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2006年5月27日 (土)

原田金一郎 著『周辺部としてのラテンアメリカを歩く―中米、カリブ、ペルー紀行30years』(大村書店刊・04.6.10)

 かつて、中南米は、第三世界といわれ、米ソ二大〈帝国〉の対立に象徴された東西冷戦構造に楔を打つべき「場所」として称揚されていた。七〇前後の世界的な新左翼運動のうねりの中で、ゲバラやフランツ・ファノンを思想的基軸にして第三世界革命論が提起され、それは、反スターリニズム潮流の中心理念のひとつとしてあった。これはもちろん、帝国主義(あるいは、前近代的資本主義)支配によって経済的に後進性へ押し込められていたことからの脱却を図ろうとした五九年のキューバ革命が、大きな契機としてあったことは確かだ。当然、第三世界革命論の方位は、中南米の次はアフリカやアジアの辺境地域、中近東といった場所へ移していくことでもあった。
 中南米地域は、1492年、コロンブスが、「バハマ諸島中のサン・サルバドル(San Salvador)島に到達することによって、カリブの近代史の幕が上げられた。カリブの歴史は征服と植民地化にはじまり、この地域はあたかも植民地主義と帝国主義の世界的ショーウインドウとなり、現在にいたってもその歴史は続いている」(本書134P)といっていい。アフリカから黒人を強制移住させ労働力として奴隷化し、先住民族を圧制・抹殺した結果、先住民人口が大幅に減少し、地域農業生産力が低下していく(166P)。後進性による貧困性ではなく、むしろ地域共同体の解体が別の意味での貧困性を招来しているのだ。そして、そこには、「中心的視座」から見れば、後進性の低所得者層で構成された国家群が形成されていくというアンビバレンツが発生することになる。
 だから、ラテンアメリカ経済研究家である著者は、わたし(たち)の既知の視線ではない、「中心的視座」をとらないあらたな、「周辺部ラテンアメリカという概念」を提起する。
 これは、「貧困に苦しみながらも先住民共同体や伝統的社会がいまだ息づいている」(11P)ことを重視し、「中心部の資本主義的発展の踏み台として、中心部の発展と反比例的に低開発と従属の深底に追い落とされ、世界史の闇の部分に閉ざされつづけた周辺部の側に視座を置くことにより、世界史性の再構築を試みる」(22P)という「周辺的視座」のことを意味している。
 著者がこのようにして、ラテンアメリカへ向ける視線は、「今世紀ラテンアメリカ最大の思想家の一人」であり、「ラテンアメリカ最初のマルクス主義者」(40P)と呼ばれるペルーのホセ・カルロス・マリアテギ(1894~1930)の主著『ペルーの現実解釈のための七つの試論』(1928)に出会ったからである。本書を構成する主要部分は、著者がマリアテギの思想的な軌跡を訪ねるペルーを中心としたラテンアメリカへの旅をめぐる文章群だ。単なる紀行文ではない、著者の「周辺部」への熱い視線が、ラテンアメリカ世界の奥深さ示してくれているといってもいい。七〇年にキューバを初めて訪問して以来、長く精力的に続く中南米への旅程はマリアテギの著書『ペルーの現実解釈のための七つの試論』の翻訳作業の資料検証のための訪問が主たる目的であった(八八年刊行)。
