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2006年6月 9日 (金)

大月隆寛 著『全身民俗学者』(夏目書房刊・04.9.1)

 最近では、テレビ番組(「BSマンガ夜話」)の司会者などでマルチな活動が目立つ大月隆寛が「民俗学者」という“肩書”をもっていることに留意しているひとは、あまりいないのではないかと思われる。たしかに最初の著書『厩舎物語』にしても、学としての「民俗学」がけっして焦点をあてない競馬の世界の、しかも裏方へ向けたフィールド・ワークだったが、わたしは、独自性と新鮮さにおいて出色な著作だと思っていた。そしていま、あえて、やや衝撃性を与えかねない〈全身民俗学者〉と題した本書を著者は提示する。一九九〇年から九七年まで発表された文章を収録した大月における初めての民俗学評論集成だ。しかし、大月にあっては“民俗学評論”といっても、わたしたちが一般に思い描く「民俗学」というイメージからは、やや遠い場所にあるものにフォーカスをあてている。だが、それはいってみれば、“民俗学的なるもの”がどういう位置付けにあるのかを考えてみれば分かることだ。「学」である以上、わたしたちが想起する場所とは、いつだってフォーカスのずれといったものを生じさせているのだ。たとえば、民間伝承といった研究を俎上に乗せたとして、果たしてその「民間」という概念をどう措定するのかといったことをかならずしも厳密に検証していくわけではない。いつも茫漠たる民俗学的前提があるだけなのだ。
 「民俗学的知性というのがあるとして、それはまず具体的なもの、小さなもの、微細なものに半ば手癖のように焦点を合わせてしまう五感を持ってしまったものであり、そのような五感のもたらす官能によってまず現実をかたちづくってゆくようなものである。
 それは、アカデミズムとジャーナリズム、学問と世間といった、それ自体は当たり前のような二文法をハナっから蹴飛ばしたところにいきなり現われるようなものでもある。雑然とし騒然ともした日々の流れに水泡のように湧き上がり、群れ集まってはいつか何かかたちあるものになってゆくような『教養』のかたち。説明つかないもの、来歴のわからない“もの”が静かに増えてゆく近代の過程の内側から、その“もの”の遍在と文字の遍在との間を繋いでゆこうとすれば、このような手癖の知性を志すことは確かにひとつの方法たり得る。」(59P)
 このような視線を抱懐する大月は、「学問の耐用年数」、「ジャーナリスト・柳田國男の志」、「未来を選ぶ『学問』」、「もう二度と『再生』などと言うな―柳田國男と民俗学の幸せな訣別のために」といった文章群のなかで、学としての「民俗学」的世界に対して厳しい楔を入れている。
 「ひとつの指針としてあり得ると思うのは、かつて柳田國男が『山の人生』などと言った時のあの『人生』の五感に対応するような、同時代の日本人の日常生活誌といったゆるやかなくくり方の中でどのような仕事ができるのかを考えることじゃないだろうか。」(129P)
 「(略)『柳田学者』の中にいわゆる『民俗学者』は含まれないのが常です。今、世間にどれだけ自称他称の民俗学者が存在するのか知りませんし知りたくもありませんが、少なくとも(略)肩書を『民俗学者』としてものを書き、(略)発言する人たちの間には、柳田國男について正面から語ることを潔しとしない雰囲気が未だ濃厚に漂っています。(略)民俗学者という看板をあげて世渡りする者の多くは程度や流儀は異なってもいずれ『地道』という民間信仰の信者であって、(略)良く言えば堅実、悪く言えば凡庸で了見の狭い人々であることが多いために、ご本尊の柳田國男とその仕事について世間に向かって世間が腑に落ちるようにきちんと語る言葉を獲得しようという余力を持てなかったという事情があります。」(157~158P)
 「民俗学の歴史とは、この国の民間学問システムの歴史に他ならない。それはそのまま、この国の民間人たちがどのような世界観で学問を構想していったのか、というまた違った近代史の範疇にある。民俗学の歴史とは実はそのような“方法の歴史”であり、(略)知識の社会史につながるものである。」(173~174P)
 「世間」というしかないもの(共同的感性から倫理性の意味あいを抜き取った位相として大月はこの言葉をしばしば援用している)、あるいは社会、俗世間、世の中、日常性といったくくり方からでは捉えきれないものへ“五感”をもった視線を向け、そこに遍在する「モノ」、「コト」を、大月ふうにいえば、“ことほぐして”なにが見えてくるのかということを開いていくことが、「民俗学者」・大月隆寛の「方法」であるとわたしには思える。
 このように、本書は、「教育」、「家族」、「事件」、「アニメ」、「食」、「住い」から「柳田國男」、「赤松啓介」、「平岡正明」まで多層、多様なモノ、コト、ヒトへと、まさしく縦横に大月の「世界観」をめぐらせた、「方法としての民俗学」評論集成なのだといっていい。

