« 2006年5月7日 - 2006年5月13日 | トップページ | 2006年5月21日 - 2006年5月27日 »

2006年5月20日 (土)

祖田浩一 著『不機嫌な作家たち』(青蛙房刊・04.2.21)

 「作家たち」とは、どういう存在なのだろうか。つまり、自分たちが愛読してやまない小説家の実像をわたしたちは、いくらかでも知りたいと思うはずだ。だが、普通の読者の場合は知ることはできない。しかし、「作家たち」の実像は、しばしば編集者や家族らの記述によってさらされることになる。本書の場合も、編集者という立場からものだが、表題がしめすように、いささか屈折した視線からのものだ。
 「あの頃は、いま以上に作家が輝いていた。どの作家も我儘で、自分勝手で、威張っていた。多忙さ故に『不機嫌』になる人もいたし、こちらの対応のまずさに立腹して、不機嫌になる人もいた。その内実はそれぞれに異なっているが、機嫌の良い日などは滅多になかった。コピー機もファックスも無い時代で、一回三枚分を毎日うかがって頂戴し、それを持って走り廻っていた。当時の原稿取りは惨めなもので、時たま共通の体験をした人にあうと、何故か懐かしさを覚え、話がはずむ。」(267P)
 著者は、昭和三十年代から四十年代前半にかけて、戦前からある「大系社」(長谷川伸の命名によるらしい)という通信社に勤めていた。小説を同人誌などに発表し続けていたいわゆる文学青年だった著者が二十代から三十代前半までの年齢の時だ。現在では、共同通信社が地方紙に様々な記事や企画原稿、連載小説などを配信していることはよく知られている(作家や評論家の小説や文章が、いくつもの地方紙に同時掲載されることになる)。著者が勤めていた通信社は、地方紙へ連載小説だけを専門に提供していた会社であった。出版社や大手の新聞社とは、どうしても差異ができる。多忙な作家の場合は、どうしても後回しになるのだ。そのため、いいようのない屈辱感を著者は数え切れないほど味わうことになる。週に何度も、あるいは一日に何度も作家の下へ行くことになる。あるいは作家の家で何時間でも出来あがるのを待つことになる。惨めというよりも、なにか凄まじささえ感じてしまう。さらに新聞の連載小説には毎回、挿画が入るから、原稿の遅れは画家の方へも波及していくのだ。「当時の原稿取りは惨めなもの」だったと述懐する著者の気持ちは、確かに、本書を読めばよく分かる。
 著者を惨めにした「作家たち」は、今日出海、檀一雄、松本清張、子母澤寛、中山義秀、そして水上勉などだ。
 「我儘」で、「自分勝手」で、「威張ってい」ても、彼ら「作家たち」は、著者がいうように、確かに「輝いていた」といってもいい。
 例えば、今日出海は、「新聞小説として書いたものは、わたしは本にしない。あれは一回ごとに読み捨てるべきものだから、書き下ろしの小説とは全く違うものだね。終わってからも本にしないというのが、わたしの主義です。」と述べたそうだ(14P)。実際は、毎日新聞などに連載した小説を本にしているらしいが、主張としては説得力に満ちている。
 檀一雄は、とにかく原稿をなかなか書いてくれなかったが、それでも檀流クッキングの恩恵をあずかったりして著者はなにか、檀との通交を甘受していたように思える。
 「先生の『小説太宰治』は放埓で、破滅的で、読んでいる分には無類に面白い。けれども若い時ならともかく、ある年齢になってからは共感ばかりもしておられない。今度読み直してみて、かつてのめり込むような形で『無頼派』と呼ばれた人たちと、その日々に寄せた熱狂が、自らの中から引いてしまっていることを実感し、年齢による硬直化であろうかと思ったりした。」(39P)
 松本清張と水上勉は、多忙を極めていた時期に、著者は担当となった。清張の場合は、原稿が進まず、八日間の休載を経験する。著者は「後頭神経痛」で三日間休養したり、胃痛で入院したりしている。水上勉は、清張と同じ様に、原稿の遅れが著しかったが、なぜか、碁をしたり、講演に同伴したりして、いつしか著者の小説を見てくれて、いろいろ教示してくれるという関係性にまでなっていく。そして著者は、会社を辞めた後、水上の秘書になった(264P)。
 本書では、けっして不機嫌ではない作家も取り上げられている。なかでも三宅雪子のエピソードはとりわけ、本書を印象深いものにしている。清張の挿画を担当した永井潔に教えられ、三宅雪子の『貧乏さん』(昭和三十四年七月刊)を知る。著者と同じ島根県で生まれ、精神薄弱児といわれながら小学校を劣等生として卒業し、大阪に出て女給や工員など職を転々とした後、上京し昭和三十一、二年頃、紙芝居屋になる。『貧乏さん』は、「三軒茶屋で一年四ヶ月だけ紙芝居をやった体験と、紙芝居屋になるまでの歩みを書いたもの」だ(99P)。著者は、地方紙に掲載する「異色の作家たち」という企画の記事を書くため、三宅に会いに行く。彼女は漢学者の家で、お手伝いさんのような仕事をして、世話になっていた。
 「通された部屋は、どの畳も破れていて、中の藁ががはみ出ている。どこに座るべきか、一瞬戸惑いを覚えた。一つだけ椅子が置いてあり、三宅さんはそれに座るようにと言われた。そこに腰を掛けていると、お茶を淹れて来て、わたしの足元の破れた畳の上に置かれる。」(105P)
 著者が書いた記事は、いくつもの地方紙に掲載され、そのうちのひとつ「河北新報」を読んだ読者から、「三宅さんの処にカステラ一箱を贈」られてきた。それを、半分に切って著者へといって会社まで(日曜日のため著者は不在だった)、三宅は届けに来たのだ。
 「思い出しても、胸が痛くなる。お礼の手紙だけは出した。その後、もう二度と三宅さんに会うことはなかった。もう生きておられないだろう。若き日のわたしに強い印象を残し、『半分のカステラ』ということを教えてくれた人である。口を開けば原稿料の安さばかり言う一群がいて、その対極に三宅さんのような人がいた。」(109P)
 本書は、このように、「作家たち」を素描していく。