 著者によれば、「マリアテギの特異性は、〈周辺的視座〉によるマルクス主義の再生(普遍化)の試み」(22P)にあるとし、またその思想的視座は「コミンテルン派に代表されるような、当時のラテンアメリカに蔓延していたスターリニズムの呪縛には縁遠かった」(37P)し、「ヨーロッパ社会の底辺層であるプロレタリアートにあたるものとして、ペルー社会の最底辺層としての先住民層をとらえた」(38P)ことにこそ、その独創性はあるという。著者のラテンアメリカ周辺部への旅はこうしてペルーを中心に、ニカラグア、メキシコをめぐり、そしてペルーの首都リマから近距離の南東にあって元スラム街だったビジャ・エルサルバドルという「自主管理都市共同体(CUAVES)」へと行き着く。下からのある種、民主主義的な住民コミューンであるこの都市共同体の理念性のなかにマリアテギの影響を著者は見てとろうして、この周辺部紀行の到達点を明示している。
 「そもそも『貧しさ』がいつ生まれたかといえば、それは16世紀以降の世界資本主義の発展過程という近代過程によって生み出されたものである。それ以前は、中心=周辺の支配関係がなかったから、各地の経済は自立性を保っており、発展という豊かさがないから低開発という貧しさもなかった。(略)つまり、『貧しさ』とは相対的なものなのである。(略)近代化はわれわれの知る社会発展や文化などの多くのものを生み出してきた。しかし、裏面においてその同じ近代過程が、非ヨーロッパ世界において飢餓、疾病、文盲などからなる貧しさを生み出したのである。市場経済に代表されるこのようなシステムは、人類全体にとって完全なものではけっしてない。」(166P)
 この著者の深い真摯な結語に、わたしなりにもう少し何がしかの言葉を重ねるならば、資本主義も共産(社会)主義も、それが世界システムという相貌をもつとき、個別地域の原初の共同性を後進のもの、あるいは異貌のものとして排除し切り捨てていったことは、これまでの歴史が指し示してきたことだといっていい。発展もしくは段階を踏んでいくということは絶えず、その遺制性・古代性の残存を、人類の固有性・母型性として「史観を拡張」(吉本隆明『アフリカ的段階について』)してとらえることを熟考していくべきなのだ。
 著者のマリアテギの思想をめぐる旅、周辺部ラテンアメリカをめぐる旅について記された本書に収められている文章群は、こうしてグローバリニズムをあらたな「帝国」主義とみなす視点を提起しながら、わたしたちをもう一度、初源への思いを喚起する旅へ誘(いざな)うことになる。

