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2006年8月28日 (月)

松本健一 著『日・中・韓のナショナリズム―東アジア共同体への道』(第三文明社刊・06.6.12)

 歴史を物語ることとはなにか。本書での松本健一は、そう問い掛けながら、現況の様々な問題を切開しようとしている。むろん、ここでの歴史とは近現代史のカテゴリーに含まれる時間性を意味している。
 松本はこう述べる。
 「私は、『歴史はつねに現在の物語である』と考えています。かつてあった事実を『いま』、『私』が物語る、というのが歴史でしょう。(略)私にとって歴史の方法とは、過去の事実を、『いま』という時点から、『私』という主体が語るというものなのです。」(66~68P)
 ソ連邦崩壊によって、米ソ対立構造という世界の枠組みは、グローバリズムという僭称のもとアメリカ一国支配構造へといっきに至っている。そして、そのことへの反転としてナショナルな情勢が様々に生起していることもまた、確かなのだ。わが国では、小泉政権誕生後によって惹き起こされてきた諸々の位相における「気運」は、松本に倣っていえば、アメリカに対してとは違いアジアに対しては明らかに「閉じられたナショナリズム」を頑強に主張しているといっていい。だが一方では、わが国とのあいだに深い軋轢が生じている韓国、中国においても、それは同様のことがいえるのだ。なぜなら、互いの歴史への「物語」の記述に、「かつてあった事実を『いま』、『私』が物語る」という視線が欠けているからだ。“日・中・韓”とも、「私」が語るのではなく、過去の「国家」という幻想が語っているにすぎない。つまり、国家としてのアイデンティティとして歴史を語る限り、そこでは交錯や通交は発生しないということになる。
 松本が本書で語っていることは、極めて明快なことだ。「靖国問題」、「歴史教科書問題」、「領土問題」、「憲法改正問題」と、現在の東アジアにおける暗渠のような隘路に陥っている政治的・歴史的問題を、「『私』が物語る」ことによって見事に切開しているからだ。
 靖国神社が、戦後、「国家神道の要素を残した」かたちで宗教法人化して、〝ねじれた状態〟であり続けてきたことをつよく指摘しながら、A級戦犯合祀の矛盾を鋭く突く。そして先の戦争に対する見地を、松本は、竹内好の論稿「近代の超克」を援用しながら、「大東亜戦争の二面性」という視線で明らかにしているのだ。
 「一つは、米英に対する帝国主義国家『間』戦争という側面です。ここでは、正義も不正義もない。あるのは、帝国主義国家同士が覇権を争って、勝つか、負けるかということです。(略)もう一つはアジアへの侵略戦争です。(略)『アジアの解放のために』という美名は、ある意味では欧米からアジアの植民地を奪うことだった。(略)A級戦犯というとき、米英に対しては単に帝国主義『間』戦争に負けた戦争指導者ということです。しかし、アジア諸国に対してとなると侵略戦争を起こした責任が問われてくるのです。」(43~44P)
 たぶん、ここ数年の十五年戦争をめぐる言説の多くは、ここでいう「二面性」をひとつのものとして、あるいはまるごと一体のものとして錯誤して捉えてきてしまったことにある。歴史教科書の書換えを目論む勢力が主張する自虐史観からの脱却という方途は、戦後のアメリカ的民主主義の網目の綻びを恣意的に大きく引き裂こうということなのだろうが、それ自体、間違いではないとしても、しかし、網目のなかにあるものを直視していないことからくる、皮相な行為としてしか、わたしたちには映らないのだ。時としては滑稽な、憐れみを誘う、先の戦争を正義の戦争としなければならないという喜劇を演じているといってもいい。松本が竹内好の「二面性」論を援用することの意味は、その網目のなかの深い位相を掘り起こすものであることは、自明なことなのである。
 ところで、ひとつだけ、憲法九条の問題だけが、わたしにとっていくらかの異和として残った。松本は九条の堅持を基本的には主張しながらも、自衛権は保持するというものだ。ただし、海外派兵の禁止や自衛という方便による攻撃にしっかり足枷をするという考えである。それ自体、かなり合理性を持ったものだし、確かに現実的であるかもしれない。だが、わたしは、国家であることのアイデンティティとして軍隊を保持するという考えはとらない。だから、「国家」を“開く”意味において、例え純粋自衛であっても国軍を否としたいと思っている。
 さて、本書における松本の眼目は、「共生」ということである。中国の驚異的な経済発展を背景とした新たな覇権主義に疑義を呈しつつ、中・韓が主張してやまない歴史問題や領土問題に潜在する「閉じられたナショナリズム」を超えるものとして「共生」への指向を提起している。
 「自分と他者の間に線を引いて自分の権利を主張する。これが西洋近代を引っ張ってきた『民主』の理念なら、それを超えていく理念が『共生』の思想です。」(211P)
 戦後(アメリカ的)民主主義が、その内部から破綻をきたしている時、対処療法として噴出する閉じたナショナリズムではなく、東アジアをめぐって共生へと向かうべきだとする松本の提言を、わたしなりにいいかえればこうなる。過去の歴史物語に視線を巻き込まれていくのではなく、未知の歴史物語を開いていくことが、現在のまた、これからの道筋であると。と同時に、これからの「国家」は“開いて”いくべきだということになる。

(『図書新聞』06.9.2号)

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