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2006年5月11日 (木)

檀 一雄 著『太宰と安吾』(バジリコ刊・03.4.30)

 太宰治、坂口安吾そして檀一雄と並べてみれば、誰でもがこの三人を、「無頼派作家」というカテゴリーの中に入れるはずだ。安吾は壇より六歳年長、太宰は三歳年長だが、それぞれ濃密な関係性をもっていた。檀は安吾との通交を「私の生涯の出来事で、この人との邂逅ほど、重大なことはほかにない。」(本書262P)と言い切り、太宰とは、「破滅していたもの同志が、わずかに最後の狂乱を演じていた」(97P)ような「親昵(しんじつ)」な関係だった述べている。
 本書では、「無頼派作家」ならではの象徴的な出来事が綴られている。「第一部 太宰治」では、「熱海行」、「第二部 坂口安吾」では、「安吾・川中島決戦録」がそうだ。
 「熱海行」は、こうだ。太宰の最初の妻初代に頼まれ、七十円をもって仕事で熱海に長逗留している太宰のもとへ届けに行く。その金は、宿泊代はもとより飲み代、遊興代の支払いのためであったが、檀が着くや否や、なぜか支払い先の飲み屋の親父ともども、三人で「生簀から抜いてくる」たねであげる〝てんぷら屋〟で早速、二十八円七十銭を使ってしまう。その後は、太宰と檀の「狂乱」の日々がつづく。三日後に、檀を残して太宰は、「菊池寛の処に行ってくる」といって東京へ発つ。しかし、何日か経っても太宰が戻ってこなかったため、たまりかねて、東京へ戻り、太宰を捜し当てる。太宰は井伏鱒二の家にいた。結局、宿代、遊興代は、井伏の奔走で佐藤春夫の世話になる。太宰は自分のことを信じてくれずに、東京に戻ってきた壇に言う。「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と。壇は、「この言葉は弱々しかったが、強い反撃の響きを持っていたことを今でもはっきりと覚えている。」と記す。そして、このことが、後年、作品「走れメロス」の「心情の発端」になっているのではないかと、壇は考える。
 一方、「安吾・川中島決戦録」は、安吾が亡くなる二年ほど前の夏の出来事だ。このころ安吾は、激しい鬱気に襲われることが多かった。出版社の企画で謙信を安吾に、信玄を壇に見立てて川中島の現地取材に行き、松本に十日ほど逗留した時だ。「いやはや、大変な旅であった。折からの炎暑のせいでもあったろう。安吾の鬱気が爆発して全く酸鼻と言いたい程の荒れ模様を呈し、殆ど収拾がつかなかった。」と壇はその時のことを回想する。「酒・薬・女」の日々だ。夜になって急に上高地へ行こうと言い出し、ウィスキーをあおりながら芸者たちとともにタクシーで向かう。泊まるところがなく、結局、宿に戻ったのが夜中の二時だ。檀が不在の時、安吾は暴れ出し宿の鏡台を二階から投げ飛ばし、日々の暴発に番頭がついに警察沙汰にしてしまい、留置される。翌日、宿に戻ると、息子が生まれたと連絡が入る。「赤ん坊は親父がブタ箱に入ったことをチャーンと知ってやがる。それで、親父がブタ箱から出たところを見はからって、オギャーとうまれてきたらしいや。」と安吾は壇に「ホッと一息ついたような(略)淋しい、しかし毅然とした微笑」で語りかけてくる。
 これらの出来事を、「無頼派作家」達らしい顚末として読み通してしまうことは簡単だ。待つ身と待たせる身について吐露する太宰にしても、毅然とした微笑をする安吾にしても、わたし(たち)は、「無頼」という言葉がもつイメージから遠く離れた感性を見る思いがする。そういう感性の場所を、吉本隆明は「解説」で次のように見事に言い当てている。
 「太宰治、坂口安吾の他、織田作之助、石川淳、檀一雄といった、いわゆる無頼派と呼ばれた作家たちは、それぞれ良質な作品を残しているが、彼らは、女、薬、酒といった表層的なデカダンスと裏腹に極めて大きな倫理観を持っていたように思う。これが一見無頼派的にみえる彼らの作品の奥底に流れていた、生涯をかけた大それたエレヴァスであった。」
 確かにそうだ。檀の太宰や安吾に対する語り口に、親和性を読み取れることは、当然として、その親和性は、「表層的なデカダンスと裏腹に極めて大きな倫理観」からくるものだといってもいい。
 「太宰は自分のひそかに愛するものがあると、その表現に心魂を砕く。」(「紫露草と桜桃」86P)
 「殊更、太宰治は初代夫人と別れなくてはならないような出来事が起こったり、パビナール中毒が昂じたり、まったくのところ、破滅寸前でありました。
 その太宰が、辛うじて、逃げのびていったところが、御坂峠の天下茶屋であり、その時の蘇生の記録が、ほかならぬ『富嶽百景』であります。いきいきとした素朴な蘇生の感情がみなぎっており、まわりの風物と美しく照応しながら、時にユーモアさえ溢れ出して、稀に見るような傑作をなしております。」(「太宰治と人と作品」196P)
 「安吾その人は、一見はなはだ磊落放胆に見えながら、その実、きわめて暗鬱厭人の人柄でもあった。その放胆は、即ち傷つきやすい安吾の尖鋭な精神が装った人間に対する優しい最後の友愛の手でもあったろう。」(「坂口安吾論」212P)
 「心魂を砕く」、「素朴な蘇生の感情」、「優しい最後の友愛の手」といった檀一雄の太宰と安吾へ向ける視線もまた、〝優しい〟倫理観のようなものが漂っているといってもいいはずだ。一九六八年に刊行されたものの復刊である本書は、最高の表現者たちの息遣いを、生き生きと伝えていることで、時間を超えて、〈現在〉を考えるためのテクストであると言い切ってしまうことは、わたしの過剰な思い込みだろうか。いやそうではない、そう言い切ることに、わたしなら確信がある。

