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2006年4月28日 (金)

つげ義春 著『つげ義春の温泉』(カタログハウス刊・03.2.10)

 単独の著作(文庫や漫画作品集の再刊本を除く)としては、九一年の『貧困旅行記』、『つげ義春資料集成』以来、十二年ぶりの刊行となる『つげ義春の温泉』(九四年の『全集別巻』からは、九年ぶりとなる)は、つげ義春氏の作品歴のなかでも、出色な著作だといっていい。この本の成立に関わった立場から、成立事情と、この著作がもつ意味を述べていこうと思う。
 企画の始まりは、出版元であるカタログハウスの社主斎藤駿氏の発案からだ。氏はかつて、『「沼」以後全集』と命名された企画を考えたことがある。わたしは、「ねじ式」よりもはるかに衝撃的で、わが国の劇画史のなかでも最重要作品だといっていい「沼」を基点として作品集を編み、そのことを書名に表わすという発想に、ほとんど感動をもって受けとめた。残念ながら、筑摩書房からの全集企画が進行していたため、この作品集は幻に終わったが、雑誌「通販生活」に旧作十一作品が、九四年春号から九六年春号まで全九回にわたって掲載され、後に『つげ義春アンコール劇場』(非売品)としてまとめられ、九八年に刊行されている。
 そして今回、斎藤氏が提案したのは、〈温泉〉というモチーフで漫画作品、エッセイ、イラスト、写真を一冊にまとめた作品集だ。『つげ義春の温泉』というモチーフを直接的に示す書名は、またしても、わたしを驚かせた。直接性をもった書名は、そのままつげ義春氏の世界を表わしていると思えたからである。さて、この企画が果たしてつげ氏に受け入れてもらえるかが、最も難渋な問題だった。
 つげ氏は、はじめ固辞された。その理由は、何度も再編集して本にするのは、読者に対して申し訳ないというものだった。熟考の末、未発表の文章と写真をなるべく多く収録するということで、どうにか承諾していただいたというのが、この本が成立した一端である。
 こうして、刊行にいたった本書には、いくつか特筆すべきことがある。第1部に配置された「温泉写真・イラスト篇」では、温泉写真のすべてとイラストの一部が、単行本未収録、未発表のものとなっている。第3部の「温泉エッセイ篇」では、四百字詰め計算で三十枚ほどの未発表エッセイ三本を掲載できた。そして、第2部「温泉漫画篇」は、六篇の漫画作品(「長八の宿」、「二岐渓谷」、「オンドル小屋」、「ゲンセンカン主人」、「懐かしいひと」、「会津の釣り宿」を収録。ただし「義男の青春」は除外した)それぞれに、つげ氏と長い伴走を続けてきた高野慎三氏の温泉地と作品成立をからめた卓抜な解説文が付されて本書がさらに厚みのあるものとなった。そして、これはいくらでも声高に述べておきたいことだが、西山温泉の少女のイラストを表紙カバーに配置して、本文レイアウトも含めて、「つげ義春の世界」を精緻に息づかせた気鋭のデザイナー、竹井賢氏の見事な造本を強調しておきたい。
 ここまでは、〈内〉からの視線だ。〈外〉からの視線を、本書に向けてみればどうなるだろうか。
 周知のように、つげ義春氏は大変寡作の作家である。漫画作品は、一九八七年に「COMICばく」誌に掲載された「別離」以降、新作は発表していない。それだけに、前年に発表された『無能の人』の一篇、「蒸発」は、つげ氏の観念的な想念が、直接性をもって表現された作品として重要な意味をもっているといっていい。かつて、わたしは、いわゆる「旅作品」といわれている作品群に対して「流離する物語」として捉えたことがある。〈流離〉ということは、孤絶感を内包した存在のありようを示す言葉といった意味合いを持たせたつもりだ。当然、作品「蒸発」を念頭においている。「蒸発」は、作品中の主人公、助川助三と作者つげ義春氏とが二重写しのように、読むものに思わせる。そして物語に挿入されている流浪の俳人井上井月のエピソードと古書店主山井の像も二重に描出されるという構造をこの作品はもっている。主人公、助川は二人の生き方に憧憬をもちながらも、最後に「井月も山井も大馬鹿ものだよ」と語らせている。
 かつて、つげ氏は、九州へ本当に「蒸発」したことがあった。何日かして東京へ戻り何事もなかったように仕事場に就いた(「蒸発旅日記」はその時のことがモチーフになっている)。何処かへ蒸発して流浪して生きていきたいと思い続けるつげ氏の想念は、生み出されていく作品(漫画・イラスト・写真・エッセイ)に当然のことながら反映されていると、わたしは思う。現実の生活が様ざまな足枷となって「蒸発」の実行は叶わないにしても、想念は霧散することはない。つげ氏にとって「蒸発」という想念は、自身の観念であり、宗教観や生きかた、存在のありように関わることなのだ。本書でいえば、約六十点にも及ぶ昭和四十年代から五十年代初めにかけての温泉場の写真の数々は作画のモチーフという考えを離れた、流離するつげ義春の視線で捉えた想念の結晶だといっていい気がする。
 本書の「あとがき」で六十点にも及ぶ未発表写真に関して次のように述べている。
 「作画にこだわらず、単に私が訪れた温泉の紹介として(一部にすぎないが)選んでみた。二、三十年前に写したものなので、現在このような景観を見ることはできないのではないだろうか。私の温泉離れも、みすぼらしい景観が少なくなったのが原因といえるかもしれない。」
 温泉地に「みすぼらしい景観」を求めるということは、そこを「蒸発の場所」としたいという想念からくるものだといっていい。
 かつて、つげ氏はつぎのような旅観を語っている。
 「旅の究極は蒸発して行方をくらますことだと思うんです。ふつうには旅の魅力は一時的に日常から遊離する解放感だと思うんですけど、蒸発はそれを持続させる行為、帰ってこない旅ですから、社会から脱けてしまうことですね。(略)仏教風にいえば自分から解放されるというのは解脱というんですかね、何ものにも拘束されない自在の境地。(略)旅に惹かれるというのは、その奥深い解放感をどこかで感じるからではないですかね。」(「伊那谷の鉱泉宿の辺りで、乞食になって消えていきたい。」『温泉四季vol・1』九一年八月、所収)
 巻頭に多数配置された温泉写真とイラストを見れば、つげ氏のこのような想念がいたるところに息づいているのがわかるはずだ。
 そのことが、本書『つげ義春の温泉』を、著作歴のなかでも出色なものにしている所以だと、わたしはいいたい。