(『図書新聞』04.4.3号)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月19日 (金)

ヴォルフガング・ヒルビル 著『私 Ich』(行路社刊・03.11.10)

 『私』と題されたドイツ人によるこの小説を、帯文から受けるイメージでスパイ小説かサスペンス小説のように見なしてしまうと、物語の隘路に入り込むことになる。訳者も明快に言い切るように、統一前の旧東ドイツの政治的闇を告発する小説と見なしてしまっても、本書の価値を遠くへ追いやってしまうだけだ。訳者の次のような叙述をまず念頭に置いて、本書の物語に入るべきかもしれない。
 「ドイツ語の『Ich』は、日本語では『私』ではなく、特別に『自我』という非日常的な哲学用語をあてなければ、理解できないという言語生活(思惟構造)上の問題があることを念のために説明しておかなくてはならない。」(446P)
 本書の概観を訳者の解説にしたがっていえば、九三年、ドイツで出版されたもので、『私』が初の邦訳出版のようだ。著者ヴォルフガング・ヒルビヒは、四一年、旧東ドイツの小工業都市モイゼルヴィッツに生まれる。「肉体労働の職場を転々としながらも作家を志し」、西ドイツの放送局に送った詩文をきっかけに七八年、第一詩集『不在』が出版されるも、西側ではほとんど注目されることはなかったようだが、「壁崩壊後の数年間のうちに前代未聞のスピードで有名作家の地位を得」たという。本書は、自伝小説ではないが、主人公が育った場所や母との葛藤(父親は、早くに戦死し、母の実家で育てられた)、なにやら詩の断片のようなものを書くことを志しているという設定にしているところは、自身を反映させているといえなくもない。
 さて、本書は変わった叙述と構成をとった小説だといっていい。やや不均衡な三章(あるいは三部)だてで、それぞれに「イベント」、「地下の思い出」(この部分が圧倒的な分量だ)、「究明」と題が付されている。そして、変わった叙述というのは、物語の人称が恣意的に変換され、時制が、順序だっていないということを意味している。これは、たぶんこの小説の表題であるとともに、主題としてみなしていい、〈私(自我)〉をめぐる物語性からくるものだ。
 「イベント」では、“私”という一人称で語られていく。
 「権力者たちは、おびやかされているように感じるときが、最高の気分なのである。だから側近の反乱や街頭の反乱の兆候がどこにも認められないときには、そういう兆候をつくりだすのである。」(4P)
 国家公安局の非公式協力者である「私」は、様々なテクストを朗読する会の「イベント・リーダー」の動向を探るよう命じられている。そしてなぜか、東ベルリンの地下通路を往還している生活が描写されていく。「この地下空間はひとりになれる最後の場所だ」という「私」の暗号名が、カンベルト。しばしば登場する「私」の上司は、著名な哲学者を想起させるフォイアーバッハ。なぜかフーコー好きという設定だ。フォイアーバッハにせきたてられるように、イベントに出入りする西ベルリンの若い女性の身辺を探ろうとするがうまくいかない。
 「この現実は何というシミュレーションであろう。私にはその脈絡が失われてしまってからどのくらいになるだろう。」(56P)
 そして、“私”は、非現実となってしまった過去をシミュレーションしていたと語り、“私”と述べながら、三人称としてW(おそらく本名のイニシャル)の過去の物語が語られていくのが「地下の思い出」である。Aという小都市の工場労働者だったWに、捏造されたスキャンダルをたてに「チーフ」が接近してきて、「活動世界」に引き入れようとする。Aからベルリンへ逃げてきたにもかかわらず、非公式協力者になってしまう。そしてC(暗号名のイニシャル)という人称として後半は叙述されていく。
 「究明」は、自制的には「イベント」に戻り、また一人称で語られていく。そして物語は急転する。イベント・リーダーが実は非公式協力者だったことが分り、“私”は、西ベルリンの女性にすべてを言おうとするが逮捕されてしまう。そしてA市に戻されたところで物語は閉じている。
 「この国家の驚くべきところ……謎めいたところは、たえずこの国家のなかで説かれていたこととは一切関係がなかった。(略)……謎は、この国家がつちかってきた憎悪である。(略)私たちは生の影であり、死であった……私たちは人間のダークサイドの化身、影の化身であった。私たちは分裂した憎悪であった。『私』とは憎悪なのである……」(425~427P)
 浮遊する「私」。連鎖されることなく切断される「私」。シミュレーションされる「私」。フーコーやボードリヤールが援用されるこの小説は、「私」を記述することによって可視できない迷路のような現在という世界を描こうとしたにちがいない。不在感という想念は、分断、連結したみずからの「国家」をも不在の場所と見なしていることからくるものだと、この小説を読み通して、わたしには思えてくる。