(『図書新聞』03.10.4号)

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山折哲雄 著『日本人の情感はどこからくるのか』(草思社刊・03.5.9)

 『天皇の宗教的権威とは何か』、『神から翁へ』といった代表的著作を通して、七〇年代から八〇年代にかけて、わたし(たち)に大いなる刺激を与え続けた山折哲雄の最新著作は、著者には不釣合いな感じにも思える、よくありがちな〝日本人論〟といったマニュアル本的な装いをもって出された。雑誌「草思」に「女子大生のための日本文化史」と題して、二〇〇一年五月号から二〇〇二年四月号まで連載された文章を中心に纏められた本書を、〝入り口〟が一見やさしくみえるという意味で、ありがちなマニュアル本と、いったまでだ。通読してみれば、山折の思考が変わらず刺激的に展開して、難渋な思想的世界を開示しようとしているのが分かる。七〇年代から八〇年代にかけての山折哲雄の刺激的な仕事をある意味凝縮し、ここでは平明に語りながらも、その思考の方位はけっして揺れ動くことなく表明されている。
 本書は、十五本ほどある文章群を、ある程度の共通する内容の腑分けをして全体を三章で構成している。
 以下、概括してみれば、まず第1章「日本的情感とは何か」では、「日本人の涙」について独特の切り口で語り、村瀬学の『13歳論』に喚起されながら、少年と大人の境界域について光源氏を通して述べていく(「光源氏が『男』になったとき」)。そして、一九九七年の八月、イギリスのダイアナ妃が事故死した時の、日本の新聞報道に関して言及していく(「『ピープル』をめぐる混乱」)。首相のブレアがダイアナを「ピープルズ・プリンセス」と発言したことにたいし、各紙が「猫の目のようにクルクル変わる名称で表現した」と指摘する。例えば、毎日新聞は、「人民の皇太子妃」、「民衆のプリンセス」、「国民のプリンセス」と変動していたという。読売新聞はピープルを一貫して「国民」とし、朝日新聞は、「市民」と「国民」が混在していたとして、山折の思考は次のように発露される。
 「私は、『ピープル』か『ネーション』かといった難しいことをかならずしもいっているのではない。いったいいつまで、われわれは国民、民衆、市民、人民、大衆といった、言葉の重層性の森のあいだをさ迷いつづけていくのだろうか、という自己認識の錯乱のことをいっているのだ。」(80P~82P)
 「そのような自己分裂的な性格を、私は以前、『半・日本人クライシス』と呼んでみたことがある。(略)そのような『半・日本人クライシス』の意識の中に、むしろ日本文化における固有の問題があるいはひそんでいるのかもしれない。文化や文化意識の『重層性』の問題といってもいい。」(87P~88P)
 ここでいう重層性は、いつしか多様性へ、あるいは曖昧性へと連関していくといっていいはずだ。
 第2章「十字の文化、卍の文化」では、「心臓の交換」に視線がいった。キリスト教と仏教の差異のなかに、臓器移植や脳死の考え方が内在していることを指摘して、興味深かった。第3章「失われたものへの思い」では、俳句に関して述べている「銀河と共に西へ行く」が本書の中ではいくらか異色な文章といえそうな気がする。「俳句研究」誌に発表されたその文章を、なぜかわたしは、初出時に読んでいる。虚子は、わたしにとって、それほど親近性がもてない俳句作家だ。しかし、この銀河の句といい、「貫く棒」の句や、山折は引いていないが「春風や闘志抱きて丘に立つ」といった虚子の句は、花鳥諷詠を認ずる作家の作品とは思えない際立った作風だといっていい。山折はそんな虚子の「不遜」な句の裏側を分析してみせてくれている。
 わたしが、本書の表題(主題)にそって〈日本人の情感〉を考えてみる時、やはり天皇制の問題に突き当たる。『天皇の宗教的権威とは何か』の著者ならではの文章「天皇と玉座」が第2章に収められている。宇多田ヒカルや浜崎あゆみの詩が引かれたり、『ゴルゴ13』が援用されたりする本書だが、この「天皇と玉座」こそが〈主題〉として読まれるべきである。
 「そもそも『女帝』というのは、『皇帝』の女性版ということだろう。けれども私は、(略)天皇はそもそもエンペラーなどではなく、テンノウというほかない存在だと考えてきたからである。(略)天皇という呼称のなかには、そもそも男性も女性も含まれていたからだ。」(131P)
 雅子妃が内親王を生んで、女帝待望論がマスコミを駆け巡っていることに対し、このように、述べていき、そして王が即位する時に儀礼的に座る玉座について、解説しながら、天皇の継承祭儀、大嘗祭へと言及していく。
「はじめに」で、山折は日本人の情感はどこからくるのかと自問すれば、「想像の翼がどこまでものびていくような気がする。」と述べている。比喩的な捉え方をすれば、「言葉の重層性の森」を「想像の翼」がどこまでも飛翔して、言葉と思想の問題の端緒を切り開いて見せてくれているのが、山折哲雄の最新著作だといっていい。