(『図書新聞』03.2.15号)

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2006年4月27日 (木)

「風景の感情―映画『リアリズムの宿』をめぐって」

 つげ義春の「原作」そして、「映画」。どんなに予見を拝して接しようとしても、原作がもっている力を意識しないで作品に向かうことは、これまで困難だったような気がする。もちろん、映画作品は、それ自体まぎれもなく自立したものだ。だが、かつて、つげ作品は、「ぎりぎりなものが原作としてある」し、「コマが計算つくされて描かれて」いるため、そんなにいじれないと述べていた石井輝男の発言(『夜行』第十八号)を、わたしは印象深く覚えている。多くの傑作を演出してきた映画監督だからこその表明なのかもしれないが、やはり、そこには、つげ原作の力を率直に認める感慨があるといっていい。
 では、山下敦弘監督作品『リアリズムの宿』は、どんな映画作品としてわたしたちの前にあるだろうか。真っ先に感じたことは、つげ原作から、距離を置き、やがて接近し、そして離れていくといったスタンスをとっていると思えた。もちろん、その距離感の移行は、この作品の独自性と映画作品としての屹立性ということを意味している。
 原作(作品としては、「リアリズムの宿」と「会津の釣り宿」)との「距離感」は、当然ながら、原作とは違う画像のリズム感のようなものをもたらす。監督の山下敦弘がプレスシートで述べていることは、そのことを傍証しているといっていい。
 「僕らにとって初の原作もの。そのうえ、漫画である。僕自身、マンガは好きでよく読むほうだか、いざ映画と繋げて考えるとなると近いがゆえの難しさに正直、困惑した。(略)原作自体、僕らが生まれる前に発表された作品なので、そのまま作るとなると時代劇を作ることになるのでそれはやめようと思った。設定を現代に移し、つげさんの作品世界の中に僕らが作り出したキャラクターを放り込む方法を取った。つまり、つげさんのオリジナリティと僕らのオリジナリティを正面対決させようと思ったのだ。」
 わたしは、この発言を読んですくなからず衝撃を受けた。なるほど、一九七六年生まれの監督にとって、原作がもっている時間性のイメージは「時代劇」なのかと。わたしは、つげ作品のある種の普遍性は、時間性にあると思っていたからである。この映画の、原作との独特の「距離感」は、そういう認識からきていることに、納得せざるをえなかった。
 山下は、「つげさんのオリジナリティと僕らのオリジナリティを正面対決させようと思った」と述べているが、わたしの印象では、「正面対決」といったことは感じられなかった。むしろ、原作のオリジナリティに、監督たちのオリジナリティを無意識のうちに皮膜のように覆いかぶせていったというべきかもしれない。
 そう感じたのは、おそらく、なによりも冒頭のシーンで、自分のなかにある原作のイメージが払拭されたことにある。寂れた小さな駅頭。本来ならつげ義春的イメージであるべき風景は、登場するふたりの青年の携帯電話でのやり取りで、背景自体へと押しやられ、携帯電話とふたりの「会話」が、つげ義春的話体から逸脱させて(監督たちの意図としては、つまり、時代劇から現代劇へ移行させたということになる)、奇妙な空間性を描出している。そのことに、わたしは不思議な新鮮さを感じたといっていい。この映画の、独特といってもいいユーモアあるいは何がしかの淋しさ、孤独さを漂わせながらも、笑いを慫慂する会話は、たぶんこの監督の資質なのかもしれない。いや、それがひとつの作家性だといってみたくなるのだ。この作家の、独特な映画的文体が醸し出すリズムは、映画で映し出される〈風景〉にはりついている〈感情〉といったものを描出して、『リアリズムの宿』一編を、〈世界〉として醸成しえたのだと思う。もうひとつ、この作品を、いっそう際立たせることになったのは、二人の青年に、ひとりの不思議な少女を対置したことにある。最初、ある種の異和感をもった。だが、時間を置き、あらためてこの作品を振り返って見ると、「海辺の叙景」や「オンドル小屋」、「もっきり屋の少女」といった、つげ的少女感とどこか通底するように思えてきたのだ。たぶんそれは、この少女を演じた尾野真千子という役者がもっている雰囲気がそう感じさせたといえるし、原作者のつげ義春がプレスシートで述べているように、「女の子がふいっと消えちゃうあの感じ、いいよね」ということにも繋がっているといってもいい。 
 わたしは、少女が唐突に(そう、まさしくやや不自然に唐突に思えるのだ)、海で表われるシーンに物語の作為性を感じたが(しかし、消えていくのも唐突だから、それはひとつの道筋がついているともいえる)、それでも三人で共に旅していく物語の展開こそが、この作品の基調なのだといってみたくなる。この映画で、わたしがもっとも印象深いと思った場面は、三人並んで、なにやらカラオケ・スナックのような場所で飲んでいるところだ。坪井(長塚圭史)が、つき合っていた女のことを酔いにまかせて語る。木下(山本浩司)は、それを冷やかすかのように、淡々と抽象的な恋愛論を語り、最後はカラオケで歌いだす。真中にはさまれた少女は、なにも語らず聞いているだけだ(その様態が、尾野真千子をいっそう際立たせることにもなる)。真正面から撮ったこの長回しのシーンは、監督たちが、無意識のうちに抱え持ってしまっている現在という場所から強いられる孤立感といったようなものが、濃厚に反映されていると思った。三人並んだ関係性は、それ自体なにも濃密なものではない。物語から見れば、偶然のいつ離反してもいい関係性だ。それでも、映像は延々長回しすることによって、それが、深いところで繋がるはずだという思いを感じさせることで、この三人の描き方、有様に、わたしはこの映画がもっている力感を、率直に認めたくなったのだ。
 カラオケ・スナックの後、三人で露天風呂になだれ込む。そして、部屋に戻ると坪井が気分を悪くして、二人が懸命に介抱する。やがて、二人が寝入ってしまった後その様態を、なぜか少女は彼らのカメラを手にとって撮りだす。少女は、なにかを確認しておきたかったのだろうか。カメラは自分のものではないし、後日、写した写真を見ることもないはずなのだ。少女の写真を撮るという行為は、関係性にたいする無意識の渇望の表れだとわたしなら捉えてみたい気がする。
 翌日、バス停で、少女が、二人とは違うバスに乗って、消えてしまう場面は確かに秀逸だ。このバス停の「風景」は、カラオケ・スナックの場面とは対象的に会話がまったく交わされない。しかし、わたしには確かな「感情」が見えてくるようだった。「感情」が見えるというのは、なにも機を衒ったいいかたをしたいわけではない。この映画が絶えず湛えている登場人物たちの抑制された「感情」といったものが、「風景」として感じさせているといいたいだけなのだ。もちろんこれは、かなり不自由さをもった意匠としての「風景の感情」だといってもよい。だが、そのことがまた、この作品をいっそう印象深くさせているのだ。さて、こうして述べてきて、わたしは次のような想いに辿りついた。
 原作とあえて対比せずに見ることができた初めての「つげ原作映画」が、『リアリズムの宿』だったといえば、わたしの感想のすべてを集約したいいかたになる。むろんそれは、この映画にたいするわたしの賛辞でもある。

