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2007年1月26日 (金)

「秋山清紀行 12」

 一九八〇年代後半から九〇年代前半にかけて、わが国はバブル景気に沸いていた。高度資本主義社会段階の到来が、社会主義という理想社会を超えてしまったといわれた。八八年九月、昭和天皇裕仁の容態が悪化。想像を絶する報道管制が敷かれていく。世情の高景気と天皇が崩御へと向かおうとしているなか、秋山清は十一月十四日、八十四年の生涯を閉じた。やがて、バブルが崩壊し前代未聞の低成長、景気低迷へ向かう。そしてソ連邦をはじめとした社会主義国家群は解体へと至り、世界はアメリカ一国支配へと変容していく。秋山が一貫して主張していたことは、そうした表層的な情況に左右されず、自分たちの立っている場所を見失うことなく凝視していくことだったように思う。かつて大正期のアナ・ボル論争について、アナキストの理想主義的な考えがボルシェヴィキによって異端視されていたと述べていたが、秋山だったら、現在のこの閉塞した情況のなかで、僅かばかりであってもその通路を見出そうとしたに違いない。社会主義の失墜が、まるで理想社会のイメージが喪失したことのように捉えるのは間違いであるというように。天皇の死の二週間後、八九年一月二一日、お別れ会が催された。一二〇名に及ぶ参列者全員が菜の花を献花して、秋山の死を惜しんだ。

(「秋山清ワールド・秋山清著作集Website」、『図書新聞』07.2.3号)

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2007年1月19日 (金)

加藤英彦 著『スサノオの泣き虫』(ながらみ書房刊・06.9.9)

 二十世紀は、戦争と革命の時代だったと誰かがいっていた。ならば、二十一世紀はどんな時代になるというのだろか。
 歌歴が三十年以上ある著者は、惜しげもなく、「二〇〇〇年以降の六年間の中から三七一首を選ん」(「あとがき」)で第一歌集を編んだ。だから、加藤自身の本意とは別に、わたしはこの歌集に接して、二十一世紀とはこんな時代になってしまうのだと、激しく告知された気がする。

 怒濤のごとく膨らむ首都の夜をゆがめ奴らが戻ってくるぞ 伏せろ

 詩や短歌や俳句が、時の情況の前に無力なのかといった論議が、湾岸戦争以後、たびたび噴き出している。しかし、表現者である前に、一人の個(生活者)として情況と切実に向き合うべきなのであって、表現の中にただ情況的な事柄を繰り込めばいいわけではない。イラク戦争(戦争は国家と国家の対抗した関係で生起するものだが、この場合、戦争といういいかたは適切ではない。アメリカの一方的な殺戮攻撃といっておこう)時、岡井隆は、反戦短歌を作ったことを声高に表明していたが、いったい岡井はなにを勘違いしているのだと思わざるをえなかった。では、加藤英彦の場合はどうか。「夜をゆがめ」る奴らに対して、「伏せろ」といういい方は、切実さとともに様々な思いが吸引されている。反戦や平和を声高に主張するのは容易い。それではただ言葉が浮遊するだけだ。誰のもとへも届きはしない。

 胸もとに視線がおよぐ雨の匂いたつ欲情のあわき午後
 ふかき眠りに閉ざされて雨 外界のたたかいは海のそのまた向こう

 この二首は、見開き頁の両端に配置されていた。右の歌をたんにエロス的なのものとして、左の歌を〈戦争〉を視野に入れたものと詠むのは、あまりに皮相的だ。わたしなら、ここでは、〈雨〉に拘泥せざるをえない。〈雨〉を繰り込んだ歌は、他にも幾首か見られるが、わたしは次の一首をこの二首に対置させて詠んでみたいのだ。