(『図書新聞』03.7.12号)

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2006年5月 9日 (火)

「『千年の愉楽』考・一」

 『夏芙蓉 』。不思議な響きがする。フヨウやスイフヨウではなくナツ・フヨウだからだ。夏(ナツ)がひとつのイメージを付加している。濃厚な香りを放ち、酔芙蓉は花の色を変えるという。切実さ、切なさ、拙速さ。わたしなら、寂しさとともにそんなイメージを思い浮かべる。夏は、その表層さがもたらす熱さよりも、拙速に消滅に向かっていく様を喚起させる。だから、こんな書き出しで始まる、ひとつの物語に胸が熱くなるのだ。
 「明け方になって急に家の裏口から夏芙蓉の甘いにおいが入り込んで来たので息苦しく、まるで花のにおいに息をとめられるように思ってオリュウノオバは眼をさまし、仏壇の横にしつらえた台に乗せた夫の礼如さんの額に入った写真が微かに白く闇の中に浮きあがっているのをみて、尊い仏様のような人だった礼如さんと夫婦だった事が有り得ない幻だったような気がした。」(「半蔵の鳥」)
 この物語を著した作者は夏に死んだ。

 『天鼓』。 天上界から舞い降りてきた太鼓といった意味をもつこの言葉は、この物語の作者中上健次が畏敬してやまない谷崎潤一郎の『春琴抄』を思い出させる。盲目の主人公春琴は、「飼っている一番優秀な鶯に『天鼓』という銘をつけて朝夕その声を聴くのを楽しんだ」。わたしは、映画『春琴抄』(七六年、監督・西河克己、主演・山口百恵、三浦友和)で物語の後半、春琴が佐助に口紅を塗ってもらいながら、鶯の鳴く様を聞いて、嬉しそうに、「いま鳴いたのは天鼓やな」 という場面に、強い印象をもっている。暗い結末をもつこの映画で、明るい慰藉するような鶯の声は、「テンコ」という響きとともに、胸を打つ。
 中上の物語は、こうだ。「明けてくるとまるで瑠璃を張るような声で裏の雑木の茂みで」鳴く鳥が、オリュウノオバには、「半蔵が飼っていた天鼓という名の鶯」のように思いだされてくるのだ。そして、この鶯は、半蔵の熱い関係性を象徴している。

 『中本の血』。オリュウノオバは「路地」でただひとりの産婆だ。半蔵の姓は、オリュウノオバの夫の礼如さんと同じ中本だ。「中本の血がよどみ腐っている」象徴としての弦とはイトコ同士だ。半蔵が二十歳の時、女と暮しはじめる。女が身ごもった。半蔵はオリュウノオバに弦のような子が生まれないかと心配で尋ねる。そういう思い、つまり中本の血の宿運は、そのまま「路地」の若衆たちの存在の苦悩でもあった。まるで、そのことを払いのけるかのように、熱く生き急ぐ。
 天鼓という鶯をもらった若後家の家に、入りびたる。鶯は、この家に出入りするもうひとりの男から貰ったものを女が渡したのだった。山仕事の仲間の怪我の治療費を無心に女の家に行くとその男と出会う。半蔵は、「鶯の声をあんなに綺麗になるほどに仕込んだ」ならと、酔いにまかせその男と、若後家を天鼓のように仕込んでやろうといたぶっていく。男と女。男と男。熱い性愛。やがて死。

