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2007年11月 2日 (金)

英国王立国際問題研究所 著・坂井達朗 訳『敗北しつつある大日本帝国―日本敗戦7ヵ月前の英国王立研究所報告―』(刀水書房刊・07.6.14)

 アジア太平洋戦争が終結(日本の敗戦)して、六〇年以上の時間が経過した。長い時間の経過というものは、確かに記憶や事実への認識を空白化していくものだ。そして、いつしか惨めな記憶は濾過されて、記憶と事実の積み重ねというべき相対としての歴史性を、恣意的な歴史〈観〉で改竄していこうとする勢力が露出してくることになる。直近のことでいえば、“戦後レジームからの脱却”を声だかに謳いながら、民意を得られず散っていった戦後生まれの首相を例に出すまでもなく、
占領下で制定された憲法の見直しをするという考え方がそうである。また、それに先立つことでいえば、いわゆる教科書問題で、日本のアジアへの侵略戦争だったという捉え方に対して自虐史観だといい募り、戦争遂行の正当化を腐心するといったことがなされていく。
 現在の憲法九条をめぐる喧しい言説には、様々な問題が沈潜してある。改憲論者の主意は、連合国側による押し付け憲法であるから、いまこそ自主憲法を制定すべきだということであり、いわゆる護憲勢力は、敗戦によって獲得した貴重な平和憲法であるからこそ、これを護り抜くことに意義があるのだということになる。だが、わたしの考えは、そうではない。ただただ率直に、九条に込められた言説は、究極の理想を追求したものであって、例え、現実に立脚していないと批判にさらされようとも、これを否定する論拠はどこにもないというものだ。そして、この理想を、ひたすら実践していく方途を模索する以外、現在を見通すことはできないといっていい。おそらく、米日のリベラリストたちは、その時点で二度と戦争を惹起させないために、理想の非戦理念を構想したものと思われる。連合国側(米・英・仏・ソ連・中国)にとって、後に東西冷戦情況が急速に到来することになるとは、想定していなかったはずだ。ドイツの東西分立、大陸中国に共産党政権樹立、朝鮮戦争の勃発といったことなどが、やがて、理想の種子を摘み取っていくことになる。さて、こうしたことを踏まえながら本書に、立ち入ってみれば、実に鋭利な言説が散在してあり、現在の帝国アメリカを中心とした欧米的グローバリズムの深奥を鏡のように照らし出す格好のテクストとなっている。
 本書は、「日本の敗戦を目前にして、その結果起こるであろう日本内外の情勢を予見し、連合軍側の各国がそれに対してどのように臨むべきかを考えたもの」で、「一九四五年一月、アメリカ(略)で開かれた太平洋問題調査会の第九回国際会議にイギリスの王立国際問題研究所が提出した報告書」(「訳者あとがき」)の初めての全文翻訳である(ただし第一章のみは既に、資料日本占領一『天皇制』―一九九〇年刊に翻訳所収されている)。そういう意味でも、近代史資料として貴重なものだといっていい。イギリス王立のシンクタンクということを考えれば、イギリスに共感を持っている日本の皇室に対して、いささか理解ある視線は隠しようがないとしても、かなり詳細にわたってしかも、なかなかの深度をもって帝国日本の基層を分析している。全体を十四章に分け、「第一章 皇室と憲法」、「第二章 軍隊」、「第六章 外国に対する態度」、「第七章 宗教」、「第八章 教育が日本人に性格を与えた影響」、「第一三章 農民の重要性」などの章立てを見ても、その分析は多岐多様にわたっていて、厳密な正確性を問わなければ実に刺激に満ちている。「西暦六世紀、信頼するにたる歴史が存在するようになって以降、短い期間を除いて、日本の天皇が世俗的権威を有効に行使したことがあったかどうか疑わしい」という書き出しから始まる「第一章 皇室と憲法」は日本の天皇制を精緻に解析している見事な論述だといっていい。
 「天皇の神聖性についての神話を、信仰原理として日本人の心の中に確立しようとする運動は、維新以来熱心に行われてきており、その勢いは満州事変以後急速に高まり、それに伴って神官としての天皇の機能が強調されるようになった。」(20P)
 「最高の神官としての天皇」という捉え方は、軍部権力が「陸海軍の最高司令官」という天皇大権を「一般国民の想像の中にある軍隊の威信を高めるために編み出された、一つの政治的工夫である」(41P)という視線に繋がっていく。戦後、象徴天皇制として温存されたわが国の天皇制なるものは、既に敗北間近な情勢の中で、連合国側に見事に解析つくされていたというべきかもしれない。「日本の歴史には、突出した能力を示した天皇はほとんどいない。天皇に代わって他の人間が支配したのである。天皇の身体を操った者が、すべての権威を行使したのである」(72P)と論述していく本書の主調音は、君主制をともなった民主主義政府というイメージを既に戦後の日本に仮託していることがわかってくる。
 ところでわたしが、本書のなかで最も注視したことは、日本人が西欧的個の確立ができず、ひたすら集団性に依存するしかないという点を負性として分析していることだ。
 「日本人が一人の人間として生み出すものはほとんどない。しかし、二人ないし三人の日本人からは、より多くのものが生まれる。この『集団志向性』(それは個人としての責任を逃れようとする国民的感情と結びついているのだが)は、おそらく日本人に特徴的な、組織を作る能力の基礎であろう。」(71P)
 これは、一見、的を射た言説に見えるかもしれない。だが、あきらかにアジアと西欧の共同的社会の成り立ちを混同していることからくることの偏見でしかない。また一方では、「キリスト教徒がもっている国際的な視野は、日本にとって有用である」(115P)とか、「キリスト教はこの国民にとって大きな影響力となり、新しい世界観を生み出すだろう」(223P)などと縷々述べていく。このような捉え方、考え方は、「十九世紀の西欧資本主義社会の興隆期に、ルソーやヘーゲル、マルクスによってかんがえられた、西欧近代社会を第一社会とし、これに接するアジア地域の社会を第二社会とし、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸やその他の未明の社会を旧世界として世界史の外におく史観」(吉本隆明『アフリカ的段階について』)に貫かれたものだといいたくなる。現況のグローバリズムというのは欧米社会(キリスト教社会)を中心とした世界という枠組みといった意味でしかないことを思えば、日本や中国がアジアの大国だといっても、所詮、第二社会でしかないという高見からの視線を曝け出しているだけなのだ。いまだに〈戦場〉は、キリスト教から見て後進性で野蛮な宗教と見做されているイスラム教社会でもある〈西〉アジアであることを見過ごしてはならない。

(『図書新聞』07.11.10号)

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