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2006年6月28日 (水)

「秋山清紀行 6」

 戦前、多くの詩誌に参加し、戦時下では木材関係の業界紙にいたことがある秋山は、雑誌や新聞の発行のために執筆・編集ばかりではなく、付随する様々な業務を当然のこととして、労を厭わなかった。秋山は、漫然とした書き手でいることをよしとしない。だから、率先して自分の関わる誌紙の裏方的な仕事もこなしていこうとする。戦後、秋山は、『新日本文学』、『コスモス』、『自由連合』を活動の中心としたが、どの場所でも、ただ文章を書いて、それが発行されるのを待っているといったスタンスはとらない。編集・校正から、印刷所や紙問屋との交渉など、発行継続に必要な仕事をよく知っていたから、それを自分の仕事として引き受けてやっていたようだ。これは、よくいわれるように、秋山がもっている粘り強さからくるものだが、「本性ではなく、彼の経験のたまもの」だと捉えたのは金子光晴であった。金子はそんな秋山をゴムのような伸縮自在性にからめてゴムさんという仇名があることを述べている。『自由連合』の校正を印刷所で秋山一人が黙々とやっていたというエピソードがある。アナ連機関紙(月刊)発行の裏方的仕事が秋山一人だけに負荷されていたとは思わないが、持続性を矜持とする秋山らしい伝聞だと思う。 

(「秋山清ワールド・秋山清著作集Website」、『図書新聞』06.7.1号)

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2006年6月26日 (月)

松岡祥男 著『猫々堂主人―情況の最前線へ』(ボーダーインク刊・05.8.24)