(『図書新聞』04.1.24号)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月18日 (木)

松本利秋 著『国際テロファイル』(かや書房刊・03.9.9)

 テロリズムとは何かと、問われれば、わたしなら、あの9・11テロのことに関連して述べたりはしない。時間性をかなり遡及させて、ロシア革命前夜のアナキストや社会革命党の活動家たちの帝政権力へのテロルを真っ先に思い浮かべるし、わが国のことであれば、完遂できなかったテロルとして、大正ギロチン社のことを想起する。テロとは、反権力的であり、常に反体制的なのだ。テロという言葉が、現在において醸し出すイメージは、無軌道で狂信的かつ暴力的な破壊行為ということになると思うが、確かに過激性を内包するとしても、本来、基底にある感性は、個的で純化に満ちた心性だといっていいはずだ。例えばイスラム原理主義者たちの過激な自爆テロに象徴される近年のテロリズムは、個的というよりは、イスラム世界という宗教的な共同性を膂力としているだけに、わたしが考えるテロルとはいくらか位相を異にしているといわざるをえない。それでも、そこに流れているものはやはり反権力、反体制的であり、自分たち(民族)を抑圧しようとする敵への憎悪感であるといえるはずだ。
 本書は、テロリズムの現在といったことを包括的に把握できる内容をもったものだ。政治的にも思想的にも微妙な視点を強いるテロリズムの現在を、極力、主観性を抑制した記述で、読者にテクストとして提示するという著者の意図は充分、達成されていると思う。
 「(略)『なぜ国際テロリストが存在しているのか』を考えると、実に奥深い歴史の内部にスポットを当てざるを得なくなる。テロリストが生まれ、組織をつくり、国際的ネットワークを張れるのも、われわれが常識として持っている世界通史とは別の側に存在する人間たちのもう一つの歴史が要因であることが見えてくるのだ。これらは一般の日本人の知識にはあまりない事柄であったからこそ、長い歴史ドラマの一環として噴出するテロリズムが、われわれには、連続ドラマの前後が切り取られた一シーンのようにしか見えてこないのである。」(2P)
 著者は、こう述べながら、「地域別のテロリスト状況やその国内および国際情勢、歴史的背景などにもできるだけ言及し」ている。
 確かに、本書を読みながら、テロリストたちには、「奥深い歴史の内部」があることを理解できるし、「われわれが常識として持っている世界通史とは別の側に存在する人間たちのもう一つの歴史」を抱え持っていることにも気づくことになる。
 全七章(アジア、アフリカ、アメリカ合衆国、ラテン・アメリカ、中東、ユーラシア、ヨーロッパの各地域に分けて章を当てている)の構成で、それぞれの地域の主要なテロ組織を各章に付している。植民地化した地域が独立することによって、政情の不安定さから、対立する組織間のテロを生起する場合もあれば、独裁政権が長期化することによって噴出するテロもあるし、長年にわたる民族・宗教間の対立に起因するテロもあるというように、多様な「奥深い歴史の内部」が底流には常にあるのだ。それにしてもと思う。中東パレスチナにおける自爆テロと強力な軍事力との絶えることのない抗争を見るにつけても、「終息」とか「平穏」といったことが訪れない国々のほうが、圧倒的に多いのが、現在の「世界」なのだ。
 「(略)アンゴラでは一九七五年の独立以来、内戦が絶え間なく続き、独立国家としての経済・社会の建設はおろか、国民の誰一人として戦時以外の生活を知らないというきわめて異常な状態が三〇年近くにわたって続いているのである。冷戦時代にはそれぞれの陣営がそれぞれの反対勢力を軍事支援し、内戦を拡大していったという不幸な歴史の後遺症を、この国はいまだに引きずっているといえるのだ。」(100P)
 ここでは、テロによって引き起こされる内戦状態をただ政情不安に帰することは出来ないということを著者は象徴的に強調している。
 また、9・11テロの一年後、モスクワの劇場で起きたチェチェン武装勢力による立てこもりによる大惨事は、世界に衝撃を与えた。著者は、「チェチェンの分離独立運動は、二〇〇年にわたって、帝政ロシア、後にはソ連邦に支配されてきた少数民族の悲願を達成しようとする運動である」(262P)と述べる。そして、「第二次大戦末期には、ソヴィエト政権に反抗の姿勢を崩さないチェチェン民族が、ナチス・ドイツに協力することを恐れたスターリンが、民族を丸ごと中央アジアやシベリアに強制移住させてしまった。戦争が終わって一二年経った一九五七年、ようやく故郷へ帰還が許されたのだが、その間には人口の約六〇%が犠牲になったといわれるほど、ソヴィエト政権の仕打ちは過酷なものであった」(同)という。ソ連邦崩壊後も、分離独立は認められなかった。「強大なロシア軍の圧倒的な軍事力」の支配に対抗するには、全ロシアに向かってテロを実行する以外にないというわけである。
 強大な国家の歴史だけが、正史ではない。歴史の内部にこそもうひとつの「歴史」が隠されているのだ。そして、そこにはテロリズムという哀しい歴史の影が映されることになる。