(『幻燈・5号』04.4)

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「『噂の武士』をめぐって」

 『噂の武士』という作品集は、わたしにとって様々な思いを換気させてくれる本だ。
 つげ義春の作品歴や著作年譜といったものを見れば、意外に思うかもしれないが、最初の作品集は、東考社から発売された『噂の武士』だとされている。ここでは、通常、著書(あるいは著作)として見なすべきものを、作品集としてのみ考えられているため、一冊の単行本(長篇作品)として出されている貸本漫画は作品集リストから除外されているのだ。貸本漫画という形態に、なにか偏見と不明さがあるのだろうか。そもそも、漫画家の作品歴や著作歴を考える時、貸本漫画歴を分断して捉えることが、わたしには理解できない。六八年に出た「ガロ6月増刊号・つげ義春特集」に掲載されている「作品リスト」は、長篇、中篇の表示はあっても、特別に貸本漫画作品といった区別はしていない。わたしの考えは、つげ義春の最初の著書は、一九五五年(当時は、五三年と見なされていた)、十八歳の時に若木書房から出された『白面夜叉』だと思っているから、『噂の武士』を、“つげ義春、最初の作品集”という思いは、まったくない。
 ところで、わたしには、『噂の武士』を入手した際にまつわることで忘れることのできない記憶が残っている。
 記憶は、いつだって不確かなものだ。それでも、ただ一度、桜井昌一氏に会ったことは、記憶の網目から取り出すことはできる(不確かな記憶は、もしかしたら二度かもしれないと示唆している)。
 当時、東考社は東京都下、国分寺市本多五丁目にあった。わたしは、一九六八年四月に上京し、国分寺市東元町二丁目の〈野人舎〉と、下宿人たちが勝手に命名したアパートとは到底いえそうもない建物に住んでいた。わたしは、当時、「カムイ伝」を見るためだけに、「ガロ」を購入していた。衝撃的な、「ねじ式」が掲載された「ガロ6月増刊号 つげ義春特集」が、出たとき、下宿の仲間のNさんが、すごい漫画が発表されたといって、わたしの部屋へ息せき切ってやって来たことを、昨日のことのように鮮明に覚えている。わたしはといえば、その時、まだ購入していなかったのである。
 『噂の武士』が刊行されていたのを知ったのは、「ガロ」に広告が掲載されていたからだ。わたしが、いつその広告を見て、住所が国分寺であるからと、直接、買いに行ったのかは、もう覚えてない。歩いて十五分から二十分近くかかったろうか、角に交番があり(今でもまだある)、その脇の路地を入った先に東考社はあったように思う。不確かな記憶を、たどれば、直接買い求めに来た未知の若者に対して、笑顔で接する桜井氏の立ち姿は覚えているが、どんな会話をしたのかは、まったく記憶にない。新書判142頁、定価220円の『噂の武士』(六六年十二月発行)を手にして、その時は、なんとも充実した気分で下宿へ帰ったはずだ。
 さて、ここから記憶は怪しくなる。部屋でページをめくっていくと、乱丁本だったことに気がつく。“笑顔”で接してくれた桜井氏のことを思い、交換してもらうのが、なぜかためらわれたのだ。そのまま、換えてもらわずにいたのか、すぐに、交換に出向いたのか、はっきりしない。ここからの記述は、桜井氏の名誉のために言っておく。けっして東考社・桜井氏を批判したいがために、記憶の断片を紡ぎ出そうとしているのではない。わたしのもうひとつの不確かな記憶はこうだ。迷いに迷ったすえ、思い切って交換しに行った。ところが、持ち帰ってみたら、またも乱丁本だったのだ。さすがに、もう一度、行くという気持ちにはなれなかった(たぶん交換しに行った時の申し訳なさそうな桜井氏の表情が痛々しかったのだ)。もう桜井氏の落胆する顔を見たくなかった。どこかで、つげ義春の作品集を出した桜井氏への敬慕の思いがあってそうしたはずだ。マニアなコレクターだったら、しつこくまた交換に行っただろうが、わたしには、そういう趣味はない。今、手元にある『噂の武士』(帯付だったが、もうボロボロである)は、つげ義春の「まえがき」、「古本と少女」、「噂の武士」、「西瓜酒」、「女忍」の四作品、白土三平の解説「つげ義春とその作品」は、問題がなかった。「噂の武士」と「西瓜酒」(開始頁85)の間に収載されていた「不思議な手紙」(開始頁59)に乱丁があったのだ。64頁の次の頁が81、それが96頁まで続く。そして次がまた81頁で始まっていくというものだった。つまり、「不思議な手紙」は十六頁分抜けた変わりに、他の頁分が製本されてしまったことになる。
 つげ義春は「まえがき」で、次のように述べている。
 「突然、新書判ブームが起り、ドッと旧作が放出された。よいマンガは何度でもくり返し読んでもらおうとの趣旨であるらしいが、一度売った原稿が二度のおつとめをしようとは夢にも思わなかった。
 今さら旧作をひっぱり出し恥の上塗りはしたくないのだが、労せずして金が入るという誘惑に理性を失ってしまったのだ。
 したがって、本書に収めた五ツの短篇は、冷静な判断によって選ばれたものではない。たまたま手もとに原稿があったりしたからだ。」
 当時から、つげ氏は衒いをもった文章を綴っているのが印象的だ。解説で、白土三平が「透明さ、張りつめた美しさ」という表現でつげ義春の世界を述べているのを読んで、“このままの本”でいいのだと、わたしは思ったのかもしれない。こうして、桜井氏の笑顔と困惑した顔を喚起させる『噂の武士』は、わたしの書棚の中では、常に目を引く場所に収められる本となったのである。

