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2008年1月18日 (金)

神津 陽 著『極私的全共闘史 中大1965-68』(彩流社刊・07.12.8)

 四十年以上経過した年月を振り返ることに、どんな意味があるのだろうかと、わたしはいつも考えていた。ただ回顧するだけの記憶の遡及にはなんの意味や意義すらないといえる。現在を絶えず、その意識下に置かない限り、記憶はたんに厚化粧された古層にすぎないからだ。『全共闘白書』なる大部な一冊が出たのは、もう既に十四年ほど前のことになる。それから、なにか息せき切ったかのように全共闘回顧本が出始めたような気がする。“68年革命”論なる大言壮語な本も出て、誇大妄想的回顧もここに極まれりといった事態になっている。〈全共闘(運動)〉というものをどのように深化させた思想領域の中で評価し見直すかということが、記憶の道筋とその周辺を辿るだけでは到達しえないことは、誰にでも了解できる前提なのだ。当時と、それからのことと、そして現在の自分たちの思想的な所在を鮮明にすることなくしてはできないことなのだといっていいはずだ。にもかかわらず、ここ十年ほどの間で提出された多くの〈全共闘(運動)〉回顧録はすべて、“68年革命論”本が象徴しているように、自分(たち)の立ち位置を、皮膜のように覆い隠し、自分(たち)こそが歴史の中心にいたのだと錯覚して放言しているに過ぎないといっていい。
 「過去の錆び付いた回顧談ではなく〈現在を生きる糧〉」になることが、「記憶の復元軸」だと述べる本書の著者・神津陽は、七〇年代初頭、共産主義者同盟叛旗派を主導した一人であった。本書は全共闘史と銘うってあるが、むしろ全共闘前史(〈全共闘(運動)〉は、その全体の通史を傍証していくよりも、初期、前史が、ダイナミックな思想性を取り出すことを可能としている)といった方が的確だし、さらには極私的に記述された叛旗派立ち上げ前史といった趣きもあるが、多くの類書とは、次元の違う断面を切開しながら、〈全共闘(運動)〉の思想的所在を最も深く掘り下げた分析を真摯に提示しているといいたい気がする。それは個別中大闘争にフォーカスしたことが、視線のぶれを持つことなく、詳細な記述を通して一個別大学の領域から敷衍して、当時の他大学の個別闘争へ、さらには全国的な学園闘争へと拡張されていくかたちが、理路的な通路を持って理解できるように論旨が進められているからだといえなくもない。さらには、極私的といいながらも、自己的な視線をかなり抑制して論述していることが、鮮烈さを与えているといってもいい。率直に、司法試験合格志望だったことを述べ、志望断念と運動の確執を通しながら、日常的な態度や様々な関係性を描出するという、その意味では、極めて私的な周縁に触れているが、それがまた、当時の時代情況を投影させていて、必ずしも有りがちな自分中心の物語にはならず、切迫感を持って本書に接することができるのだ。
 ところでわたし自身はといえば、一浪して中大に入学したのが六九年である。本書で触れられている学館自主管理闘争はもちろんのこと、学費値上げ白紙撤回闘争(現役受験時に遭遇している)などは、既に神話化していた時だった。中央大学新聞学会に所属しながら、中大全中闘の外延として関わり、一方では、背叛社という自爆して解体してしまったアナキスト集団の残存メンバーと新たにアナキストグループを立ち上げて活動を開始していたから、既に党派主導が見え始めた全共闘組織による一連のカンパニア闘争には、距離を置かざるをえなかった。六九年から七十年にかけて、苛烈な反体制運動が激化していき、赤軍派のような突出した集団が形成されていったのは、ある意味、必然的だったと思うが、大菩薩峠事件の直前に離脱した元赤軍兵士の高校生が、節操もなく、わたしたちの方へ近接してきたことがある。このことだけで断定していうわけにはいかないかも知れないが、ムードとしての過激性に吸引されてしまう層もあったということだ。神津は本書で、ブント主流からはじかれた塩見孝也の「自己陶酔型観念論」は、所詮「ホラ妄想」だと指弾しているが、なるほど、そういう誇大妄想をなんの疑いも持たない信仰が、瀰漫していったことは確かかもしれない。赤軍派がそうだったように、政治的軍事主義、党派主義によって領導される運動体は、必ず、遅滞し閉塞し解体していく命運にあったといえる。
 さて全国で初めて学費値上げ撤回を勝ち取った中大学費闘争は、全学闘争会議議長が最終場面で「学費闘争は終わったが、七〇年安保までバリケードを死守しよう」と暴言を吐いて、他派や一般学生からいっせいに批判され屈辱的な結末に至った経緯を、神津は次の様に捉えている。
 「中大生にとって自治会勢力図や内部論争や連自やスト決議は、自分らの目的遂行に関係する範囲で関心のある事柄だ。(略)学費値上げ反対でスト権を確立してバリケードストに突入したのだから、白紙撤回すればバリストを解除するのが理の当然である。そこに何の打ち合わせもなく『永続バリケード』主張が出れば、罵倒する大衆の方が健康な反応ではないか。中大学費闘争の最終局面は前代未聞の〈進んだ大衆・遅れた党派〉の構図だったのである。」(215P)
 神津の考えは、個別大学闘争は社会闘争であって、拙速な政治闘争に還元してはならないというものだ。塩見ら関西ブントに扇動されたかたちで永続バリケード宣言をしてしまった議長はピエロに過ぎないとまで断じている。これは、〈全共闘(運動)〉の思想的位相を見事に言及していると、わたしには思える。そして、「最も大切な思想的基盤は、国家も憲法も排除する民権論であ」るとして、『蒼氓の叛旗』以来展開している共同体論(組織論)を敷衍しながら論述する。
 「私は学館闘争の頃から、『組織論は国家論のミニチュア』だと考えていた。社会主義革命の最終形態は国家廃絶だが、暴力的廃止は不可能であり、国家統制は不要となって社会に回収されるべきなのだ。(略)今時の大衆運動には党派的主導が必要だが、大衆が指導の正否や是非を判断すればよい訳で、大衆が成熟すれば余分な指導や官僚的な統制などは不要となるのだ。」(219P)
 政治主義や党派主導の運動に対して、徹底的に否といい、真に開かれた共同性の場を模索する指向が、ここにはある。
 これまで、〈全共闘(運動)〉をノンセクト・ラジカルな学生大衆運動であったと、よくいわれるような一面的な捉え方に、わたしはどうしても首肯できなかったといっていい。各大学全共闘の編成や中心メンバーには、党派の影が見えていたし、折からの新安保条約延長阻止を政治課題とした七〇年安保闘争や沖縄闘争を前に、全国的な学園闘争は社会闘争から表層的に政治闘争へとスライドせざるえない契機をもっていたが、だからといって無理やり全国全共闘を結成しても、党派間の拮抗の中、内部崩壊していくのは必然的なことだった。だからこそ、過小評価も過大評価もすることなく、神津のように深部に視線を降り立たせて思想的断面を取り出し、持続して〈全共闘(運動)〉を対象化することに、意義があるのだと、いま、わたしはあらためて述懐も込めて思っている。