 『路地』。 読み書きができないオリュウノオバは、生れてきたものの生年月日と、死んだものたちの年月を諳んじることができた。そうすると、「路地」がまるで、「 死んだ者や生きている者らの生命があぶくのようにふつふつと沸いているところのような気がして」ならなかった(「六道の辻」)。
 「何百年もの昔から、今も昔も市内を大きく立ち割る形で臥している蛇とも龍とも見えるという山を背にして、そこがまるでこの狭い城下町に出来たもう一つの国のように、他所との境界は仕切られて来た。」(「同」)
 「路地」という場所はそういう空間性をもったところだ。中上健次が紡ぎ出した物語の数々は、「路地」の物語だ。そしてそれは、わが国に潜在する共同性の態様を析出した物語でもあった。アジア的遺制の残存が、わが天皇制の虚構の物語だとすれば、ここ「路地」は、そのことを無化すべく存在せしめられた場所だと、中上は物語っていくのだ。

 『桜の木』。半蔵より十歳も若いが、叔父にあたる田口三好は、「十五ほどで、もうその頃は大人の中に立ち混って闇市の中で商売をはじめ、不良少年団の親分」(「六道の辻」)のようにふるまっていた。オリュウノオバは、「意地も屈託もない青年団の若衆よりも、(略)飯場で手に入れた金を一晩出かけた博奕であらかたなくし、残った金で(略)女に流行の柄のゆかたを買って使いきり、花火のように瞬間に燃え上がればいいと思っている三好の方が数段女としては惹かれると思った」。亭主もちの女と関係し、亭主を殺す。無垢で、人を殺しても悪いと思わず、「血の中で女を裸にしてつがるという」考えをする三好をオリュウノオバは、「分かりすぎるほど分かっ」ていた。二十歳になった三好は飯場で怪我をする。「眼がおぼろげにしかみえなくなっ」たのだ。やがて、「夏芙蓉の花が閉じはじめる頃」、三好は、桜の木で首をつって死んだ。〈死者の像〉が累積していく。

(『点』01号・04.4.15)

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「『千年の愉楽』考・二」

 『鴉天狗』。「路地」でただ一人の産婆であるオリュウノオバが語る「浄らかだからこそ澱んでいる」、「中本の一統」の血をめぐる物語は、「路地」が招来してしまう忌避できない死という劇だ。それは、「路地」の若者たちの熱くたぎる生き急ぎが、外界を「路地」に反照させて、解体させているからだといってみたくなる。オリュウノオバは、産婆であることで、若者たちの「生誕」に立会い、そして、生き急ぐ若者たちの早すぎる「死」を抱懐する。「死」を「再生」させるかのように、また、産婆として「生誕」に関わっていく。オリュウノオバの視線は、「髪が黒々として体中くまなく産毛と言えぬような毛でおおわれ」て生まれ、「女親のカネが異類の子を孕み産んだのではないか」と思われた文彦へと向けられていく。全身の毛は一月経って消え、「どんな異類の徴候もみられな」い文彦が六つの時、「鴉天狗」を見たと告げる(「天狗の松」)。オリュウノオバは、暗い予兆を思うのだ。

 『巫女』。文彦は、中学を出てから飯場を転々とする。修業する巫女の集団が、食料や生活のために必要なものを買い求めるために飯場の近くで女郎屋をはじめた。そこで知り合った女を、「山の中で出会った」として、文彦はオリュウノオバのもとへ連れて来て「どうしたらいいだろうか」と聞く。巫女だった女と文彦の出会いを「中本の血の若衆にふさわしい淫蕩だがあえかな物語」だとオリュウノオバは思った。天狗の化身かとも思った巫女と文彦の暮らしが始まる。だが、ふたりの過剰な性愛の果てに、女は死に至る。中上健次の描写力は、この女の「死」を流麗に描ききったことにある。「一瞬に光りの塊のようになって熊野の山々が重なった方に飛び去った」女は、男を救済していくかのように死んでいったともいえる。中上の視線は、「路地」の若者たちへの熱愛がこもったものだ。 しかし、「生きていく気が抜けた」文彦は二十四の時、「路地の松に首をくくって死ん」だ。