(『貸本マンガ史研究・13号』03.8)

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「劇画という根拠―佐藤まさあき考」

 また、「劇画」という言葉にまつわる作家が亡くなった。どうしたことだろう。本誌の「桜井昌一追悼号」に「わが戦友」と題した長めの追悼文を寄せていたばかりではないか。なにか「死」というものの非情さを感じないわけにはいかない。いささか、漫画・劇画の世界を逸脱して思いを敷衍すれば、かつて、戦後詩に新たな表現性をもたらした「荒地」派の詩人たちが、相前後して亡くなっていった時の、喪失感に似ている。もちろん、世代的には、「劇画工房」世代は、一回りほど年少とはいえ、亡くなった時の年齢が、「荒地」派の詩人たちと、きしくも近似していることも、わたしが、こだわる根拠でもある。
 もうひとつの根拠は、やはり、「戦後」という問題だ。
 佐藤まさあきの著書『「劇画の星」をめざして』のなかで、「父は空襲で直撃弾を受けて死亡し、母はまたそのとき受けた火傷の後遺症で」、中学二年の時に急死したと記述されている。昭和十二年生まれの佐藤が、「戦争」を体験した事実には変わりはない。両親の「死」という苛酷な体験によってである。その著書のなかで、義兄との軋轢や戦後の困窮した生活にたいする様々な思いが、自分の作品に復讐譚が多い理由だということを、率直に述べていた。だから、佐藤にあって、「劇画」という根拠は、ひとえに「戦後」という問題なのだと、いっていいはずだ。
 ハードボイルドという言葉が、日本語的イメージに換言される時、例えば、昭和三十年代の日活アクション映画群が放った世界と同義のように語られるとしたら、大きな錯誤を生むことになる。だからといって、わたしは佐藤まさあきが描出するハードボイルド劇画世界を長年にわたって理解してきたなどというつもりはない。後年、チャンドラーの一連の小説に接して、ハードボイルドというものを、自分なりに捉えられるようになった時、映画に例えるなら、日活よりも、東映の股旅作品やヤクザ映画群の世界に近いことに気づいただけなのだ。そこに漂う世界は、いうなれば、抑制された憤怒であり、抜き差しならない関係性からの離反である。そのことにわたしが魅了されたことは確かだ。むろん、佐藤まさあき作品にたいする理解の仕方をそのことへ押しとどめたいわけではない。
 しかし、わたしのあまり正鵠を得ない思い込みは、あの独特のきつい目線をもつ主人公像は、佐藤の「戦後体験」のすべてを象徴させているに違いないといってみたくなるのだ。

(『貸本マンガ史研究・15号』04.8)
 

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2006年4月26日 (水)

「秋山清紀行 4」

 秋山にとっての本格的な詩活動は、一九二四年、二十歳の時、斎藤峻らとともに創刊した詩誌『詩戦行』から始まる。以降、『単騎』(後に『矛盾』と合併)、『黒色戦線』、『弾道』、『解放文化』、『文学通信』、『詩行動』、『詩作』、など、戦前の苛酷な情況の中でそれらの雑誌を通して活動していった。「アナキズム的な立場からの文学活動として発行されるのでありながら、必ずしもアナキズムを同人たちに規制しようとはしなかった。運動の進め方として(略)ただ強制は非人間的で反自由である、という考え方が重んじられた」と後に秋山はそれらの雑誌について述懐しているが、その後の詩法や思考の所在を定める重要な契機となったことは確かだ。例えば、無政府共産党事件による総検挙によって七号(三五年十一月)で潰された『詩行動』は、編集発行人・清水清によれば、実質的に戦前最後のアナ系詩雑誌だった。翌年、二・二六事件が起きるが、秋山は詩「ある朝」をすぐに発表している。清水は、「その歴史的な事件に殆んどの詩人が触れ得なかった」ことを強調しながら、「叫ぶのではない方法に拠ったから書けたのである」と評している。詩「白い花」にも通じる秋山の一貫した視線を、清水は『詩行動』の方法だったと述べている。

(「秋山清ワールド・秋山清著作集Website」、『図書新聞』06.4.29号)

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「秋山清紀行 3」

 秋山清には、後に詩集として纏められた「ある孤独」と題した一連の詩篇がある。制作年代でいえば、一九五四年から六七年にかけて、詩誌『コスモス』やアナ連機関紙『自由連合』を中心に精力的に詩や文章を発表していた時期にあたる。戦時下の作品「白い花」は、秋山の代表的な詩篇とされているが、「ある孤独」は、秋山の思考の核を最も表わしている重要な作品群であるといっていい。秋山は、「内なる私自身と外なる社会的時間との対決交錯の上に」、詩集『ある孤独』は成り立っていると後年、述べている。これは、「個」が、「孤」であることを知るところからしか、「社会的時間との対決交錯」はありえないと表明していると捉えることができる。だから、「ひとり立っていられるのでなくて、どうして連帯が可能たり得るか」という思いから、次のような詩篇が紡ぎ出されていくのだ。
「おれが憎んでいる。/群衆を。(略)あっという間の六月十九日、夜明け。/白っぽけた堤燈デモの紙いろ。(略)早朝の街上を遁走するおれたちが/群集でもなく。/民衆ですらもなく。/ 何なのだ。/ 千万匹のなかのおれひとり。」(「ある孤独―六月十九日」)
 六〇年安保闘争を回想した詩だ。ここには、秋山の「孤」が際立っている。

(「秋山清ワールド・秋山清著作集Website」、『図書新聞』06.4.1号)

