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2008年10月25日 (土)

作家的膂力への照射――――齋藤愼爾 著『寂聴伝 良夜玲瓏』(白水社刊・08.7.25)

 希代の伝記作家・瀬戸内寂聴(晴美)の評伝を俳人の齋藤愼爾が著した。わたしは、これまで多くを読んできたわけではないが、評伝、伝記といったものに、あまり好感を持ったことはない。だが、そのなかでも最も印象深く残っているのは、著者も「あとがき」のなかで参考評伝のひとつとして挙げていたエリボンの『ミシェル・フーコー伝』(91年刊)であった。読み進めながら、『フーコー伝』を想起し、たちまち惹きつけられ、いっきに寂聴(晴美)の世界を疾走した。評伝というものは、どうしても私的領域を侵食していくという好奇な視線(エイズ死したフーコー、男性遍歴を過剰に喧伝された晴美というように格好の対象がどちらにも内在している)を持っている。『フーコー伝』はそうではない。フーコーの思想的足跡を丹念に辿った刺激的な評伝だった。同じように、本書もまた、寂聴(晴美)の作品や著作を丹念に読み解き、作品成立史といった観点を基軸に、そこからその作家の履歴を照射するという方法を著者は採っている。そのことは、評伝という枠を超えて、ひとつの作家(思想家)論といった相貌を獲得していくことになるといってもいい。
 また、吉本(隆明)親鸞論を敷衍しているかのような本書の章立てにも、わたしの関心は惹きつけられた。つまり「方位」、「未生」、「出立」、「啓示」といった章とともに、「往相」と「還相」という章が配置されていて、「往相」から最終章「還相」に至る時間性は、晴美から寂聴への転換を指し示していて本書の重要なモチーフを展開している。
 寂聴(晴美)は、本格デヴュー以前の少女小説や童話群を別とすれば、文学上の師でもあった小田仁二郎との関わりをもった私的小説群を出発点とした。作家の初期ということを問題にする時、そのことに多くの視線は注がれるのだが、わたしは、むしろ、初期作品が生み出された場所や原郷(出自)の場所よりも、最初の結婚による北京での体験が、寂聴(晴美)の内的深部に沈潜していたから、後年の作家的膂力が醸成されたはずだと考える。敗戦を契機に、日本に引き揚げてから、夫や子供と離別し、出奔していくことも含め、そこには、「敗戦期」ということが棘のように刺さったままの様態で、生きざるをえなかった宿運をみることができるように思う。
 「国家とか民族といった『神話』に呪縛された戦中派は敗戦の時点で、日本にいながら、一度は国家を外側(世外)から日本を凝視した世代だといえる。晴美がその典型で、(略)国家の無意味性を見つめた目が、国家と対立するのは必然であった。」
 だから、寂聴(晴美)が、「因習の厚い壁に向かって、身を以て孤独な戦いを挑み、純粋な生命の燃焼をとげようとした新しい女性たちの環につらなろうとし」て、他を寄せつけない評伝文学を屹立させることができたのだ。それは、岡本かの子、伊藤野枝、管野須賀子、金子文子、高群逸枝といった「社会の矛盾、理不尽な因習に抗う自由の渇望者たち」の生き方に自らの生と思念を重ね合わせることで、達成できた場所だったともいえる。

(『現代詩手帖』08年11月号)

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2008年10月10日 (金)

神津陽 著『時代劇の父・伊藤大輔』(JCA出版刊・08.8.8)

