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2008年4月25日 (金)

現代人文社編集部 編『光市事件裁判を考える』(現代人文社刊・08.1.31)

 光市事件裁判といえば、真っ先に思い浮かべてしまうのが、しばしばテレビ画像に映し出される、加害者(被告人)とその弁護士たちを、ややエキセントリックに断罪し、死刑判決を訴える異様な被害者遺族の像だ。無惨に妻と子供を殺されたことに対する憤りは正当なものであり、その限りでは同調できたとしても、一方的で過剰なメディア報道に乗って極刑を訴える様は、どう考えても、素直に納得できるものではない。いったい、彼は、どこへ充足すべき到達点を求めているのだろうか。
 「この事件と裁判をめぐる騒動が示しているのは、被告人と遺族男性の間にあるモラルの断層である。モラルの断層を埋める工夫なしでは、遺族男性の心のざわめきが鎮まるとは思えないのだ」(「被害者・遺族も、被告人も救われる可能性」81P)
 こう述べているのは、漫画『家裁の人』の原作者で知られる毛利甚八だ。
 本書を読んで、母子殺害事件を“通例”の少年事件裁判として、杜撰に進んできたことが、読みとれる。「事件と裁判をめぐる騒動」が、過剰化していった背景のひとつには、来るべき裁判員制度を念頭に置いて、多発する未成年者よる凶悪犯罪(特に殺人事件)に対して、検察側が極刑(死刑)への明確な量刑基準(これまでよりも、厳しくという考えが基層にある)を確定しておきたいという思惑があるといってもいい。一方で、犯行時、18歳だった少年の父親によって選定された弁護士側の、予見(つまり極刑としても無期懲役となるという前提)と依頼人の暗黙の意思が、“通例”の少年事件裁判の枠内で拙速に進行させたがったこともある。それは、被告人が父親に虐待され、夫の暴力に耐えかねて実母が自殺(少年が中学一年生時)した現場を見たことなどにより、精神的外傷を負い、発達障害にあったことを、弁護側も、検察側も、なるべく論点としては避けるかたちとしてあったからだ。
 周知のように、わが国の裁判の判決基準というものは、判例主義にある。少年による殺人事件の量刑基準は、永山基準といって永山則夫事件がモデルケースであった。しかし、刑罰至上主義が、犯罪抑制に繋がるとは、到底思えないし、そのことが様々な事案に敷衍されていくことの方が、問題だといえる。
 「立場の『置き換え』が、いつの間にか被害者遺族と『一体化』した。被害者遺族からの視点だけによる報道が、遺族の望む『正義』までも絶対化・聖域化させていると言っていい。これによって、視聴者は被害者遺族の方にシンクロし、被告人の元少年と弁護団は憎悪と非難の対象でしかなくなっている。」(「世の中に伝えるべき対象は『被害者・遺族』だけなのか」104P)
 ジャーナリストの綿井健陽は、メデイァの有様を、このように厳しく指弾する。そして、「遺族の男性は『(一・二審・最高裁まで)七年もかけて裁判をやってきた』と言うが、被告人にとってはこの差し戻し控訴審でようやく公平な裁判を受ける権利が与えられたといっていい」(107P)と述べているが、まさしくその通りであって、死姦行為を含めた“母胎回帰ストーリー”をでっち上げて(そういう言葉と内実は、弁護団が主張したのではない。実際は、メデイァがそのように称して意図的に報道したことなのだ)、被告人を救済しようとしているといった検察側を代弁する非難は、そのまま検察側の方にも跳ね返っていくことになる。強姦目的で襲ったという、判別しやすい、捏造された供述調書をたてに裁判を進行したのは、検察側なのである。
 本書を手掛かりにして、事件の深層を探れば探るほど、「事件と裁判をめぐる騒動」の内実がいかに浅薄なものであるかが、明らかになってくる。巻末にある光市事件差戻審弁護団の一人、石塚伸一による「Q&A 光市事件・裁判」のなかで、弁護団が二一人の弁護士によって編成されていることに対して、次の様に応答している。
 「(略)多くの弁護士が集まった理由の一つには、最高裁の不当かつ強引な訴訟運営があります。最高裁で新たに選任された二人の弁護人が、事実解明の必要性を訴えたにもかかわらず、(略)破棄差戻し判決を言渡しました。(略)このままでは、差戻審が真実の解明の場にならないのではないか、と危惧され(略)、悲惨な状況に置かれた被告人のために闘おうという弁護士が集まりました。」(160P)
 確かに、事件の真相解明による正当な〈法〉的裁定は、重要なことに違いない。しかし、加害者と被害者遺族間の断層を少しでも埋めることができないない限り、〈法〉的判断は、実質的な意味を失うことになるとわたしは考える。
 毛利甚八は、さらにこう述べながら、事件の基層へと問いかけていく。
 「被告人を死刑にすることは、国民に対して国家の厳しい顔を見せつける側面が強くある。(略)被告人の死に方は国家にとって何の関係もないことだが、遺族にとっては被告人の死に様こそが重要となるのではないかと思う。罪の深さを意識し、死を恐れながら、被害者に詫びながら死んでもらわなければ、償いにならない。(略)刑法は近代国家を成立させるために輸入され改造された秩序維持の物差しだが、それを十全に機能させるのは共同体とそこに生きる人々が日々つくりだしている『共に生きている意識』である。『共に生きている意識』のなかに善悪の基準があってこそ、被告人の反省も生まれるし、法廷で裁判官や検察官の発する言葉が働いていく。私たちは、今、社会のなかで、その意識を育てながら生きているのか?/そうした社会意識を育てられなかった犯罪者を殺して、悪い心を潰していけば、社会は安寧に向っていくのか?被害者と遺族の心は救われていくのか?」(80~81P)
 差戻控訴審の判決は、四月二十二日である。もう一度、いおう。どのような判決が出ようとも、加害者と被害者遺族間の断層が少しでも埋まらない限り、空無なことなのだ。

(『図書新聞』08.5.3号)
                                 

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