 疾駆することなく過ぎし四十年 列島は未明の雨にうるおう

 さらに、この「雨にうるおう」を敷衍させていけば、苛烈な一首へ辿り着くことになる。

 透過せようすき皮膜を 権力の内がわはかくも湿りやすくて

 「勇猛なスサノオ」よりも「泣き虫スサノオの幼い頑迷さ」に好感を抱く著者ならではの歌篇だといっていい。友の死をめぐる歌篇を巻頭に配置したこの歌集は、彷徨えるわが国の在り処を指し示すかのように、湿り気を帯びる〈雨〉の時代を象徴させている。それは、神話的にいえば、スサノオの“涙雨”でもあるのかもしれない。それはまた、ただ“たたかう”気概よりも、“敗走”していく決心の方が遥かに重いことを意味する。
 加藤は時代とか情況とかを、意識の中にいれて自らの表現に課しているのではない。自らの四十代から五十代にかけての生きている場所を確認し続けているだけなのだ。
 わが列島は、“未明の雨にうるおう”ことができるのだろうかと、激しく問い続ける歌人・加藤英彦の立ち姿をわたしたちは思い浮かべればいいのだ。
 そんなふうに、この歌集をわたしは、詠み終えた。

(『図書新聞』07.1.27号)

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2007年1月12日 (金)

太宰 治 著『大活字版 ザ・太宰治 全小説全二冊』・第三書館刊(06.10.25)

 誰もがそうだと思うが、太宰は漱石とともに、わたしにとってなによりもアドレッセンスにおける作家だといっていい。とくに、どこか感性の置きどころに難渋していた時期、太宰の作品世界は、ある意味、拠りどころになっていたといっていい。さらに、もう少し踏み込んでいえば、世代を超えて読み継がれ、また後年になっても読み得ることのできる数少ない普遍の小説家だともいえるはずだ。いま、あらためて本書を前にして太宰治の世界へと想いを馳せてみるならば、その時々によって傾注する作品が違ってくることに気がつく。作家生活が十五年ほどという短さに関わらず、その作品世界の深度は幾層にも分岐しているからだといっていいだろう。なんといっても、最初の著作に『晩年』と名づける太宰治の作家としての矜持は、他を寄せつけない世界をかたちづくっているのだ。十代の時、その書き出しに魅せられたわけだが、恐らく、多くの太宰読者もそうだったに違いない。 「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。(略) ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。」(『下巻―「葉」』・4P) あるいは、これも比較的前期の作品となる「女生徒」にはこんな描写があるのだ。 「(略)朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。(略)朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。(略) 朝は、意地悪。」(『下巻』・196P) 「死のうと思っていた」、「ノラもまた考えた」、「朝は、意地悪」といった言葉の断片は、それだけでひとつのイメージをかたちづくるものとしてあった。センシブルで、どこかリリカルな装いを醸し出して、青春期の人間にとっては、否応なしに引き入れられていく場所としてそれはある。 しかし、一方では、「女生徒」と同時期に、「富嶽百景」を発表している。この作品は、「太宰治の生涯のうち、身心ともに健全で、つとめて世間の常識通りに従って生活しようとした唯一の時期」(吉本隆明)に書かれたものとして捉えられているものだ。執筆のため投宿をしている、冨士がよく見える峠の茶屋に、二人の若い女性が訪れ、富士を背景にカメラのシャッターを押してくれと頼まれる。冨士だけをレンズに捉え、人物を外してシャッターを押したことを、淡々と描写していくこの作品は、確かに、太宰にはめずらしい〈健全〉さを直截に表出している。 さて、本書のようなかたちの“全小説集”は、記憶に間違いなければ、たぶん二十年ほど前からの刊行になるはずだ。B5判の大判一冊で夏目漱石の全小説作品が読めるとして出版された『ザ・漱石』が評判になり、以下シリーズ化されていった(『ザ・大杉栄』までもが刊行されたのには驚いたものだった)。以前は旧版の復刻版のようなかたちで、しかも三段組だったため、けっして読みやすいものではなかった。最近は、現代表記版を出し、そして大活字版へとそのかたちが改められて刊行されるようになっているようだ。何年も前から大活字本は出版されてはいたが、当然のことながら、いまや趨勢となってきた感がある。わたしは、ちくま文庫版『太宰治全集』を愛蔵本としているが、全二冊に圧縮され、しかも大活字で新組みにした本書は、太宰作品をなにがしか確認するには、何冊にもわたる文庫版全集よりは、はるかに使いやすいと思う。各巻の巻頭に書影があり、幾つかのカテゴリーに分けて、端的な解説も付されている。こうして、太宰は依然、リアルな物語作家として現在も在ることを確認することになるわけだ。 全二巻の大冊を読み通して、わたしは、太宰の一編を選ぶとしたら迷わず挙げる作品があることを思い起こした。それは、戦後直ぐに発表された太宰にとっての初の戯曲作品「冬の花火」である。わたし自身、何度か取り上げているから、いまさら繰り返すまでもないかもしれないが、やはり、〈戦後〉という時空を考えに入れて捉えてみても、「斜陽」よりは、太宰の〈戦争―戦後〉ということへの想いが色濃く投影されている作品だといっていいはずだ。 「ねえ、アナーキーってどんな事なの?あたしは、それは、支那の桃源郷みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの。気の合った友だちばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植えて、ラジオをも聞かず、新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙も無いし、演説も無いし、みんなが自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を愛して、そうして疲れたら眠って、そんな部落を作れないものかしら。」(『下巻』・848P) 主人公の数枝にこういわせながら、最後には、「桃源郷、ユートピア、お百姓、ばかばかしい。みんな、ばかばかしい。これが日本の現実なのだわ。さあ、日本の指導者たち、あたしたちを救って下さい。出来ますか、出来ますか。」と吐き出させる。「冬の花火」が発表されたのは、終戦の半年後、一九四六年三月である。「斜陽」が、発表されたのは四七年、そして、四八年六月、太宰は心中死した。