(『図書新聞』05.1.1号)

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2006年6月 8日 (木)

三村晴彦 著『「天城越え」と加藤泰』(北冬書房刊・04.10.21)

 映画『天城越え』(1983年)は、わたしにとって思いで深い作品である。本書の著者・三村晴彦の第一回監督作品でもあるこの映画作品の始まりのかたちから終わりのかたちまでを、わたしは、リアルタイムで遠望していたからだ。
 数々の名作を東映で発表し続けていた加藤泰は、1966年にはじめて外部(松竹)で撮り始める。三村は、『男の顔は履歴書』(後に撮影された『阿片台地・地獄部隊突撃せよ』が、先に上映されている)から、『江戸川乱歩の陰獣』(1977年)までの加藤泰の松竹作品すべてに助監督で参加している。なかでも、加藤泰のまぎれもない傑作であり、代表作の『みな殺しの霊歌』(1968年)では、単独脚本家としてクレジットされている。
 三村と加藤泰の関係は、通常の映画界での師弟関係と幾分、様相を異にしている。確かに、ことあるごとに三村は加藤を師として仰いでいることを明言している。それは、本書に収められている文章群によっても明らかだ。だが、本当は、加藤が外(東映以外の場所)で自らの作家意志を貫くためにどうしても、三村の助力が必要としていたから、時として強引に伴走を求めていた関係だったといってもいい。もちろん、脚本参加を求めるほど、加藤は三村を信頼していたからこそ成立した関係だったともいえる。
 加藤は、いろんな意味で妥協しない映画作家だった。だから当然、現場でも様々な軋轢を生んできたといっていい(本書でも記述されている、『人生劇場』での森繁久弥とのトラブルなど、大物俳優との軋轢は加藤の場合、多々ある)。名匠と呼ばれる映画監督であっても、結局は、孤立した存在なのだ。加藤泰の松竹での傑作群は、三村晴彦の助力なくしてはありえなかったはずだと、加藤が亡くなって十九年、わたしはいま思っている。
 本書は、映画『天城越え』の企画の始まりから完成までを記した文章と加藤泰との通交を語る文章からなる、書名と同じ表題の長編エッセイを巻頭に配置し、以下加藤泰作品『人生劇場青春・愛慾・残侠篇』(1972年)の撮影日誌、『天城越え』撮影ドキュメント、そして加藤泰との共同脚本『天城越え』のシナリオを一冊に収めたものだ。
 ここには、〈映画〉への熱い言葉が凝縮されている。加藤泰を「加藤さんは映画の英雄だった」(『加藤泰の映画世界』所収)といったのは、鈴木清順だ。三村もまた、加藤泰と同様に、「映画の英雄だ」と、わたしはいいたくなる。それは、「あとがき」を引いてみれば分かる。

「映画は死んだ。
 二十世紀でその使命を終えたのか。
 しかし、腹の底に、その炎はまだ確実にく
 すぶり続けている。
 そして、むかし学んだスタイル、姿勢で、
 僕は現在、テレビを撮っている。
 愛する映画に感謝を込めて―。」

 この痛切で、〈映画〉へ熱愛あふれる言葉は、あの少年(伊藤洋一)と娼婦(田中裕子)のみずみずしい情愛を描ききった『天城越え』の監督ならではのものだ。上映時間、一時間四十分ほどのこの映画は、少年をめぐる事件の表層を時間性をカットバックさせながら、開巻四十分過ぎに「私はハナ」、「咲いた咲いたのハナ」といいながら田中裕子演ずる娼婦ハナがようやく登場するシーンで、わたしたちは、鮮烈な印象を与えられることになる。雨が振り続けるなか、警察署から移送される田中裕子の表情、顔のアップ、スローモーションの美しさに、わたしは、震えるような感動を受けたことを、いまでも鮮明に覚えている。本書の表紙カバーは、その場面のスチール写真が見事にデザイン化されている。田中裕子はこの作品でモントリオール国際映画祭、毎日映画コンクール、ブルーリボン賞、キネマ旬報賞の各主演女優賞を総なめし、作品は、「映画芸術」誌、「キネマ旬報」誌の83年度ベスト・テンに見事、ランクインしている。