(『図書新聞』04.9.18号)

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2006年5月26日 (金)

大嶋 浩 著『痕跡の論理―写真はおのれを何と心得るか』(夏目書房刊・04.6.25)

 「写真」という領域が持っている位相は、例えば、映画(あるいは動画映像一般)、絵画といった視覚表現領域とは、多様な差異を有しているといっていい。それは、「写真」における多義な有用性から由来している。さらには、わたしたちが、フォトグラファー(写真家・撮影者)をどのように規定しているかということにも通底していく(他の分野に比べ、写真装置の手軽さによって、近似的な存在として認識することになる。この程度の写真だったら自分にもできるという錯覚を生み出すということだ)。絵画は、確かに画家という存在と、日曜画家や絵画教室に通いながら絵を描く人たちと歴然なテリトリーがある(必ずしも表現水位を意味するわけではない)。映画に関しても演出(監督)や撮影(カメラマンという言い方は最近されなくなった。そして撮影監督という言い方が主流になりつつある)を、素人(未経験者)が、誰にでも手軽にできるというわけではない。「写真」はというと、映像文化という領域に入るとはいえ、そこでは、いわゆるプロとアマの境界が極めて曖昧だ。そして、アマの裾野の広さをみれば、言葉の世界での「俳句」に似ている。「写真」がある意味「俳句」的ともいえる気がするし、「俳句」は、その描出する世界が、瞬時にイメージを喚起する時、「写真」的であるということがそんな共通性をもっているのかもしれない。なぜ、ここでこのように迂遠して述べるかといえば、「写真」に張り付いてしまっている、「事実」と信じている(あるいは信じたい)事柄を「記録」し、「記憶」するという意義・価値が、「写真の現在」を暗渠に陥らせているからだ。
 本書の著者は、「写真」が持ってしまったイメージを次のように述べる。
 「記録と記憶。前者が現実(対象)の複写とすれば、後者は感情(撮影者)の複写である。窓と鏡。いずれもその前提となっているのは、痕跡としてのイメージにほかならない。現実の被写体であれ、感情であれ、あらかじめあったものの再認と追認。」(3P)
 そして、この写真がもっている「痕跡としてのイメージ」あるいは、「痕跡の論理」を「解きほぐしてみること」が、本書の主旨だと著者はいう。
 確かに「写真」が美術(芸術)としての表現を獲得していった時、記録と記憶を対立するものとしてしか措定できず、結局、隘路に陥っていくことになると著者は「痕跡」というタームに託して語っていると思える。六〇年代末の中平卓馬たちの『プロヴォーク』運動が、その象徴であり、九〇年代の「“荒木経惟の子供たち”に代表されるような、極めて私的・感情的な写真」(175P)は、写真行為を「充填行為」にして「写真=記録という枠組み」のなかに終始させてしまっていると批判する。
 著者がここで展開する写真論は極めて〈理念的〉だ。消費と表現行為のただなかで、「写真の現在」は、「フィルム」から「デジタル」へ移行しつつある。そして旧来のフォトグラファーたちの多くが、まだ、その幻影としての表現性を「フィルム」写真に固執し、「デジタル」写真を表現性から遠く離れた方途だとして斥けていることに、本書の著者は明確に批判を提示する。ジル・ドゥルーズが全篇に渡って援用され、バルトやフーコーも鋭利な論旨のなか、引用されていく本書は、写真論であるとともに、デジタル論を機軸として、いま一度「現在」を捉え直してみたいという意思がうかがえる論述になっている。著者が「デジタル写真」を「現在」論として展開する時、テクストとしたのは、小林のりお、佐藤淳一、高橋明洋、丸田直美といったWeb上で「写真活動」をするフォトグラファーたちだ。
 「彼らは写真に対して、残す、痕跡、記録といった、これまでの写真の力と言われてきたものとは、まったく別の力を見出そうとしている。それこそが『消えるイメージ』の積極的な面であり、批評性でもある。」(120P)
 本書には、残念ながら引用されているフォトグラファーたちの写真作品は掲載されていない。わたしは、それぞれWebを検索して見てみたが、一見、無機質性を意識した対象の選択と私性を排除したアプローチは、作品評を忌避したものだ。著者がいうように、作品自体が、一つの批評性をもって「写真の現在」を問い詰めているといっていいのかもしれない。
 「ぼくが懐疑的なのが、芸術写真としての報道写真の類だ。とりわけ額装され、美術館やギャラリーに収まった報道写真。報道写真が“芸術の力”に依存したときに、腐敗が始まる。(略)“表現としての写真”が感じ方(感覚)に関わるものだとすれば、報道写真は、ぼくらの考え方(概念)に属するものではないか。だから、報道写真が言葉を忌避し、写真だけで何かを訴えようとするとき、最も危険な陥穽が待ち構えている。
 最もやっかいな存在が、広告写真だ。とりわけ現在の広告写真、“表現としての写真”と見分けがつかない。それでもやはりぼくは、そこで問題となる“力”に違いがあると思っている。」(208~209P)
 「写真を撮ること、それは美でも、記録でも、失われつつあるものへの慈しみでも、忘れられたものへの共感でもない。写真をいかなるものにも還元させないという意志がもたらす、何か別のもの。
 写真を撮ること、それは既成の美学、視覚に無数の水漏れを起こすことかもしれない。(略)水漏れの後には、何が残るのだろうか。“無”とでも言いたくなるが、ぼくはそれをとりあえず、“理念としての力”とでも呼んでおきたい。」(215~216P)
 こうして著者の論述を引用してみて分かることがある。「写真」を制度(システム)=物語から奪還して、「写真」自体として屹立させたいという、ほとんど倫理観のようなものを、「理念としての力」という著者の言葉なかに、わたしは感じないわけにはいかない。