 『タンゴ』。連作六篇からなるこの『千年の愉楽』は、「天人五衰」で物語を転位させているかのようだ。ある種、静謐な劇の流れから、戦後という時空がそうであったように、喧騒の場所を過剰に描出していく。明治近代国家は、「穢多解放令」を公布した。だが、むしろ苦難の時間性は重層していった。だからオリュウノオバは、「猿のように獲られて死んだ者」を思いながら「滅びるより増える方がよいと説いてまわり産ませ」てきたのだ。路地の若者あるいは中本の一統は、沈潜した時間性を払拭させるかのように、熱くたぎる夢想を抱こうとする。それは、なによりも「路地」の宿運を解き放ちたいという無意識の「夢」だといっていい。終戦の翌々年の夏の盛りに康夫は、誰も眼にしたことのない蓄音機を携え路地に戻ってきた。そして、タンゴを聞かせ路地の者たちを驚かした。「音」が「声」が「踊り」が聞こえてくる。中本康夫ことオリエントの康はそんふうに登場する。

 『理想の国』。中上の描く「路地」は、国家や共同体から排除された場所だ。だからこそ、「路地」の失われた共同性を獲得し、転化させ、それを発露として、世界へ反照させていくしかなかったのだ。オリエントの康は、「新天地をつくりたいと奇異な情熱を持って」路地の若衆たちを説いて廻っていた。それは、「路地の高貴な汚れた血の本能の命ずるまま」つくるもう一つの満州国のようなものだった。昔、子供の頃に路地から何家族もバイアという土地へ移住していったことを、康は覚えていた。譲司に新天地の場所を聞かれ、「南米のバイヤじゃの」と答えるのだった。こうして、「日本人として新天地で理想の国をつくる事」など、「三カ条の規約をつくり六人の血判を押し」て鉄心会という名の組をつくった。そんなオリエントの康をオリュウノオバは想う。「誰かの為にそんな見も知らぬ他所の国へ行こうとしたのではなく」、ただ死に向かうオリュウノオバの為だった気がした。

 『蓄音機』。オリエントの康は、ダンスホールで地廻りの若衆たちにピストルで撃たれ瀕死の重傷を負う。鉄心会の手下たちが地廻りの者たちとイザコザを起こしたからだ。
「痛みが心臓の動きと共に響いているのを耳にしながら、(略)眼を閉じれば裸足で新天地の道路を横切っている髭面の自分が見えると思い、痛みの呷きとも溜息ともつかぬ声をあげて手をのばして自分をはげますように蓄音機を廻して針を下ろした。」(「天人五衰」)
 やがて、康は集団で新天地に行く事を断念する。そして、蓄音機から鳴るタンゴの音とともに路地の者たちが踊っている場所で、一番の手下だった譲司にピストルで撃たれる。二度の「狙撃の祝福が厄を払った」かのように死ななかったが、その後、一人、南米へ渡り「死んだ」。「音楽は物の怪の力をもち」、「オリエントの康を彼方にとじ込め」たとオリュウノオバは思う。物語は、過剰な死を累積させながら、鮮烈な生を描出していくのだ。

(『点』02号・04.11.15)

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「『千年の愉楽』考・三」

 『義賊』。新一郎は、十七の時に、男親の死を契機に、「誰も手をつけられないような盗人に成長してい」(『ラプラタ綺譚』)た。じぶんを義賊に擬して、別当屋敷や群長の妾の家、鉄道疑獄で捜査されそうなバス会社といった場所に入っては、盗んだものを路地の辻に捨てていた。路地のものたちは、それが盗んだものだと知りながら、しぶんたちものにしていく。だから、誰も新一郎の行状を責め立てるものはいなかった。たまりかねた礼如さんは、何度も意見をすることになるが、聞き入れることもなく、破天荒な所業は続いていく。だが、「川向こうの製紙会社を荒して失敗し」てからは、盗人を止める。そして、しだいに「中本の血の本性を顕わしはじめ」る。新一郎は、旦那に囲われている芸姑の歓心を買うために、草履や下駄の「直し」の仕事につく。茶屋の玄関脇で、鼻緒のすげかえをすることで、芸姑との機縁をつくり、「愉楽」の関係へとすすんでいった。

 『銀の河』。ふたりの噂が花町でたってきたため、かつての所業が知れることを恐れ、新一郎は、行方をくらます。やがて、南米へ渡り、オリュウノオバ宛に絵入り手紙が送られてくる。二年のあいだに届いた六通ほどの手紙は、「銀の河の事が繰り返し出て来」た。新一郎は路地に戻ってきても、すぐには南米のことを語らず、三年経ってようやくオリュウノオバに語る。「ラプラタは銀の河だが、そこもやはり路地と同じように人間の住むところで、羽の生えた天女も臭い女だったしイーグル男もみにくい奇形のアル中にすぎなかった」と。中上が描出していく路地の世界は、場所性を逸脱していく。それは、路地という空間を外部へと連携させたいからにほからない。アルゼンチンとウルグアイの国境間に流れ出るラプラタ川という実際は、「銀の河」という換喩で、わたしたちがもっている路地という空間のイメージに繋がっていく。しかし、中上はこの物語の主人公に水銀を飲ませ自死させるのだ。

