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2006年6月23日 (金)

「抒情の詩―清水径子讃」

 わたしは、かつて、四季派の詩人たちのような自然や草花をモチーフとした作品は苦手であった。なにか、生きていることから遠くへ離反していくかのような立ち位置に思えてならなかったからだが、そのことは、わたしの皮相な感受の仕方と捉え方に過ぎなかったと気づきはじめた時、早世した四季派の詩人たちと近い年齢に、わたしはなっていた。自然や自然の景物へ視線をめぐらせることは、実際に、“生きて在る”ことへの反照でなければならないと思い始めたのは、一人の詩人の詩篇に出会ったからであり、さらにそのことに、強く確信した思いを抱くことになったのは、清水径子の俳句作品に接してからである。
 「白い花」という一篇の詩がある。アナキスト詩人・秋山清が十五年戦争時に書いた詩である。後年、吉本隆明が、「日本の詩的抵抗の最高の達成」と評している詩だ。北寒のアッツ島に咲くヒメエゾコザクラという白い花を通して戦争というものへ抵抗の想いをそそぐ、静謐な詩篇である。声だかに反戦を主張することができない時代に、唯一の詩法として草花に託し、秋山はこの一篇を書いたといってもいい。もちろん、秋山にとって草花はなによりも愛しい存在であったからこそできたことだったのだ。
 そして、清水径子という詩人は、自然や草花に自分の“生きて在る”ことのすべてを込め、それを俳句形式に託して、「表現」してきた人だと、わたしは思っている。自然の景物を前にして、ただ立ち尽くすのではなく、それを自分の側に引き寄せ、自らの感応を通してまた、あちら側へ返すという膂力の様を、径子俳句は見せてくれているのだとわたしは思う。その時、自然や草花が生きている証しとなって屹立していくのだ。

 慟哭のすべてを螢草といふ(『夢殻』)
 転生の直後水色野菊かな(『雨の樹』)

 「慟哭」や「転生」という詩語を、わたしは衝撃をもって受けとめたことを、忘れることができない。それが、「螢草」や「野菊」という草花と連結されることで、硬質な抒情性を詠むものに感知させる。俳句がこんなにも、強い抒情を湛えることを、わたしは知らなかった。

 知つてしまふ事の淋しさ花野とは(『雨の樹』以後)

 老いや死は、誰にでも訪れることだ。しかし、実際にそのことを身を持って思い知る時、人はどのようにそれを感受していくことになるのだろうか。俳句という詩型への渇望をたえず持ち続けていた清水径子にあって、“淋しさ”とは、すべてへの鎮魂の思いを込めたものであると、わたしなら捉えてみたい気がする。

(『らん』32号・06.2.21)

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2006年6月21日 (水)

『清水径子全句集』(清水径子全句集刊行会刊・05.2.27)