(『図書新聞』004.1.17号)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月17日 (水)

武井昭夫 著『武井昭夫対話集 わたしの戦後―運動から未来を見る』(スペース伽耶刊・04.7.31)

 いま、わたしの手元にこんな本がある。表紙カヴァーの色は、薄いグリーンとでもいおうか、その上に、鳥をアレンジしたカットが配置され、書名、著者名、版元名はシンプルな細いゴジック体だ。判型は新書判、頁数は250P、奥付発行日が1956年9月20日。著者名はふたり、吉本隆明と武井昭夫(てるお)だ。書名は、もちろん、『文学者の戦争責任』。わたしが、何十年も前に古書店で買い求めたものだ。実際に手に取るまで、この本に様々な思いをもっていた。吉本にはこの本に先行して二冊の詩集があるが、いずれも私家版発行であるから、武井と共に実質的に最初の著書という記念すべきものだといっていい。わたしが、この本を求めたのは、吉本の著作を読み進めていたからであり、収められていた論文は、すでに全集等で読んでいたとはいえ、後年、花田清輝と対立していくなかで、最初の著書の共著者が、花田に随伴して、吉本と離反していった(ようにみえた)ことが、よく理解できなかったからだ。いや、そういう言い方は、転倒している。吉本と深く対立していた武井が、共に最初の著書の共著者だったということを、よくわからなかったというべきかもしれない。
 実際に、『文学者の戦争責任』を手にしてみると、やはり、吉本にとって最初の著書としてふさわしいものだった。武井にとってはどうだったのだろうか。本書や前著『映画論集 戦後史のなかの映画』をあらためて読んで、やはり、武井の出発点を凝縮したものであり、現在まで一貫して追及している武井のモチーフが最初に顕在化したものだったといっていいと思う。
 「わたしは、今日戦争責任を扱う場合、戦後責任の観点をぬきにして論ずることはできないと思っている。わたしは、つねにこの戦後責任の解明という観点にたって問題を提出しつづけてきた。」(武井昭夫「『あとがき』にかえて」・『文学者の戦争責任』所収)
 武井のこの思いは、本書や前著の表題に表れている。そう、「戦後」というタームだ。武井の営為を、「Ⅴ 拉致報道と草の根ファシズム」の対話者のひとり、山口正紀は、「戦前と戦後の継承性みたいなもの、それから、戦争責任の問題とかを運動がどうやって問い続けるかという」(310P)ことだと述べている。これは、〈戦後〉という「一つの視点」からの「運動的思考」ということを意味しているし、それを実践の場で弛まず継続してきたということでもある。それは、“拉致報道”に対する、武井の批判にも表われている。戦前の朝鮮半島へのわが国の不当な行為を糊塗して、拉致批判することの浅ましさを徹底的に論及している。北朝鮮(武井は「共和国」と称している)への戦後保障を一切抜きにした拉致批判は、戦後とは戦前からの地続きであると思考する武井にあっては容認できることでない。わたしも、もちろんこの拉致問題への報道ファシズムといっていい情況を、現在の空虚な陥穽を示していると思っている。
 ところで、武井の膂力の源泉は、いうまでもなく、戦後間もなく結成され始動した全学連運動(武井は初代委員長)であり、さらに、「新日本文学」における文学と政治の争闘であった。『武井昭夫論集・全四巻』として刊行開始された前著『映画論集』に続く本書は、「対話集」であることが、様々な武井の思想の相貌が明快に提示されて、「戦後」の“始まり”の問題点をリアルに浮き彫りにしている。特に、小松厚子との「Ⅰ わたしの戦後―運動から未来を見る」のなかの前半部「1 大衆運動としての全学連」、「2 戦後初期の文学運動の中から」や、青木実との「Ⅲ この国の『戦後責任』とは―文学者の戦争責任論を振り返って」の前半部「1 『文学者の戦争責任』論とはなんだったのか」は、戦後、六〇年近く経過した時間を埋めて、〈現在〉へと敷衍した問題性を表出している。
 「最近、国立大学の独立行政法人化など現今の資本主義のグローバリゼーション体制に合うような大学制度再編成が進められていますが、敗戦直後、GHQから出された、あの『大学法』原案の考え方が、新しい時代に会わせて、また登場してきた感があります。これ一つとっても、運動と歴史の継続というか、継承の大切が痛感されますね。」(22P)
 「戦前の転向ドラマが戦後の文学運動のなかにも弱さとしてあるんだ、と痛感したわけです。だからわたしのモチーフは、だれそれの戦争中の責任を追及しようというのではなく、問題を解明したいというところにあった。」(183P)
 武井は、わたしたちが想像もつかないかたちで、思考の継続ということを自らに課してきたといっていい。わたしのように、あるいは、「Ⅱ 五〇年代の運動空間」のなかで、柄谷行人、絓秀実のように吉本・花田論争を好奇な視線で、武井の考えを聞きだそうとするのは、本当の意味で「戦後」という場所をわかっていないということになる。
 「(略)吉本さんから『試行』(六一年~)発行を吉本・谷川(雁)・武井の三人でやらないか、と相談もあったくらいですから。わたしはおことわりしましたが。ですから、当時わたしは、花田・吉本論争では、考えおよび気持ちでは花田さんを支持しているのですが、位置としては『現代批評の会』の協力と交友の情が続いていて、揺らいでいた、という状態だったのですね。」(145P)
 この章は、柄谷たちの雑誌「批評空間」でのインタビューを収めたものだが、わたしは、ふたりの横柄といっていい聞き方に対して、真摯に応答する武井の姿を想像しながら、「戦後」という問題の〈深さ〉、〈困難さ〉に向かい続けている武井の膂力の大きさを思わずにはいられなかった。

(『図書新聞』04.11.6号)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

武井昭夫 著『武井昭夫映画論集 戦後史のなかの映画』(スペース伽耶刊・03.9.20)

