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2007年3月25日 (日)

若林圭子の〈声〉が聴こえる場所― 10周遅れのファンとして

 誰もがそうかもしれないが、わたしは音楽を、ジャンルに関係なく聴いてきたつもりだ。ジャズやクラシック、洋楽、さらにはアイドルものから、演歌までと、とりあえずは、自分なりのこだわりをもって接してきた。もちろん、シャンソンも、断続的にではあったが、それなりに聴いてきた。といっても、積極的に、奥深く聴き入っていこうという姿勢ではなく、なんとなく受身的なものだったような気がする。山口百恵が、ライブを聴いて感動したと知って、銀巴里に金子由香利を聴きに出掛けたり、友人が公演に関わっていたこともあり、バルバラを聴きに行ったり、また、トリュフォーの映画『突然炎のごとく』が好きで、その中のジャンヌ・モローが唄う「つむじ風」が気に入り、わざわざ、その一曲のためにCDを購入したりといった程度のものだった。旧知の人たちが、レオ・フェレの歌を中心に活動しているシャンソン歌手・若林圭子を支持していると知った時、レオ・フェレに関してほとんど理解していなかったこともあり、彼らとシャンソンとの結びつきにやや意外な感じを抱いたものだった(後に、「ミラボー橋」や「パリ野郎」の作者だとすぐに知ったのだが)。それは、たぶん、シャンソンというものに対して、どこか衒いのようなものを、感じていたからかもしれない。
 やがて、知人たちの誘いを受けて、初めて若林圭子の歌に接っすることになる。西荻窪の小さなライブハウスだった。プログラムは、レオ・フェレの歌は半分ほどで、ファドあり、「朝日のあたる家」がありと、わたしにとって思いがけない構成であった。そういえば、バルバラの「ナントの街に雨が降る」もあった。
 若林圭子の〈声〉が発する場所は、これまでのシャンソンに対するわたしのイメージを大きく揺さぶるものであった。たんに、わたしの狭い知見でしかないかもしれないが、〈男‐女〉の出会いや別れ、あるいは人生へ切々たる視線を向けて、哀感を湛えながら、歌い上げ、時には熱唱するというものが、シャンソンというものへのひとつのイメージだったからだ。そういうイメージを払拭するかのように、若林圭子の歌う身体は、まるごと自分自身のいま在ることの思いを訴えかけてくるのだ。〈歌姫〉といういい方があるように、どこか〈女性性〉をひとつの表象にして歌うことが、シャンソンの世界を魅惑的にしているようにも思うのだが、いい意味で、そのことを見事に解体しきっていた。
 わが国のシャンソンが、〈女性性〉をひとつの表象としているということは、幾分、外来思想が、わが国の知識人を主体性なく魅了させてしまっている悪しき現象に通じることでもあるかもしれない。海外では、レェオ・フェレやイブ・モンタン、アズナブール、あるいはアダモ(そういえば、わたしもご多分にもれず、七〇年前後、アダモに魅せられた一人だ)と、男性のシャンソン歌手をすぐに列挙することができるが、わが国の場合は、圧倒的に女性歌手が多いことに気がつく。丸山明宏(現、美輪明宏)や高英男といった男性歌手にしても、どちらかといえば〈女性性〉への傾斜を積極的に押し出して活動していた。いったい、それはどういうことを意味しているのだろうか。わたしは、ここで訳知り顔のようにフェミニズムや性差について語りたいのではない。ドゥルーズ=ガダリの言を借りていうならば、わたしたちの世界は、ほんらいn個の人間がいれば、そこにn個の性があるだけなのだ。男性であるとか、女性であるとか、何々人である前に、わたしたちは一人一人の個体性をもった存在なのだということを、これまで、自分の考えの支柱に置いてきたつもりだ。そういうことを踏まえない限り、どこか視線を誤って、好奇な捉え方をしかねない。