 わたしが、清水径子という俳句作家を初めて知ったのは、いつのことだったろうか。そもそも、わたし自身、俳句を本格的に読み始めてそれほどの年月が経っているわけではないから、せいぜい十五、六年のことだ。
 きっかけは、今はもうない雑誌「俳句空間」であったか、清水が所属していた「琴座」誌であったかは、もう思い出せない。
 わたしの極めて平板な俳句読みのプロセスは、高柳重信と永田耕衣に尽きる。あとは、枝葉のように肥大させて読んできただけにかなり恣意的なものだ。わたしが読み始めたときは、もう重信は亡くなっていた。自ずと耕衣の営為に伴走していくことになる。耕衣主宰の俳句誌「琴座」は、ジャンルを越えてわたしを魅了してやまない雑誌だった。この「琴座」に清水が参加したのは、師秋元不死男(清水の実姉の夫)が亡くなって後、一九七九年のことだ。俳句結社誌というものは、まるで王位継承のこどく子供(主に)が継いで、継続させていく場合もあれば、一代限りで解散する場合もある。耕衣の「琴座」や、不死男の「氷海」は、後者の場合だった。では、所属している俳人たちはどうするのか。「氷海」の場合、鷹羽狩行という俳人が、あらたに、「狩」という雑誌を創刊させた。しかし、清水は参加しなかった。その当時のことを、「琴座」編集長・金子晉がつぎのように述べている。清水径子という俳句表現者の見事な「矜持」を窺い知る格好のテクストだ。
 「(略)『琴座』へ一介の投句者として清水径子さんが句を寄せてこられた時には僕達すっかり驚いたものだった。それも中尾寿美子さん共々のことだったから余計に仰天したわけだ。ご両人は、言わずと知れた『氷海』の重鎮であるばかりか、俳壇きっての女流の星である。そんな高名な俳人が、なんの前触れもなしに、いきなり雑詠欄に句を投じてきたのだから永田耕衣もびっくりして、早速僕に連絡があった。(略)その当時、俳壇雀の間でも、このお二人の行動は、ひときわ清々しいものとして話題に上がったものだった。なんでも、亡師秋元不死男の年忌も済まされ、お二人が兼ねてより憧憬されていた永田耕衣へ、この際、初心をもって臨もうという心意気だった由。多くの場合、己がしがなき俳歴をもって結社を遍歴するのとは大いに異なって、この本来的な第一義の姿勢は、まことに爽やかな挙動として多くの共感を得たものであった。」(「命いとしく―清水径子俳句管見」・「俳句空間NO.19・1992.2」)
 ここには、清水径子という俳句作家としての矜持ばかりかその表現姿勢も見事に伝えている。金子がいう「本来的な第一義の姿勢」を「初心をもって臨もう」とすることは、誰にでもできることではない。自分自身に対する極めて真摯な内省と渇望する表現意志がなければできないことだし、それは、言葉で形容すれば、いかにも皮相なことになってしまうが、もっと別様にいえば求道的といってみたくなるほどに、韜晦に徹した自律的なものだ。わたしが、後年知る清水径子は、この時の清水径子と寸分違わない像としてある。しばしば、全句集刊行を固辞する清水は、わたしに向かって、わたしのようなものの句集なんて誰も読みませんよと繰り返し述べるのだった。これは、もちろん読者を無視したいい方でも、謙遜を含んだいい方でもない。要するに、句集というかたちにまったく拘らないでの表現を自分は志向しているのだといいたかっただけなのだ。今年、九四歳になった清水は、七十年にも及ぶ俳歴のなかで句集は四冊。ここ十年でも二冊というのが信じられない少なさだ。それは、詩や短歌もそうであるように、どんな高名な作家でも、基本的に自費出版が多いということを意味している。それでも、大きな結社を主宰していれば、様々なメリットがあり企画出版と変わらないかたちで出せることが可能だが、それはほんの一握りだ。
 だが、第三句集『夢殻』(一九九四年刊)、第四句集『雨の樹』(二〇〇一年刊、第十七回詩歌文学館賞受賞)で、わたしたちの眼前に清水径子の世界を見事に屹立させたことは、いうを待たない。そして、さらに拡がった径子俳句の読者にとって、入手困難な初期の二句集(『鶸』、『哀湖』)への渇望が当然のように起きてきたのだ。
 わたしたち(清水が所属している同人誌「らん」のメンバー四人とわたし)は、ならば、刊行会を編成して、直接購読を募り(句集は贈呈しあうのを常としている)、それを制作費にあてて、清水径子の全句集を出そうと思い立ったのは、ほとんど自然な流れのようだったと今にして思う。
 企図してから一年、思いのほか早く、このほどようやく全句集が刊行に至った。あらためて、豊穣な詩的世界にただ瞠目するだけでいい。わたしはいまそんなふうに思っている。刊行会の編集委員を代表して鳴戸奈菜は、「清水径子の俳句は、日本文学の本質の一である抒情を俳句に汲み入れた類いまれな作品である。俳句の財産として、現在はむろん後世まで大事に読み継がれることを願い、また確信している。」(「刊行のことば」)と評している。それ以上のことはもういわなくていいだろう。径子俳句には、月並な批評を排する強さがあるのだから。