 わたしは、武井昭夫(てるお)という名を聞いて真っ先に思い浮かべることが、ふたつある。全学連初代委員長(四八年)だったことと、武井の最初の著作が、吉本隆明との共著・『文学者の戦争責任』(五六年、淡路書房刊)であったことだ(吉本にとっても、先行するのは二冊の私家版詩集だから、実質的な最初の著作といっていい)。
 七十年代に未来社から『武井昭夫批評集(文学編)』全三巻が出されて以降、わたしにとって武井の名は、「批評空間」第Ⅱ期第20号(九九年一月)のインタビューと本書の巻頭に配置されている、「戦時下の黒澤映画」(「映画芸術」第三九五号、二〇〇一年四月)で久しぶりに見ただけであった(武井は、「批評空間」のインタビューで六九年以降、雑誌「社会評論」、新聞「思想運動」を中心に活動してきたことを述べている)。
 本書は、『武井昭夫論集・全四巻』の最初の刊行として企図されたものだ。以下、学生運動論集、状況論集などが予告されている。
 さて、この映画論集は、『文学者の戦争責任』の著者らしく、「戦後五十年以上経た今でも、(略)日本映画の世界では、映画および映画人の戦争責任についてほとんど追及も追究もなされていない」(10P)という視線を一貫してとりつづけている。特に、黒澤明の戦時下の映画作品『一番美しく』(四四年)の作品性とこの作品に対する黒澤の姿勢を徹底的に批判している。わたしは未見だが、武井によれば、「戦争遂行に積極的に協力した」内容をもっているにもかかわらず、黒澤は、「小品ではあるが、わたしの一番かわいい作品である」としか述べていないことに疑義を呈する。そして、武井の強い視線はさらに黒澤の作家性そのものへの析出へと向かう。
 「ここには(註=『一番美しく』のこと)黒澤明という監督がすでに戦争中に確立した、すさまじいばかりの映画作りの方法と人の組織化というものが示されている。映画の作り方だけではなく、黒澤氏の人生観・人間観も強烈に打ち出されている。また、そこには非常にヒューマンで仲間には民主的で、優しさもあるが、じめじめうじうじした弱さを嫌い、正義感の強い自我を貫こうとする黒澤氏の姿勢がくっきりと出ている。そういう人間像を作ろうとする点で、黒澤監督は戦中も戦後もその姿勢は変わってない。(略)
 黒澤氏に決定的に欠けているのは国家観です。誤った国家観にしばられていると言ってもいい。(略)そのために国家のために働くという観念に従って、戦争中はまじめに戦争協力にひきこまれる。この観念を脱却できないから、反省もない。だから、戦後になっても権力というものとの本当の、そして直接的な対決が出来ない。」(22~23P)
 わたしは、『七人の侍』(五四年)はもとより、黒澤映画にほとんど感心したことがない。黒澤が描出する、まさしく武井がいうような「弱さを嫌い、正義感の強い自我」をもった造型の登場人物たちに、まったくじぶんの感性を仮託することが出来ないのだ。武井がここで述べている黒澤映画の析出は、まったくその通りだというしかない。