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「秋山清紀行 2」

 誰にでも青春期というものがあり、その時期のことは後年に様々な影響を及ぼしていくものだ。秋山清にとっても、もちろん例外ではない。現在の北九州市門司区今津で生れた秋山は、小倉中学(現・小倉高校)に進学した。五年間、「人家一三〇ばかり、人口七〇〇ほどの、瀬戸内海の周防灘に向かった漁民部落」(『目の記憶』)から出発し、鹿喰(かじき)峠を越え、大里駅(現・門司駅)まで二時間かけて歩き、列車で小倉駅まで行き、さらに三十分歩いて中学校まで通っていた。後年、秋山をよく知る人たちが舌を巻く健脚ぶりはこの時、培われたものであった。鹿喰峠を歩いて越えたことを、「動物や植物との親しみを私はその峠の季節のなかで、自分の目と自分の肌に感じとることができた」(『同前』)と後に述べていて、この頃から草花好きだったことが分かる。また、短歌や詩のようなものを書き始めたり、大杉栄の名を知り、秋山の愛唱歌として知られる「流浪のうた」に出あったのもこの時期であった。さらに、五年生の夏、突然、正選手として野球部に入っている。全国大会の予選は三回戦で敗退したが、野球好きは、そこから始まったといえそうだ。大正十二年四月、日本大学法文学部予科に入学するため、秋山は東京に向かう。

(「秋山清ワールド・秋山清著作集Website」、『図書新聞』06.3.4号)

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「秋山清紀行 1」

 秋山清は、日露戦争が開戦された二ヵ月後に生れている。このように記すとなにか日本近代草創期の人のように見えるかもしれないが、同年生れを列挙してみれば、もう少し違った見方をしたくなる。片岡千恵蔵(東映時代劇スター)、美濃部亮吉(東京都知事)、三浦敬三(スキーヤー、三浦雄一郎の父)、桑原武夫(フランス文学者)、笠智衆(俳優)、佐多稲子(作家)、幸田文(作家)、榎本健一(喜劇俳優)、古賀政男(作曲家)、藤本定義(阪神球団監督)、堀辰雄(作家)と、並べてみると、四十八歳で亡くなった堀辰雄から先頃一〇一歳で亡くなった三浦敬三まで、確かな立ち位置をもって粘り強い生き方をしている人たちといったイメージが浮かび上がってくる。かつて埴谷雄高は秋山清の粘りに粘る「説得」ぶりの強さを述べていたことがある。この粘り強さというものは、自分自身が拘り続ける思考の切実さからくるものであることを示している。そういう秋山にとって明治四十三年、六歳の時に抱いたふたつの出来事の記憶は後年まで忘れることができないものであった。それは、七十六年後、二度目の体験をすることになるハレー彗星の大接近であり、幸徳秋水、管野スガらによる大逆事件である。

(「秋山清ワールド・秋山清著作集Website」、『図書新聞』06.2.4号)

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2006年4月25日 (火)

貸本マンガ史研究会 編著『貸本マンガRETURNS』(ポプラ社刊・06.3.8)

 「貸本マンガ」という言葉を思い浮かべる時、ある時代の相や文化的な相を抜きにしては語れないといってもいい。あるいは、「紙芝居」と並んで、懐古趣味的に振り返られる場合もあるかもしれない。さらに、誰にでも、少年期・少女期というものがあり、アドレッセンス前期のなかで体験されていったことは、その後の自分自身の様々な感性を育む契機として大きな意味をもっていると捉えることもできるはずだ。わたしの場合は、まさしくそうだった。『貸本マンガ史研究9号』(現在は16号まで刊行中)にも書いたことだが、ほぼリアルタイムで、白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』を借りて読んだ。読み終えた時の衝撃は、当時、中学一年生だったわたしにはどんな書物よりも遙かに大きかった。マンガというものは、中学、高校と上級に進学していくに従って読まなくなる(読むことを強制的に禁止される)ものだったが、たぶん、わたしの世代(大学生がマンガを熱心に読んでいるとはじめて喧伝された世代)以降からは、成人してもマンガは読んでもいいものになったといっていい。いまでこそ、マンガは子どもから大人(上限は限りなく上昇している)まで、読むことが当たり前になっているが、かつては、マンガは子どもだけのものであり、そこには、「知」の源泉がない、たんに娯楽的なものだと思われていた。その最も象徴的なのものが、「貸本マンガ」群であった。だが、わたしたちが、上級学生になっても手放さないで読んでいたマンガ(もちろん「貸本マンガ」も含む)は、どんな古典的な文学作品よりも魅力あるもので、なおかつ多くの事柄を啓発してくれるものだったのだ。いま振り返ると、『忍者武芸帳 影丸伝』をはじめとして、漫画・劇画作品が、文学作品や映画作品と充分に拮抗できるまでの物語性や表象性を獲得しつつある時だったともいえる。わたしは、高校生の時、白土の「カムイ伝」を読むためだけに『ガロ』を購読しだし、つげ義春の「沼」に出会って衝撃を受け、『ガロ』を通して、さらに水木しげる、つげ忠男、林静一を知った(誤解を恐れずにいえば、わたしは手塚漫画にはなんの魅力も感じなかった)。つげ兄弟も水木も、そもそも貸本マンガ家として出発しているのだ。そう考えるなら、現在、流通する多くの漫画・劇画作品は、こうした基層に支えられてきたといっても、決していい過ぎではない。極論すれば、読者年齢層を拡張させ、ひとつの表現作品としてマンガを屹立させたのが、「貸本マンガ」の『忍者武芸帳 影丸伝』であったといってもいい。
 「貸本マンガ史研究会」のメンバー(本書の執筆者を列記しておく―梶井純、吉備能人、権藤晋、ちだ・きよし、三宅秀典、三宅政吉)にとって、わたしの思い込みは迷惑かもしれないが、彼らが、わが国の高度成長期前、つまり、〈戦後〉という意識が依然、潜在していた時期の、十年にも満たない「貸本マンガ」隆盛期に焦点を当てて論じることは必然であったと思う。
 「短命であった貸本マンガが、現在のマンガの隆盛を準備したものである」からこそ、「貸本マンガの全容を戦後史的な視角から記録し、分析する活動」を通して、「貸本マンガの豊かな、そして可能性に満ちた世界を提示しよう」(本書「あとがき」)として、研究会を結成し(一九九九年)、研究誌『貸本マンガ史研究』を発行、そして本書を彼らは編んだのだ。当然、ここで重要なことは、「戦後史的な視角」ということであり、なによりも「マンガ」に強く魅せられていること対して率直になることである(終章「貸本マンガに溺れて」は、そんな文章だ)。
 さて、本書の内容に触れていく。
本書の論稿は、すべて書き下ろしである。総論的な「序章」と、「終章」の間に、全5章を配置し、「時代劇マンガ」、「ミステリー、ハードボイルド、アクションマンガ」、「少女マンガ」、「怪奇マンガ」、「青春マンガ」といったジャンルに分け、それぞれについて精緻に論及している(数多くの図版、用語解説的なコラム、巻末の充実した関係年表・リスト類、そしてなんといっても、うらたじゅんの“パラパラマンガ”があり、豊穣な構成になっている)。
 「ここで特筆しておきたいのは、『幕末風雲伝』(引用者註=つげ義春作品)のような作品は、一般雑誌には絶対に掲載されなかったことだろうということである。絶望感とニヒリズムに覆われたマンガは、貸本マンガにおいてこそ通用した。」(「1章 ヒーロー現る!」)
 「佐藤(引用者註=『黒い傷痕の男』などの代表作がある佐藤まさあき)にとって戦後とは、『経済成長』のなかで簡単に忘れてしまえるような次元のものではなかった。そして佐藤の読者たちも同様に厳しい時代と社会を現実に生きたわかものたちであった。」(「2章 ミステリー、ハードボイルドの誘惑」)
 「(引用者註=水木しげるの)『悪魔くん』が目指した世界は、ひとつの理想郷(ユートピア)であった。『河童の三平』に描かれた郷愁にみちた世界が、かつてあった理想郷だとすれば、『悪魔くん』が求めた世界は、まだ見ぬ『理想郷』といえよう。(略)貸本マンガの登場とともに怪奇マンガも生まれた。(略)勃興してきた大手資本によるマンガの出版は、その表現領域を広げ、怪奇マンガもまたそのなかに取り込むことになる。それは貸本マンガで進化した怪奇マンガによって支えられているだろうことはいうまでもない。」(「4章 異世界への誘い」)
 執筆者たちの思いを凝縮してみれば、こうなる。これらの論及が示すものは、「豊かな、そして可能性に満ちた世界」というものが、「貸本マンガ」をめぐる場所にあったということだ。それは、まぎれもなく〈戦後〉という時代の相を象徴したものである。
 だから、わたしは貴重で重要な一冊が、いま刊行されたと、なんの衒いもなくいっておきたい。