 日本映画史というものを望見する時、戦前、戦後を通じて作品を撮っている映画監督は数多くいるわけだが、伊藤大輔は、優れた作品を有しながらも、なぜか閑却されてきた存在だった気がする。それは、わたし自身の個人的な思いにも関わることなのかもしれないが、伊藤を師としていた加藤泰もまた、わたし(たち)が、熱狂して、共感したほどには、世評的にはそれほど広範に注目されていたわけではないことに共通のものを感じてならない。わたしにしても、加藤泰を通して、伊藤大輔を知り、六〇年代末頃の再上映の期に、『反逆児』などを見た程度であった。本書に接した機会に、伊藤大輔最後の作品、『幕末』を見直してみて、天皇制を否定する革命思想家の貌をした龍馬像が、なんとも衝撃だった(最初に見た当時は、異和感を持ったはずだが、いま見てみれば、やはり痛快な作品に仕上がっている)。
 神津陽による「伊藤大輔論」と聞いて、『新選組 多摩党の虚実』の著者であれば、それもありうるのかなと思ったが、読後、感じたことは、『兎の耳―もう一つの伊達騒動』の著書に通底したモチーフをもったものであることが、了解されたといっていい。それは、故郷を〈原郷〉とする思想的所在の問題ということになる。著者はそこでは、伊藤大輔という存在と重なりあいながら主題を展開していく。
 わたしは、伊藤大輔が愛媛県宇和島の出身(著者と同郷)であったことを、本書で初めて知った。だが著者は、たんに同郷の名匠を論ずるという立ち位置にいるわけではない。「著名な伊藤監督は大成後も宇和島に里帰りしたことはないようなのだ」という思いが、初発の関わりだったと、著者は述べている。つまり、旧制松山中学を中退した十九歳の時に、郷里を後にして、亡くなる八十三歳までの間、伊藤は宇和島に帰還した様子がないということに、「帰りたい帰れない〈原郷〉」の淵源を探ることで、伊藤大輔の作家的源泉を解き起こしていくのである。
 なぜ、伊藤大輔は、「時代劇の父」と称されたのか、あるいはなぜ、「傾向映画」といわれた一連の作品を撮り続けたのかということなどが、この〈原郷〉体験に連なっていくのだという著者の論旨展開の手捌きは見事なものである。通例の評伝や映画作家論とは、明らかに違う位相をもって、わたしたちに伊藤大輔の像を提示してみせてくれる。
 伊藤の宇和島における祖父伝来の下級武士にまつわる物語が、「伊藤時代劇のエッセンス」であるとしても、もうひとつの問題、「傾向映画」といわれた所以は、作品論と大きく関わってくる。そして、そのことこそが本書の重要な主題となっていくのだ。
 普通、傾向映画といえば、左翼思想に論拠を置くものとして理解されやすいが、伊藤映画にあっては、そういうものとは別次元にあるといっていい。
 「だが伊藤時代劇は国家にほめられる勧善懲悪映画ではなく、逆に早急に現国家打倒を目指すプロレタリア映画でもなかった。当人は『イデオロギーで私は映画を作らない』と断言している。そして『傾向映画があって伊藤大輔があったのではない』、『私が作った映画がたまたま傾向映画だった』とまで書いている。」(113P)
 このように述べる著者は、なぜ「たまたま傾向映画だった」のかということに、さらに拘りながら、青年期に「指紋を失くすまでの激烈な組合結成運動」に関わったのが、「傾向映画の源泉だという類の左翼史観は的外れのようだ。伊藤の『傾向映画』はむしろ生活レベルでの反逆精神の持続に過ぎない」(116P)といい切っていく。
 加藤泰は、若い人の純粋なひたむきさに通じる「どうしても納得出来ない我慢が出来ない」というものを、「映像にぶつけて、そして映画にし続けられた」のが、師・伊藤大輔だったと述べている(講演「伊藤大輔の世界」・81年9月10日―『夜行14号』所収)。加藤泰の発言は、まるで自分の映画姿勢と通底しているかのようだ。確か、齋藤龍鳳だったか、「大正生まれのアナーキスト」とか、「和製ワイダ」といって加藤泰を評していたが、本書の著者・神津陽は伊藤大輔の思想軸を「実感的アナキズム」として捉えていく。
 「下郎物での伊藤大輔の手法は多分にアナキズム的であり、主人公の下郎は盲目的に信義を貫き、裏切りに対しては負けを承知で抵抗し破滅的に死ぬ。それでも昭和三十年のスターリン批判や三十一年のハンガリー動乱で方向転換したと言う日本の新左翼創始者たちよりは、同時期の伊藤大輔の思想の方がはるかに先駆的で開明性があったと私は考える。」(22P)
 「ロシア革命時には労働現場にいてアナキズムの影響の強かった伊藤大輔は、江戸末期の武士や浪人や百姓の抵抗を描き為政者の非を指摘した。だが、彼は抵抗運動に賛意を示しても、抵抗組織を永続化し絶対視する事はなかった。」(120P)
 「伊藤が描く国定忠治は日本の大衆運動のネックである組織論の根本問題を直視するが、当然の課題を引き受けよと言うばかりだ。これも仮説だが、伊藤大輔は自分の経験と見聞から、革命には権力奪取は不要で、抵抗力増大による権力無化こそが必要だと思い付いたのではないか。」(129P)
 ここでは、神津による伊藤大輔論を通して自身の「個と共同性を架橋する思想根拠」を提示しているかのようだ。もちろん、それは、まったく当為する論旨だと、わたしなら理解する。

(『図書新聞』08.10.18号)

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