 ところで、本論集のⅠ章は「戦時下の黒澤映画」として『一番美しく』を、「敗戦直後の黒澤映画」として『わが青春に悔いなし』(四六年)を取り上げて検証しているわけだが、『わが青春に悔いなし』の方を、武井が評価していることにわたしは疑義を呈したい。黒澤を武井は国家観、権力観が欠落していると指摘しているように、この作品は戦時中から敗戦直後までの時間性を生きぬいている女性(原節子=滝川事件とゾルゲ事件をモチーフにしたこの映画は、滝川をモデルにした人物の娘で、尾崎秀実をモデルにした人物と恋愛関係になる女性を演じている)であるにもかかわらず、背後にある歴史性を表層的にしか描いていないと思った。例えば、原たち家族の生活は、まるで昭和三十年代の裕福な人たちといった雰囲気にしか見えないし(敗戦直後に撮った作品がそう見えるとしたら皮肉ではなく予見性をもっているということになるのか)、原が藤田進に再会する場面も、映像的なユニークさはあっても、戦時下の切迫感は伝わってこないのだ。だから後半からラストの場面に至る展開が、まったく感動とはかけ離れた黒澤のたんなる積み木細工的表現でしかないといっていい。Ⅱ章、Ⅲ章に収載している日本映画、外国映画の作品評は、作品の背後にある歴史性をいかにアクチュアリに作品化しているかという視点で多くの批評を割いている武井にあって、なぜ、『わが青春に悔いなし』は評価するのか(質問者との応答では、いくらか評価を修正しているが)、わたしには納得がいかなかったと、述べておきたい。
 さて、本書の巻末にⅤ章として「日本映画年表(一九三〇~二〇〇二年)」が、掲載されている。この年表に選択されている上映作品のリストは、非常に特色あるものになっている。七四頁にもわたる長大な年表は、その時々の出来事も記載されていて、資料的な重要さはもちろんのこと、年表作成者たちのひとつの表現だといっていいと思う。
 Ⅳ章の「現代日本映画を語る」は、八十年以降の作品への評価、ドキュメンタリー映画の分析、そして批評家の問題へと展開している。ひとつだけ取りあげていえば、主題性からあえて遠ざかって批評する蓮実重彦にたいする批判だ。
 「映画の世界で映像表現を抜きにして主題の展開はありえないし、反対に主題に結晶しない、あるいは主題に結びつかない表現というのは大した意味はない。〈表現〉と〈主題〉の両者は、まさに表裏一体であって切り離せないものでしょう。(略)一方を否定して一方を肯定する、あるいは一方のみを強調するというのではなくて、両者の関係、つまり、新しい主題の発見と新しい表現の創造とは、絶えざる緊張関係のなかで切り離しがたく結びついて続けられる、というのでなければならないのではないか。」(374P)
 この武井の批評眼がもっとも象徴的にわたしに切迫したのは、花田清輝を敢て批判しつつ展開した『灰とダイヤモンド』論だった。この力論の基底にあるものは、本書の骨子になるものだし、場所はポーランドであっても、本書の書名にも通底していく、〈戦後〉という問題を真摯に表現した〈映画〉への評価ということで、わたしには本書の重厚さを支えていると思った。

