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2006年6月 1日 (木)

吉本隆明・芹沢俊介他 共著『還りのことば 吉本隆明と親鸞という主題』(雲母書房刊・06.5.1)

 吉本隆明の『最後の親鸞』(1976年)は、吉本の代表作のひとつであるばかりでなく、戦後のわが国における尖鋭なる思想的所在を指し示す最重要な著作といっていい。宗教論という枠組みを超えて、『共同幻想論』以降の喚起するモチーフ、〈国家〉、〈宗教〉、〈法〉という人間の観念が発生せしめた制度・システムと存在することの方位(生と死の環界)をめぐって真っ芯に考究した仕事だった。
 それから、三十年。吉本と親鸞の通交の場所をいま一度、再検証し、この閉塞した現在を撃つ手立てを模索する試みとして本書は提示される。
 前半部は、吉本を囲んでの鼎談二篇(「還相の視座から」、「〈空隙〉より出る言葉」)。後半部は、芹沢俊介「吉本隆明『存在倫理』をめぐって」、今津芳文「『正定聚』をめぐる断章~主に吉本隆明の親鸞論から」、菅瀬融爾「已然形の親鸞」の三論稿で構成される本書の眼目はなんといっても、オウム以後・九・一一テロ以後における現在という場所をどう措定するかということだ。
 「宗教というのはかたちが変わる部分と、かたちは変わらないけど段階が変わる部分とがある(略)、宗教のある部分を法律的なものが代表するようになってくる(略)、法律のある部分は民族国家や国民国家が代表するようになります。」(39P)
 「社会倫理でも、個人倫理でも、国家的な倫理でも、民族的な倫理でもなく、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだという、全く別な倫理がある。つまりそこに〈いる〉ということ自体が〈いる〉ということに対して倫理性を喚起していく。この存在の倫理を設定してみると、テロの巻き添えを食って死んだ人と、乗客をおろさなかったこととは、同じに見えてもまったく違うことなんですね。」(54P)
 二〇〇一年、アメリカの同時多発テロにおいてニューヨークの二棟の世界貿易センタービルにそれぞれハイジャックされた旅客機がもろとも激突していった事件は、依然、多くの傷痕を残しながら、その後のアメリカの覇権戦争というグローバリズムに拍車をかけていった。当時、事件直後、吉本は、激突されて亡くなったビルの人びとと、ハイジャックされたまま亡くなった乗客とは、その死に関して位相が違うといったことを述べ、〈存在倫理〉という概念を提示した。かつて吉本は、オウムが生起した事件をめぐって、地下鉄サリン事件は否定・指弾はできても、麻原の教義理念はある程度、評価せざるをえないと発言して、多くの誹謗中傷にさらされた(本書の共著者、芹沢もそうだった)。そしてまた、九・一一テロをめぐっての、〈存在倫理〉発言は、多くの誤解と非難の情況をかたちづくっていったことは、記憶に新しい。なぜ、そのような誤解と錯誤の情況を生起してしまうのか。どのようなテロ行為によって惹き起こされようが、死はすべて同じもので認めることができないということは、一見、普遍原理のような命の等価という倫理性を満たしているようにみえる。しかし、よく考えてみるならば、エキセントリックで、しかも欺瞞に満ちた正義の戦争を宣言するブッシュ発言と同じ水位に敷衍できることに気づくべきなのだ。そこには、普遍原理、普遍倫理という纏いを抱きながらも実は、存在の深度を含まない、政治的・宗教的言説にうらうちされた傲慢な視線が内在しているのだ。
「(略)人間力というのは根本的に何なのか。一言でいうと、自己についての自覚ということになります。
 つまり思考することと実行することの間にはあるひとつの空隙、分離があって、そこの分離のなかに人間だけが言葉を見出したりするわけです。(略)この分離が非常に重要なことで、その場合にはかんがえる自己であるところの〈自己としての自己〉と何かを行うところの自己である〈社会的自己〉との分離ということになります。」(90P)
 吉本が、〈存在倫理〉から〈人間力〉としての〈自己〉の存在根拠へと思考の深度を深めていったのは、ビルに突入してビル内の人びとの多くに死者が出たことは仕方がないが、乗客を乗せたまま激突したのは容認できないといった転倒した考えを披瀝しようとしたいからではない。
 ブッシュがテロ後すぐさまテロ犯を特定できた(したかったというべきか)のは、宗教国家のひとつの最終形態である国民国家(もっと率直に帝国と擬定してもよい)・アメリカと、もうひとつの最終形態である民族国家・中東国家群との国家間戦争(もちろんキリスト教対イスラム教という宗教戦争でもある)が、とうに発生していたことを容認したものなのだ。だから、テロ以前、以後にかかわらず、既に戦争下にあったと見做すべきだといってもいい。とすれば、「戦争では非戦闘員が死ぬこともあり得る」(53P)という位相において、ビル内の死者は戦争下における非戦闘員と見做せるが、乗客たちはそうではない、非戦闘員ではないのだから、降ろした後に突入すべきだったという根拠を、吉本は、〈存在倫理〉から〈人間力〉としての〈自己〉へという思考を深化させて提起しようとしているのだ。テロ犯における思考と行動のなかに分離・空隙を埋めるものがないことを析出する吉本は、そのまま、現在、わたしたちが難破してしまった場所へと見通していく。
 「存在あるいは存在根拠というのが(略)問われた場合には、(略)他者との関係とか時代との関係といったあらゆる関係がぜんぶどこかに集約されて、集約されていながらその区別はきちっとついているという状態が、ぼくらが現在望み得る人間力としての最後の課題なんだとおもいます。」(98P)
 いま、切実に存在の深度を見定め、捉え返すことの必然を、吉本の新著から突きつけられたとわたしは思っている。