 松岡祥男の名を初めて知ったのは、吉本隆明の雑誌「試行」に掲載された「同行衆通信」の広告であった(しばらくして、わたしは直接購読をした)。その後、わたしも執筆参加していた『夜行』に「『昭和ご詠歌』ノート」という卓抜なつげ忠男論を発表して、ある種の親近感を抱いたことを覚えている。いまから、二十年以上前のことだ。第一評論集『意識としてのアジア』(一九八五年刊)で、はじめてまとまったかたちで松岡の論稿に立ち会って以来、わたしはなんの予見もなく、さらに親近感を抱きつつ、いつも刺激を受け、啓発され続けてきた。わたしなど、いつもどこかで妥協し、あるいは途中で投げだしてしまうような事柄を、松岡はいつも真摯に徹底的に対象化し、解析しているのだ。その膂力にただ感嘆する以外、わたしにはない。その松岡の徹底した視線を引いてみる。
 「東アジアでは歴史観や境界線をめぐって、国家利害が露出しており、それをそれぞれが皮相なナショナリズムへ吸引しようとしている。国家は幻想だ。そして、境界線上の土地は国家の領土である前に、地域住民の生活の場としてあるのだ。人々の存在より、国家が先行することなどあり得ない。それは明らかな逆立ちだ。わたしたちは国家が無くても、ふつうに暮らしてゆけるのだ。これが普遍的な原理である。(略)
 わたしはテロに批判的であるように、戦争に反対である。わたしは国家の動向に迎合しない。(略)わたしたちの人生は、必ず、国家という歴史的な制約も、天皇という土俗的な宗教性も超えた、実存の構造を持っている。それはかけがえのないものだ。時代の病理的趨勢に取り込まれることなく、できれば、おおらかに生きることだ。」(「情況の最前線へ」)
 わたしのこれまでの国家や天皇制をめぐる思考が、どこか暗渠に陥ったような状態を強いられる時、松岡のこのような視線は、真っ先に空隙を開けてくれるものだ。「国家が無くても、ふつうに暮らしてゆけるのだ」という確信、「時代の病理的趨勢に取り込まれることなく、できれば、おおらかに生きることだ」という姿勢、どれも「同行衆通信」以来、松岡の変わらぬ立ち位置を表明しているものだ。
 本書は、この書下ろしの論稿「情況の最前線へ」を巻頭に配置し、多彩な書物を鋭利に渉猟していく「読書日録」と、「同行衆通信」で多くの読者を魅了した対話形式の情況論は、「詩の雑誌 ミッドナイト・プレス」で引き継がれ連載されていたが、その「酔興夜話」が収められ、そして巻末に、吉本隆明との対談二本(「テレビはもっと凄いことになる」、「宮沢賢治は文学者なのか」、ともに単行本未収録)と詩人・山本かずことの対談が置かれている。
 「読書日録」では、大島弓子の『グーグーだって猫である』や村上春樹の『海辺のカフカ』が、縦横に論じられ、「同行衆通信」の主宰者・鎌倉諄誠や吉本隆明研究の第一人者・川上春雄の死への愛惜溢れる文章群が綴られ、そして、もちろん吉本隆明に論及したものも多く収載されている。
 なによりも、松岡の先鋭性と徹底性を象徴する、猫々堂主人とパラノ松岡という「猫」と「松」の架空対話形式の情況論「酔興夜話」はどれも刺激的だ。例えば、このように。