(『図書新聞』04.9.4号)

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2006年5月25日 (木)

田畑信廣・和田渡・庭田茂吉他 共著『〈思考〉の作法―哲学・倫理学はじめの一歩』(萌書房刊・04.7.10)

 本書は、「哲学・倫理学の教科書」として当初、企画されたものだ。だが、著者たちの思いは、読者を拡張させる方向へと至ったようだ。必ずしも学生のための哲学・倫理学入門書といった限定した内容をもっているわけではない。なるほど、書名を『〈思考〉の作法』とした所以が了解しうる構成と論旨をとっているといっていい。全体を三部構成にして、第Ⅰ部「日常の中の『?』編」は、入門編といった意味合いをもたせている。だが、この第Ⅰ部こそ、本書を類書にない独自なものとして際立たせているところだ。著者たちは、本章の巻頭で次のように述べている。
 「日常生活の中で感じるふとした『?』。実はそれが哲学や倫理学の始まりなのです。何でもない当たり前のことも突き詰めて考えてみると、当たり前だと思うことにまったく根拠がなかったり、あるいは逆に当たり前でない何か特別なことのように思えてきたりします。」(3P)
 そして、ここで語られていくことは確かに、日常生活の中の率直な疑問を発露とした論旨が展開されていくわけだが、むしろ、自分自身が、現在おかれている場所を様々な角度から切開していく方途を示しているともいえる。
 経験(人間関係性や読書・学習も含めて)だけからは、現在の問題の「?」という問い掛けや疑問が発生しにくくなっているということはいえるはずだ。思想や哲学的なこと、あるいは思索的、思考方法といったことは、自分を取り囲む場所に対して、「?」という問い掛けや疑問から始まるが、方法論や思考マニュアルといったことを何の必然もなく、いくら多様に重層に習得したところで、日常という時空間に根ざしたものでなければ、空無な知識でしかないといえる。「なぜ自分のことが分からなくなるのだろうか?」、「『自己チュー』のどこが問題か?」、「なぜ思い通りにならないのだろうか?」、「良いことをするってどういうこと?」、「人間、どこまで責任を負ったらよいのか?」などの設問をたてながらも、ここでは、けっして人生訓や善悪論、皮相な社会正義論といったことを述べていくわけではない。あくまでも、日常という時空間に根ざした疑問を発生として、先行する哲学思想の思考方法のエッセンスを簡明に解説しながら、それらの疑問の切開へと至る方途の道筋を自力で推し進めることへ、著者たちは導いていこうとしている。本書は、いうなれば、極めてセンシティブな哲学のガイダンスといっていいかもしれない。「なぜ『ノー天気』じゃいけないのか?」では、こんな結語を示している。
 「『悩みつつ生き』『生きつつ悩む』こと、言い換えれば『哲学する』ことは、決して無駄ではない。それはあなた自身の人生を、深め、広げてくれるはずだ。」(27P)
 これは、率直な評言だ。第Ⅰ部で展開していることは、「哲学・倫理学」を特別な知識の習得といった地平から解き放とうということだといっていいと思う。簡明な入り口を設け、著者たちの熱い思考へのこだわりを読むものへと伝達しようという試みが、本書の第Ⅰ部の骨子であり、また本書全体の企図であるといってもいいはずだ。
 ところで、第Ⅱ部はいわば用語事典編であるが、ここでも第Ⅰ部の主意は継続している。「哲学や倫理学にとっての基本概念のほんの一部を、哲学史的な知識をできるだけ織り交ぜて、分かりやすく説明」(71P)していくために、絞りに絞った用語が引かれている。
 「意識」、「価値」、「神」、「行為」、「死」、「自然」、「実存」、「自由」、「真理」、「生命」、「存在」、「他人」、「歴史」、「私」の十四項目の選択眼は、確かなものだ。
 第Ⅲ部は、「講義や試験で出される課題や設問に答える際のお手本になりうる」(129P)として「お手本編」と題して、簡明さを強調しているかのようだが、熟読すれば、どうしても哲学・倫理学論稿集といったかたちになっているといいたくなる。たぶん、著者たちの本領は、ほんらいこの第Ⅲ部の論稿群にあるのだろうが、実は極めて、抑制的な論述が収められているのだ。まさしくそのことこそ、作法としての〈思考〉を表現しているのだといっていいのかもしれない。それでも、わたしは、次のような印象深い記述を、取り出したくなる。
 「神無き時代、しかもコミュニズムといった言わば『熱い正義のイデオロギー』の仮面が暴かれ、もはやそれに没頭できない現代において、『グリーン』は新しい宗教の代替物、救済のイデオロギーだというのである。むろん、こうした物言いを無批判に受容することは危険であろう。しかし、環境倫理思想、環境運動の将来を見定める上で無視することはできないと思う。(略)『緑のナチ』、これは私の愚かな『妄想』にすぎないのだろうか。が、すでに、『環境ファシズム』と言われる極端な『全体論的保存論』があることを指摘しておこう。」(179~180P)
 「現在、国際化とかグローバル化ということが、よく言われる。しかしその正体は、単にアングロ‐サクソン化することにすぎない場合が多い。これは文化帝国主義に屈することである。本当の国際化、グローバル化は、他なる者、差異に出会い、文化帝国主義や政治的テロによらずに連帯しようとすることから始まる。」(193P)
 これらの論述は、哲学・倫理学が学際的な場所を超えて、わたしたちの実感としての〈思考〉と重なっていく場所だといっていいはずだ。

(『図書新聞』04.7.24号)

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2006年5月24日 (水)

