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2007年1月19日 (金)

加藤英彦 著『スサノオの泣き虫』(ながらみ書房刊・06.9.9)

 二十世紀は、戦争と革命の時代だったと誰かがいっていた。ならば、二十一世紀はどんな時代になるというのだろか。
 歌歴が三十年以上ある著者は、惜しげもなく、「二〇〇〇年以降の六年間の中から三七一首を選ん」(「あとがき」)で第一歌集を編んだ。だから、加藤自身の本意とは別に、わたしはこの歌集に接して、二十一世紀とはこんな時代になってしまうのだと、激しく告知された気がする。

 怒濤のごとく膨らむ首都の夜をゆがめ奴らが戻ってくるぞ 伏せろ

 詩や短歌や俳句が、時の情況の前に無力なのかといった論議が、湾岸戦争以後、たびたび噴き出している。しかし、表現者である前に、一人の個(生活者)として情況と切実に向き合うべきなのであって、表現の中にただ情況的な事柄を繰り込めばいいわけではない。イラク戦争(戦争は国家と国家の対抗した関係で生起するものだが、この場合、戦争といういいかたは適切ではない。アメリカの一方的な殺戮攻撃といっておこう)時、岡井隆は、反戦短歌を作ったことを声高に表明していたが、いったい岡井はなにを勘違いしているのだと思わざるをえなかった。では、加藤英彦の場合はどうか。「夜をゆがめ」る奴らに対して、「伏せろ」といういい方は、切実さとともに様々な思いが吸引されている。反戦や平和を声高に主張するのは容易い。それではただ言葉が浮遊するだけだ。誰のもとへも届きはしない。

 胸もとに視線がおよぐ雨の匂いたつ欲情のあわき午後
 ふかき眠りに閉ざされて雨 外界のたたかいは海のそのまた向こう

 この二首は、見開き頁の両端に配置されていた。右の歌をたんにエロス的なのものとして、左の歌を〈戦争〉を視野に入れたものと詠むのは、あまりに皮相的だ。わたしなら、ここでは、〈雨〉に拘泥せざるをえない。〈雨〉を繰り込んだ歌は、他にも幾首か見られるが、わたしは次の一首をこの二首に対置させて詠んでみたいのだ。

 疾駆することなく過ぎし四十年 列島は未明の雨にうるおう

 さらに、この「雨にうるおう」を敷衍させていけば、苛烈な一首へ辿り着くことになる。

 透過せようすき皮膜を 権力の内がわはかくも湿りやすくて

 「勇猛なスサノオ」よりも「泣き虫スサノオの幼い頑迷さ」に好感を抱く著者ならではの歌篇だといっていい。友の死をめぐる歌篇を巻頭に配置したこの歌集は、彷徨えるわが国の在り処を指し示すかのように、湿り気を帯びる〈雨〉の時代を象徴させている。それは、神話的にいえば、スサノオの“涙雨”でもあるのかもしれない。それはまた、ただ“たたかう”気概よりも、“敗走”していく決心の方が遥かに重いことを意味する。
 加藤は時代とか情況とかを、意識の中にいれて自らの表現に課しているのではない。自らの四十代から五十代にかけての生きている場所を確認し続けているだけなのだ。
 わが列島は、“未明の雨にうるおう”ことができるのだろうかと、激しく問い続ける歌人・加藤英彦の立ち姿をわたしたちは思い浮かべればいいのだ。
 そんなふうに、この歌集をわたしは、詠み終えた。

(『図書新聞』07.1.27号)

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