 「このあいだの中東湾岸戦争をめぐっての、柄谷行人一派の文壇政治の猿芝居も、クソ馬鹿の藤井貞和や瀬尾育生らの論争も、こんなものにつきあっていたら、下痢するだけだ。藤井貞和は『吉本隆明依存症』という珍奇な病名を編み出している。それはこの男がずっとスターリン主義を補完してきた左翼反対派に留まり、大学教授という安全地帯にいるからだ。一度も本気で抑圧左翼と対決したこともなく、自分の足場を疑うこともなく、バランス主義で情況をすり抜け、貧乏な寄り合い所帯の詩の業界といびつな学界を渡ってきただけだ。そんなことは、この男のつまらない詩と半端な批評を読めば、すぐにわかることだ。」
 わたしはかつて、多少、藤井と近接の間柄であったことがあるだけに、松岡のこの激しい指摘を否定するだけのものをじぶんのなかに持っていない。ただ、首肯するだけだといっておこう。
 さて、最後に書名に触れておく。松岡は、二〇〇〇年から独力で、『吉本隆明資料集』を発行し続けている。第一期が「鼎談・座談会篇」、第二期が「『試行』全目次後記集、復刻版」、そして第三期は第42集から「初出・拾遺篇」を継続発行中である。この『資料集』の発行所名が「猫々堂」なのである。だから、書名が『猫々堂主人』となるわけだ。だが、しかし、わたしは、松岡が最高に支持し続けている漫画家・つげ義春の作品「ゲンセンカン主人」や「やなぎ屋主人」を想起したであろうことを断言しておきたい。

(『図書新聞』05.10.15号)

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2006年6月23日 (金)

「抒情の詩―清水径子讃」

 わたしは、かつて、四季派の詩人たちのような自然や草花をモチーフとした作品は苦手であった。なにか、生きていることから遠くへ離反していくかのような立ち位置に思えてならなかったからだが、そのことは、わたしの皮相な感受の仕方と捉え方に過ぎなかったと気づきはじめた時、早世した四季派の詩人たちと近い年齢に、わたしはなっていた。自然や自然の景物へ視線をめぐらせることは、実際に、“生きて在る”ことへの反照でなければならないと思い始めたのは、一人の詩人の詩篇に出会ったからであり、さらにそのことに、強く確信した思いを抱くことになったのは、清水径子の俳句作品に接してからである。
 「白い花」という一篇の詩がある。アナキスト詩人・秋山清が十五年戦争時に書いた詩である。後年、吉本隆明が、「日本の詩的抵抗の最高の達成」と評している詩だ。北寒のアッツ島に咲くヒメエゾコザクラという白い花を通して戦争というものへ抵抗の想いをそそぐ、静謐な詩篇である。声だかに反戦を主張することができない時代に、唯一の詩法として草花に託し、秋山はこの一篇を書いたといってもいい。もちろん、秋山にとって草花はなによりも愛しい存在であったからこそできたことだったのだ。
 そして、清水径子という詩人は、自然や草花に自分の“生きて在る”ことのすべてを込め、それを俳句形式に託して、「表現」してきた人だと、わたしは思っている。自然の景物を前にして、ただ立ち尽くすのではなく、それを自分の側に引き寄せ、自らの感応を通してまた、あちら側へ返すという膂力の様を、径子俳句は見せてくれているのだとわたしは思う。その時、自然や草花が生きている証しとなって屹立していくのだ。