「物語の像・1」

 かつて、吉本隆明は、「現在書かれている小説の作品は、どういう形で現在のなかへ入ってくるのか。そのためになにを失いまた失わないか。そしてわたしたちは現在をどういう形で眼に視える言葉の風景として捉えられるのか。」(『空虚としての現在』・一九八二年刊)と述べていたことがある。このことは、現在の日常的な風景や事象(多様な情況性も含んでいる)に、空疎感や閉塞感をもっているわたしにとって、ひとつの想いを喚起させてくれるものだ。もちろん現在という場所を視えるかたちで捉え返したからといって、それがどんな事態を予期することになるのかということを、考えたいわけではない。
 小説作品をひとつの物語として読み解くとき、作者は、意識的にせよ、無意識的にせよ、避けようもなく現実的な場所から言葉を紡ぎ出さざるをえないならば、その言葉の重層は、必然的にある像(イメージ)をかたちづくることになるといっていいはずだ。
 もし、それを「物語の像」として、捉えることができるとしたなら、現在という場所は、どんなふうに視えてくるのだろうかというのが、さしあたってわたしの切実な想いである。そして、そこにどんな予見ももたず、視線をくぐらせてみたいと考えている。
 「ディスカバリー・センターの出現は、ダンチに住むおびただしい家族と、この町に住む多くの人間を救ったと、あたしは信じている。便利になったことはもちろんだが、もっと精神的な意味合いにおいて、だ。」(角田光代『空中庭園』)
 ディスカバリー・センターとは、いわゆる郊外型巨大ショッピングモールのことだ。東京・横浜という大都市郊外はもちろんのこと、各地方都市に高度消費社会の象徴としてつぎつぎと大型商業施設がつくられていったのは、八十年代以降のことだ。首都圏ならば、通勤圏の拡大による住宅地の郊外化、地方都市ならば、車社会の過剰化を遠因とする。
 この作者は、郊外大型商業施設を「精神的な意味合いにおいて」、「多くの人間を救った」と高校生のマナという少女にいわせている。もちろん、それは、消費という幻想が過剰化させる病理性を示しているにすぎない。『幸福な遊戯』から始まって、『まどろむ夜のUFO』、『エコノミック・パレス』とつづく作品群をみれば、この作者が紡ぎ出す登場人物たちは、消費の象徴に無意識のうちに心的な依拠をしている様を、ほとんど裸形のままに描出してきたことが、わかる。そして、ここでは「ダンチ」、「あたし」という表出が、そもそも浮遊する心性の鏡像としてある。
 「建ち並ぶ高層アパートの、ほとんどすべての窓は南を向いている。ディスカバリー・センター・メインモールの、北側屋上から見える高層アパートの窓は、だから全部こっち向きだ。(略)その眺めは、なんていうか、ものすごくみにくい。グロテスクだとも思う。」(『同前』)
 登場する人物六人(家族四人、祖母、父の愛人)、それぞれの一人称で綴られる『空中庭園』という物語は、最終章が、マナの弟で中学生のコウの視点で描出される。コウは、マナとは対称的に、自分たちが住んでいる郊外のダンチ空間を「みにくい。グロテスクだ」と感じている。もちろん、作者はここで、冷静な判断をこの登場人物に仮託しようとしているわけではない。コウの抱く思いは、作中人物たち全員が、ほんとうは感じていることでもあるのだ。じつは、「みにくい。グロテスク」なものが、「多くの人間を救っ」ているという表裏性が皮膜のように覆っていることこそが、ここでは問題なのだ。マナとコウの母親・絵里子はかつて、家族性の軋轢のなかにいて、実母(作中の祖母)を殺したいほど憎悪する体験をもっていた。そのことの反転として開かれた家族を構築しようとしていた。だがそれこそが、表裏の皮膜という蓋いでしかないことを作者は鮮烈に描き出している。

(『点』04号・05.12.25)

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2006年5月23日 (火)

遠矢徹彦 著『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』(審美社刊・04.3.18)