 野菊流れつつ生ひ立ちを考ふる(『鶸』)
 老いられぬ夏潮のかく溢れては
 弟に白梅わたす夢の中
 くだかるるまへに空蝉鳴いてみよ(『哀湖』)
 流れより野菊を拾ふめぐりあひ
 肉体のいづこを押せば梅の花
 生の空死の空いまは春の空(『夢殻』)
 慟哭のすべてを蛍草といふ
 負けの記憶都忘れを呉れたるよ
 妄想の草深ければ鳥兜(『雨の樹』)
 おいしい水にわれはなりたや雲の峰
 転生の直後水色野菊かな
 ぽんと肩を叩かれて今日子規忌か(『雨の
 樹』以後)
 ちらちら雪弟よもう寝ましたか
 知つてしまふ事の淋しさ花野とは

 「野菊」や「弟」は清水径子がしばしば取り入れるモチーフだ。だが、最初期の『鶸』から『雨の樹』あるいは『雨の樹』以後にあっても、「野菊」や「弟」は変わらなく緊密性をもった詩語としてあることに驚く。そこには絶えず濃密な想いが一貫して込められているからだ。熱い抒情といえばいいだろうか、それが詩魂として内在しているから径子俳句はわたしたちの内奥を撃つのだ。
 いま、この全句集によって、清水径子という類いまれな表現者のすべてと触れ合うことができることになったことを、刊行会という立場を離れ、純粋に読者として、わたしはいま、あらためて僥倖なことだと思っている。

※『清水径子全句集』
四六判 260頁 定価5800円・送料梱包代400円(直接注文は、合計金額6200円を郵便振替で00150-3-64543口座名・燈書房)
発行・清水径子全句集刊行会/発売・らんの会

(『図書新聞』05.4.9号)

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2006年6月19日 (月)

暮尾 淳 著『ぼつぼつぼちら』(右文書院刊・05.10.31)