(『図書新聞』06.4.22号)

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橋爪大三郎 著『隣りのチャイナ―橋爪大三郎の中国論』(夏目書房刊・05.12.1)

 社会学者・橋爪大三郎の「中国論」である。わたしは本書を前にして、やや意外な思いを持ったといっていい。つまり、橋爪と「中国」の“取り合わせ”に対してである。「あとがき」によれば、最初に中国を訪れたのは一九八八年とのこと。以来、中国語会話を習得しながら、何度も訪れ、中国の学際人との交流を重ねてきていることを初めて知った。本書はいわば、この間の集大成といった趣がある。発表年次は、一九九三年のものから、最新の書下ろし論稿まで、インタビュー構成あり、対談、座談会ありと多彩にわたっている。
 “隣りのチャイナ”とは確かに、意味深い言葉だ。近くて遠いとはよくいわれるいいまわしだが、日本(人)と中国(人)の間には、つねにそんな隔たり感をもたらす。橋爪は、もう少し踏み込んで、「似て非なる国、中国と日本」と率直に捉えている。
 「『不幸な過去』(歴史問題)が互いを隔てているだけではない。中国と日本は、文化が異なり、社会が異なり、人びとの考え方、感じ方、行動様式が異なるのだ。このことをよくわきまえないなら、相手を理解しようとすればするほど、誤解を生じる。」(「チャイナ原論」)
 「中国は世界の中心であることに慣れており、反対に、日本は世界の周縁であることに慣れている。中国人は、なんでも良いものは中国にあると思っており、反対に、日本人は、なんでも良いものは外国にあると思っている。だから日本人は、外国のものを取り入れるのに抵抗がない。」(「似て非なる国、中国と日本」)
 ここでは、日本(人)と中国(人)をアジア(人)という枠組みだけで同じカテゴリーに入れることはできないということが示されている。むしろ、列島性による地勢的な環境と大陸性という広大な空間領域を感性に組み入れられていることの大きな違い、非対称性にこそ視線を潜らせる必要が、日本(人)と中国(人)の懸隔にはあるといっていいかもしれない。もしかしたら、日本(人)が、アジアにおける特殊形態を指し示していると見た方がいいかもしれない。十五年戦争を経ながらも、マクロ的数字(国民総生産・GDP)では西欧に肩を並べる、あるいは超えたかたちの高度消費社会段階に達した日本が、経済発展において後発の中国や韓国の格好のターゲットになったのは、当然のことであった。六〇年代末の文化大革命によって未曾有の権力闘争を経ながらも、毛沢東政権から鄧小平政権という政治路線は、十億人以上の国民を有する社会主義国家体制化という空虚な政治的実験から、改革開放政策・市場経済化への転換を見事に遂げていった。このことは、驚嘆に値する。あの八九年の天安門事件が、いまではなんの衝撃にもならないかたちへと変容していることは、その証左だ(もちろん、現支配体制は歴史的事象からの抹消に懸命なのだが)。そして、現在、九〇年代からの急激な経済成長が停滞することなく、依然、高い成長率をもって、やがて、アメリカ、日本に次ぐ、世界第三位のGDPを達成する見通しだ。本書の中で橋爪の対論者、精華大学教授・胡鞍鋼は、次のように答えている。
 「中国が急速に台頭して以来、アメリカとすでに戦略上の競争関係に入った。中国の指導者は、そのように明言はしていませんけれどもね。世界史をみると、どんな大国も、急速に台頭したあと、旧来の大国に挑戦状をつきつけるものなのです。私の計算では、二〇一五年には、中国のGDPは、アメリカと肩を並べる。OECDや世界銀行やランドコーポーレーションの予測によると、その時期はもっと早い。(略)そこで結論はこうです。中国は世界最大の経済大国になる。中国は世界最大の農産物生産国になる。中国は世界最大の工業製品生産国になる。IT分野でも世界一になる。このようなことは、中国人自身も予想しなかったことです。」(「21世紀、中国はかつてない壮大な実験に挑戦する」)
 橋爪は、いくらか遠慮気味に疑義を呈しているが、概ね胡鞍鋼の未来予測を是認している。わたしは、占い師になるつもりはないから、“中国は世界最大の経済大国になる”かどうかには、いっさい関心はない。マクロ的数字を累積して大国だというのは、“世界の中心である”中国人にとっては、都合のいいものだ。ミクロ的にいえば、国民一人当たりのGDP値が、世界一になるわけではない。また、本書でも詳細に論じられているように、都市と農村の格差拡大、膨大な失業者数(特に国営企業に多いことが、わが国とは転倒している)、深刻な環境問題と、急速に経済発展した負性が露出しだしている。政府方針が先富論(一部のひとがまず先に豊かになればよい)から共富論(共同に発展して豊かさを共有する)へ移行していったとしてもだ。
 「中国は伝統的に、資源も文物も、よいものは何でも中国にあると考え、周囲の民族や国家をレベルの低いものと見下してきました。こうした体質は、覇権主義ではないのか。」(「21世紀は『アジアの世紀』か」)
 「最近の中国の輝かしい発展は、毛沢東が火をつけた中国人の誇りとナショナリズムの、具体的な成果なのだと言っても間違いではない。」(「チャイナ原論」)
 こう述べる橋爪の中国論は、卓越だ。覇権主義とナショナリズムというキー・タームだけ採りださせば、もうひとつの“帝国”、アメリカに類推できることに、中国の現在の「意味」が孕んでいるといってよい。