「ゆれて闇から見ている放れ猿の目。
 狐の目。その燐光。
 蜥蜴の目。

 これらのカットを、野村(引用者註=プロデューサーでもある野村芳太郎)意見に従い外し、通して観ると、流れがあまりにスムーズ過ぎて、何とも気のいかぬ空虚感を覚えた。〈映画は理屈ではない。つまるところ、監督の感性である〉と主張して、残すことにした。『天城越え』が、僕の最初で最後の作品になろうとも、後悔だけは残さぬために。」(33P)

 〈映画は理屈ではない。つまるところ、監督の感性である〉という三村の強い思いは、間違いなく映画『天城越え』に開花した。
 だがしかし、この文章は、『天城越え』撮影時から九年後のものだが、その間、三村は、加藤泰、音楽監督菅野光亮、照明技師宮原敬、撮影チーフ鈴木則男を亡くしている(さらに付言すれば、三村とともに松竹加藤作品を支えた丸山恵司カメラマンも亡くなっている)。

「あれから九年が経った。
 僕を取り巻く映画状況はすっかり変わった。大手の映画会社が自主制作を激減し、現在、映画を創っているのは、プロダクションとは名ばかりの、小金を持った街の資本家たちである。創り手たちも、プロフェッショナルが軽視され、アマチュアの跋扈である。日本映画にとって、最悪の季節というしかない。
 僕は、『天城越え』の後、映画を三本、テレビを四本監督したが、松竹で撮ったのは、その中の映画二本だけで、平成元年七月に、二十八年間お世話になった松竹を離れ、フリーになった。」(34P)

 そして、さらに十年以上経過している現在、わが国の映画状況は一見、華やかなようだが、それは違う。松竹大船撮影所の閉鎖、築地の松竹本社は何を目的にしているか分らない高層ビルになり、寅さん映画が終了した後、ヒットしたからといって、今度は山田・藤沢時代劇映画を延々創ろうとしている。そう、だから空虚としての日本映画(松竹映画)の現在なのだといっていいかもしれない。
 だからこそ、本書の熱い言葉たちがせめてその空虚さに風穴を開けて欲しいと思うし、開けるはずだと確信もしている。映画はいつでも豊穣な物語をもちうる器なのだから。

(『図書新聞』04.12.11号)

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2006年6月 7日 (水)

神津 陽 著『新選組 多摩党の虚実―土方歳三・日野宿・佐藤彦五郎』(彩流社刊・04.9.10)