 『達男』。わたしたちは、六篇からなる連作短編集『千年の愉楽』を俯瞰して、ようやく最終章へ至る。この「カンナムイの翼」は、オリュウノオバの「死の床」から描き出されていく。だが、全篇に渡ってそうであるように、ここでもまた、時間を往還しながらオリュウノオバの視線から物語は、紡ぎ出されていくのだ。「通夜の今日は、到るところに散った路地の出の者だけでなく、誰もが、どんな時代に生きた者も集まる」という共同性の表象として「死の床」は描かれている。路地の唯一の産婆としての存在性は、多くの路地の者たちの「生」を認証し、「出自」を保証していく有り様を示している。女に刺されて瀕死の中本富繁は、生まれてくる子供のために、五体満足で生まれてくるようにと大蛇が棲むというお堂に潜んで祈願していた。だが、「ふくろうが鳴いた夜」に、富繁は大蛇に飲まれて死んだ。その時、達男は、「何一つ欠ける事なく余分な物もなく」、オリュウノオバにとりあげられたのだ。

 『人間の路地・アイヌのコタン』。十五になった達男は、「何代にも亙って若死にし浄化を繰り返してきた果てに生れたこの上なく尊い仏の現身のように」黄金色に輝いていた。夫の礼如さんが遠くへ通夜で出かけ不在の時、オリュウノオバは、達男と情交し、朝早く戻ってきた礼如さんの知ることとなる。「親が子を抱くように抱いて何が悪いんなよ」と言うのに対して、礼如さんは「ようも、ようも」と絶句するだけだった。この「カンナムイの翼」一篇は、濁流のように中上健次の物語への渇望を凝縮しているといっていい。アイヌ(のコタン)と路地を連結させて、「愉楽」の世界に投げ入れようとしているからだ。達男は、北海道の鉱山へ働きに出で四年ぶりに、アイヌの若い衆とともに路地へ戻ってくる。ここで、達男は、アイヌは人間という意味で、カムイは自然や神のことだと、オリュウノオバに教える。そして、達男は、連れてきた若い衆に「ポンヤウンぺの産婆」だと紹介する。

 『千年の愉楽』。ポンヤウンペは、「キラキラひかる揺り籠(シンタ)に乗ってやって来た神謡(ユーカラ)の、半分は自然・神(カムイ)、半分は人間の名だ」と聞いたオリュウノオバは、「外からやってくる敵を撃退しろと」いう意味に思った。ここに至って、過激な思いを、オリュウノオバに仮託していく。「人間(アイヌ)の路地(コタン)と路地を結び、理由なく襲いかかってくる者ら」に対して、弓矢や鉄砲、爆裂弾で戦争するという想起。それは、「天子様暗殺謀議」で逮捕・処刑されて和尚不在となったのを礼如さんが変わりに路地をまわるようになった因縁ともつながる。この最後の一篇は、達男とアイヌの若い衆が、北海道に戻り、鉱山の暴動を組織して殺されたことに象徴されるように、物語はさらに過剰化していく。愉楽は共同性が孕んでいる熱い渇望なのだ。千年とは、そこに内在している「生」であり「性」でもある。そして忌避できない「死」という場所を意味しているのだ。(了)

(『点』03号・05.6.15)

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2006年5月 8日 (月)

中野徹三・藤井一行 編著『拉致・国家・人権―北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』(大村書店刊・03.11.30)

