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2007年9月28日 (金)

石渡博明 著『安藤昌益の世界―独創的思想はいかに生まれたか』(草思社刊・07.7.31)

 「忘れられた思想家」とも、「幻の思想家」ともいわれていた安藤昌益は、八〇年代に入って、本書の著者も関わった本格的な全集刊行を契機に、その実相が明らかになり、現在にも生き生きと屹立しうる、江戸中期に実在した、同時期における世界最大の思想家としての評価を獲得したといってもいい。
 早くからその独特の思想的初源を、東洋的アナキズムとも農本的アナキズムとも称されてきたが、アナキスト詩人・秋山清も戦前時のまだ二十代後半に、安藤昌益を次のように評価している。
 「かの無政府主義的な最初の著書といわれるイギリスのウィリアム・ゴドウィンの『政治的正義』が出た(一七九三年刊行)のは彼の死より三十年の後である。おそらく無政府主義思想史の最初の頁を飾るものは全世界を通じてこの安藤昌益であり、従ってアナキズムはいう如き西欧からの不穏思想ではないという事になる。」(「安藤昌益の思想」・一九三三年)
 よく知られているように明治四十一(一九〇八)年、雑誌『内外教育評論』に掲載された狩野亨吉の談話によって安藤昌益の存在は、告知された。そして、その「反響の一つとして、森近運平の編集になる大阪平民社発行の『日本平民新聞』(略)に『百五十年前の無政府主義者・安藤昌益』と題した紹介記事が掲載された」(72P)そうだ。だが、その二年後に生起した大逆事件によって、「百五十年前の無政府主義者・安藤昌益」は、それからしばらく閑却されてしまうこととなる。
 さて本書は、著者が寺尾五郎とともに全集編纂に寄与してきただけあって、安藤昌益の全体像を懇切に論じながら、未知の読者に向けた見事な通路ともなっている。ともすれば、わたしたちがそうであるように、イデオロギー的な視線で捉えすぎて狭隘な場所へと押し込めて、その思考の根源を見失いがちになることを、著者は明確に忌避している。
 開巻、その生涯を類推も含めて丹念に記述している。そこで、わたしたちは、仏門から離脱し医学の道へと進んでいった若き昌益の像を、後年の壮大な思考の淵源と見做すことができるはずだ。さらに弟子たちとともになしえた行動の足跡の記述には、一気に惹き込まれていったといっていい。そして、狩野亨吉以降における昌益思想の受容の時間を辿った後、その思想の沿革に深く分け入っていく手捌きによって、わたし(たち)は、いまさらのように安藤昌益の思想の深度の深さを知ることになる。
 「(略)人と人との本来的なつながり、相互扶助的なあり方を『穀精の人(穀物の精凝である人間)は、人より人を生じて多人となり、耕道弘まり、人家・門を並べ、互いに親睦し、能きことは互いに譲り、難事は互いに救い、営むところは、ただ耕穀の五行なり』と、農耕共同体における近隣家族の結合の中に見出している。」(217P)
 「(略)昌益は、『万国の人、すべててんち転定とともに直耕して、安食・安衣して、生死は転定とともにして、この外に耕さずして衆を誑かし貪り食い、衆の上に立ち、王と称して栄華をなし、謀議をもって民を導くなどといい、亢知にして道を盗める者あることを知らず』と述べ、こうした自然と一体化した、平和で平等な農村共同体は、(略)地球上いたるところに存在していたと考えた。」(231P)
 また、昌益は、治世者が「治安を維持するためと称して『法』や『制度』をこしらえて、人々の心までも取り締まろうとする」ことを、「反自然的で作為的な世の中」(233P)だと批判したという。こうして見るならば、「法」を治世者の統治のためだとする苛烈な考え方は、マルクス主義というよりは、限りなくアナキズムの思考方法に近似しているし、「社稷」のなかに農本的なユートピア共同体の理念を込めた権藤成卿の思想を想起したくなる。現在のような〈関係性〉、〈共同性〉の環界が、手探りで辿れない空虚なものとなっている時に、昌益や成卿が抱く農耕的なイメージを持った〈共同性〉は、アナクロなものとして切り捨ててしまっていいとは、思えない。
 さて、ここまではある意味、通例の昌益像だといってもいい。さらにもう少し踏み込んでいえば、昌益の傑出した自然観・宇宙観は、そのままあらゆる生物の生命体系への視線であると捉えることができる。動植物のうち、より植物(穀物)との一体感を強く内在せしめながら展開している昌益の自然観・宇宙観を著者は次のように述べていく。
 「昌益は、この宇宙のすべての存在が、生命あるもの、相互に有機的に関連しあい、時々刻々と新陳代謝しつつある存在であり、自己運動によって日々生まれ変わりつつある一大生命体と見て、その総体を『ひと自りす然る自然』と名づけた。」(141P)
 わたしは、すぐさま、生命形態への見事な切開を提示した『胎児の世界』の著者・三木成夫の壮大な思考世界を想起した。人間の臓器の原初を植物系に見立てて分析し、生命形態全体と宇宙との“いのちの波動”といったことを展開していく三木のセンシブルな論旨は、まさしく昌益の「自り然る自然」観と通底していくことに驚く。そういうことを考えてみれば、後年の優れた思想・哲学・生物学の達成を二五〇年前に抱懐していた思想家がいたということだ。
 「独創的」な思想家・安藤昌益は、今日でも依然、リアルなのである。

(『図書新聞』07.10.6号)

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2007年9月21日 (金)

塩浦 彰 著『荷風と静枝 ― 明治大逆事件の陰画』(洋々社刊・07.4.20)