 神津陽の新著だ。神津が長らく日野市に在住していたのを本書ではじめて知った。神津にとって、〈新選組〉は、近接したモチーフだったということになる。ところで、わたし(たち)にとって、神津陽という名は、三十数年前、第二次共産主義者同盟叛旗派のイデオローグとして知られている。叛旗派の前身は、共産主義者同盟・三多摩地区委員会であった。いまにして思えば、「多摩」という照合がすでにあったことになる。
 わたしが、〈新選組〉に関して強い関心をもったのは、子母沢寛や司馬遼太郎の作品からではない。ただ一点、加藤泰監督作品・映画『幕末残酷物語』(1964年)の衝撃的イメージからだけのものだ。この映画は、個と共同性の問題を皮相な政治的文脈からではない、女と男の凝縮した関係性を視線に入れた強度の関係性の物語を構築したものであった。さらに、組織とはなにか、革命(政治運動)とはなにかといった〈新選組〉内部の位相を見事に活写したともいえる。そして、わたしはその後、不思議な感慨を持つに至る。そう、幕末から近代国家へ移行しようとした天皇制政権の負の残滓として〈新選組〉をみるようになったのだ。そこでは、ある種の思い入れを抑えることができなくなる。さて、わたしの感慨はそうだとして、かつて〈関係のかくめい〉を主張した神津陽が、〈新選組〉をどう捉えるのか、実は、強い関心をもって本書を読んだ。
 わたしの気負った視線を外すかのように、神津の筆致は淡々と〈新選組〉の出自と暗部に分け入っていく。一見、郷土史的スタイルを採りながらも、そこには、なるほど神津陽ならではと思わせる論及が散見される。例えば、こんな箇所だ。
 「新選組についてまとめるに当り、新選組ブームに仮託された今の庶民の為政者への怨念や圧殺された抵抗者へ同調する心の振幅をこそ掘り下げたい。つまり私は為政者には目障りな、現在の政治的無関心や非政治的構えの全容を正面から扱いたいのである。(略)ここで問題とする新選組への根本的な〈謎〉は、大多数の新選組ファンに無視されても、右の特攻隊と同様に組合運動や全共闘などに遭遇し関わらざるを得なかった経験を持つ、行動的批判者の心情には届くかも知れない。なぜ多摩では百姓の剣術修行が容認されたのか、なぜ新選組は連合赤軍のリンチを思わせる内部粛清を重ね暴力集団として純化したのか、なぜ農家の穀潰し連中が盛名のある浪人連中に対して指導権を握れたのか、なぜ敗北必至の戦闘への転戦を選んだのか等の考察は、未だに不明確な各自の抱える歴史の闇を解く糸口となるかも知れないからだ。」(50~51P)
 さらに「新選組の戦闘性」に関しては、「日本的組織集団体質の延長が日本軍隊の強さと弱さ・我慢強さと残虐性にも継承されて」、「全共闘の開明性や開放感も、その裏面では党派的独善や凄惨な内ゲバを許容していた」(158P)位相へと通じていくと捉える。そして、神津新選組論の骨子は、その出自を掘り起こすことによって、日本的共同性の原質を取り出そうというものだ。だから、「多摩」であり、「日野」なのだ。
 〈新選組〉の中枢部が、多摩出身者で形成され、それが、「『郷党』的結束の深さ」(116P)で組織されていることから、神津は、「新選組多摩党」と称している。その結束点は、日野宿の名主であり幕末期には本家上佐藤家に代わって本陣となった下佐藤家当主、佐藤彦五郎にあるとみる。彦五郎は、土方歳三の義兄であった。彦五郎は宿場の治安や自衛の目的で、牛込の天然理心流試衛館道場に通い近藤勇を知る。後に自宅に佐藤道場を開き、土方はじめ新選組の母体となる面々が剣術に励んだという。神津は、近藤、土方が主導する新選組をその後、様々に支援する佐藤彦五郎が、本家に代わって台頭した経緯こそ、〈新選組〉の共同性の原質に根拠を与えるものだと推断していくのだ。
 それは、嘉永二年(一八四九年)に発生した日野宿内紛(火災と殺人)に契機があったとする。事件は、長年の上佐藤家と下佐藤家との怨念的対立によるものだった。分家であった下佐藤家の理不尽な台頭に上佐藤家の前当主が憤り、彦五郎の祖母を刺殺するというものだ。事件後は、彦五郎と代官所との親密さもあって、下家は宿の全権を握っていく。この彦五郎の巧みな戦略、政治性は、土方にそして〈新選組〉自体へも影響を与えたはずだというのが、神津の論点の着地点だ。
 「この事件は確かに彦五郎に自衛の必要性を自覚させ、剣術修行へ歩ませた。だがこのことから彦五郎はもっと重要な、刃物を動かす人間の心理や意地や怨念や大義をこそ学んだのだ。彦五郎の経験は義弟の土方歳三に直伝され、政治の大道も政治の裏面の知識や知恵や技術の集積を含めて、『新選組史』に確実に影響を与えていると断言出来る。」(169P)
 そして、嘉永二年事件以後という時空は、内紛の暗部の位相において「より深く新選組に連動して」いき、「新選組の源泉は日野宿にある」というテーゼを神津は、導いていくのだ。
 NHKTVの大河ドラマに乗じて、〈新選組〉観光ブームを招来しようと目論む日野市の観光当局は、本書のような“暗部としての源泉”を提示する研究書は、忌避したいかもしれないが、少しでも、〈新選組〉に関心をもっているものにとって、斬新で衝撃的なものとして受けとめることができるはずだ。

(『図書新聞』05.2.12号)

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2006年6月 6日 (火)

蓮見博昭 著『9・11以後のアメリカ 政治と宗教』(梨の木舎刊・04.10.20)

