« 「秋山清紀行 9」 | トップページ | 「秋山清紀行 10」 »

2006年10月18日 (水)

高橋哲哉 斎藤貴男 編・著 『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』(日本評論社刊・06.7.15)

 わが国の首相が、堂々と憲法改正を具体的に提唱するという時代に入ってきた。五、六年前までは考えられない箍が緩んだ情況になったともいえる。日米安保体制下にあっても憲法九条が、それなりに“足枷”になっていて准軍隊の自衛隊ですら海外派兵はありえなかった。だがポスト冷戦構造が、アメリカ一国支配のグローバリゼーションの拡張によりいま、偏狭的な戦争状態を喚起させながら、国家という幻想体系を変容させている。わたしたちがいま在る社会という位相(生活の実相)はそれ自体としては国家の政治性に直結はしない。個々の市民大衆といった相を確立したものとして見做したうえで、政治的権力を規制する〈法体系〉が機能していればである。語ほんらいの〈民主的〉社会とはそういうものなのだが、政府執権者たちが“小さな政府”といいながら国家の政治的権力を肥大化させて、〈法〉機能を逸脱していけば、社会(生活の実相)は、まるごと国家の配置に呑み込まれ、ついには個々の在るべきかたちを喪失していくことになる。それはあたかも、十五年戦争時のわが国の相貌を敷衍しているかのような情況だといってもいい。
 「憲法とは、国家権力の行きすぎを防ぎ、国民の自由や権利を守る『歯止め』です。いいかえれば、国民が国家権力に向かって『これをしてはダメ』と命令するものなのです。」(豊秀一・本書194P)
 だが大多数の国会議員たちは、憲法は“国のかたち”を表すものだから、現行憲法を見直すべきだと声だかに主張しだし、憲法調査会なるものを超党派で立ち上げ、国民投票法案を実行して改憲を実現しようと目論んでいる。国民から付託を受けたにすぎない国会議員たちは、まるで自分たちが、公権力の施行者であると勘違いして、アナクロ的な物語をわたしたちに押しつけようとしているのだ。
 誰でもが、理解できるように、彼らは六〇年経った憲法は時節にあわなくなってきたから変えるなどと甘言を弄しているが、国家(国体)をめぐって憂えるのが仕事なのだとたんに酔いしれているすぎない(もちろん、そのバックアップには、昔なら日米独占資本となるところ、いまは日米グローバル企業群が控えている)。もしかしたら、“憲法が変わっても戦争にならない”と真剣に(あるいは脳天気に)思っているのかもしれない。
 戦後世代が主流を成してきた国会議員たちは、〈戦争〉というものは、リアルなものではなく、バーチャルなものだと勘違いしているともいえる。だが、しかし、その程度の勘違いで、わたしたちが〈戦争〉的情況の只中へと押し出されるとしたら、徹底的に抵抗し反攻するしかない。
 本書は、憲法改憲の動きが瀰漫しているなか、憲法九条の実際的な膂力を明快に提示していることにおいて、類書のなかでも傑出している。“明快”だといえるのは、九条をめぐる周縁情況を多様な視線から詳細に検証・分析しているからだ。さらにいえば、分かりやすいQ&A形式の応答も含め、力感溢れる論稿・談話が多彩な執筆者によってバランスよく構成されている。憲法の基本概念や、戦争・靖国をめぐっての論証、〈戦争〉的情況を派生させる背景の詳細な経済分析を含めた言及、個人の自由度への侵食情況とナショナルアイデンティティの奇妙な拡散への警告と、網の目のような改憲・愛国的動態を見事に解析している。
 「理想と現実は違う、自衛隊があるんだから憲法を現実に合わせなければ違憲じゃないかと言うけれど、違憲ならば自衛隊をなくす方向に持っていけばいい。現実を変えないで観念を変えようとする、それは本末転倒です。みんな理想のために生きているんだから、それで現実を育めばいい。外交すればいいんですよ。」(井筒和幸・本書32P)
 わたしたちの世代は、終戦直前のポツダム宣言は米ソを中心とした資本主義帝国群と社会主義帝国群が対峙する戦後体制の確立を意味していると捉えてきた。だから、戦後のわが国のいわゆるアメリカ的デモクラシーに支えられたものは、所詮、ポツダム憲法・ポツダム民主主義でしかないといった認識をもっていた。そのこと自体、ポスト冷戦構造の現在においても、それほど修正を加える必要はないと思っている。憲法第一条の天皇制護持の条文が非戦を提唱する九条と、実質的にどう折り合いをつけるのかという問題は依然避けて通ることはできないものとして残っている。だが、〈法的〉条文だからこれを堅持するというのではなく、〈法的〉条文という位相を超えて、九条の〈理念〉は、いまこそ評価・支持し続けていくべきことのように思う。「理想」というものは、井筒がいうように、現実への指針となるべきものである。
 民族対立や宗教対立は長い憎悪の哲学の時間性を抱えもってしまったことによる表出だ(もちろん、その背後では、大国の小国への植民地支配や軍事介入がある)。だからといって“やつは敵である。敵を殺せ”という戦争とテロの論理が、正義となることをわたしたちは拒絶しなければならない。九条に込められた〈理念〉には、わたしたちをめぐるすべての関係性のなかに理想の共同性を求めていくことが潜在しているからだ。

(『季刊 軍縮地球市民』6号・06.10.1)

|

« 「秋山清紀行 9」 | トップページ | 「秋山清紀行 10」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「秋山清紀行 9」 | トップページ | 「秋山清紀行 10」 »