 永井荷風といえば、「花柳小説」作家、「戯作者」といった独特なイメージが付加されているように思える。晩年の生活に象徴される孤独者的相貌もあいまって、独自の生活スタイルが、喧しい現在のわたしたちに対するアンチテーゼとして注目されたりもしているようだ。荷風を「遁走者」であり、「個人主義者」であったと評したのは、江藤淳であった。
 「永井荷風の一生は、近代日本の現実からの絶えざる遁走の連続である。(略)表面的にいえば、彼の一生は個人主義者の一生である。個人主義者が変人あつかいにされるこの国では、それはほとんど一個の倫理的な規範をかたちづくっているかも知れない。(略)彼は批判者として生き、同時に芸術家として生きた。」(「永井荷風論 ある遁走者の生涯について」)
 こうした荷風像が、確立していくための転換点として、本書の著者は、明治末期に生起した、いわゆる大逆事件が、契機としてあったと捉えている。
 幸徳秋水、菅野すが、宮下太吉らが明治天皇暗殺計画を企図したとして十二名もの無政府主義者・社会主義者が死刑に付された大逆事件は、明治四十三(一九一〇)年五月から六月にかけて一斉検挙・逮捕を重ね、翌年一月十八日午後、大審院特別刑事部で、刑法第七十三条(天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス)適用による大逆罪の公判が行われた。二十四名に死刑(十二名は翌日、無期に減刑)、二名に無期懲役刑の判決が下され、一月二十四、二十五日と僅か一週間のうちに、死刑が執行された。この前代未聞で最大の思想弾圧事件は、天皇制を強固な国家権力体制として誇示するために仕組まれた国家犯罪であることは、いまや周知の事実であるといってもいいが、当時の文学者、知識人たちに与えた衝撃は計り知れないものがあったといっていい。もちろん、荷風とて例外ではなかった。
 「悪罵をあびせかけて来た国家権力から」文化勲章をあえて辞しせず、受けながら「文化勲章年金」と揶揄したいい方に「国家権力というものが、荷風の存在自体にとってはなにものでもなかったことをものがたっている」(「前出」)と江藤が見ていたように、著者もまた、荷風のなかに反抗の思念を見て取ろうとする。
 「大逆事件前、自作の発売禁止という、国家権力の弾圧を受けた経験から、言論出版の自由について、直接間接に発言を繰り返していた荷風の『苦痛』を視野に入れなければならない。」(14P)
 このような荷風にあって、本書の著者は、大逆事件の判決の日に、当時、親交を深めていた芸妓八重次(後に新舞踊の名取となり、戦後、文化功労賞を受けた藤蔭静枝)に宛てた絵葉書に着目する。
 「度々電話をかけましたがお帰りがないので独りで博物館内の古い錦絵を見歩いて居りますこの暖かさでは江東の梅も間がありますまい近い中亀井戸へ行きませう」
 この文面から、著者も指摘するように、博物館に一緒に行こうと思い電話をしたが、不在だったことをただ告げているにすぎないのだが、「荷風が、あえて判決の日に八重次という女性に逢いたくなったのは、はたして偶然のことなのであろうか」と疑義を呈していく(10P)。そして、「大逆事件」の諸相を縦軸として考えるなら、荷風と八重次(静枝)との「通交」を横軸として見做すことによって、その交差する場所を基点にし、国家権力が徐々に膨張していく過程を見通しながら、二人(荷風と静枝)の表現者が織り成す地平を解きほぐしていこうというのが、本書のさしあたっての眼目であるといってもいいはずだ。
 「荷風の作家生活前半生の、充実した〈花柳小説〉という作品群が生み出された時期は、八重次との遭遇によってもたらされた。(略)自立心の高かった八重次の生そのものに添うことによって、荷風は〈戯作者〉としての国家権力への反抗のし方を、身につけていったのである。大逆事件判決の日に、荷風が八重次に『度々電話をかけ』たのは、けっしてたまたまのことではなかった。荷風周辺に取り沙汰された数多の女性たちのなかでも、芸妓八重次の存在理由は重いのである。」(17P)
 確かに、荷風の代表作ともいえる『斷腸亭日乘』に「帰朝以来馴染みを重ねたる女」として十六人の女性が列挙され、ほとんどが芸者、私娼、女給といった女性たちで、商人の娘二人のうち、一人が、父親の勧めで結婚した女性で、父が急逝するとすぐ協議離婚し、それまで付き合っていた内田八重(芸妓八重次)と結婚している。だが、通交の長さに比して、結婚生活は長く続かず、半年後、八重が家を出たことによって離婚している。荷風の結婚歴はこの二人だけで、生涯、子供も設けず、以後、独身を通している。
 父権の前に最初の結婚を承諾してしまった荷風の屈折した思いを、著者は「父権の意識下に」、「天皇を頂点とする国家」が置かれていたはずだと捉えている(61P)。そして、「『戯作者』あるいは『隠者』というスタンスを保ちつつ、不当な強制に反発する個人主義者として、当代の権力から民衆までの諸相を観察し批判し続けた荷風は、磯田光一のいう『保守のラジカル』にあたり、(略)静枝の生き方は逆に『ラジカルな保守』といえるかもしれない。(略)共通するところは、(略)『制度』の普遍を疑い、個人の自由を過激に言語あるいは身体で表現したことである。」(248~249P)
 こうして本書を辿ってみるとき、荷風と静枝の二人の親近なる通交と、交差した場所に、大逆事件という大きな動態があったとする著者の視線は、実に刺激的だといえる。

(『図書新聞』07.9.29号)

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