(『図書新聞』・07.1.20号)

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2007年1月 1日 (月)

「つげ義春の現在(いま)」

 つげ義春は、寡作の漫画家として知られている。一九八七年に発表された「別離」という作品以後、漫画作品を発表していない。ちょうど二十年経ったことになる。ふつうは、新作を二十年間も発表しない作家や表現者は、忘れ去られていくものだが、つげ義春の場合は違う。その間、『つげ義春全集』(全八巻・別巻一)をはじめ数多くの作品集、著作が発行され、映画化された作品は五作品を数え、テレビでの映像化作品も数多くある。
 かつて、わたしに「なんだかマンガひと筋に打ち込めない何かがあるようで、マンガを描くために生きているんではないような、いつも半端な気持ちでいるので、何かあるとすぐやめてしまおうという考えになるんですね。(略)ですから腰を落ち着けてマンガひと筋という気持ちがいまだにないんですよね。(略)マンガが目的ではないから、いつやめてもいいわけですし、いつ休筆してもいいんですよ。」(「幻燈5号」・〇四年四月刊)とつげが述べたことがあるように、つげ本人にとって作品を発表しないということは、特別のことがあってのことではない。しかし、この二十年の間には、大きな出来事があった。九九年二月に藤原マキ夫人が亡くなったことだ。
 その後、数年間の著作としては、九八年から引き続きの企画として出された新潮文庫版の作品集『蟻地獄・枯野の宿』(九九年五月刊)と旧青林堂で刊行されていた作品集の再刊でもある『つげ義春作品集 ねじ式』(青林工藝舎・二〇〇〇年六月刊)の二点だけであったし、二〇〇〇年から雑誌「一個人」で「つげ義春さんが描いた漫画の中を歩く」と題されたシリーズのなかで、インタビュー談話が僅かに掲載されただけである。
 先に引いたつげの発言は、〇二年六月につげの公私ともにわたる最大の理解者・高野慎三との対談をわたしが司会をして行ったものだが、七時間にも及ぶ長時間のものとなった。つげにとってのマキ夫人の不在という〈空白感〉に対して、わたしたち外部のものたちが、あれこれなにかを出来るなどという思いあがった考えははまったくないつもりだ。だが、わたしは、これまでつげ作品から受けてきた多くの感銘と強い影響に対しての僅かばかりの“返礼”をなにかのかたちでしなければと、このとき思ったことは確かだ。山田勇男監督による映画『蒸発旅日記』の撮影が開始され、山下敦弘監督による『リアリズムの宿』の映画化が決まる。同年一〇月、嶋中書店から廉価版作品集が刊行される(全八冊―〇四年三月完結)。そういう時期に、カタログハウス社主の発案よって、ほぼ九年ぶりのオリジナル企画の著作『つげ義春の温泉』(〇三年一月)が刊行される。この本の進行にわたしが関わり、作品解説は高野慎三が執筆した。以降、講談社から、『初期傑作短編集』(全四巻)、『初期傑作長編集』(全四巻―〇四年二月完結)が刊行されていく。このような情況を“第三次つげブーム到来”と見られたかもしれない。
 しかし、またこの後、数年、現在までのところ、つげは表立った場に登場することもなく、著作も刊行されていない。