 慟哭のすべてを螢草といふ(『夢殻』)
 転生の直後水色野菊かな(『雨の樹』)

 「慟哭」や「転生」という詩語を、わたしは衝撃をもって受けとめたことを、忘れることができない。それが、「螢草」や「野菊」という草花と連結されることで、硬質な抒情性を詠むものに感知させる。俳句がこんなにも、強い抒情を湛えることを、わたしは知らなかった。

 知つてしまふ事の淋しさ花野とは(『雨の樹』以後)

 老いや死は、誰にでも訪れることだ。しかし、実際にそのことを身を持って思い知る時、人はどのようにそれを感受していくことになるのだろうか。俳句という詩型への渇望をたえず持ち続けていた清水径子にあって、“淋しさ”とは、すべてへの鎮魂の思いを込めたものであると、わたしなら捉えてみたい気がする。

(『らん』32号・06.2.21)

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2006年6月21日 (水)

『清水径子全句集』(清水径子全句集刊行会刊・05.2.27)

 わたしが、清水径子という俳句作家を初めて知ったのは、いつのことだったろうか。そもそも、わたし自身、俳句を本格的に読み始めてそれほどの年月が経っているわけではないから、せいぜい十五、六年のことだ。
 きっかけは、今はもうない雑誌「俳句空間」であったか、清水が所属していた「琴座」誌であったかは、もう思い出せない。
 わたしの極めて平板な俳句読みのプロセスは、高柳重信と永田耕衣に尽きる。あとは、枝葉のように肥大させて読んできただけにかなり恣意的なものだ。わたしが読み始めたときは、もう重信は亡くなっていた。自ずと耕衣の営為に伴走していくことになる。耕衣主宰の俳句誌「琴座」は、ジャンルを越えてわたしを魅了してやまない雑誌だった。この「琴座」に清水が参加したのは、師秋元不死男(清水の実姉の夫)が亡くなって後、一九七九年のことだ。俳句結社誌というものは、まるで王位継承のこどく子供(主に)が継いで、継続させていく場合もあれば、一代限りで解散する場合もある。耕衣の「琴座」や、不死男の「氷海」は、後者の場合だった。では、所属している俳人たちはどうするのか。「氷海」の場合、鷹羽狩行という俳人が、あらたに、「狩」という雑誌を創刊させた。しかし、清水は参加しなかった。その当時のことを、「琴座」編集長・金子晉がつぎのように述べている。清水径子という俳句表現者の見事な「矜持」を窺い知る格好のテクストだ。
 「(略)『琴座』へ一介の投句者として清水径子さんが句を寄せてこられた時には僕達すっかり驚いたものだった。それも中尾寿美子さん共々のことだったから余計に仰天したわけだ。ご両人は、言わずと知れた『氷海』の重鎮であるばかりか、俳壇きっての女流の星である。そんな高名な俳人が、なんの前触れもなしに、いきなり雑詠欄に句を投じてきたのだから永田耕衣もびっくりして、早速僕に連絡があった。(略)その当時、俳壇雀の間でも、このお二人の行動は、ひときわ清々しいものとして話題に上がったものだった。なんでも、亡師秋元不死男の年忌も済まされ、お二人が兼ねてより憧憬されていた永田耕衣へ、この際、初心をもって臨もうという心意気だった由。多くの場合、己がしがなき俳歴をもって結社を遍歴するのとは大いに異なって、この本来的な第一義の姿勢は、まことに爽やかな挙動として多くの共感を得たものであった。」(「命いとしく―清水径子俳句管見」・「俳句空間NO.19・1992.2」)
 ここには、清水径子という俳句作家としての矜持ばかりかその表現姿勢も見事に伝えている。金子がいう「本来的な第一義の姿勢」を「初心をもって臨もう」とすることは、誰にでもできることではない。自分自身に対する極めて真摯な内省と渇望する表現意志がなければできないことだし、それは、言葉で形容すれば、いかにも皮相なことになってしまうが、もっと別様にいえば求道的といってみたくなるほどに、韜晦に徹した自律的なものだ。わたしが、後年知る清水径子は、この時の清水径子と寸分違わない像としてある。しばしば、全句集刊行を固辞する清水は、わたしに向かって、わたしのようなものの句集なんて誰も読みませんよと繰り返し述べるのだった。これは、もちろん読者を無視したいい方でも、謙遜を含んだいい方でもない。要するに、句集というかたちにまったく拘らないでの表現を自分は志向しているのだといいたかっただけなのだ。今年、九四歳になった清水は、七十年にも及ぶ俳歴のなかで句集は四冊。ここ十年でも二冊というのが信じられない少なさだ。それは、詩や短歌もそうであるように、どんな高名な作家でも、基本的に自費出版が多いということを意味している。それでも、大きな結社を主宰していれば、様々なメリットがあり企画出版と変わらないかたちで出せることが可能だが、それはほんの一握りだ。
 だが、第三句集『夢殻』(一九九四年刊)、第四句集『雨の樹』(二〇〇一年刊、第十七回詩歌文学館賞受賞)で、わたしたちの眼前に清水径子の世界を見事に屹立させたことは、いうを待たない。そして、さらに拡がった径子俳句の読者にとって、入手困難な初期の二句集(『鶸』、『哀湖』)への渇望が当然のように起きてきたのだ。
 わたしたち(清水が所属している同人誌「らん」のメンバー四人とわたし)は、ならば、刊行会を編成して、直接購読を募り(句集は贈呈しあうのを常としている)、それを制作費にあてて、清水径子の全句集を出そうと思い立ったのは、ほとんど自然な流れのようだったと今にして思う。
 企図してから一年、思いのほか早く、このほどようやく全句集が刊行に至った。あらためて、豊穣な詩的世界にただ瞠目するだけでいい。わたしはいまそんなふうに思っている。刊行会の編集委員を代表して鳴戸奈菜は、「清水径子の俳句は、日本文学の本質の一である抒情を俳句に汲み入れた類いまれな作品である。俳句の財産として、現在はむろん後世まで大事に読み継がれることを願い、また確信している。」(「刊行のことば」)と評している。それ以上のことはもういわなくていいだろう。径子俳句には、月並な批評を排する強さがあるのだから。