(『図書新聞』03.12.6号)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月16日 (火)

うらたじゅん 著『眞夏の夜の二十面相―うらたじゅん作品集』(北冬書房刊・03.8.15)

 誰もが、過去という時間をもっている。だが、必ずしも自分が体験したことの累積だけで過去の時間を記憶しているというわけではない。例えば、幼少期に見た映画や体験、あるいは親、年長者に読んでもらった書物の中の物語や語ってくれた体験などが、記憶として累積されていく。だから記憶の場所は、自分が生まれる以前の遠い過去へと遡及していくことができる。
 過去という時間は、わたし(たち)にとってどんな意味をもっているのだろうか。あるいは、過去を振り返る時、現在という時間・場所はわたし(たち)にとってどんな意味をもってくるのだろうか。現在という時間・場所は、過去へ遡及していける方位をもっていると同時に、未知の未来への通路でもある。だから、記憶の場所から紡ぎ出される物語は、わたし(たち)を未来へ連れていく視線の力を持つことになるといってもいいはずだ。
 わたしにとって、うらたじゅんという漫画(劇画)作家は、いつもこのような〈記憶の物語〉とでもいうべきことを考えさせてくれる。独特の柔らかな描線、巧みに時間を重層的に往還させる物語性、うらた作品は漫画という境界を越えて、傑出した物語作家という位置を獲得しつつあると、なんの衒いもなくわたしは言い切ることができる。
 そして、ついに待望の第一作品集が刊行された。
 わたしが、うらたじゅんの作品に初めて出会ったのは、「幻燈」創刊号(九八年三月刊)で発表された「冬紳士」だ。ほぼ同時期に「ガロ」(九八年四月号)誌上に掲載された「思い出のおっちゃん」も印象深い作品だった。読後、奇妙な懐かしさを感じたことを覚えている。毎年小学校の校門の前で露店を営む“おっちゃん”との出会いを綴ったものだが、作者は“おっちゃん”のエピソードを回想しながら語っていく。わたしは、この“おっちゃん”の造形が実にいいと思った。作者の体験からくるものなのかは分らない、だが、“おっちゃん”の快活さのなかに孤独さ、寂しさといったことを淡々と描出していく作品の力に、この作家の今後に期待感をもったと記憶している。
 「冬紳士」と表題作でもある「眞夏の夜の二十面相」(「幻燈」二号―二〇〇〇年一月)は、モチーフに類似性はあるものの、作品の方位は違う。むしろ、このふたつの作品を並べてみることで、うらたじゅんの限りない力量を感じることができる。
 「眞夏の夜の二十面相」は、現在から過去(七〇年頃)を重層的に往還する。江戸川乱歩の世界に魅せられ、ペンネームを明智六郎と称した男。今は画家で、子供時代、六郎とともに少年探偵団ごっこをしたこともある従妹の映子。そして映子が好きになる壮一、この三人が織り成す過去の記憶の物語だ。モチーフの類似性は探偵だ。なぜ、作者は探偵に拘るのだろうか。何を探し見つけ出そうとしているのだろうか。探偵団ごっこをした時の二十面相が、壮一であったかもしれないということを作中で描出して、〈終景〉は、その少年壮一の二十面相の「さらば」という言葉で閉じている。それは、壮一の〈死〉を予感させるものだ。
 「冬紳士」の探偵役は、過労と飲みすぎから倒れ、記憶喪失になり、やがて散歩の途中で亡くなった父のこれまでの時間を見つけ出そうとする娘、木村サトコだ。本書の巻末に配置した「道草日記」には、作者の父とのことが記載されている。木村サトコ(うらたじゅん)は、父の生きてきた時間をまるごと記憶の場所として作品の中に、描出しようとしたといっていい。
 だが、このように記述することに、わたしは、ある種のむなしさを覚えてしまう。いつだって批評の言葉は対象とする作品を超えることはできないのだ。わたしの、なにやら重たそうな記述は、ふたつの作品のそれぞれの〈終景〉の卓抜さに、どう考えても、到達できそうもないからだ。ほんとうは、「ぼくの名前は木村サトコもうじきハタチ」とサングラスをはずし、帽子をとって佇む〈終景〉に、ただ素直に感動するだけでいいはずなのだ。 
 それでも最後に、こんなふうに、わたしはいってみたい。現在という時間・場所が失いつつある様々な物語を、遠い記憶の場所から紡ぎ出して再生させるという豊穣力をもった作品をうらたじゅんはつぎづきと描き続けているのだと。

(『図書新聞』03.10.25号)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月15日 (月)

堀田貢得 著『実例・差別表現―糾弾理由から後始末まで情報発信のためのケーススタディ』(大村書店刊・03.7.7)

