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2006年12月25日 (月)

「〈像〉としてのフィクション―最近、見た映画作品をめぐって」

 最近、見た映画作品(今年度封切作品に限定)に思いを巡らしてみると奇妙な符合があることに気が付いた。ただの偶然にすぎないが、実在した(あるいはしている)人物をその主人公としていることだ。作品名を列記するればこうなる。
 『バッシング』(監督=小林政広)
 『太陽』(監督=アレクサンドル・ソクーロフ)
 『力道山』(監督=ソン・へソン、註・ただしDVDレンタルで見た)
 『バッシング』は、小泉の「自己責任」発言によってイラク人質事件の被害者から、一転、メディア主導でバッシングの対象となった女性を主人公としている。いまあの時のことをここで詳細には述べないとしても、巧みなメディア操作で延命してきた小泉政権の象徴的な出来事だったことだけは強調しておいてもいいだろう。映画は、故郷で蟄居に似た生活を送るもまたイラクへ旅立っていくというものだ。実在の人物と同じ、北海道をその故郷の地としていて、風景描写が、この作品のモチーフであるかのように繊細に繰り返されていく。その分、いくらか人物の造型に薄さを感じないわけにはいかなかったし、物語の展開は、あたかもそうなるであろうと観客が類推することと見事に符合させるかたちになってしまっている。結婚もし子供もいる主人公の同級生だった女性たちの好奇な視線。恋人だった男性の主人公に向けた悪罵。実の父や後妻との確執。そして一人苛立つ主人公像。どれもこれも、予定調和的に物語は進んでいくといっていい。バッシングの対象がその家族に向けられて、悲惨な事態になることはしばしばある。連合赤軍や反日武装戦線のメンバーの家族に悪辣な攻撃を向け、家族を自死に追いやったということをわたしたちは忘れてはいない。このイラク人質事件の被害者女性の家族はどうだったのかは知るよしもないが、映画では、職も追われ酒びたりになって自死する父として描出される。その後の後妻との奇妙な和解という関係をこそ、この監督はもしかしたら描きたかったのではないかと思われるが、わたしには、なんとも白々しさにしか映らなかった。後妻役の大塚寧々が唯一のメジャー俳優(他に僅かなシーンに香川照之が登場しているくらいだ)であることを割り引いても、どこかぎこちなさを登場人物たちに感じないわけにはいかなかった。わたしは、この作品に厳しい視線を向けすぎているだろうか。もう少し寛容になって言葉をかけるべきだろうか。そうではない、現実的な社会性をもったテーマを作品の骨子にしているから、それを評価すべきだなどという、とうの昔に破綻した社会主義リアリズム的解釈は駄目なのだ。やはり、フィクションとしての映像力、もっと簡潔にいえば映像としての物語力(あるいは劇性)が感じられない作品は、停滞感しか与えないものなのだといいたい。主人公が家族とともに住んでいる団地のような自宅の階段を駆け上がるシーンを執拗に何度も描写したり、コンビニにおでんを買いに行き、偏執的に店員と遣り取りするというシーンをこれまた何度も描き、いったいこれらのシーンの積み重ねに監督はなにを込めようとしているのか、わたしには時間が経ってもついに理解することができなかった。大久保賢一という、わたしがそれなりに評価してきてきたつもりだった映画評論家は、「言葉と身体」の“強いリアル”のあらわれがあり、「現実に拮抗する映画」であると絶賛している。苦笑するしかない。この作品の監督が、もし、現実の人質となった女性を救済しようとしてこの映画を撮ったのだとしたら、それは傲慢さのなにものでもないといっておきたい。現実的な事件、事態からもっと遠くへ離れた場所から、この鬱屈した一人の女性を徹底的に対象化して描くべきだったのだ。たとえ、この女性を主人公として撮るべき社会的モチーフが薄らいでいくことになったとしてもだ。
 『太陽』は、不思議な作品だ。不思議なというのは、捉えどころがないという意味ではない。この作品は、むしろ極めて明快な映画だといってもいい。なにせ、わが国で最も知られている人物(戦前は“神”であった)をそのモデルとしているわけだから。敗色濃い戦時下から、天皇の人間宣言までの時間を、ひたすらヒロヒトに視線を這わせ描ききったものだ。ヒロヒト役のイッセー尾形と、侍従長役の佐野史郎のふたりが、全篇を通じて登場する、ほとんどこれといった劇性(玉音放送も人間宣言も描かれていない)のない不思議な映画ということになる。わたしは、評判のイッセー尾形の「一人芝居」というものを一度も見たことがないし(テレビで放映していた時、断片的には見たことがあるが、熱心に見たいと思う気持ちにはなれなかった)、当人の出演していた映画・テレビドラマに関してもほとんど関心を向けたことがなかった。