 野菊流れつつ生ひ立ちを考ふる(『鶸』)
 老いられぬ夏潮のかく溢れては
 弟に白梅わたす夢の中
 くだかるるまへに空蝉鳴いてみよ(『哀湖』)
 流れより野菊を拾ふめぐりあひ
 肉体のいづこを押せば梅の花
 生の空死の空いまは春の空(『夢殻』)
 慟哭のすべてを蛍草といふ
 負けの記憶都忘れを呉れたるよ
 妄想の草深ければ鳥兜(『雨の樹』)
 おいしい水にわれはなりたや雲の峰
 転生の直後水色野菊かな
 ぽんと肩を叩かれて今日子規忌か(『雨の
 樹』以後)
 ちらちら雪弟よもう寝ましたか
 知つてしまふ事の淋しさ花野とは

 「野菊」や「弟」は清水径子がしばしば取り入れるモチーフだ。だが、最初期の『鶸』から『雨の樹』あるいは『雨の樹』以後にあっても、「野菊」や「弟」は変わらなく緊密性をもった詩語としてあることに驚く。そこには絶えず濃密な想いが一貫して込められているからだ。熱い抒情といえばいいだろうか、それが詩魂として内在しているから径子俳句はわたしたちの内奥を撃つのだ。
 いま、この全句集によって、清水径子という類いまれな表現者のすべてと触れ合うことができることになったことを、刊行会という立場を離れ、純粋に読者として、わたしはいま、あらためて僥倖なことだと思っている。

