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2007年1月12日 (金)

太宰 治 著『大活字版 ザ・太宰治 全小説全二冊』・第三書館刊(06.10.25)

 誰もがそうだと思うが、太宰は漱石とともに、わたしにとってなによりもアドレッセンスにおける作家だといっていい。とくに、どこか感性の置きどころに難渋していた時期、太宰の作品世界は、ある意味、拠りどころになっていたといっていい。さらに、もう少し踏み込んでいえば、世代を超えて読み継がれ、また後年になっても読み得ることのできる数少ない普遍の小説家だともいえるはずだ。いま、あらためて本書を前にして太宰治の世界へと想いを馳せてみるならば、その時々によって傾注する作品が違ってくることに気がつく。作家生活が十五年ほどという短さに関わらず、その作品世界の深度は幾層にも分岐しているからだといっていいだろう。なんといっても、最初の著作に『晩年』と名づける太宰治の作家としての矜持は、他を寄せつけない世界をかたちづくっているのだ。十代の時、その書き出しに魅せられたわけだが、恐らく、多くの太宰読者もそうだったに違いない。 「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。(略) ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。」(『下巻―「葉」』・4P) あるいは、これも比較的前期の作品となる「女生徒」にはこんな描写があるのだ。 「(略)朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。(略)朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。(略) 朝は、意地悪。」(『下巻』・196P) 「死のうと思っていた」、「ノラもまた考えた」、「朝は、意地悪」といった言葉の断片は、それだけでひとつのイメージをかたちづくるものとしてあった。センシブルで、どこかリリカルな装いを醸し出して、青春期の人間にとっては、否応なしに引き入れられていく場所としてそれはある。 しかし、一方では、「女生徒」と同時期に、「富嶽百景」を発表している。この作品は、「太宰治の生涯のうち、身心ともに健全で、つとめて世間の常識通りに従って生活しようとした唯一の時期」(吉本隆明)に書かれたものとして捉えられているものだ。執筆のため投宿をしている、冨士がよく見える峠の茶屋に、二人の若い女性が訪れ、富士を背景にカメラのシャッターを押してくれと頼まれる。冨士だけをレンズに捉え、人物を外してシャッターを押したことを、淡々と描写していくこの作品は、確かに、太宰にはめずらしい〈健全〉さを直截に表出している。 さて、本書のようなかたちの“全小説集”は、記憶に間違いなければ、たぶん二十年ほど前からの刊行になるはずだ。B5判の大判一冊で夏目漱石の全小説作品が読めるとして出版された『ザ・漱石』が評判になり、以下シリーズ化されていった(『ザ・大杉栄』までもが刊行されたのには驚いたものだった)。以前は旧版の復刻版のようなかたちで、しかも三段組だったため、けっして読みやすいものではなかった。最近は、現代表記版を出し、そして大活字版へとそのかたちが改められて刊行されるようになっているようだ。何年も前から大活字本は出版されてはいたが、当然のことながら、いまや趨勢となってきた感がある。わたしは、ちくま文庫版『太宰治全集』を愛蔵本としているが、全二冊に圧縮され、しかも大活字で新組みにした本書は、太宰作品をなにがしか確認するには、何冊にもわたる文庫版全集よりは、はるかに使いやすいと思う。各巻の巻頭に書影があり、幾つかのカテゴリーに分けて、端的な解説も付されている。こうして、太宰は依然、リアルな物語作家として現在も在ることを確認することになるわけだ。 全二巻の大冊を読み通して、わたしは、太宰の一編を選ぶとしたら迷わず挙げる作品があることを思い起こした。それは、戦後直ぐに発表された太宰にとっての初の戯曲作品「冬の花火」である。わたし自身、何度か取り上げているから、いまさら繰り返すまでもないかもしれないが、やはり、〈戦後〉という時空を考えに入れて捉えてみても、「斜陽」よりは、太宰の〈戦争―戦後〉ということへの想いが色濃く投影されている作品だといっていいはずだ。 「ねえ、アナーキーってどんな事なの?あたしは、それは、支那の桃源郷みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの。気の合った友だちばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植えて、ラジオをも聞かず、新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙も無いし、演説も無いし、みんなが自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を愛して、そうして疲れたら眠って、そんな部落を作れないものかしら。」(『下巻』・848P) 主人公の数枝にこういわせながら、最後には、「桃源郷、ユートピア、お百姓、ばかばかしい。みんな、ばかばかしい。これが日本の現実なのだわ。さあ、日本の指導者たち、あたしたちを救って下さい。出来ますか、出来ますか。」と吐き出させる。「冬の花火」が発表されたのは、終戦の半年後、一九四六年三月である。「斜陽」が、発表されたのは四七年、そして、四八年六月、太宰は心中死した。

(『図書新聞』・07.1.20号)

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