 しかし、このヒロヒト役には改めて、感嘆した。『ドルチェ、優しく』で島尾敏雄夫人のミホを映像化の対象としたソクーロフ監督ならではの演出力と尾形の表現性との往還による妙ということになるのだろうか、尾形天皇は、まさしく〈空虚な王〉を見事に演じきっていたといっていい。ロラン・バルトはわが国の首都・東京にある皇居を指して、〈いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である〉と看破したように、また、〈象徴天皇制こそ最高形態である〉といった菅孝行の慧眼に連なるように、わたしは、戦後の象徴天皇制の実態そのものが〈空虚性〉にあるからこそ、〈恐怖の共同性〉を温存できたのだといってみたくなる。「あっ、そう」を連発するヒロヒト・尾形は、終景、人間宣言を担当した録音技師が自死したことに対しても感性を表出することなく立ち去っていく。マッカサーを前にして、ワインを飲みながら、饒舌に英語で会話し、戦争責任を回避するような発言をする場面を史実と違うとくさす保守論客や、その〈空虚性〉を善人性と解釈して、これは昭和天皇救済映画だとヒステリックに叫ぶ左翼気取りの論客も、読み違えしていることを、分かっていないのだ。この『太陽』は、フィクションである。ヒロヒトという〈像〉がどう描出されていようと、それを見るわたしたちは、天皇及び天皇制をどう捉えるのかということを問われているわけではない。だが、しかし、といっておこう。これまで、どういうかたちにしろ冒頭から最後までヒロヒトを実在とする映画・ドラマを誰一人として撮ってこなかった、あるいは撮れなかったことを考えれば、それだけでわたしは、フィクションがもつ力は、現実を超えうるものだといま思っている。
 映画『力道山』は、韓日合作映画ではあるが、ほぼ韓国映画だと見做してもいい。ここ数年、活気ある韓国映画(誤解のないようにいっておけば、軟弱な悲恋ドラマ的作品は念頭にない)は、わが国、戦後最大のスポーツ・ヒーローをディスコントラクションしてしまった。朝鮮半島から強制連行された悲運のヒーローでもないし、半島の血を滾らせる悲痛な実在として描くわけでもなく、ただやるせない、凶暴性のまま生きて死んでいった哀しみに満ちたアイロニカルなヒーロー像として描出している。ひたすら朝鮮人であることを隠し、大相撲の横綱・大関を邁進していくために必要なタニマチ・スポンサー(藤竜也)を前にして、軍歌を歌って興を買おうとする場面は、まぎれもなく哀しみややるせなさに満ちている。プロレスに転向してからも、強さだけを前面にだし、さらにそのことを背景に拡大化ビジネス路線を直走る。実際に何人かいた、妻や愛人、あるいは子供たちはまったく描かれておらず、元はタニマチの愛人だった芸者の綾(中谷美紀)が糟糠の妻のごとく最後まで力道山(ソル・ギョング)のそば近くにい続けているだけで、孤独性だけが際立っている。ここでは、フィクションと事実の差異をあげつらっても意味はない。事実は、表層的なものでしかないからだ。例え巷間伝えられる「神話性」が強烈であったとしても、それは映画というフィクションとなんの関連性もないといっていいのだ。
 以前の韓国映画であれば、半島の悲痛な歴史性を通した反日性を露出させ悲運のヒーロー像として力道山を描いたに違いない。しかし、この作品はヒーローであることの〈像〉を徹底的に解体して、ひとりの孤独な凶暴な〈像〉にしているのだ。このことは韓国映画の成熟度を示すものだといえる。たぶん、いまだに、力道山は日本人だと思っている人々は大勢いると思う。その人たちがこの映画を見れば、ある種の驚愕を覚えるかもしれないが、わたしたちのように既に周知のことであれば、むしろこの作品が、ショービジネスと幻想の純粋スポーツ性とのぎりぎりの境界線にいてせめぎあいながらも生き抜いた力道山という類い稀な存在としての〈像〉を描出していることにおいて、作品的に傑出していることが理解できるはずだ。歴史性やリアルであることの幻想性はこうして相対化され、超えられていくことになるのだ。

(『月と犬』復刊1号・07.1)

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