 以下、ここからはいくらか私事に絡めながら述べていくことになる。わたしは二十年ほど小さな新刊書店をやっていたが、〇四年三月をもって閉店した。しばらくして、つげは心配をしてわたしに電話をくれた。一時間以上は話したと思う。細やかな気遣いに、わたしはその時大いに励まされたといってもいい。直接、会うこともなく電話での遣り取りや手紙や賀状といった通交が続く。ところが、昨(〇六)年、三度ほど公的な場でつげと会う機会があった。一月、高野慎三がやっている北冬書房と書店兼文具店「いかるが」が、道路拡張のため移転を余儀なくされて、「万力のある家」として新オープンした日。三月、同所での高野の故・真美子夫人(マキ夫人と同年の三月逝去)を偲ぶ会、そして、九月は、うらたじゅん作品集『嵐電』の出版を祝う会。かつては、といっても十五、六年以上は経ってしまったが、北冬書房の忘年会や新年会には、たびたび出席することがあったから、気心が知れた人たちが集まる場所であればこそのことだ思う。つげから直接聞いたことであるが、同業者(つまり漫画家)同士の交流は意外にも、ないらしい。漫画家からの著作の贈呈はまったくないともいっていた。むしろ、つげには漫画家以外の人たちからの寄贈本が圧倒的に多いはずだ。ともあれ、高野慎三の北冬書房関係の作家とはいえ、同業者の出版を祝う会に、つげが出席したことは、これまでほとんどなかったはずだ。高野から後に聞いたことだが、つげにとって、うらたじゅんは一度会っておかなければならない人だったから出席したのだといっていたとのことだ。つげ作品に深い共感をもっているうらたじゅんにとって最高の僥倖の場になったといえる。ところで、わたしはその日、つげをほとんど独占するようなかたちで雑談を交わした。そのなかでひとつだけ印象に残ったことがある。「老い」と「身体」に関する問題についてである。そこで話題になったのが、吉本隆明著『老いの超え方』だ。表紙カヴァーに吉本が杖を突いて前かがみになって歩く姿の写真が掲載してある。つげはそういう写真を敢えて掲載した吉本に対して驚きを感じたそうだ。自分だったらどうするだろうかというのが、もしかしたらつげの思いだったかもしれないが、わたしは、そのことには触れなかった。むしろ書店でそれを見てつげが買い求めたことに対してわたしはある種の感慨をもったといってもいい。つげ義春の現在(いま)ということを考えることは、わたしたちの現在(いま)について想起することだと思う。誰にでも訪れる身体の確実な後退、そこで、いったい何がしかをどうなしうるかということを意味していると、わたしなら考えてみたいのだ。
 さて、つげにとって現在、唯一進行している営為がある。それは、北冬書房のWebsiteで「つげ義春旅写真(http://a.sanpal.co.jp/hokutoh/tsuge/)」の連載が始まったことだ。つげは以下のようなコメントを寄せている。
 「これまでに旅先で写した写真を(断続的になるかもしれませんが)ここに掲載することになりましたのでよろしくご高覧いただけると幸いです。ただし写真家のように表現を意図したものではないので、何も意味のない写真ばかりです。(以下略)」
 いまのところ福岡県篠栗霊場の写真(七〇年一〇月、七二年一月撮影)が、二〇点ほど、アップされている。つげは、「写真家のように表現を意図したものではないので、何も意味のない写真ばかり」だと謙遜して述べているが、そうではない。『つげ義春の温泉』に収録した未発表写真の時もそうであったように、そこに描出されている風景は、まぎれもなくつげ義春的風景なのだ。そう、つげ義春は、依然、わたし(たち)の前に、飄然と立ち続けているのだということをこの新しい試みで確認できるはずだ。(文中敬称略)

(『図書新聞』・07.1.13号)

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