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2006年11月24日 (金)

吉本隆明・笠原芳光 著『思想とはなにか』(春秋社刊・06.10.30)

 『アフリカ的段階について』(九八年刊―〇六年・新装版刊)以後、吉本隆明は歴史的・思想的概念を大きく旋回させたといっていい。それは、先行する『母型論』(九五年刊―〇四年・新装版刊)から連なる展開であるとしても、〈初源〉への遡及をさらにラディカルに押し進めていく作業であったと捉えることができる。そういうことを踏まえたうえで見るならば、確かに、本書は、吉本にとって「本領である思想の問題をさまざまな角度から論じた」(笠原・跋)ものであるが、その核となっているのは、やはり、『アフリカ的段階について』以後、展開されている歴史的・思想的概念だ。それは、本書の「序」のなかで象徴的に述べられていることで分かる。
 「仮に人類の歴史を『大』歴史と『小』歴史にわけるとする。未明時代から現在までの政治・社会や文明文化・科学産業など従来考えられてきた人類の歴史は『大』なる外在史であり、身体性から見られた個々人は内在的な『小』人類史と見ることができよう。そしてこの『大』『小』の人類史を媒介するものは『種としての遺伝子』『世界の地域ごとの言語』『それぞれ異なった風俗・習慣』『自然への精神と身体による働きかけの運動性』と見做すことができよう。私たちは壮年になったころ、政治と文学という粗雑な文学(芸術)理念に不満で『思想』と『文学(芸術)』と考え方を改めたことがあった。この場合の『思想』という概念はここでいう媒介概念を意味している。」
 「媒介概念」としての思想という言及のし方にわたしなら注視したい。「情念、感覚」と「理念、イデオロギー」のあいだにあって、「曖昧だけど複雑な領域」を「思想」と捉えると(7P)、吉本は、笠原の「思想とはなにか」という問いに応答している。「曖昧だけど複雑な領域」を例えば、吉本のいい方に倣っていえば、〈含み〉と呼んでいいものだと考えていくならば、「媒介概念」というたて方は、「理念、イデオロギー」へと収斂されない「思想」という既知のカテゴリーを拡張させ屹立させていくものだといっていい。
 こうした捉え方は、例えば、短歌や俳句に関しての言及にかなり明快なかたちで表われている。短歌や俳句が一行の詩といった方向性を持つことに対して、「それならば詩を書けばいいじゃないか」(75P)といいきっている。定型という不自由さにいるのなら、自由な詩形式を選択すればいいとも断言して、笠原との微妙な齟齬を発生させた応答となっていて、「第二章 詩歌のなかの思想」での論及は興味深いものがある。短歌や俳句が一行の詩を指向するということを思想概念に置き換えていえば、「複雑な領域」や「含み」を逸脱して「情念、感覚」の位相から「理念、イデオロギー」へとなんの疑念もなく転移していくことを意味しているといっていいだろう。このことは、「含み」や「曖昧だけど複雑な領域」にこそ表現性の媒介があり、深層があるということを見過ごしていることになる。だから吉本は頑強に短歌や俳句が詩へ共振していくことに抗しているのだと思う。
 そのことを、もう少し敷衍してみるならば、わが古代列島の北方人と南方人の「交換=交流」という歴史概念の拡張した捉え方にもいえることだ。
 「(略)本当の沖縄顔はアイヌと同じで、丸い顔で眉が太くて、そして横顔が立派で、和人というか中央の人とはちがって横顔ができています。(略)日本列島の北のほうはアイヌで、南のほうは琉球か東南アジアとか太平洋の島からやってきたと固定観念で考えてしまうと間違ってしまいます。そうではないのです。それは『交換=交流』なんですね。北の人は北は不毛だとおもって南に行く、南の人はこんなところでは農業はできないとおもって北へ行く。そこで交換が起こる。」(48P)
 いわば、択一的な価値判断(イデオロギー化した思想)を排するという考え方がそこには内在している。短歌や俳句に対しても、アイヌと沖縄に対しても、そこでは〈初源〉への徹底した遡及する視線を示して、母型のかたちへと思考を滑り込ませているといっていい。そのうえで、どんな予見ももたず、思考の類推を押し進め、世界性という幅を思惟のなかに繰り込んでいくことを意味している。
直截にいえば、吉本隆明の思想の方法とはそういうことを指し示しているとわたしは考えている。
 「(略)法律も支配共同体のありかたというものも、宗教や農耕の間に交換―つまり支配者と被支配者が持っているもの、この場合宗教心とすれば―が成り立つ、混合、交換という考え方が自然じゃないかなとおもいます。(略)自然に交換する。自分の持っていないものをもらってしまうし、相手もあげてしまう。」(163P)
 ここでの論及を、かつて『母型論』のなかの「贈与論」で提示した、贈与とは「遅延された形而上的な交換」であるといったことと、関連付けてみるならば、より明確な理解できるはずだ。さて、本書の骨子をうまく収斂させて捉えようとするならば、わたしは、次の様な発言を取り出してみたい。
 「(略)個人が個人としての思想的な葛藤とか煩悶とか信念とかあるとすると、それと同等に男女、家族の問題についての見解も信念もあるし、共同の政治問題についての煩悶も悩みも信念も同等に持つことができるのであって、軽重があるわけではないし、大小の問題でもない、皆同じ重みを持った問題として人間は抱えこんでいるとおもいます。(略)三つの問題が同等な問題としてあることを無視してはならないのです。」(275P)
 これは、難渋する情況的な問題に対する視線の置きどころを鮮明に表明していることに他ならないといえる。一見、『共同幻想論』を敷衍したような言及のし方に思えるかもしれないが、むしろ、「逆立」といった媒介概念をさらに拡張して「含み」を持たせたいい方にしていることが、ここでは重要なのだ。つまり、個人幻想と対幻想、さらに共同幻想を垂直的に措定するのではなく、包括的に、あるいは俯瞰的に捉えていくことを指し示していると、わたしならそう理解する。
 かつて、中沢新一は吉本の『最後の親鸞』は、「二十一世紀に向かって遠く投げ出した思想の砲丸」(文庫版・解説)だといった。わたしは、吉本の本書での「さまざまな角度から」の鮮烈な論及に接して、あらためてその「思想の砲丸」という卓見的な捉え方を本書に対しても付してみたいと思っている。

(『図書新聞』06.12.2号)

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