 北朝鮮・金正日独裁政権が日本人拉致を認めてから、一年半近く経過した。五人の拉致被害者の帰国から何の進展のないまま、東アジアの政治情勢は、依然、泥濘のような状態が続いている。日本政府の無能さは、金政権の欺瞞性と五十歩百歩だ。だからといって、わたしは、被害者家族たちを支援している現代コリア研究所の佐藤、西岡や反共を標榜する政治家たちを容認はしない。日本政府(日本国家といってもいい)と北朝鮮という宗教国家は本質的に同じ病巣を持っているという視線がぬけているからだ。
 この間の、拉致論の多くは日本も核武装して北朝鮮と対峙すべきだという最強行論や徹底的な経済制裁を加えるべきだという対話回避論から、和田春樹・岩波「世界」グループのような戦前の日本の戦争行為、朝鮮人強制連行といったことがらを謝罪し、平和的対話のなかで日朝間の関係を構築すべきだという空虚な理想論まで、幅広くなされている。しかし、それらのすべてに国家論の空洞性があることを見逃してはならない。
 かつて、ロラン・バルトは大都市・東京の中心にある皇居を指して、「その中心は空虚である」(『表徴の帝国』訳・宗左近)といった。そして関川夏央は北朝鮮旅行記で、北朝鮮の有様を「退屈な迷宮」といった。
 〈空虚な中心〉、〈退屈な迷宮〉はそれぞれ、戦後の象徴天皇制と金王朝の実態を見事にいいあてている概念だ。そしてそれは、同時にわが国と北朝鮮の共通の国家の本質を示唆する言葉でもあるのだ。一方が繁栄、もうひとつの方は飢餓と貧困と表層的に見えても、実体は、「空虚」であり、「退屈」なのだ。拉致にからんだ北朝鮮論の陥穽のほとんどが、鏡として国家を見ることのできない空洞に陥っていることだ。
 金正日にとって高度消費社会のわが国はいつになっても帝国主義国家であり敵国なのだ。そしてわが国の多くの人びとは、北朝鮮を遅れた個人崇拝の独裁権力国家だと見なすというまったく交差することのない視線がかわされているうちは、関係性の構築はありえないといってもいい。わたしの考えは簡単明瞭だ。半島の問題は、北と南の二カ国間だけでやるべきなのだ。アメリカもロシアも中国も、ましてやわが国も介在すべきことではない。拉致に関しては、アメリカのバックアップを期待したり国際世論を背景にしてやるのではなく、わが国単独で矜持をもって交渉すべきことなのだ。そんな力量もないから、先進国首脳会議や六カ国協議の議題にのせようとしてうまくいかず、外務官僚の無能さだけが目立ってしまうことになるのだ。
 さてこうして私見を述べてしまえば、本書の主旨と私の考えが、どこで重なっていくのかと思われそうだ。だが、本書はこれまでの拉致論・北朝鮮論とは一線を画したものとなっていて、わたしに、多くのことを示唆してくれている。編者たちは、トロツキー研究会のメンバーで、「三五年来の反スターリン主義闘争の盟友」(「あとがき」)なのである。
 本書で編者の一人、藤井一行は次のようなトロツキーの言説を引いている。
 「私的所有が社会的所有になるためには、ちょうど青虫が蝶になるためにさなぎの段階を経なければならないのと同じように、不可避的に国家的段階を経なければならない。しかしさなぎは蝶ではない。無数のさなぎが蝶になれずに死んでしまう。国家的所有は、社会的な特権や差別が、したがってまた国家の必要性も消滅していくその度合に応じてのみ『全人民的』なものになっていく。言いかえれば、国家的所有は国家的であることをやめるにつれて社会主義的なものに転化していく。」(250P)
 レーニン以上にレーニン的な国家論だといってもよい。藤井は、この後、このように述べていく。
 「トロツキーの指摘はもちろん北朝鮮にもあてはまる。ただしソ連では、スターリンを首領とする党官僚体制が全体として特権層として存在していたのにたいし、北朝鮮では首領唯一体制になっている。九八年憲法では、『国家所有は、全人民の所有である』と規定されている。しかし、首領絶対主義のもと、『朕は国家なり』に等しい金正日体制のもとで、国家所有は、金日成・金正日所有となるほかない。」(251P)
 戦前のわが国が、天皇を絶対神としたある種の宗教国家だったように、北朝鮮もまた金親子を絶対神とする宗教国家であり、社会主義国家ではなく金王朝国家であるという認識のもと、通交を見定めるべきだと思う。よど号メンバーが何年ぶりかで姿を現したとき、見事なまでの主体思想のスポークスマンになったのを見て、わたしは、実際的に囚われの身であったとしてもマインド・コントロールの恐ろしさを痛感したものだ。宗教国家だから、内部からの崩壊は、まず期待できないとみるべきだ。国連の安保理事会が形骸化しているいま、中野徹三がいうようにICC(国際刑事裁判所)に、人権侵害(拉致も含む北朝鮮民衆への人権的圧制)ということで、金日正王権を提訴するという方法も、あるかもしれない。だが、わたしは北のマインド・コントロールを解くのは、同胞でもある南の人たちであるべきだと思っている。
 未来への通路は、半島を二つに分けた国家たちにゆだねるべきではない。

(『図書新聞』04.2.21号)

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和田春樹 著『日本・韓国・北朝鮮―東北アジアに生きる』(青丘文化社刊・03.1.20)