 わが国のシャンソン業界というものを、もちろんわたしは、熟知しているわけではないが、若林圭子が、安逸にいたはずがないと、その歌う姿と歌う曲目の世界を目の当たりにすれば、よく分る。なによりも、若林は、シャンソンが持っている豊饒な詩的世界に感動したからこそ、自由に飛翔するがごとく、様々に表現していこうとしたはずだ。しかし、なにごとも、ひとつのカテゴリーに収斂されていく共同性というものは、集団や組織として拡張していけば、いくほど、閉じられていく必然にある。だから、若林は、シャンソン業界というひとつの閉じられた共同性のなかに、漫然と居続ける歌手では、なかった。レオ・フェレに魅せられ、レオ・フェレの世界を歌うことは、閉じていく共同性を、開いていかざるをえなかったことだといってもいい。もしかしたら、これは、わたしの勝手な類推でしかないが、若林自身のそれまでの生きてきた軌跡とそれは関連付けて、捉えてみてもいいことかもしれないが、それはまたいずれ、機会があればと思っている。
 正直なところ、わたしは、レオ・フェレの歌を中心に活動しているシャンソン歌手・若林圭子というかたちに、それほど拘ってはいない。何しろ、知人たちに教えられて知ったとき、トラック競争に例えるなら、彼らより1周や2周どころではない、遥か10周以上の遅れで、聴いていることに等しいからだ。しかし、負け惜しみではなく、むしろそのことが、よかったと思っているのだ。たぶん、ここ数年といっても、銀座博品館劇場でのリサイタルを始めて四年になるわけだが、若林圭子にとって、いい意味での転回点にさしかかっている時期に知ったからだ。
 往き路と帰り路ということ(往きの視線と帰りの視線といってもいい)をいつもわたしは考えるようにしている。吉本隆明の代表的な著作『最後の親鸞』から得た思考方法であるが、こういうことだ。なにかを極める(なにかを知る、行うといったことへも敷衍してもいい)ということは、ただ、あらゆるものを吸収し、そして鍛錬して、熟達していくだけでは、なかなか難しいことである。つまり、往き路(往きの視線)だけでは、けっして内部にあるものは熟成しないのだ。もう一度、自分の軌跡を往還する、帰り路(帰りの視線)を措定することで、さらなる地平に到達しうる道筋が開かれていくはずだといえる。もう少し、別様にいってみれば、往きの視線だけでは、やがて、閉鎖的になって、閉じていかざるをえなくなってくる(学問の世界に身を置いている人たちを揶揄して、センモンナントカというのが、そういうことだといっていい)。帰りの視線をもつことによって、開かれた可能性を見通すことが、誰にとっても必然的なような気がする。
 自らの創作訳詩で、レオ・フェレの世界を、若林圭子の世界そのものとして構築した、一人のシャンソン歌手が、いま、帰りの視線をもって、また、あらたな壮大な開かれた世界を、わたし(たち)に見せてくれようとしている。わたしは、そう思っている。それは、10周遅れだったからこそ、立ち会えることのできる、わたしにとって僥倖なひと時でもあるといっていい。