(『図書新聞』06.6.10号)

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2006年5月31日 (水)

中村雄二郎・木村 敏 監修『講座生命 2004 vol.7』(河合文化教育研究所刊・04.12.10)

 あらゆる学を横断させるかたちで、「生命論」を主題とした論稿集を一九九七年に発刊して、ほぼ二年ぶりの第七巻が、本書だ。
 とくに、哲学と精神病理学を交錯させて、臨床哲学という知の領域を開示しようという木村敏たちの試みは、本巻でもまた刺激に満ちた論稿を提出している。
 本書の構成は、前巻と同じだ。「河合臨床哲学シンポジウム」(今回が第三回、「交錯する自己―ブランケンブルク追悼記念」と題されて二〇〇三年六月二八日に開催された)の演題を基にした論稿を特集として前半部に配置し、後半部は、「メルロ=ポンティにおける現象学と精神分析の交錯」をめぐる加國尚志の「肉と渦動」、神経生理学者ベンジャミン・リベットについて考察した深尾憲二朗の「自己・意図・意識」、臓器移植をめぐる意欲的な思考を提示した林晶子の「投げ出されるからだ」、そして、今井弘道の「三木清の『世界主義の哲学』の思想史的意義」の諸論稿が収録されている。このなかで、わたしの関心が強く向いていったのは、今井の論稿だ。私事を述べれば、最近、京都学派たちの東條内閣への関わりを示す諸文献を読む機会があった。そこで、西田幾多郎の『日本文化の問題』(一九四〇)から、大東亜共栄圏的思想へと流れ込んでいくプロセスを確認して、ある了解性をもったといっていい。今井は、三木清のスタンスを西田や田辺との差異に求めているように思う。「情況」誌最新号の論稿でも、三木の「世界主義の哲学」に表徴されるような東亜共同体的思考を再評価すべきだという主意だったような気がする。
 本論稿での今井は、「帝国主義と国家主権の理念を否定する『東西文化の融合もしくは統一の理念』」(294P)とか、「三木の個々の国家を超えた『「東洋」の形成』という言葉に含意されている『形』が、従来の『国家』という『形』を否定するものである」(321P)と定義づけているが、わたしにはどうしても、三木の哲学構想力に裏付けされていく東亜共同体的思考は、国家性を逸脱する概念を内包しているようにはどうしても思えないのだ。視角を変えれば、反西欧観は、大アジア主義にそのまま収斂していく道筋しかないように思える。わたしなら、超国家的思考はむしろ権藤成卿や北一輝の方が遥かに深遠さをはらんでいると見たいのだが。
 特集は、「自己―視点の交錯の中で」。内海健、河本英夫、谷徹、木村敏らが執筆している。なかでも、特集に収められた木村敏の「一人称の精神病理学へ向けて」の論稿と、特集と後半部の諸論稿を連結しているかたちで収載されている木村敏・谷徹・斎藤慶典の鼎談「アクチュアリティとヴァーチュアリティの関係をめぐって」は、多くの刺激的な問題を内在していて、わたしは、おおいに啓発されたといっていい。
 木村の論稿は、これまでの批判を受けるかたちで提示したものだ。統合失調症の患者との対の医療の現場からの思索的発信が、その骨子となる。自らの立ち位置を、木村は次のように述べる。
 「現象学的精神病理学は、薬物その他の身体療法をあくまで副次的で暫定的な対症療法と位置づけて、患者の人間存在、自己存在そのものの病理を問題にしようとする。」(125P)
 さらに、鼎談者でもある斎藤慶典の批判に応答するようなかたちで、人間の意識・無意識の環界を説明していく。
 「自己の自己性をめぐる現象学的・精神病理学的な問題が発生するのは、この自他未分の非人称的な基底層と、自他がすでに分離し三人称化した表層とのあいだの『境界』、あるいは前者から後者への『移行』の過程においてである。(略)アクチュアリティはヴァーチュアリティからの『発生期の状態』としてしか成立しえない。」(131P)
 「非人称のヴァーチュアリティ、一人称のアクチュアリティ、それと三人称のリアリティ、この三者の関係は、一般の人においても決して単純ではない。そこには非常に込み入った基礎づけの循環関係が見られる。」(144P)
 さてここから、鼎談での問題点に触れねばならない。木村が、人間の意識・無意識の環界を、ある意味、循環関係として措定しようとしているのに対して、斎藤は、明確な境界性を設定した上での哲学的論議を遂行していくべきだと見なすことができるように思える。ここには、〈実践の学〉と〈知としての学〉との対峙・対立がある。斎藤の哲学的な原理論からいえば、木村の論旨は緩やかに感じられるのだろう。木村の対の患者たちも、健常者と思い込んでいるわたしたちにしても、結局おなじように意識・無意識の環界は、曖昧な領域が交錯し連関しているものだという了解を、木村論稿からは、窺い知ることができる。
 「統合失調症者の世界が自己との共軛的な『自覚』を妨げられているとすれば、その世界とは、事物的世界、道具的世界であるよりも、まずは人間の世界のことである。」(145P)
 〈実践する知〉が開示していく領域をこの言辞に象徴させても構わないだろう。