※『清水径子全句集』
四六判 260頁 定価5800円・送料梱包代400円(直接注文は、合計金額6200円を郵便振替で00150-3-64543口座名・燈書房)
発行・清水径子全句集刊行会/発売・らんの会

(『図書新聞』05.4.9号)

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2006年6月19日 (月)

暮尾 淳 著『ぼつぼつぼちら』(右文書院刊・05.10.31)

 暮尾淳の新著を前にして、なにから書き始めたらいいだろうかと、逡巡する。だが、どうしても私事にまつわることから書き出してみたくなる。わたしと暮尾との通交は、ここ一年ほどのごく最近のことだ。その間、なにげない会話のなかで、家族のことに及び、暮尾はわたしに、ふたりの姉弟が自死していることをたんたんと(そのように、わたしが感じたにすぎない)、語ってくれた。その後、ベトナム戦争を精力的に活写し続けたカメラマン・岡村昭彦のことを、わたしは、ほとんど忘れかけていたのだが、「岡村昭彦の会」というものがあることを知った。そこに米沢慧、芹沢俊介などともに、暮尾淳の名を見つけ、そのことを訊ねた時、暮尾は、岡村のアシスタントのようにしてベトナムへ行ったことなどを話してくれた。しかし、詩人・暮尾淳とその岡村との接点に、なにか釈然としなかったことを覚えている。
 本書『ぼつぼつほちら』は、構成的にいえば、「詩」三十五篇、「俳句」百八句と、石垣りん、伊藤信吉、そしてその岡村昭彦への「追悼的エッセイ」の三篇からなっている。ほんとうは、「石垣りんについての諸家の書いた文章のなかでも屈指のもの」だと編者の堀切直人がいい切る「石垣りんさん」という文章から真っ先に触れるべきであろうが、わたしはどうしても、「走れメロス」と題した岡村への追悼文へ視線がいってしまうのだ。そして、それを読んで、暮尾と岡村とのもっと深い関係性を知ることになる。
 「今となっては何かに生かされてきたとでもいうしかない過ぎた日々のために、摩滅しかけている記憶の襞々を、懸命に手繰り寄せなければならない。」と述べながら、「死んだ人たち」のことを、「そっとしたままで、裏町の酒場でひっそり酒を飲んでは偲んでいたいというわたしの気持に迷いが生じたのは、いつの間にか老年の坂に差しかかり、若くして自ら命を絶った姉の純子や弟の聡それに現在の自分より九歳も若かったアキヒコの病死にまつわることどもが、重荷のように感じられ始めたからであろう。」といい、アキヒコと姉の純子との関係に触れていく。姉の死の時、暮尾は中学一年生だった。
 「生前最後となった純子が家を出て行くときの姿をを見たのは、家族のうちではわたしだけであるが、それが生涯にわたってわたしの人生に消えない影を落と」しつづけていったと述べる。暮尾のアドレッセンスに、後年の詩人・暮尾淳の作品世界を読み解く必然があるなどと、ここで訳知り顔にいいたいのではない。「死んだ人たち」のことを、「裏町の酒場でひっそり酒を飲んでは偲んでいたい」というように、たぶん、暮尾は、これまで詩もかいてきたはずだと思うからだ。わたしの関心が向いていく先は、そういうことが、「重荷のように感じられ」たり、通交のまだ浅いわたしにでも、たんたんとそのことを語ってくれるようになった暮尾淳の〈現在〉ということなのだ。
 「いまはおれの言いなりで/どこにでも気さくに付いてくる/死んだ弟と/トタン屋根の上で/巴旦杏を食いながら/星空をながめていたら/生あたたかい風が/さわさわと夜を渡り/星が流れ/ヘール・ボップ彗星がという/アナウンスが聞こえ/おれはあわてて眼をこすり/B747機の窓から/青白い渦巻模様が/冥い宙に浮かんでいるのを/ぼんやり見たが……」(「ヘール・ボップ彗星」)
 かつて、秋山清は暮尾の詩集の跋文で「暮尾淳は詩がうまい。(略)おまえさんは誰のために詩をかくのか」と厳しく問いかけながら、「詩とは自分を欺かぬこと、だから自分のためにだけ在るもの」と記している。むろん、秋山は、暮尾が誰よりもそのことを理解している詩人であることを承知のうえで、述べているのだが、この詩篇は、わたしに秋山のそのような言を思い出させずにはいられない。「死んだ弟」と「巴旦杏」を食べながら「星空をながめ」るという心象から、「彗星」を機内から見るという現実へ重ねながらも、実はそのことが、もうひとつの心象であることを示している。「死んだ弟」を「おれの言いなりで/どこにでも気さくに付いてくる」とすることで、暮尾の心奥の「重荷」を解き放ち、イノセントなアドレッセンスをイメージさせる「巴旦杏」という詩語と「ヘール・ボップ彗星」という詩語の対称が、沈潜していく抒情を逸脱させ、付着し続けた「消えない影」を昇華させていくのだ。芹沢俊介は、かつて「戦後詩の帰路」という命題をたてた『戦後詩人論』を著したことがある。いま、わたしは、いくらかその命題を援用して、この詩篇のなかに、さらに入り込んでいきたくなる。「死者たち」を、「酒場でひっそり酒を飲んでは偲」ぶということは、「生者」にとっては「往路」にあたる。つまり、関係性や世界との関わりを意識的にせよ、無意識的にせよ、抱えこんでしまうことを「往路」であると、わたしは捉える。そして、関係性や世界性との対自から、自分というものを解いていく方位を「帰路」といいたいのだ。いわば、そこにいたって、初めて「自分を欺か」ず、「自分のためにだけ在る」といった地平に降り立つことができるのではないのかと思う(誤解のないように、付言すれば、「往路」や「帰路」は時間性を意味しているのではない)。だから、わたしは、暮尾詩の〈現在〉を、「帰路の詩」の場所であるといってみたくなる。
 「自裁とはおまえのことだよ冬の虹」
 「はや落葉貧乏ゆすりふと止みぬ」
 もちろん、暮尾にとって俳句も「帰路の短詩」ということになるはずだ。
 そして、こういいたい。書名にとられている「ぼつぼつぼちら」といういいまわしを、わたしは、けっして軽妙には感じない。明確でつよい主意の表明が、そこにはあると。

