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2007年6月 8日 (金)

今津孝次郎 著『増補 いじめ問題の発生・展開と今後の課題 25年を総括する』(黎明書房刊・07.3.15)

 「いじめ」論議が、また再燃した感がある。昨年後半から、幾つか発生した自殺事件が、「いじめ」に起因していたからだが、「いじめ」という現象が、解消されえないものとして在り続けていることをわたしたちは、ともすれば忘れがちになっているといっていいかもしれない。再燃するという事態が、そもそもおかしいのだ。
 「いじめ」以前という括り方をすれば、幼少期におけるガキ大将を中心とした喧嘩や諍いは、誰もが、経験することであり、それが取り立てて“社会問題化”することはなかった。それらは、学校を中心とした閉鎖的な共同性で発生するものではなく、日常的な暮らしの空間と連動した場所で生起していたからである。諍いの後、帰宅しても親たちは、ある程度、どんな連中とそうなったかは理解できていたし、時間が経てば、諍いした相手と親密になる場合もあったのである。現況における「いじめ」は、明らかにそういった子ども同士の喧嘩や内輪もめといった位相を遙に逸脱したものになっているのは明らかだ。
 本書の著者によれば、いまだに「いじめ」論議のなかには、子どもたち同士の内輪喧嘩的位相に押しとどめておこうとする見解が、教育現場側の多くに、見受けられるそうだ。ある意味、責任の所在を曖昧化する、驚くべき実態というしかない。
 一九八〇年五月に起きた、いじめ苦によってマンションの十一階から飛び降り自殺した在日三世の少年の事件を端緒として、「いじめ」が社会問題化したと著者は捉え、この二十五年の経過を総括して本書の元版を〇五年十一月に刊行したが、その直後に著者のいい方でいえば、“第三の波”が起きたため、その後の一年ほどの事象に対する見解を緊急増補して、本書を改めて問うこととなったようだ。確かに、本書のなかで、著者も度々、記述しているが、この二十五年(正確には二十七年経ったことになる)、なにも「いじめ」という実態は変わらないし、現場の対処のし方も旧態のままだといっていいような気がする。むしろ、「いじめ」の実相は、高度消費社会の過剰さのなかで、携帯電話やインターネットの普及によって、ますます不分明で、陰湿度が深くなっているといえそうだ。文部科学省が、発表してきたここ数年の「いじめ」件数の減少は、現場からの報告の隠蔽だったことは、明らかな以上、依然、「いじめ」という現象は、大きな社会問題であり続けているということになる。
 本書の冒頭には、イギリスやオーストラリアなどの事例や取り組み方が、紹介されている。考えてみたら、「いじめ」という現象は、わが国、固有の問題ではありえず、アメリカの学校での銃乱射事件を想起するまでもなく、 事は、「いじめ」に象徴される様々な確執が、異様な事態を発生させていると捉えるべきなのだ。著者は、研究員として滞在したイギリスで得た印象を、次のように述べている。
 「(略)いじめを論じるには『人間に対する深い洞察』が求められるのではないか、ということであった。単に教育者や親としての立場から、周囲の批判を受けないように、ただいじめをなくすことだけに汲々とするような姿勢で、はたして問題解決になるだろうか。(略)問われているのは、表面的な対策ではなくて、『善』も『悪』も持ち合わせる人間そのものを見つめる深いまなざしを、まず私たち大人が培うことなのではないかと感じた。」(15P)
 本書で、多様な視角からの「いじめ」における「排除」と「拘束」といった見事な分析と問題の切開を提示できたのは、著者の、こうした「表面(外面)」性よりも、「内面」性へと注視していく考え方に支えられているからだ。そして、「いじめ」問題に対して“介入”していくことは、「いじめ」を無くすといった表層的なことではなく、それぞれの子どもたちの「自立」をはかっていくことだと著者はいう。つまり、「『自立』に向けた障害を一つひとつ取り除いていくこと」で、「『悪性』の攻撃性を回避する道」(165P)を探っていくことだと主張している。
 ここからは、わたしの幾らか浅薄すぎるかもしれない考えを述べてみる。「いじめ」という現象に対して、倫理的視線を持つのは、避けるべきではないかと思っている。善と悪、加害者と被害者といった二項対立だけでは、事の内在性に到達することはできないといっていい。本書のなかで、「加害者の家族」の手記が引例されていて興味深かったが、実は、「いじめ」加害者や、「いじめ」傍観者は、いつでも、「いじめられる」側に転位することができるという視線を持つベきなのである。本書で紹介されている事例を見て、「いじめ」という現象は、現在いかに重層的な様態を示しているかということが分った。二七年前の民族差別による「いじめ」というそれ自体、許されざる行為ではあるが、内実はある意味、明確だった。だが、現在の「いじめ」という現象は、「いじめ加害者」と「いじめ被害者」は、いつでも交換可能であって、「内面」的深刻さは、どちらも等価であるとわたしは思う。「いじめ加害者」へ重刑罰を付加すべきだという錯誤した論議は、排すべきだ。
 では、この先、「いじめ」という現象を後退させうる方途はあるのかと問われれば、明確に即答できないもどかしさはあるものの、著者も指向する「内面」性の通路を開いていくことを根気強く模索し続けていく他はないといっていい。

(「図書新聞」07.6.16号)

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