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2006年7月29日 (土)

「つげ義春的風景」

 かつては、温泉地を中心にかなりよく出かけていたものだったが、近頃は、旅行に出かけることが極端に少なくなってしまった。もともと賑やかな所よりは、関心のある社寺や宿場跡といった静かな場所を好んでいたし、仕事(二年前まで小さな書店を営んでいた)の関係で、長い休みが取れないため、北関東や信州、伊豆といった比較的近い場所を選ぶしかなく、だんだん行ける場所が限られてきたからだと思う。また、年齢を重ねるとともに、そういった関心が拡散してきたということもあるかもしれない。いまはむしろ、近辺を“散歩”するということで、旅に代わる未知の発見に出会う体験をしている。もともと、旅行では、目的地を観光するということよりは、“周辺”を散策して、新たな発見を期待するということの方が多かった。遠く、未知の場所に辿り着きながらも、なぜか、なんでもない家並み、路地、食堂、雑貨屋など、観光場所とは違うその町の日常的な暮らし場所とその土地の人たちとのわずかばかりの接近を通して、穏やかな気分とともに、落ち着いた気持ちになり、それで旅の目的が達せられたように思ったものだった。
 後になって、わたしは、このような気分にさせてくれた“風景”を、いつのまにか、「つげ義春的風景」と呼んでいた。漫画家・つげ義春には、いわゆる旅作品といわれる系列のものが多くある。そこで描かれている場所は、山奥の温泉場であったり、湯治場であったり、いわゆる鄙の場所がほとんどだ。それでも、登場する人物たちのユーモラスな振るまいは、なにか心豊かな生活力をもっているように感じさせてくれて、わたしを心地よい気分にさせてくれる。だから、旅先で出会う安穏な場所はいつも、つげ作品に出てくる場所のように思えてならないのだ。
 二十年以上前、信州・別所温泉に行った時のことだが、北向観音を見た後、遅めの昼食をとろうと、向かい側の階段を降りていった。途中に、不思議な佇まいの食堂があったので、入ることにした。客はもとより誰もいない。何度か呼んで、ようやく昼寝をしていたらしい年配の男性が出て来て、注文を受けてくれた。肉うどんをすすりながら、ビールを飲んでいたら、孫のような女の子が一人、楽しそうに座敷を駆けずり回って遊んでいた。他人の家に上がりこんでしまった招かざる客のような気分になったのだが、それでもなぜか、ほのぼのとした感じを抱いたことを、忘れられない思い出として、今も残っている。

(『Tsuchiつち』06・8月号)

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2006年7月28日 (金)

「つげ義春の初期(2)」

 「短編集」に続いて、「初期傑作長編集」が現在、講談社から刊行中だ。最新刊の第三巻にふれてみたい。忍者漫画を中心に編まれたこの作品集は、白土三平の絵柄に近似しているものの(『忍者武芸帳』の評判にあやかって、貸本漫画の版元が依頼する以上、白土的にならざるをえないと思われる)、やはりつげ義春ならではの作品群だ。「忍びの城」の影武者の悲痛な結末。「流刑人別帳」の救済のない物語。「上忍下忍」の功名の先の奈落。しかし、三作品に共通していえることがある。それはどれも復讐譚であるということだ。「忍び」と「流刑」では、一応それが果たされたというかたちをとっているが、「上忍」では未遂というかたちで終わっている。つげが、時代物(忍者物)にありがちな、復讐譚を物語としたことを、わたしはやや意外な感じで、読後、受けとめたといっていい。だが、ここからはわたしのやや強引な論述になるかもしれない。わたしたちにとって、ありがちな復讐譚を、つげ作品の物語展開では、巧みに挿入されることによって、ある種の衝撃性をもたらすのだ。語りつくされた類似性から脱却して、そこには、忌避できない〈事実〉性といったものを表出させている。忍者が表の顔と裏の顔をもつというモチーフをつげ作品にあっては、言いようのない〈悲痛さ〉をもたらす結果として描写しているのが、つげ忍者漫画の特色だといっていい。

「新都市新聞社(清水昶の新俳句航海日誌)・掲示板」04.1.29掲載

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2006年7月27日 (木)

「つげ義春の初期(1)」

 講談社から『つげ義春初期傑作短編集』(全四巻)が刊行された。なぜか、池上遼一(通交にまつわる文章だ)を別にすれば他の解説文、そして一、二面を割いて特集をしていた「週刊読書人」の文章も、〈初期〉の作品に戸惑っている、あるいは自分たちが認知しているつげ作品とは、別物だといった感想で占められているといってもいい。十七歳の時に、メッキ工という過酷な仕事からの離脱を夢想して4コマ、一コマ漫画の投稿から始まったつげ漫画の軌跡を、丸みを帯びた描線と類似した画風があるからといって〈初期〉を軽視していいとは、わたしは思わない。もちろん、筑摩書房版全集、刊行の際、初期の貸本漫画作品の多くを収録しなかった理由として、つげは「稚拙で未熟な過去を晒すのは気がすすまぬ」とし「粗末な作であるのは生活苦による乱作のためばかりではなく、マンガ全般のレベルが低かった時代」だったからと述べている。では、なぜ今、全四巻で刊行することになったのかと、非難の声が聞こえてきそうだ。しかし、少部数(千部ほど)とはいえ、すでに、69年に一度、77年から81年までは全10巻、初期作品集が出ているから(それ以外に、復刻版も出ている)、全集刊行時のつげ発言は、彼独特の一種、衒いをもったものだと理解すべきだとわたしは思う。
 わたしは、今、改めて、〈初期〉ということを考えてみたくなった。もちろん、つげ義春という作家の〈初期〉というだけではなく、表現者にとっての〈初期〉という問題をである。

● 『つげ義春初期傑作短編集』の第三巻に収載されている文章の一部分を引いてみる(わたしは、初出時に読んでいる)。「赤塚不二夫、長谷邦夫に会ったのも三十年(註=昭和、つげ、十八歳の時)だったように記憶している。赤塚は小松川の化学工場に住込みで働いていた。彼に近づいたのは、近くにマンガ仲間がいなくてさみしかったせいであった。(略)そこへ長谷が現れ紹介された。ぼくは、彼ら(註=石森章太郎もいれた三人を指す)を若木書房に紹介する話をもちだすと、低俗な貸本マンガを軽視しているかのふうで、彼らはのってこなかった。」(「デビューの頃」)
● 久しぶりに、現代詩文庫『清水昶詩集』を取り出して見ていたら、後半の文章群のなかに次のような箇所があった。「先日、つげ義春の漫画集を読んで感慨深かった。奥深い村落の人たちの考えかたや風景が実に素朴なリアリティを持って表現されていて、わたしの少年体験を非常になつかしく呼び醒ましてくれた。」(70年5月)

「新都市新聞社(清水昶の新俳句航海日誌)・掲示板」03.8.28掲載

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