 七編の短篇を収めたこの小説集は、表題から受ける軽妙さや静謐さとは違い、硬質な文体とともに、湿気感漂う重く暗い情念をもつ登場人物たちを描出している。そして彼らはみな、かつて政治運動や組合運動を経験し、挫折し、職を追われ、そして職を転々とし、あるいは精神の病に囚われている像としてある。一編をのぞき、すべて「私」もしくは「わたし」の一人称記述で語られる文体は、さらにそのことを過剰にさせていく。任意に引いてみれば、わかる。
 「タミオがハルミと出会ったのは、あるひとつの時代が終わる頃だった。反体制グループの周辺にいたにすぎない無数の若い蛾たちが、不吉な明るさに魅せられて入りこんだその場所には出口がなかった。」(「水域」)
 「私の右隣に、いくらか禿げあがった額にばさっと長髪をたらした男が坐っていた。彼は片頬にみぞをつくってうす笑いを浮かべ、テーブルの上座に陣どっているひとかたまりの古参の労働活動家やアナキストたちが、おぼつかない足どりでテーブルの間を渡り歩き、仲間同士でしわがれた気炎をあげ、よろけるようにもたれあっている姿を黙って眺めまわしていた。」(「淵の見える場所」)
 「漂流物のようにあてどない職場遍歴のすえ、わたしは公共浄水場の派遣技術員の仕事を最後に、次の仕事を探す努力を放棄したのだった。つまり失業したわけである。独身のわたしには、それいがいに失うべきものは何もなかった。が、そのころから内部をしだいに深く蝕んでいく、うす気味の悪いどこまでもつづく湿地帯に似た徒労感が、鎖となって幾重にも巻きつきだし、ついにはわたしの存在そのものを締め上げていくように思えた。」(「ぺちゃんこにプレスされた男の肖像」)
 唯一、一人称記述の文体をとっていない「水域」は、タミオとハルミの関係に、ノボルが割ってはいり三人が破綻してしまう物語だ。「ガス銃に撃たれながら、街角を駆けぬけていたあの頃」(110P)を共通項とした三人が、関係性だけでは、慰藉されえない精神の空洞をもってしまったことを描出している。
 「淵の見える場所」は、古い友人の追悼集会に出て、久しぶりにかつての仲間たちと再会しながらも、ただ想念は沈潜するだけの私(芹沢)を描いている。芹沢は、妻子を捨てて、彫金家の燿子と一緒に奥多摩で隠遁生活のようにしている男だった。「ただでさえ、弱小なおれたちのグループなんだからな。優秀な活動家が二人も蒸発してしまったんじゃ、仲間に与えるダメージははかりしれんのだぜ」(180P)と仲間に冷やかされ揶揄されながら、燿子にまつわる醜聞を聞かされる芹沢はただただ酔いに任せる日々を送る以外、生きようがないように描かれる。
 ひとたび抱いた観念や想念、あるいは思想という過剰さは、生きること、あるいは生きていくことに、どう足枷となって締めつづけていくのだろうかと本書の小説群を読み終えて、わたしは思う。そしてすぐさま、かつてといっても、もう四十年近くになろうとする時間が経過しているが、高橋和巳の小説『憂鬱なる党派』を思い起こした。俗に、転向小説といわれた高橋和巳のこの小説は、本小説の人物たちと同じ様に、転向しきれないでいることの難渋さを物語として描出している。思想や観念が、生きることの足枷だとして、では、なんの拘りもなく生きていくことができないのは、たんなる不器用さに還元してしまうことができるのだろうか。
 「詩人の柩」は、拘りと不器用さが、実は純粋な想念に裏打ちされていることを描いて見せている。わたしが、集中、最も感応しえた力編だ。組合活動に頓挫しながらも、組合の機関紙に詩を書き続ける「私」。そして私が敬愛してやまない詩人の黒木哲夫。作者は、「凍土と化した民衆の夢の地層を、一匹の妄執のもぐらとなって掘り進んでいこうとする執拗で狂熱的な、それでいて彼の魂の中心にある明澄な意志の力が全編を貫いているような作風」(60P)をもった詩人として黒木を描写している。そしてこの詩人の妻、玲子。これらの人々をめぐる物語を描きながら、もうひとつの層を作者は提示する。それは、私が少年期に敬慕した梅園文子と黒木哲夫の関係性だ。このふたりの関係性を、詩人の柩、つまり詩人が机代わりに使っていたリンゴ箱に象徴させて、語って見せている。まるで、「執拗で狂熱的」であり、「それでいて明澄な意志の力」をもったような関係性が、詩人黒木と文子がもった「時間」だったのだ。ふたりはそれぞれに死を迎えたが、転向も挫折も昇華した生き方をしたといっていい。
 著者略歴に、「一九七四年、文芸誌『アンタレス』創刊、秋山清追悼号をもって休刊。」とあった。もちろん、わたしが知っているアナキスト詩人秋山清は、黒木哲夫像とはまったくイメージは異にしている。しかし、作者は、「詩人の柩」のモチーフとして、秋山清をどこかで意識しながら書いたであろうことは、想像に難くない。あるいは、わたしの、一方的な秋山清への思い入れが、そう感じさせているだけなのかもしれない。

(『図書新聞』04.6.19号)

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2006年5月22日 (月)

瀬木慎一・桂木紫穂 編著『日本美術の社会史―縄文期から近代の市場へ』(里文出版刊・03.6.20)