(『図書新聞』06.4.8号)

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森 達也 著『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社刊・05.3.22)

 『A』、『A2』、『放送禁止歌』などの作品で知られる映像作家・森達也は、ここ数年、映像以外の場所でスリリングな発言を提示しつつ、旺盛な著作活動を見せてくれている。本書は、最近の著者の著作活動のなかでも、自身のもっとも本領の場所からのものだ。ドキュメンタリー論であり、ドキュメンタリー史論でもある本書は、映像論として、まぎれもなく本格的なものだといっていい。
 わたしが、森達也の映像作品に関心をもってきたのは、自分の表現性にいかなるけれん外連みも持ち込まないことにある。なにか、もってまわったいい方かもしれない。もう少し別様にいえば、わたしなどは、対象を捉えようとする(森の場合は撮る)時、どうしても、すでに手垢にまみれてしまったような固執した理念や観念(もっと直截にいえば主義・主張)で捌いてしまおうとする。うまくフォーカスしていればいいが、往々にしてずれた視点で、自己模倣と自己満足の場所に陥っているのだ。だが、森はけっしてわたし(あるいは、わたしたちといってもいいだろう)のような、視線を対象に向けない。最もいい例が、残念ながらペンディングとなってしまったようだが、天皇明仁のドキュメンタリーの企画にあらわれている。
 「誰を撮りたいですか?と訊ねられて最近では、『天皇陛下です』と答えることが多い。(略)数年前知り合いの雑誌記者に、『今の天皇陛下が国歌を歌わないことをどう思うか?』といきなり訊ねられた。(略)僕の記憶では、昭和天皇は歌っていたはずだ。もしかしたら国歌について、無邪気に歌いたくないというような複雑な思いを、今上天皇は抱いているのではないかと僕は推測した。ほぼ直感に近いけれど、戦争責任やアジアへの侵略行為について、現在の天皇は踏み込んだニュアンスで発言することが時おりある。その表情や物腰に、そんな雰囲気が仄かに滲む瞬間がある。
 左翼思想が滲むならば撮りたいというわけではない。もちろん戦争責任を明らかにしたいなどと考えているわけでもない。そんな直接話法はドキュメンタリーに馴染まない。理由はただひとつ、内面的な矛盾や葛藤が過剰であればあるほど、被写体としての魅力は増大するからだ。」(193~194P)
 この後、森も触れているのだが、確かに、日韓共催のサッカー・ワールドカップの折、明仁は、天皇家と朝鮮半島との関係に触れていた。歴史認識的にいえば、既に万世一系という時間の連続性は破綻しているのだから、衝撃的なことではないとしても、天皇みずからそれを認めることは、天皇制というシステムに大きな変容を与える発言であることは確かだ。だが、その際、「日本のメディアはこれを最小限にしか報道せず、(略)海外のメディアのほうが大きく報じた」と森も述べるように、メディアも含め論壇や歴史研究者からなんの反応もなかったことに、わたしですら意外な思いをもったものだ。さて、そのことを想起しながらも、森の視線が、わたしたちと違って屹立しているのは、こうだ。わたしのように、そのことを、すぐに天皇制というシステムなどという観念性に結びつけていくというプロセスをとらずに、あくまでも明仁の「内面的な矛盾や葛藤」に注目していくことにあるのだ。「直接話法はドキュメンタリーに馴染まない」という考えが、森の映像手法にあるからこそ、例えば、『A』において荒木の「内面的な矛盾や葛藤」を観ることで、わたしたちは、もうひとつのオウムという共同性がもつ深層を感知して、その映像に共感していくのだ。〝けれん外連み〟がないということは、そういうことをいうのであり、「ドキュメンタリーは監督という主体が呈示する現実へのメタファーなのだ」(227P)という信念によっているからこそ、ドキュメンタリーは「嘘」をつくのであって、事実の客観的な表現などという〈虚妄な〉位相と明確に分岐していくものだといっていい。
 たぶん、多くの人はニュース報道とドキュメンタリーというものの明確な差異を認識していないと思う。森は「ジャーナリズム(報道)とドキュメンタリー(表現)を、同一視する人は数多い。実は僕自身もかつてはそうだった。」(66P)と率直に述べている。ここで、括弧で括っているように、報道(主張や主観を排した、あるいは統制されたもの)と表現(制約や抑圧があっても、矜持を手放さないことがその領域に立ち止まらせる)とは、明確に違う場所性をもっているのだ。だから、客観(中立)表現か主観表現かということは、まったく転倒した問題だといっていい。森も本書のなかで、執拗に論述しているように、客観(中立)表現といものは、本来ありえないのだ。では、ドキュメンタリーと劇映画の違いはなにかとなりそうだ。
 本書の中で森は、くりかえし、「ドキュメンタリーとドラマとのあいだの差異」は「ないと言い続けて」(224P)いる。
 わたしも、もちろん、異論はない。
 原一男の『ゆきゆきて、神軍』や、森の『A』や『A2』が、わたしだけでなく、映画雑誌でその年の映画ベストテンに選出されるということを見ても、もはや誰もが(森には、そんなことはないといわれそうだが)その境界線はないものと思っているはずだ。
 最後に、わたしが森に対して感応する最大の論拠を示しておきたい。次のように率直に述べるからこそ、彼の発言に逐一注目せざるをえないのだ。
 「(略)かつて多くのメディア従事者は、己の無力さを嘆きながら、無駄な煩悶を続けていた。(略)『後ろめたさ』と『無駄な煩悶』というネガティブな要素が、実はとても重要なのだと僕は考える。」(100P)
 撮るべき対象に「内面的な矛盾や葛藤」を見ようとする森は、『放送禁止歌』の最後の場面のように、実は自らに、そのことを投影させていることを認識していればこそ、そう述べていくことができるのだ。

