉と非難してはばからない権力やマスコミやそれに乗せられたひとびとは、ただ、眼をすこしの瞬間だけ内側にむけてみれば、けっして他人ごとではないことに気づくはずである。」(『全集成1』・207P)という言及にも通底していくものだ。「私は、吉本の連合赤軍事件批判を超える、どんな思想的総括も知っていない」と松岡が述べることに、わたしもまた無条件で同意する。そして、〈アジア的な迷妄〉の所在は、政治思想的な領野にだけあるのではない。依然、現在でもあらゆる場所で、大きな課題として横たわっていると捉えるべきなのだ。

(『図書新聞』08.5.31号)

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