 本書は、書名からも明らかなように、通常の美術史のカテゴリーにはない複眼的な位相を展開している。作家がいて作品があって、それを時間的に遡及したり、関連性のなかに美術表現の流れを見るといった既成の美術史とは、違った場所への視線を編者たちはもっているのだ。編者たちが、「社会史」としたのは、作家主義的な通史を逸脱させ、もっと広義なかたちで作品が生み出される場所として、社会をかたちづくる人間の集団性といったものを照射させたかったからだ。例えば、こんな記述に、編者たちの思いが率直に表われている。
 「(略)技能というのは、個人的である以上に集団的なものであり、その形態には、それぞれ、多少の差異はあるにしても、特定の指揮者(工匠)がいて、彼によって育成され、各段階に進んで行って然るべき分業を担当する工人たちが、全員の共同作業として一つのものを完成するという基本において共通しており、言わば専門職人の集団であり、後にできる用語での『座』の発生源となる形態だった。そしてそれは家族・近親的単位で堅固に維持され、やがて、必要が生じた場合には、それに応じて拡大・分化もし、相互に競争もし、協力もしつつ発展して、小規模ながら、一種の『社会』(ソサエティー)を形成する。」(13P)
 職能集団がある種の社会を形成していくという発想は、網野善彦史観を連想させる鋭角的ものだ。
 本書はこうして、「絵師」、「仏師」の誕生という記述から始めて、正倉院や「君台観左右帳記」から「美術品」という概念の発生とその収蔵という行為の淵源を求め、御用絵師並びに美術品の鑑定という実態の歴史的検証をしつつ、近現代の美術的市場の興隆まで捉えていくという、先にも述べたように、通常の美術史のカテゴリーにはない大胆な通史を提示している。構成としては、全体を九部に分け、「概説」の後に最も古いもので明治四四年に発表された古筆鑑定家・前田香雪の論稿から、昭和六一年の美術評論家・大河内菊雄の論稿まで、二十八の論稿を収めている。とりわけ、各部のはじめに配置された編者による「概説」は、大変な力論だといっていい。
 例えば、「第一部 絵師、仏師の誕生」の「概説」では、美術(絵画)の発生と展開を当然ながら宗教と関わらせて、次のように述べていく。
 「密教寺院では、従来からの阿弥陀如来、四天王のようなものに加えて、大日如来を中心として、未知の如来、菩薩、明王などを配置し、仏像に変化を見せる以上に、それらのものまでが、曼陀羅図を中心に図像として掲示されることが多くなって、絵画の必要は画期的に高まる。日本における絵画の興隆は、平安時代からとされる主要な要因は、この密教の必要にあった、と言っても過言ではない。」(23P)
 あるいは、「第四部 日本人の美意識と変化」では、次のような論旨を展開する。日本人の芸術的嗜好は、飛鳥・奈良時代から平安時代までを、「色彩の重視であり、しばしば極彩に及ぶ」とし、鎌倉時代から室町時代までは、中国からの禅宗の影響下で、「『無』の思想に基づく非色が尊重されて、嗜好はついには枯淡の境地に達する」(200P)と述べる。だが、編者の優れた論理展開は、ここでとどまっているわけではない。
 「とはいえ、この現象は、一つのものから他のものへと推移し、そのままで固定するという単純なものではなかった。実際問題として言うならば、前時代の様式は薄れたとはいえ、果たしてその基底にあった嗜好は消失したのだろうか、というその根本的な視点から、嗜好史の第二段階の末期に当たる室町時代の文化・芸術を観察するとき、意外にも、そこに先行した時代の嗜好の復活もしくは再生が見出されて、かつてない複雑な文化の相が浮き出しているのではなかろうか。」(2001P)
 いわば、その後の信長政権、秀吉政権をもった安土桃山時代の文化的、精神的位相の萌芽と淵源を編者は類推しようとしているのだ。編者の言葉で言えば「武家階級の二元主義」にうらうちされた美意識ということになる。侘び寂びといった茶の湯の世界を、一方では豪華な茶会で催していくといったアンビバランツな感性は、まさしく同時に日本人の今日的な美意識に通底していくものだ。
 「相反する美意識が内在し、並行」(201P)するという感性は、美意識だけの問題ではない。日本人が、超克することのできないまま温存してきた普遍的な感性だといってもよい。そのことは、むろん、現在も〈社会〉から、〈国家〉までつきまとっている問題だ。

(『図書新聞』04.6.12号)

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2006年5月21日 (日)

関口安義 著『芥川龍之介 永遠の求道者』(洋々社刊・05.5.20)