(『図書新聞』05.5.7号)

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2006年5月30日 (火)

日本カント協会 編『日本カント研究5 カントと責任論』(理想社刊・04.7.20)

 本書は、日本カント協会の機関誌・論集(年一回発行)である。二〇〇三年十一月に開催された同協会の第二八回学会におけるシンポジウム並びに一般研究発表の論議をもとにした論稿で構成されている。シンポジウムのテーマは、「カントと責任論」であり、これが本書の書名として採られている。シンポジウムの提題者、三人の論稿が、本書の巻頭に配置されている。蔵田伸雄「人間の尊厳を守る責任」、舟場保之「応答可能性としての責任とカント」、木阪貴行「一貫性要求と実質的価値」の諸論稿だ。以下、千葉清史「『純粋理性批判』第一版第四パラロギスムス論における検証主義的真理概念」他七論稿と、カントを論じた近著五冊の書評が掲載されている。
 ところで、カントといえば、わたし(たち)にとっては、埴谷雄高が一九三二年、二十二歳の時、獄中で『純粋理性批判』を読み大きな影響を受け、その後、書き始めることになった長編小説『死霊』の重要なモチーフとなった〈自同律の不快〉の想を、「先験的弁証論」から得たといわれていて、そのことが強い印象としてある。また、柄谷行人の著書『トランスクリティーク』は、副題が「カントとマルクス」であったことに意外な思いを抱くことになる。カントの「コペルニクス的転回」をモチーフにした、この近年の柄谷の仕事のなかでも最大の著書は当然、本書でも書評で取りあげている。また外へ向ければ、カント哲学を政治哲学として読み解いたハンナ・アレントを想起することができる。
 わたし(たち)は、埴谷、柄谷、アレントといった先行する思想家・文学者たちによってカント像を得たとしても、そこにはやはり、ある種の不分明な思考の位相とでもいうべきものを認知せざるをえない。それは、批判哲学といわれるカントの思想を、いま、どう見ることができるかということの不分明さでもあり、研究者たちが思考する位相と、わたし(たち)が抱えている混迷した思想の水位とどう関わっていくのかということが、可視できないからでもある。
 しかし、本書の蔵田伸雄「人間の尊厳を守る責任」、舟場保之「応答可能性としての責任とカント」のふたつの論稿は、“いま”とカント思想を連結させる試みであることに、わたしは強い関心をひかれたといっていい。
 蔵田の論稿は、カントの『判断力批判』、『道徳形而上学』から「尊厳」という概念を援用しながら、クローン技術の進展に対して価値論的にその有意味性を無化していこうとする試みである。
 「(略)『人間の尊厳』とは個々のヒト個体に内在する価値につきるわけではない。『人間の尊厳』とは『人類(Menschheit)全体に備わる価値』である。人間の尊厳という価値は、個の価値に尽きるものではなく、類の価値でもあると言ってよいだろう。」(13P)
 こう述べていく倉田の論旨は、「特定の人と同一の遺伝子構造を有する人を(略)作り出」すことを、「クローン規制法」で、「人の尊厳の保持」により禁止していることに着眼しつつも、そのことの内実を、カントの「人間の尊厳」を対置させて、さらに明解にしていこうというものである。