(『図書新聞』06.4.1号)

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大塚英志 著『更新期の文学』(春秋社刊・05.12.20)

 かつて大塚英志は、『物語消費論』(89年)や『「彼女たち」の連合赤軍』(96年)で、「団塊の世代」をテクストとしていたように思う。そこでは、「団塊の世代」がもたらす言語体系と親の世代にあたる「戦争世代」が語る言語体系との類似性を指摘し論断していたように、当然のことながら共感をもった視線ではなかった。にもかかわらず、永田洋子の〈少女性〉を見事に切開していく手捌きに驚きつつ、わたしも含めて、「団塊の世代」に大きな影響を与えた吉本隆明と対談集『だいだいでいいじゃないか』(2000年)を上梓した時は、不思議な感慨を抱いたものだった。そして、本書では、大塚は自分のことを「旧世代」と称してネット世代(あえて便宜的にそういっておく)にまつわる事象を解読すべきテクストとしている。わたしは、なにも世代論を導入してこの本に分け入っていこうとしたいのではない。むしろ、世代論に拘っているのは大塚の方ではないのかという思いが強くわたしにはある(大塚が自分より後の世代に視線を注ぐのは、仕事上のマーケティングと無縁ではないはずだ)。ここ数年の大塚の仕事を丹念に見ているわけではないが、少なくとも、『サブカルチャー反戦論』(2001年)以降、そして最近の〈憲法(九条)〉めぐる言説まで、いくらかその立ち位置の方位を微調整しているように思える。『憲法力』(2005年)で、「第九条とは文学の問題である」といいきる時、本書における「文学」の問題とそれはリンクしていく。そしてそのように「文学」に拘泥するのは、「厄介な『現在』」(114P)を意識しているからに他ならない。大塚は本書でも一貫して、「文学」(小説、批評も含む)を「ことば」の問題として捉えていく。そこでは、「『ことば』の変容が起きていることに何故、かくも『文学』を取り巻く人々は無頓着なのか」(7P)という思いがあり、「文学」が既成の枠組み(公共性)のなかで「私」を保証していくという“近代”から続いている虚構に疑念を持っているからだ。
 「ぼくが、ネット上のことばが『近代文学』のやり直しだ、と思えるのは、ネット上のランダムな呟きから『固有の私』が特権的に立ち上がっていく過程が再現されているからだが、そもそも『ことば』を介して、ある『共同体』や権力関係を形成していくことが人間の歴史だとした時、実は、ネット上には『中世』的な封建的な制度(略)や、近代的『ムラ』社会に近いあり方、『国民国家』的な共同性……と人類史そのものが高速でシミュレーション的に再現されているようにすら思える。ネット内の共同性について社会学的アプローチを試みた研究はあったとしてもいまは少数だと思うが、(略)だからむしろ、ネット的な現象を批評的にとらえていくとすれば、そこで必要なのは実は共時的、脱歴史的な情報論的思考ではなく、歴史的素養のように思える。」(112P)
 「文学」つまり、もっと拡張していえば、「ことば」がもつ“共通性(コミュニケーション・ツール)”が、安易に擬似的な共同性に回収されていく現実を、大塚は“厄介”だといっているのだ。ネット上での「ことばの共同性」が「ナショナルな言説」として浮かび上がってくることは、「『近代』が『大衆』に与えた不安定な『私』の最も容易な回収先は『国家』なのだという『近代の反復』がその基調にはある』」(124P)と捉えてみせる。
柳田國男や田山花袋を「近代」のメタファーとして援用しながら、いわば、「公」と「私」が連関する位相を解析していくのは、「九条」問題を「文学」や「ことば」における意義として主張し強調することと地続きであることを思えば、現在の大塚英志の到達点を、わたしは率直に容認したいと思っている。
 「他人同士が『社会』なり『国家』なり、何でもいいから共同性の中で生きていこうとした時、一つには、ほら、これが『国家』だから、ここに従えよと出来合いの『公』を示す方法がある。現在、主張される『公』や『公共』はそういう所与のものとして与えられる共同性だ。そして、上からの強い公でしばってほしいという感覚が始末に負えないほど今は肥大している。」(145P)
 だからこそ、「個から出発してビルドアップする共同性」(148P)を対峙させたいと大塚は考えるのだ。「文芸誌的文学」への言表は本書で最後にすると大塚は宣している。確かに「文芸誌的文学」が、必死に、ネット世代に擦り寄っていきながら、延命しようとしている様態は、わたしですら、醜悪感を覚える。
 かつて中上健次は「物語」を「制度」として捉えていた(「物語の系譜」)。「物語」を「文学」や「ことば」さらには「ネット」に置き換えてみれば、「厄介な『現在』」を見通すことができるのではないかと、本書を読み終えて、改めて、わたしは思いいたっている。

(『図書新聞』06.2.18号)

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