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2007年11月16日 (金)

コリン・クラウチ 著 山口二郎 監修・近藤隆文 訳『ポスト・デモクラシー[格差拡大の政策を生む政治構造]』(青灯社刊・07.3.30)

 九〇年代初頭の社会主義政権国家群解体以後、デモクラシー(とりあえずは、民主主義という従来の訳語を同義として援用していく)は、格好のキーワードにせり上がっていったといっていいはずだ。多くの社会主義国家は一党独裁政権であるから、確かに議会主義制度においては〈民主的〉ではない。だからといって施策が、〈民主的〉でなかったかといえば、必ずしもそうとはいい切れないものがある。だが、欧米の施政者たちやそれに追随するメディアはいっせいに社会主義政権が崩壊して〈民主化〉に向かったと喧伝していった(もちろん、わが国の施政者・メディアは、そのままの文言を表明しているに過ぎない)。であるとしても、民主主義社会=資本主義社会であるという絶対的な定立の根拠にはならないのだ。
 「米国の政治学者たち(略)は民主主義を定義する際、米国と英国の実態に一致させることを目指し、この二カ国の政策の欠点を一切認めまいとした(略)。それは科学的分析というより冷戦期のイデオロギーだった。同様のアプローチが現代の思潮を支配している。やはり米国の影響で、民主主義は自由民主主義として定義されることが増えているのだ。」(10P)
 本書の著者が指摘している通り、傍点を付さなければならないほどに、“自由”という概念の含みはそもそも曖昧なものだ。わが国の例でいえば、構造改革と称して、規制緩和、民営化、自由競争といった施策は、国民のためだと掛け声だけは威勢よく発しているだけで、民衆の生活や自存には関係なく、本書の著者に倣って括れば、企業エリートと少数の政治エリートが跋扈する資本主義体制を肥大化していくための環境づくりにあるといっていい。その結果、招来したのは、格差拡大という、平等性をその理念としているはずの民主主義とは相反する事態となっている。そういう事態を指して、著者は、“ポスト・デモクラシー”と述べているわけだが、哲学・思想的な領域に敷衍すれば、通常、ポスト・モダン、あるいはポスト・構造主義といったいい方には、その後の新たな展開への期待感のようなものが含まれるが、ここでの、“その後”は、極めて危機感を内在しているものとなっている。
 著者は、イギリスの経済社会学者であるが、イタリアのフィレンツェで研究に従事していた頃に本書を執筆したという。だから、本書ではイギリスはもとよりイタリアの現況がその中心モチーフとなっている。それゆえどうしても、デモクラシーに基づく政治・経済構造に対する微妙な視線の差異(例えば日本でいうところの第三セクターに近似しているが、しかし、それとはかなり位相が違う公共サービスの外部委託ということを著者は、新自由主義の顕著な政策として俎上に乗せている)は、散見される。それでもなお、本書が、わたしたちに啓発してくれるものを内包しているのは、次のような論述があるからだ。
 「民主主義が繁栄するのは、一般大衆が議論や自治組織を通じて公共的生活の方針決定に能動的に参加する機会が豊富にあり、その機会を能動的に活かすときである。単に世論調査の受動的な回答者であるのではなく、国民の大多数が真剣な政治論争や政策課題の形成に活発に参加したり、豊かな知識をもって政治の出来事や争点を追いかけたりするのを期待することは、たしかに高望みかもしれない。それは理想のモデルであり、完全に達成されることはまずないとしても、あらゆる実現不可能な理想と同様、ひとつの指標にはなる。」(9P)
 そして、大量消費社会の展開とともに、グローバル企業の席巻が、ポスト・デモクラシーの中心軸になっていることを警告しながら、尖鋭に、「結び」の言説を述べている。
 「新しい反グローバリゼーション運動につきまとう破壊的で否定的というイメージの裏には、じつに多くの建設的革新的な理念やグループがある。それらにとって関心があるのは暴力や経済上の変化への抵抗ではなく、新しい形態の民主主義と第三世界の人々を搾取しない形態の国際主義を真剣に追及することだ。こうした運動は“反グローバル”というより、きわめて鋭敏な慧眼の士の言葉を借りて、“ニュー・グローバル”と呼ぶべきだろう(略)。」(177P)
 著者は重ねて、「EU自体は、とても民主主義の立派な手本とは言いがたい」(162P)と断じながら、新自由主義からの脱却を模索している。市民生活、市場経済が、どう現実政治へとアクセスされていくのかということを、著者は様々に分析していきながら、ポスト・〈ポスト・デモクラシー〉へと、その方位を措定していこうと考えているといっていい。著者が触れていないことで、一点だけ、わたしが付言することがあれば、「国民の大多数が真剣な政治論争や政策課題の形成に活発に参加」することの基底的な場所に関してである。施政者は確かに、“民主的手続”で選ばれる。だが、その施政者が、民意に反した行為をした時、実際的なNOとはいえないのが、大方の民主主義政治の制度となっている。しかし、これは逆倒した陥穽だ。いつでも、民衆によって選ばれた施政者は、民衆によってリコールされるという仕組みでなければ、理想の民主主義政治の執行(権力の集中と政治の悪化に対する阻止)とはならないということも、「ひとつの指標」に加えるべきだと、わたしは思う。