 舟場の論稿は、加藤典洋の『敗戦後論』、高橋哲哉の『戦後責任論』をテクストにして、日本の戦後の「責任」を、「他者からの呼びかけに応答する責任」という位相から析出すべき問題を提示していこうとする意欲的な試みである。舟場は、「応答可能性としての責任」というモチーフを設定することによって、カント倫理学から「自己自身に対する義務」という概念を援用して論述していく。
 「(略)カントが、人間の『自己自身に対する義務』の『最大の違反』とみなしている悪徳は、虚言(Luge)である。虚言が問題なのは、それによって他者に対して損害を生じるからでも、また自己自身に損害を招くことになるからでもない。カントが繰り返すのは、虚言は『自己自身の人格のうちにある人間性の尊厳を損なう』ということであり、それは『自己の人格性の放棄』(ebd.)を意味するということである。」(27P)
 舟場は慎重に、迂遠して加藤の論点、「自国の死者を先に弔う」という言述に対して、カントの倫理哲学概念を皮膜のようにかぶせながら、剥ぎとった時、カントと加藤の地平は異和をもつことになるといいたいようだ。わたしなら、「自己自身に対する義務」というものをもっと拡張して考えてみたい。そしてカントのこの極めて、潔い倫理性をもった概念を直截に援用してみたくなる。「他国の死者」も「自国の死者」も同義的・同時的に見做すべきだと。「虚言」とは、どちらかを先にするという繕いであって、「義務」とは、自己と他者との応答があることによってはじめて思考しうる自己があるのだというように。
 しかし、こうして本書の論稿に触れて感じることは、「哲学」の現在という水域は、ある意味、アクチュアルになっているということだ。例えば、知野ゆりの「醜いものと不快の感情」という論稿も、わたしにとっては「哲学」という領域を考えれば、出色な視点だと思う。
 このようにカントの思想が、“いま”あるということを、本書は示しているのだといってもいい。

(『図書新聞』04.11.13号)

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2006年5月28日 (日)

「秋山清紀行 5」

 秋山には戦前、三冊の著書がある。いずれも高山慶太郎名義で『南洋の林業』、『チークの話』、『日本の木、南の木』とすべて、木材関係の専門書や入門書である(戦後の著書はもちろんすべて秋山名義)。秋山が参加していたアナキズム系詩紙『文学通信』(三五年終刊)には、局(つぼね)清詩集『山羊詩篇』の近刊予告が載っていたが、刊行されることはなかったようだ。戦後も、この高山、局のふたつの筆名は秋山名義と並行して、六十年代末頃までしばしば使われていた(それ以外にも、夏川小吉、秋村清司など多くの筆名を使用している)。局は、母方の姓であり、秋山の出自にまつわることを考えれば、局清という筆名に、ひとつの想いと強い意志が感じられる。高山はどうだろうか。筆名のいわれに諸説あっていまひとつ確かなことは分からない。それでも著書が三冊もあることを思えば、重い意味を込めているといっていいだろう。わが国では戦前はもちろんのこと、戦後しばらく木材事業は重要産業であった。秋山は、木材通信社という業界紙を発行する会社に勤めていたが、国家基幹産業に関係する仕事に従事しているというよりは、年少の時から草花や木々が好きだったことを考えれば、熱意を持って仕事を遂行していたように思う。

(「秋山清ワールド・秋山清著作集Website」、『図書新聞』06.6.3号)

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