(『図書新聞』08.1.26号)

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2008年1月 4日 (金)

前登志夫 著 歌集『落人の家』(雁書館刊・07.8.20)

 吉野の山に住まう歌人として知られる前登志夫の第九歌集である。一九二六年生まれの歌人にとって、九冊の歌集というのは、けっして多くはなく、どちらかといえば寡作の方に違いない。
 前登志夫は、長らく中央の歌壇とは関わりなく活動していたこともあって、わたしたちにとって、ある種、伝説化された歌人でもあった。詩人として出発、五六年に詩集『宇宙驛』を上梓。「異常噴火」して歌作を始め、「かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり」の鮮烈な一首を巻頭に配した第一歌集『子午線の繭』を出版したのは、六四年、三八歳の時である。文庫版『存在の秋』に付された自筆年譜によれば、六八年前後の十年間はほとんど都市へ出なかったとあり、七四年、四八歳の時、「大阪・金蘭短期大学に助教授として招かれ、十五年間の山籠りを解く」とある。その間の著作は、第二歌集『靈異記』、共著『現代短歌大系 8』、エッセイ集『吉野紀行』のみであった。六七年、歌と民俗の研究集団「山繭の会」発足させ、主宰し、八〇年、歌誌「ヤママユ」を創刊。本歌集を「ヤママユ叢書第七十七篇」としている。第三歌集『繩文記』(七七年刊、第一二回迢空賞受賞)上梓して十年の後に、第四歌集『樹下集』(第三回詩歌文学館賞受賞)を刊行。そして現在まで、二十年間、六冊という歌集を出している。わたしは、なにかに拘っているのだろうか。はじめの二十三年間で、三冊の歌集ということへの対比を考えれば、後の二十年間、六冊ということが、普通なら遅々としたものであっても、前登志夫の場合は、なにか加速度的な時間を意味しているようでならないのだ。
 「わが歌よ、死者の打つ木魂のように空を走れ!」(「存在の秋」)と宣した歌人は、堆積していく時間の往還のなかで、いまどのような場所に佇っているのだろうか。そのことが、わたしにとって最も関心が向かう所在である。
 『鳥獸蟲魚』、『青童子』、『流轉』『鳥總立』と続いた歌集名を瞥見すれば、最新歌集名は、これまでのどの歌集名にもなかった極めて実感的なものだといっていい。山間地を生活の場としてきた自分を〈落人〉と擬定とするのは、率直な表明であり、さらに〈家〉という空間に連関させていくこともまた、至極、自然のなりわいの表出ということになる。