 中上健次は、被差別部落を「路地」として物語化した。わたしは、初めて中上の小説を読んだ時、「路地」を言葉そのものの意味として表層的にしか理解していなかった。もちろん、彼が出自とした場所を考えれば、もう少し踏み込んで理解できたかもしれない。だが、住井すゑの小説のように直喩的に語った時、その作品はどう位置づけられていくだろうか。あるいは、藤村の『破戒』のような作品を読もうとしたとき、または読み終えた時、作品理解は、どういう方位をもつことになるだろうか。中上の小説作品がもっている意味は、それらとは違った位置と方位をもっているといっていい。
 わたしは、中上が被差別部落を「路地」として物語化した時、初めて差別・被差別といういわれなき幻想の構図が解体されたと思った。中上の優れた小説作品の数々は、その作品性の達成度は当然のこと、被差別部落という位相をわたしたちの観念の諸相から排除したことが、作品はひとつの世界性を獲得したのだいっていいと思う。
 だから差別表現・差別用語といった問題を考える時、わたしは真っ先に、中上の「路地」という言葉を想起する。現実の差別構造が、差別表現・差別用語を喚起しているとしても、表現や用語への徹底した制限や停止という行動は、必ずしも差別・被差別構造を解体していく道筋に連動していくとは限らないとわたしには思える。中上のような「方法」で、そのような隘路を切開できないものかというのが、差別表現・差別用語の問題へのわたしの接近の仕方である。確信的に差別性をもって表現される言葉は、当然、否定されるべきあるし、逆の立場、つまり表現者側の表現の自由への侵害だと主張する、あるいは“言葉狩り”だと反論する立場にわたしは同調するつもりはない。難しいのは、無意識から発せられる表現・言葉であり、全く関連性がないと思われていた表現・言葉を掘り起こしてきてまで抗議する根拠への疑念である。
 長年、出版社で雑誌編集を体験し、「表現を考査する立場」にいた著者が著した本書は、“人権差別”という視点を基底に置いて、差別表現を徹底的に検証し、多様な経験から導き出された著者なりの「表現基準」を提示したものだ。差別用語をまず例示し、それにまつわる事件例を紹介し、著者の解説が示されていくという構成をとった本書は、表現に携わる者にとっては格好の手引書的意味をもっているといっていい。
 だが、本書がもっている意義あるいは意味はマニュアル書的な場所ではない。また、差別をめぐる表現の在り様とは、著者が強調するような“人権”という位相に関わることではないとわたしは考える。言葉で何かを表現するということは、伝達行為であるとしても、そこでは、関係性のなかの言語という場所を引き寄せている。発する言葉・言語・表現が関係性のなかでどういう意味を帯びていくのかということに、わたしたちは自覚的であるべきなのだ。語る相手・表現対象が、被差別部落出身者であるとか、在日朝鮮韓国人であるとか、身障者であるということが問題なのではない。異和は異和として認識すべきであって、異和が差別化・差異化に転化していくことを、わたしたちは意識下で制御すべきなのだ。何気なく、相手の容姿や体形、性格をあげつらうことでも、差別(差異)用語を発したことになる。言語や言葉は想像(イメージ)の表現なのだ。直接的で皮相な表現は、関係性の齟齬を招くだけだ。
 例えば、賭殺場や魚市場で働く人達を、腐臭を嗅ぐように言葉を発したら関係性は崩壊する。職業を差別化して、“ふぜい”と形容することも当然避けるべき言い方だ。わたしは、言葉は想像力の表現だと考えるから、著者がいう“人権”や表現の自由といった問題に必ずしも収斂させるべきではないと思う。差別意識や差別構造を問う前に、まず私たち個々人が関係言語をどう発すべきかという原初の問題にたつべきなのだ(表現行為を仕事としているものにとっては当然のことだ)。わたしは、あまりに空無な原理論を展開しているのだろうか。そうではない、中上の「路地」という言葉の想像力こそ、差別意識や差別構造を解体できる道筋だという考えを、わたしは手放すことはしないといいたいだけなのだ。
 「言葉は時代とともに変わって当然のもの、人間対人間の最大のコミュニケーションツールなのだから、その言葉が相手の心に痛みを感じさせたり、屈辱感を与えるものならば、変わって当然だと考えるからである。(略)言葉は結果として人間を幸せにするツールでなければならない。『表現の自由』も同じである。時代とともにしなやかに変化して当然なのである。」(191P)
 著者がこう述べることに、わたしはもちろん異論はない。

(『図書新聞』03.9.13号)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年5月7日 - 2006年5月13日 | トップページ | 2006年5月21日 - 2006年5月27日 »