 漱石や鴎外、さらに芥川や太宰は、わたし(たち)にとっては青春期の必読の作家であっただけでなく、思考の初源を啓発させてくれるものでもあった。わたしの場合、芥川と太宰には、その独特のペシミスティックなニヒリズムとでもいうべきものに早くから泥濘していた。そして、いまでもそのことからの影響は払拭してはいないし、するつもりもない。
 ところで、長年、芥川研究を続けてきている著者は、本書で新しい〈芥川像〉というものを提示している。わたしなどが、いつまでも拘泥しているニヒリズムといった枠から、アクティビティな芥川龍之介というものへと解き放しているのだ。本書の出色さはこの一点に集約されるといってもいい過ぎではないと思う。
 国語教科書から、漱石や鴎外が除外され始め、芥川や太宰がどれほど若い人たちに知られて読まれているかと問えば、たぶん、かつてほどの多くの読者はいないと思うべきであろう。だが、本書の著者によれば、芥川だけは、いくらか様相が違うようだ。高校の国語教科書二十種すべてに、「羅生門」が載っているし、近年は海外での翻訳が活況を呈していて、「芥川作品の翻訳は、世界四〇か国を上回り、翻訳数は四百七十に及ぶ(略)。『羅生門』には三十を超える翻訳が存在する」(8P)という(もとより、黒澤明監督の映画『羅生門』への評価と関連がないわけではないと思う)。特に、韓国や中国で評価が高まっているということは、わたしにとって未知なことであった。著者はそうした状況をふまえ、新しい〈芥川像〉というものを開示してみせてくれている。
 例えば「芥川像の変容」として、韓国や中国での芥川評価は、「日本の研究者が見落としている面を拾い上げて」(92P)、芥川の歴史認識の先見性を指摘しているという。つまり、日本ではほとんど黙殺されている、中国視察旅行後に発表した「将軍」と「金将軍」の二編の小説を手がかりに、日露戦争や朝鮮征伐という歴史に借りて書かれる芥川の視線に注目する。著者がいうように芥川に反戦や朝鮮人への開かれた視角があるとすれば、生来の貧しいものへの同情感(わたしにとって愛読してやまない作品「蜜柑」は、そのことが最も顕著だと思われる)や、正義感のようなものだといっていいかもしれない。あるいは、啄木のように明快に社会主義思想へ共感できない部分が、ある負い目となっていると考えることもできる(「玄鶴山房」の最後の場面にリープクネクトを読む青年を登場させているのは、なにかわざとらしさがあるといっていい)。「芥川という作家を本当に知るためには、周辺を知る必要がある。(略)芥川という作家を知るためには境界はない」(202P)という著者独特の周辺研究の成果として、芥川の潜在するアクティビティのなかに徳富蘆花の「謀叛論」の影響があると著者は捉えている。わたしのように、人間のエゴイズムをほとんど救済のないかたちで描出する芥川文学のニヒリズムに共感することを、反転させる位相に、著者は〈芥川像〉を措こうとしている。もちろん、そういう面も確かにあるはずだと、思わずにはいられないほど著者の論旨は説得力にあふれているのだ。
 そして、「作品というのは、いったん作家の手を放れると自立する」(203P)のだから、多様な解読があってもいいのだとするテクスト論にもとづいて著者は、初期の代表作「羅生門」を次のように大胆に読み解いていく。
 「失恋(引用者註=格式の違いを理由に実父、義父たちに結婚を反対され断念した吉田弥生との関係)のやりきれない気持を、現実には吉原に行ったりして晴らしたけれども、それが単なる一時の慰みにしか過ぎないことを知った彼は、虚構の世界で反逆の論理を獲得するのです。(略)ひとりの貧しい男が羅生門の楼上で老婆と出会い、新しい考え、勇気を得る、それは『謀叛をしなければ人間は生きていけない』との蘆花の『謀叛論』に通う考えです。(略)正装をかなぐり捨てるかのように投げうって、虚構の世界で解放の叫びをあげた。それが『羅生門』であったという読みが浮上するのです。」(204~205P)
 幸徳秋水ら無政府主義者・社会主義者が天皇暗殺を計画したとして、十二人が死刑に処されるという大逆事件(一九一〇年五月)に憤怒した蘆花は芥川が在学していた一高で「謀叛論」と題した講演を行ったのが、一九一一年二月であった。芥川がそのことに触れた記述はないが、親友であった恒藤恭(旧姓・井川)の日記等には、その講演から受けた感銘の記述があるという。だから、芥川も影響ををまったく受けなかったことはありえないと論述していく。これが、著者の周辺研究の躍如だ。「羅生門」の発表は、一九一五年十一月、芥川、二三歳の時だ。「羅生門」が、本書のように、あの大逆事件との連関で、読み解かれることこそ、芥川文学の今日的意義があるといっていいかもしれない。
 本書は、そういう意味でも、芥川研究の新たな達成だというべきであろう。

(『図書新聞』05.8.6号)

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