 歌詠みにうつつを抜かし生きたればわがめぐりみな荒寥とせり
 やうやくにわれの煩惱も淡くなり歌詠むことは息するごとし
 わが魂はいづこさまよひゐるならむ谷間をへだてわが家を見れば
 とぎれとぎれの居眠りのまに歌詠めるわけのわからぬ頭蓋の谷間
 兩の羽ぼろぼろとなりし雄の蛾は雌に先だち息きれてをり
 紅葉の明るき村をとほりきてまたつぶやけり、みんなはどこへ

 はじめの歌詠み(む)の二首は、対称的なものとして捉えることができる。〈荒寥〉と〈息するごとし〉は、いうなれば時間の堆積が自らの身心に襞のように覆いかぶさってくる感受の在り様を示している。〈谷間〉という言葉に象徴化させた二首も、方位を変えて、同様の感慨を込めているといえよう。これらのことをさらに加速化させれば、〈雄の蛾〉の実態と〈みんなはどこへ〉という感性の拠りどころが、自らの存在の暗渠となっていることの表明であるというように、前登志夫にとっては、現在の「歌」があるということのように思える。
 かつて、村上一郎は、前登志夫の短歌世界を「倫理的な抒情の叫びを形象」しているとし、「自省に始まり、自嘲にはゆかずに、自虐・自罰にいたる前登志夫の自己に対する倫理の過剰なまでのつきつめ方は、彼の抒情の内容を翳深いものにしている。」(「前登志夫論―〈或る山びとの歌〉―」『現代短歌大系 8』収録)と述べていた。
 確かに、この最新歌集の歌篇たちも、そのような視線を敷衍させて捉えられないことはない。だが、前登志夫の〈現在〉は、「自省」を「倫理の過剰」へとつきつめることでは開示できない地平に至ってしまったと捉えるべきであるという気がする。つまり、堆積していく時間(老いや、やがて訪れるであろう死)を自然過程そのものとして受苦することを前登志夫の場合、良しとしてはいないことがわかるからだ。

 人間以前のわれにあらずや槇の葉につもれる雪を食べてゐるのは
 攫ひたるをみなは髪をなびかせて山驅くらむかわれの不在に
 守るべき山の砦も潰えしか、觀念の鳥あゆむ枯草
 はや夜明けわれを守りしは夜の皮膚、月沒りしのち竹群さわぐ
 蟾蜍そこ退けてくれ青草をそよがせてゆく形象ありき
 きつつきは木のテロリスト春の日のわれの頭上に穴穿ちをり
 若き日をきみはうたふな戰争と戰後の日々をうたふなきみは

 吉野の山々という自然に囲まれて住まう歌人にとって、〈歌詠み〉と〈生活〉は、一体のものであった。だが、どんなに隔絶された場所であっても、世俗的な社会の皮膜を忌避できるわけではない。是認する、しないに関わらず、わたしたちは、いつも反自然と自然の狭間のなかでしか生きていくことはできないからだ。「あとがき」で、「過酷な経済至上の世の中では、一市民として慎ましくおのれの生をいとなむ風景は、まるで落人のようにすら見えたりします」と述べている。自然が、人工化されることによって自然でなくなる必然を抱えもってしまった疲弊していくだけの現在社会は、誰でもがやがて、〈死〉に向かっていく必然と、それはパラレルなものだといっていい。
 だから、〈きみはうたふな〉という、倫理性から放たれて、ある意味、切実さをもった「自省」感は、この歌人にとって、〈現在社会〉や〈死〉に対する苛烈な〈抵抗〉の思いなのだと、わたしは受けとってみたいのだ。

(『図書新聞』08.1.12号)

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