 暮尾淳の新著を前にして、なにから書き始めたらいいだろうかと、逡巡する。だが、どうしても私事にまつわることから書き出してみたくなる。わたしと暮尾との通交は、ここ一年ほどのごく最近のことだ。その間、なにげない会話のなかで、家族のことに及び、暮尾はわたしに、ふたりの姉弟が自死していることをたんたんと(そのように、わたしが感じたにすぎない)、語ってくれた。その後、ベトナム戦争を精力的に活写し続けたカメラマン・岡村昭彦のことを、わたしは、ほとんど忘れかけていたのだが、「岡村昭彦の会」というものがあることを知った。そこに米沢慧、芹沢俊介などともに、暮尾淳の名を見つけ、そのことを訊ねた時、暮尾は、岡村のアシスタントのようにしてベトナムへ行ったことなどを話してくれた。しかし、詩人・暮尾淳とその岡村との接点に、なにか釈然としなかったことを覚えている。
 本書『ぼつぼつほちら』は、構成的にいえば、「詩」三十五篇、「俳句」百八句と、石垣りん、伊藤信吉、そしてその岡村昭彦への「追悼的エッセイ」の三篇からなっている。ほんとうは、「石垣りんについての諸家の書いた文章のなかでも屈指のもの」だと編者の堀切直人がいい切る「石垣りんさん」という文章から真っ先に触れるべきであろうが、わたしはどうしても、「走れメロス」と題した岡村への追悼文へ視線がいってしまうのだ。そして、それを読んで、暮尾と岡村とのもっと深い関係性を知ることになる。
 「今となっては何かに生かされてきたとでもいうしかない過ぎた日々のために、摩滅しかけている記憶の襞々を、懸命に手繰り寄せなければならない。」と述べながら、「死んだ人たち」のことを、「そっとしたままで、裏町の酒場でひっそり酒を飲んでは偲んでいたいというわたしの気持に迷いが生じたのは、いつの間にか老年の坂に差しかかり、若くして自ら命を絶った姉の純子や弟の聡それに現在の自分より九歳も若かったアキヒコの病死にまつわることどもが、重荷のように感じられ始めたからであろう。」といい、アキヒコと姉の純子との関係に触れていく。姉の死の時、暮尾は中学一年生だった。
 「生前最後となった純子が家を出て行くときの姿をを見たのは、家族のうちではわたしだけであるが、それが生涯にわたってわたしの人生に消えない影を落と」しつづけていったと述べる。暮尾のアドレッセンスに、後年の詩人・暮尾淳の作品世界を読み解く必然があるなどと、ここで訳知り顔にいいたいのではない。「死んだ人たち」のことを、「裏町の酒場でひっそり酒を飲んでは偲んでいたい」というように、たぶん、暮尾は、これまで詩もかいてきたはずだと思うからだ。わたしの関心が向いていく先は、そういうことが、「重荷のように感じられ」たり、通交のまだ浅いわたしにでも、たんたんとそのことを語ってくれるようになった暮尾淳の〈現在〉ということなのだ。
 「いまはおれの言いなりで/どこにでも気さくに付いてくる/死んだ弟と/トタン屋根の上で/巴旦杏を食いながら/星空をながめていたら/生あたたかい風が/さわさわと夜を渡り/星が流れ/ヘール・ボップ彗星がという/アナウンスが聞こえ/おれはあわてて眼をこすり/B747機の窓から/青白い渦巻模様が/冥い宙に浮かんでいるのを/ぼんやり見たが……」(「ヘール・ボップ彗星」)
 かつて、秋山清は暮尾の詩集の跋文で「暮尾淳は詩がうまい。(略)おまえさんは誰のために詩をかくのか」と厳しく問いかけながら、「詩とは自分を欺かぬこと、だから自分のためにだけ在るもの」と記している。むろん、秋山は、暮尾が誰よりもそのことを理解している詩人であることを承知のうえで、述べているのだが、この詩篇は、わたしに秋山のそのような言を思い出させずにはいられない。「死んだ弟」と「巴旦杏」を食べながら「星空をながめ」るという心象から、「彗星」を機内から見るという現実へ重ねながらも、実はそのことが、もうひとつの心象であることを示している。「死んだ弟」を「おれの言いなりで/どこにでも気さくに付いてくる」とすることで、暮尾の心奥の「重荷」を解き放ち、イノセントなアドレッセンスをイメージさせる「巴旦杏」という詩語と「ヘール・ボップ彗星」という詩語の対称が、沈潜していく抒情を逸脱させ、付着し続けた「消えない影」を昇華させていくのだ。芹沢俊介は、かつて「戦後詩の帰路」という命題をたてた『戦後詩人論』を著したことがある。いま、わたしは、いくらかその命題を援用して、この詩篇のなかに、さらに入り込んでいきたくなる。「死者たち」を、「酒場でひっそり酒を飲んでは偲」ぶということは、「生者」にとっては「往路」にあたる。つまり、関係性や世界との関わりを意識的にせよ、無意識的にせよ、抱えこんでしまうことを「往路」であると、わたしは捉える。そして、関係性や世界性との対自から、自分というものを解いていく方位を「帰路」といいたいのだ。いわば、そこにいたって、初めて「自分を欺か」ず、「自分のためにだけ在る」といった地平に降り立つことができるのではないのかと思う(誤解のないように、付言すれば、「往路」や「帰路」は時間性を意味しているのではない)。だから、わたしは、暮尾詩の〈現在〉を、「帰路の詩」の場所であるといってみたくなる。
 「自裁とはおまえのことだよ冬の虹」
 「はや落葉貧乏ゆすりふと止みぬ」
 もちろん、暮尾にとって俳句も「帰路の短詩」ということになるはずだ。
 そして、こういいたい。書名にとられている「ぼつぼつぼちら」といういいまわしを、わたしは、けっして軽妙には感じない。明確でつよい主意の表明が、そこにはあると。

(『図書新聞』05.11.26号)

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