(『図書新聞』07.11.24号)

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2007年11月 2日 (金)

英国王立国際問題研究所 著・坂井達朗 訳『敗北しつつある大日本帝国―日本敗戦7ヵ月前の英国王立研究所報告―』(刀水書房刊・07.6.14)

 アジア太平洋戦争が終結(日本の敗戦)して、六〇年以上の時間が経過した。長い時間の経過というものは、確かに記憶や事実への認識を空白化していくものだ。そして、いつしか惨めな記憶は濾過されて、記憶と事実の積み重ねというべき相対としての歴史性を、恣意的な歴史〈観〉で改竄していこうとする勢力が露出してくることになる。直近のことでいえば、“戦後レジームからの脱却”を声だかに謳いながら、民意を得られず散っていった戦後生まれの首相を例に出すまでもなく、
占領下で制定された憲法の見直しをするという考え方がそうである。また、それに先立つことでいえば、いわゆる教科書問題で、日本のアジアへの侵略戦争だったという捉え方に対して自虐史観だといい募り、戦争遂行の正当化を腐心するといったことがなされていく。
 現在の憲法九条をめぐる喧しい言説には、様々な問題が沈潜してある。改憲論者の主意は、連合国側による押し付け憲法であるから、いまこそ自主憲法を制定すべきだということであり、いわゆる護憲勢力は、敗戦によって獲得した貴重な平和憲法であるからこそ、これを護り抜くことに意義があるのだということになる。だが、わたしの考えは、そうではない。ただただ率直に、九条に込められた言説は、究極の理想を追求したものであって、例え、現実に立脚していないと批判にさらされようとも、これを否定する論拠はどこにもないというものだ。そして、この理想を、ひたすら実践していく方途を模索する以外、現在を見通すことはできないといっていい。おそらく、米日のリベラリストたちは、その時点で二度と戦争を惹起させないために、理想の非戦理念を構想したものと思われる。連合国側(米・英・仏・ソ連・中国)にとって、後に東西冷戦情況が急速に到来することになるとは、想定していなかったはずだ。ドイツの東西分立、大陸中国に共産党政権樹立、朝鮮戦争の勃発といったことなどが、やがて、理想の種子を摘み取っていくことになる。さて、こうしたことを踏まえながら本書に、立ち入ってみれば、実に鋭利な言説が散在してあり、現在の帝国アメリカを中心とした欧米的グローバリズムの深奥を鏡のように照らし出す格好のテクストとなっている。
 本書は、「日本の敗戦を目前にして、その結果起こるであろう日本内外の情勢を予見し、連合軍側の各国がそれに対してどのように臨むべきかを考えたもの」で、「一九四五年一月、アメリカ(略)で開かれた太平洋問題調査会の第九回国際会議にイギリスの王立国際問題研究所が提出した報告書」(「訳者あとがき」)の初めての全文翻訳である(ただし第一章のみは既に、資料日本占領一『天皇制』―一九九〇年刊に翻訳所収されている)。そういう意味でも、近代史資料として貴重なものだといっていい。イギリス王立のシンクタンクということを考えれば、イギリスに共感を持っている日本の皇室に対して、いささか理解ある視線は隠しようがないとしても、かなり詳細にわたってしかも、なかなかの深度をもって帝国日本の基層を分析している。全体を十四章に分け、「第一章 皇室と憲法」、「第二章 軍隊」、「第六章 外国に対する態度」、「第七章 宗教」、「第八章 教育が日本人に性格を与えた影響」、「第一三章 農民の重要性」などの章立てを見ても、その分析は多岐多様にわたっていて、厳密な正確性を問わなければ実に刺激に満ちている。「西暦六世紀、信頼するにたる歴史が存在するようになって以降、短い期間を除いて、日本の天皇が世俗的権威を有効に行使したことがあったかどうか疑わしい」という書き出しから始まる「第一章 皇室と憲法」は日本の天皇制を精緻に解析している見事な論述だといっていい。
