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2006年7月27日 (木)

「つげ義春の初期(1)」

 講談社から『つげ義春初期傑作短編集』(全四巻)が刊行された。なぜか、池上遼一(通交にまつわる文章だ)を別にすれば他の解説文、そして一、二面を割いて特集をしていた「週刊読書人」の文章も、〈初期〉の作品に戸惑っている、あるいは自分たちが認知しているつげ作品とは、別物だといった感想で占められているといってもいい。十七歳の時に、メッキ工という過酷な仕事からの離脱を夢想して4コマ、一コマ漫画の投稿から始まったつげ漫画の軌跡を、丸みを帯びた描線と類似した画風があるからといって〈初期〉を軽視していいとは、わたしは思わない。もちろん、筑摩書房版全集、刊行の際、初期の貸本漫画作品の多くを収録しなかった理由として、つげは「稚拙で未熟な過去を晒すのは気がすすまぬ」とし「粗末な作であるのは生活苦による乱作のためばかりではなく、マンガ全般のレベルが低かった時代」だったからと述べている。では、なぜ今、全四巻で刊行することになったのかと、非難の声が聞こえてきそうだ。しかし、少部数(千部ほど)とはいえ、すでに、69年に一度、77年から81年までは全10巻、初期作品集が出ているから(それ以外に、復刻版も出ている)、全集刊行時のつげ発言は、彼独特の一種、衒いをもったものだと理解すべきだとわたしは思う。
 わたしは、今、改めて、〈初期〉ということを考えてみたくなった。もちろん、つげ義春という作家の〈初期〉というだけではなく、表現者にとっての〈初期〉という問題をである。

● 『つげ義春初期傑作短編集』の第三巻に収載されている文章の一部分を引いてみる(わたしは、初出時に読んでいる)。「赤塚不二夫、長谷邦夫に会ったのも三十年(註=昭和、つげ、十八歳の時)だったように記憶している。赤塚は小松川の化学工場に住込みで働いていた。彼に近づいたのは、近くにマンガ仲間がいなくてさみしかったせいであった。(略)そこへ長谷が現れ紹介された。ぼくは、彼ら(註=石森章太郎もいれた三人を指す)を若木書房に紹介する話をもちだすと、低俗な貸本マンガを軽視しているかのふうで、彼らはのってこなかった。」(「デビューの頃」)
● 久しぶりに、現代詩文庫『清水昶詩集』を取り出して見ていたら、後半の文章群のなかに次のような箇所があった。「先日、つげ義春の漫画集を読んで感慨深かった。奥深い村落の人たちの考えかたや風景が実に素朴なリアリティを持って表現されていて、わたしの少年体験を非常になつかしく呼び醒ましてくれた。」(70年5月)

「新都市新聞社(清水昶の新俳句航海日誌)・掲示板」03.8.28掲載

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