 著者の和田春樹は、かつてロシア・ナロードニキの先駆的な研究者だった。本書のプロフィールでは、あまりその形跡を窺い知ることはできない。同時期にナロードニキやアナーキズムを研究対象にしていた京大の勝田吉太郎が、その後、いわゆる右へ旋回していったことと、和田がソ連のペレストロイカを積極的に支持し、実践的には東アジアへシフトしていったこととは、そんなに違いがないと、正直思っていた。久しぶりに、和田の名前が、わたしの眼に飛び込んできたのは、あの拉致騒動の渦中だった。詳細を知っているわけではない。たぶん、現代コリア研究所の怪しげな一統と、拉致被害者家族から、北側の擁護者として一方的に批判されているのだろうと、推測している。あえていえば、拉致は確かに許されざる国家犯罪ではあるが、佐藤や西岡達、現代コリア研究所の面々と被害者家族達は、戦前のわが国の半島への侵略支配行為(強制連行も当然含む)をまったく捨象しているように見えて、わたしには彼らの声高の告発にまったく親近感を持つことができない。独裁権力者金正日を、全面否定できたとしても、戦前の半島への行為が無化されるわけではないのだ。だからといって、金丸の土下座外交ではないが、和田がいうような日本政府として正式に謝罪することで、北朝鮮が納得して開放的な外交をするとも思えない。
 わたしが、つねづね考えていることは、わが国と、東アジア(韓国・北朝鮮・大陸中国・台湾中国)との時空的な関係のありかたは、自虐史観でも駄目だし、戦前の国家行為を糊塗した先にあるわけでもない。植民地支配・侵略行為を率直に認め、国家・政府として戦後補償をしたうえで、戦後の政治的パラダイムの転換を認識したなかで互いに主体的にそして率直に主張すべき事はするという関係性を構築することだと思う。
 しかし、現実はそういうことにはなっていない。わが国政府の主体性のない戦後処理の対応の不充分さ、いつまでたっても戦前の政治的パラダイムのなかでしか日本を見ようとしない東アジアの国家たちというように、停滞した状況が続いているというしかない。大陸中国や韓国、北朝鮮が強大な軍事力をもちながら、わが国にことあれば軍国主義の復活だと批判するのは、矛盾と錯誤の国家論理だといっていい。
 和田が、日本は戦前の行為を謝罪すべきだと、本書で一貫して述べている。確かにそのことは、率直性に満ちた正論だと思う。だが、それは、こちら側(わが国)の内省の問題だとわたしなら思う。本書の大部分が韓国の新聞、雑誌に発表された一九八八年から二〇〇二年までの文章だが、そこで、村山謝罪発言(自衛隊を簡単に容認したように、自社政権というまったく錯誤の政権の首長がいったことは空語でしかないというのがわたしの考え方だ)を金科玉条のようにわが国の公的なものとして有効性を力説しているが、それは韓国の読者を困惑させるだけだと思う。わが国の政権執行者の言葉がいかに公的な意味を持たないできたかは、誰でも知っていることだ。日朝国交促進国民協会の訪朝団の団長が村山で、秘書長が和田という関係が、そういう連帯感をもった論述になるのかもしれないが、わたしには、承服できないことだと、あえていっておきたい。
 しかし、なるほど、和田は先駆的なロシア・ナロードニキの研究者だったなと思ったのは、「東北アジア共同の家」という提言においてだ。
 「(略)はっきりしていることは、日本からは政治的なリーダーシップも、新しい哲学も、ヴィジョンも発信されていないということである。日本は経済力を除けば、一個の巨大な空白である。このことが東北アジアにとっては致命的な問題である。
 東北アジアの現在の情勢の諸要素を考えると、最大の課題は北朝鮮の改革開放だということになる。東北アジアの将来は北朝鮮の転換にかかっているのである。(略)朝鮮が二つの体制をもちながら、開放協力の体制をつくれるならば、そのあり方は東北アジア全体の開放協力体制のモデルになるということができる。中国と台湾のよき関係にとって、そのモデルが役立つだろう。東北アジア共同の家をつくることに進むことができ、その中心に朝鮮半島がくることになるであろう。(略)
 当然ながら東北アジアの共同の家が生れるには新しい文明的メッセージが共有されなければならない。何より民族的遺産、文化の相互尊重の上に、ナショナリズムを越える原理を求めなければならない。」(114P~122P)
 「民族的遺産、文化」を〈相互尊重〉するということは、そのこと自体、ナショナリズムを越えなければできないことだ。アジアはある意味もっともナショナリズムが強い地域だといっていい。高度資本主義であっても半資本主義化した社会主義であっても、強度の宗教国家体制であっても、〈アジア性〉は、絶えずナショナルなものを温存しているのだ。「東北アジアの共同の家」という考え方が、アジアの未来の道筋をつけていけるのなら、〈戦前〉という時空は、超克されることになる。勿論、越えなければならない障壁は数多くあるが、それでも〈アジア性〉を開いていくことがこれからは、必要なのだ。

(『図書新聞』03.6.21号)

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