 「天皇の神聖性についての神話を、信仰原理として日本人の心の中に確立しようとする運動は、維新以来熱心に行われてきており、その勢いは満州事変以後急速に高まり、それに伴って神官としての天皇の機能が強調されるようになった。」(20P)
 「最高の神官としての天皇」という捉え方は、軍部権力が「陸海軍の最高司令官」という天皇大権を「一般国民の想像の中にある軍隊の威信を高めるために編み出された、一つの政治的工夫である」(41P)という視線に繋がっていく。戦後、象徴天皇制として温存されたわが国の天皇制なるものは、既に敗北間近な情勢の中で、連合国側に見事に解析つくされていたというべきかもしれない。「日本の歴史には、突出した能力を示した天皇はほとんどいない。天皇に代わって他の人間が支配したのである。天皇の身体を操った者が、すべての権威を行使したのである」(72P)と論述していく本書の主調音は、君主制をともなった民主主義政府というイメージを既に戦後の日本に仮託していることがわかってくる。
 ところでわたしが、本書のなかで最も注視したことは、日本人が西欧的個の確立ができず、ひたすら集団性に依存するしかないという点を負性として分析していることだ。
 「日本人が一人の人間として生み出すものはほとんどない。しかし、二人ないし三人の日本人からは、より多くのものが生まれる。この『集団志向性』(それは個人としての責任を逃れようとする国民的感情と結びついているのだが)は、おそらく日本人に特徴的な、組織を作る能力の基礎であろう。」(71P)
 これは、一見、的を射た言説に見えるかもしれない。だが、あきらかにアジアと西欧の共同的社会の成り立ちを混同していることからくることの偏見でしかない。また一方では、「キリスト教徒がもっている国際的な視野は、日本にとって有用である」(115P)とか、「キリスト教はこの国民にとって大きな影響力となり、新しい世界観を生み出すだろう」(223P)などと縷々述べていく。このような捉え方、考え方は、「十九世紀の西欧資本主義社会の興隆期に、ルソーやヘーゲル、マルクスによってかんがえられた、西欧近代社会を第一社会とし、これに接するアジア地域の社会を第二社会とし、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸やその他の未明の社会を旧世界として世界史の外におく史観」(吉本隆明『アフリカ的段階について』)に貫かれたものだといいたくなる。現況のグローバリズムというのは欧米社会(キリスト教社会)を中心とした世界という枠組みといった意味でしかないことを思えば、日本や中国がアジアの大国だといっても、所詮、第二社会でしかないという高見からの視線を曝け出しているだけなのだ。いまだに〈戦場〉は、キリスト教から見て後進性で野蛮な宗教と見做されているイスラム教社会でもある〈西〉アジアであることを見過ごしてはならない。

(『図書新聞』07.11.10号)

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