(『若林圭子~レオ・フェレを唄う~』・07.3.25)

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2007年3月 3日 (土)

今谷明・大濱徹也・尾形勇・樺山紘一 編『20世紀の歴史家たち 5 日本編 続』(刀水書房刊・06.12.10)

 わたしが、歴史あるいは歴史家とはなにかと想起するならば、歴史教科書的なカテゴリーや考証史学的な意味合いを含む考え方は当然、とらない。それは、多くの歴史家と称する、あるいは他称される人たちの思考する数だけの歴史という概念が、遍在するといっていいからだ。とはいえ、歴史というものは、そもそも人々の生活が時間とともに累積したひとつの表現されたかたちであるとするならば、歴史家・歴史研究者も一人の生活者であることに変わりはなく、彼らが紡ぎ出す歴史的記述は己を語りうるものでなければならないはずである。編者の一人である大濱徹也は、「あとがき」でこう述べている。むろん、わたしに異論はない。
 「歴史家は過去を旅し、己の足で大地を歩み、時代人心を追体験し、想起し、想像する営みをとおし、歴史を造形することで、明日を予見せんとした存在。」
 本書は、一九九七年に刊行開始され、ようやくにして、全五巻完結となった内外の歴史家一一四人の評伝を網羅したシリーズの五年ぶりの刊行となった最終巻である。『日本編』が、「上」、「下」、「続」と三冊。『世界編』が「上」、「下」の二冊という構成である。対象となった「歴史家」を「日本編」に限って遠望すれば、必ずしも本来、歴史家として見做されているわけではない柳田國男や大塚久雄が上巻に、宮本常一や丸山眞男らが下巻で採り上げられているように、「歴史家」を拡張させて編集されていることが際立っているといえる。本巻では、和辻哲郎、岡正雄がそうだ。
 樺山紘一は、「和辻哲郎」の章で、大濱と同様の視線をめぐらして論述している。
 「科学の名のもとに、歴史学はほかの学問とともに、明証化できる分析と叙述をめざし、対象という客体と分析する主体とを、絶対的な分離のもとにおいた。その結果、対象との親密な通路をうしない、想像力や追体験の行為を禁圧してもきた。自然と人間とを、これまた分離することにより、風土を外在化し、その人間精神化を軽視しようとした。それが、歴史学に学問としての権威を付与したかにみえて、じつは学問の光輝や高揚を追放することにつながってはいないか。」(103P)
 そして、和辻の『古寺巡礼』や『風土』といった仕事をいま一度、見直すことによって隘路に入っている現代の歴史学への批判を提起していくことを主張する。
 この樺山や大濱の「歴史」というものに対するテクストとしての措定のし方は、遺稿となった網野善彦の、敗戦とともにソ連軍の捕虜となり重労働から病死して三十八年の生涯を終えた「清水三男」への論述にも繋がっていく。戦時中に著わした『日本中世の村落』から、戦地へ赴く直前に出した『ぼくらの歴史教室』、『素描祖国の歴史』の間に横渡る問題を、見事に切開して見せてくれている。〈転向〉という基軸を通して叙述していく記述は、あたかも、自分を清水三男になぞらえているかのように書き進められているようで、衝迫力に満ちている。よく知られているように、戦後の歴史学はマルクス主義史学が主流であった。もちろん、歴史を統治者主軸の時間性(天皇制の歴史といい換えてもよい)のなかで捉えるのではなく、人々の生活時間を主軸に捉えていくこと自体は、間違ってはいない。しかし、文学や芸術にイデオロギーを持ち込んで社会主義リアリズムを打ち立てて、本来、自在に表現することの行為を圧殺したように、絶対に支配・被支関係の円還を出ることのないマルクス主義的な歴史分析はひとつの偏向を生み出すなにものでもないことは明らかだ(もちろん、一定程度の成果を認めるとしてもだ)。網野自身、党体験の自省も含め、マルクス主義史学の有用性は認めつつも、そこからいかに自由に独自のものを構築していくかという苦闘の末、わたしたちが共感する網野史学というものに到達したといってもいい。そのことを考えてみれば、網野が語る清水三男像は、自身の自画像のようなものだ。己を語るということは、そういうことを意味しているといってもいい。
 「『公式的』ともいえる『忠実な』マルクス主義者から、国家の未来のために『国民』に対し『祖国の歴史』を説くナショナリストへ。この清水の転換をいかに理解すべきかについては、戦時中から戦後、さらに現在にいたるまで、見解がいくつかに分れ、いまなお決着がついていない。」(260P)
 「清水自身は『転向』によって『一歩後退』したのでも『退却』『敗北』『妥協』したのでも、また『現実の日本帝国のありように意識的・無意識的に目をつぶ』り、『精一杯』『抵抗』(大山喬平・文庫解説)したのでもない。(略)清水はそれ(引用者註=逮捕・投獄されたこと)を契機に、『転向』前、マルクス主義の影響下にあって観念的・公式的であった自らの生き方・学問と明確に訣別し、新たに全力をあげて史料を自分の目で読み、村落生活の実態に深く分け入って、はじめて清水自身の個性的な研究を結実させたのである。」(271P)
 見事な切開というほかはない。「戦前の『皇国史観』を含む国家主義的な思潮の中から生み出された研究を、頭から否定・無視するのみで、その背景、源流を徹底的に探り、史学史の中に正確に位置づけることを怠」(273~274P)ってきたことが、自虐史観をかたちづくり、それに対抗するネオ・ナショナリズムを生起させたと強く網野は警告する。このことは、歴史学だけの問題ではない、あらゆる位相にもいえることだ。戦前・戦後を貫く時空間の根柢的な把握は、現在の様々な諸問題を解析する手立てとなりうるはずだという思いが、わたしにはある。編者・大濱が述べているように、「歴史」を自らによって想起し想像することで、「明日を予見」することが可能となるはずだからだ。

(『図書新聞』07.3.10号)

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