 予想通りだったのか、期待はずれだったのか、アメリカ大統領選はブッシュが再選された。選挙結果の分析で、早速、ブッシュを支持した保守的なキリスト教団体の存在に焦点をあてた報道があった。中東のイスラム教各派の差異が、わたしたちには理解し得ないのと同様に、アメリカのというよりは、キリスト教自体、様々な宗派があることは知っていても、そのことの違いを指摘できることは、なかなかできないといっていいだろう。そして、その宗教が、実際、現実の政治をアクチュアルなものにしているから、さらに認識の困難さを招来しているともいえる。
 2001年9・11テロ以降、とりわけ宗教と政治の問題は、ますます切り離しては考えられなくなったといっていい。それともうひとつ、ここ数年来、言われ続けているグローバリズムの問題だ。それにリンクするかたちで語られている、ネグリ/ハートの『帝国』が提起した、まさしく〈帝国〉という視点からの問題は、あきらかに揺れ動く世界情勢の中心にアメリカをおいて、その核心を解析していこうとするものだ。
 「(略)アメリカは新しい帝国だと呼ばれるようになった。私たちの若いころには、いわゆる左翼的な若者などが、アメリカ帝国主義、『米帝』と批判していた。その当時の帝国主義というのは、レーニンの『帝国主義論』という社会主義的、共産主義的言い方で、(略)使っていたわけだ。一番異なっているのは、アメリカの当局者たち自ら、アメリカは帝国になるのだとか、帝国にならねばならないと言い出している点だろう。」(本書166P)
 本書の著者は、さらに、七〇年代にいわれ出した「覇権安定(理)論」を付加するものとして、「世界を超大国アメリカが支配するシステム、体制ができれば世界は安定するという」、「新覇権安定論」が登場し、また、「ネオコンの人たちを中心にブッシュ政権が『新帝国主義的大戦略 Neoimperial grand strategy』を構築し、実行に移していこうとしてきた」と述べている(167~169P)。
 もちろん、このことは多くの識者たちも指摘したことだし、ほとんど定説化していることかもしれないが、本書の著者は、それをただ政治的言語や文脈だけで言い切ろうとしているのではない。現在のアメリカが表出している〈新覇権主義〉や〈新帝国主義〉への傾斜は、ながく潜在しつづけてきたアメリカにおける宗教と文化の停滞と疲弊からくる綻びの象徴だと捉えていることだ(さらに付言すれば、キリスト教独特の、善悪二元論や選民思想がその根拠となることを著者は指摘する)。
 アメリカは依然、キリスト教国家ではあるが、ほんらいのキリスト教を逸脱したかたちでキリスト教国家としてあろうとしていると分析し(「1『キリスト教国』でなくなるアメリカ」や「2アメリカの戦争と平和とキリスト教」での論述)、いわば、ゆがんだかたちで露出するアメリカ国家像を本書では描出している。これは、大変、新鮮で刺激的でもあった。そして、「5デモクラシーの背後で働くもの」や「7『教師』&『反面教師』としてのアメリカ地方自治」での論述は、洲単位独自の地方自治は、いかにもアメリカデモクラシーの所以であるかのようにいわれているが、これとても、「小さな政府」と「大きな政府」という政治統治システムのゆがみであり、陥穽でもあるという指摘だ。
 「現在の対テロ戦争というものは、一見アメリカの国民統合・団結を演出している、いかにも今アメリカ人が団結し共生しているかのように思われるかも知れないが、それは、多文化共生が行き詰まっているのを隠している、見せないようにしているに他ならない。アメリカ人は、戦争になると団結するが、平和になるとバラバラになる傾向がある。」(86P)
 マイケル・ムーアの映画でも執拗に取り上げられていたが、9・11テロ以後、ブッシュ政権はテロリスト対策として「愛国者法(パトリオット法)」なるものを施行した。極めて人権(アメリカ的いえば公民権)を侵害してしまうだろう悪法をアメリカ国民は受け入れたのだ。
 そして、著者は、「問題なのは、このように急速に市民的自由ないし基本的人権が侵されていくのに、アメリカの心ある人々はどうしているのか、どうして黙っているのか、ということである」(98P)と述べ、センチュリー財団理事長リチャード・レオンの著作からの
言葉として、アメリカは「沈黙の共和国」になってしまったと紹介している。なるほど、この「沈黙の共和国」が「あらたな帝国」としてあろうとする時、わたしたちにとって、はなはだ脅威として二一世紀の“怪物”は君臨していくことになるのだろうか。
 著者は、明確に断言する。この間のイラク戦争の強行に対して反米的拡がりがはっきりしたし、覇権国家としては衰退しつつあると。また、「アメリカの政治経済システム全般」が「制度疲労」をおこしており、「『二一世紀もアメリカの世紀になる』とは、お世辞にも言えない」(178~182P)と言い切っている。
 著者の本書での刮目すべき論述を糧に、わたしは、いま一度、〈帝国アメリカ〉を透視したくなった。

(『図書新聞』05.3.19号)

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