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2007年6月21日 (木)

うらたじゅん、西野空男、斎藤種魚 他『幻 燈7』(北冬書房刊・07.2.12)・斎藤種魚 著『コシヒカリの見た夢』(二級天使研究所刊・07.2.5)

 一年数ヶ月の時間をおいて、『幻燈』の第7集が刊行された。うらたじゅん、菅野修、山田勇男、西野空男、木下竜一、斎藤種魚という常連作家の作品群のなかに、新たに、海老原健悟が参加。また、湊谷夢吉の旧作「夏の雲」が、掲載されている。他に、現在、北冬書房のWebsiteで連載されている「つげ義春『旅写真』」の一部が再録、うらたじゅん、山田勇男、それぞれへのインタビュー、創刊された西野空男編集の漫画雑誌『架空』への宮岡蓮二の論評「『架空』を読んで」も収載されている。宮岡の『架空』への論評の骨子は、「つげ義春以後」の劇画・漫画表現とはなにかということだが、それは、そのまま、現『幻燈』誌にもいえることだ。確かに、つげ義春、つげ忠男、林静一といった作家たちによる、『ガロ』、『夜行』を通してなされた作品がもたらした表現の水位の衝撃は大きい。それは、いまだにひとつの塊りのようなものとして在りつづけている。だからこそ、『幻燈』は、「つげ義春」以後の以後として新たに創刊されたのだとわたしは思っている。そう、以後ではなく、ほんらいは“以後の以後”と捉える段階に達しているとみるべきなのだ。もちろん、大きな衝撃、大きな塊りを自らの表現水位に繰り込んでなされるべきであったとしても、もはや、つげ作品が生み出されていた情況と、現在の劇画・漫画表現が置かれている情況は、依然変わらぬ実相もあるとはいえ、大きな変容を強いられていることは確かなのだ。わたしは、『幻燈』誌に集う作家たちに、“つげ義春以後の以後”というかたちで、できるかぎり、その大きな塊りを相対化した地平に自らの表現を置くべきだと願っている。
 新参、海老原健悟の「偽眼」は、表題の持っている思惟的なものをとりあえず留保するとしても、独特の描線と展開させていく画像、そして配置されている詩語的フレーズが、見事な世界をかたちづくっている。
 うらたじゅんの作品は、二作品。未発表の旧作、「JUNE BIRTH DATE」は、柔らかな描線が、やや閉塞していく男と女の関係性を慰藉するように解き放っている。むろんそれは、うらたじゅんが持っている物語力といっても過言ではない。新作の「河原町のジュリー」は、いまでいうところ野宿者がモチーフになっている。作者がもっている時間性をつかむ構成力は、この作品でも見事に発揮されている。作品の背景は七〇年代中ごろか(映画『仁義なき戦い』の看板が描かれている)。作者自身の同時代的体験が作品の中に生かされているのかどうかということには、わたしは関心がない。ひとつ、いえることは、旧作と新作に流れている七年ほどの時間性を、わたしは注視してみたい。“以後の以後”ということに絡めていえば、「JUNE~」の方がかえって、「河原町のジュリー」より、〈自在度〉が深いことに思いがいく。格差や野宿者の問題は、現在が強いてくることの情況であるとすれば、それほどに、表現の問題もまた、だんだんきつくなっているということだ。うらたじゅんの新作は、作者の意図を越えて、そういうことを指し示しているといえるかもしれない。
 “つげ義春以後”と擬せられている作家・斎藤種魚の最新作品集『コシヒカリの見た夢』(一九八九年から二〇〇六年まで月刊誌「政経東北」に見開き二頁の連載を纏めたもの)は、自ら、“以後の以後”へと地平を切り開くべく、〈自在度〉を過激に駆使したかたちが示されていると、いっていいと思う。斎藤は、第7集においても、「ベートーベンの右耳とゴッホの左耳の間で戦争が起きた」を提示している。斎藤作品の特色でもある、言葉と画像の見事な意識的な融合が、ますます過剰になっていることに、支持したいと思う。たぶんそれは、延べ十七年間、月刊誌(様々な規制があるのは当然だ)という制約の中で、培われたことの達成だといえるはずだ。
 作品集『コシヒカリの見た夢』は、五系列に連なる作品群で構成されている。時間順に並べてみれば、「コシヒカリの見た夢」(八九年~九三年)、「えご」(九六年~二〇〇〇年)、「愛モード」(〇一年)、「死にたくない」(〇二年)、「センチメンタルアーミー」(〇三年~〇六年)となるが、集中、構成順は、「えご」、「センチ~」、「愛モード」、「死にたくない」、「コシヒカリ~」となる。多彩なタッチ、多様なモチーフを持った作品群を眼の前にして、作者の重心はどこにあるのだろうかと、考えてみる。むろん、そんな問いは愚問に過ぎないことは明白だ。誤解のないようにいえば、斎藤種魚は、自身が農業に従事しているからこそ描出できる世界というものを持っている。そしてそれは固有の世界をかたちづくるものでありながらも、やがて拡張できる世界でもあるのだ。だからこそ「コシヒカリ~」という一群の作品は、斎藤にとって最も重心がかかった物語として提示されているといっていいだろう。
 “米”というものは、生命の循環に似ている。それゆえ、天皇制は農耕的なのものに擬定せざるをえないのだ。斎藤は、あえて霊的なものを対置して、生々しい現実の天皇制に抗おうとしているかのようだ。
 「人には手がある/おのおのの手がある/おのおのの手が…/その手には過去をもつ/その過去ゆえに/その手はそのように変わらざるをえなかった」(「ひとめぼれ」―《コシヒカリの見た夢》)
 Mさんこと松田清治の手に秘められた不思議な力は、「土に触れば/土はどんどん肥沃になるあの力さえあれば/どんな水だって/どんな…」というものだ。自然対人間から生み出されていく力、それを霊力と呼ぶ人がいても、それは別に構わない。そしてそれが発生する不思議な場所から、現在という重い課題を引き受けて、斎藤種魚は、「EGO」や「悪路王子」という“不思議な”作品を描き出していることが重要なのだ。わたしはそのことに、素直に感動したいと思っている。

(『図書新聞』07.6.30号)

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