(『図書新聞』05.11.26号)

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2006年6月17日 (土)

ベナサジャグ/ストゥルヴァルク 著・松本潤一郎 訳   『反権力―潜勢力から創造的抵抗へ』(ぱる出版刊・05.4.1)

 この本に関わって、わたしはいくつかの鮮烈な感受を抱くことになった。それは、アクティビティが生起する初源的な〈力〉の可能性ということであり、また、アクティヴであり続けるということは、運動(あるいは思念)の拡張と連携を必ず呼び起こすものだということであった。
 〈反権力〉といういってみれば、刺激的な表題からイメージされるものは、わたしたちの文脈から類推する表層的な権力論と、いくらか違う位相をもっている。それは、著者たちが想起している基底に、〈抵抗としての反権力〉というムーブメントが絶えず内在しているからだ。著者たちが本書を著わすことになった契機をみれば、了解できることでもある。それは、こういうことだ。
 メキシコ政府がアメリカとの経済統合をおしすすめていくなかで締結した「北米自由貿易協定(NAFTE)」がまさに発効されようとする一九九四年一月一日に、メキシコ東南部チアパス州で「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」が大規模な武装叛乱を起こして、チアパス州の多くの村を自主管理していったのだ。メキシコの人口の25パーセントを占めるといわれている先住民族は、長いあいだ底辺的生活を強いられてきた。サパティスタ革命軍は、彼らの権利を快復するために決起したのだ。そして、当時、彼らの抵抗運動はソ連邦崩壊以後、はじめて顕現した旧来の伝統的な反体制革命運動・反資本主義闘争を揚棄したものとして、世界規模で衝撃的に受けとめられ、多くの識者たちに支持されたものだった。
 「ここ数年、また世界の未だ少しではあるがあちこちで、われわれは『踏み越え不可能な地平』としてのネオリベラリズムを峻拒する広大な運動の、多様な形態の下での出現を目撃している。
 われわれにとってのこうした反攻の出現の象徴でありメモリアル的でもある日付は、サパティスタ革命軍がチアパスのメキシコ領土内にあるラス・カサスの都市サン・クリストバルを占拠した、一九九四年一月一日に定められる。これを契機として、またこの運動から出発して、オルタナティヴな言説と実践が注視されることになったのである。」(17P)
 本書の著者たちもいうように、サパティスタ革命軍による「オルタナティヴな言説と実践」は、はじめての反グローバリズムを標榜した運動として認知され、また、「山中の拠点から、VHFトランシーバーを使ったパケット通信のインターネットを通じ、世界中の支持者に電子メールで情報交換し」(田中宇「メキシコを動かした先住民の闘い」)広報活動を展開したことでも、これまでにない形態の抵抗運動であった。さらに、チェ・ゲバラの再来といわれた副司令官マルコスがとった方法は典型的な左翼ゲリラ戦術でもあった。
 本書の共著者ストゥルヴァルクはゲバラの研究者でもあり、本書の中で、第十章「反権力」に「『チェ』のゲリラ」という項目もある。
 さて、著者たちが指向してやまない反攻へのための起点は、オルタナティヴな場所でありながら、論述の方位は、フーコーであり、ドゥルーズであり、当然、ネグリへの親近性などがみてとることができる。そして、基層にはスピノザがあるのだ。だが、彼らの思考は揺るぎない視線から発せられている。
 「支配されることによる『悲しみ』を踏み越えてゆく諸々の方途を探求しかつ見出すような多数の人々のためのアソシエーションを目指すことである。われわれはこの書物を書く。それは『行動の管理』とみなされた理論としてではなく、『創造としての抵抗』に貢献する補助的な一理論としてである。」(15P)
 ネグリ/ハートの『帝国』で提起されたマルティチュード(多数多様性)の継承がここでもなされていく、ただし、アルゼンチン生れのふたりの著者たち(ベナサジャグは当時の独裁政権によって七〇年代末まで投獄され、その後、パリに在住している)が、想起する地平は、あくまでもローカルポジションやマイノリティからの発信である。そしてなによりもアクティビティと思われるのは、自著を「『創造としての抵抗』に貢献する補助的な一理論」と規定するところだ。高みからの原理論をふりかざすのではなく、「抵抗の所在」を模索していくものとして、本書を位置づけているところに彼らの本領があるといっていい。それは、ドゥルーズを援用しながら、展開していく「反権力のリゾーム」といった独特な基軸にもいえることである。
 「われわれが『反権力』と呼ぶものは『権力に対する』運動ではなく、むしろ権力の論理の『彼方』にある。反権力とは、われわれが手にしている潜勢する力能が、われわれが生存し、順応している唯一の場から各々の状況において、変化への必要諸条件を創造するということだ。」(14P)
 「無数の連帯と集団がここかしこで開花し、真のネットワークを、権力への問いを脱中心化し、とはいえそれを否定するのではないような新たな転覆的主体性のただ中において『反権力のリゾーム』を展開させる。」(18P)
 「権力はその中央権力的バージョンにおいては常に空虚な場であり、その諸力とはただ、基盤にある潜勢力によって構造化された『ミクロの権力』の夥しい諸関係がこの空虚な場にもたらすことのできる諸力であるにすぎない。」(85~86P)
 これらの、鋭角的な論述にみられる視線は、〈権力〉に孕まれている多様な諸力を削ぎ落とすことであり、運動論的には、主導していく側が抱えこむことになる革命的権力をも脱化することでもあるのだ。
 九〇年代、敗走していったとみなされた革命戦略としてのロシア・マルクス主義を通して、すべての反資本主義闘争の無効化が喧伝されている現在、ベナサジャグたちの著書は、鋭利にこの情況を切開していくものだといっていい。
 ところで、わたしと松本勲は、共同執筆で「編集者のあとがき」というものを本書に付している。
 「本書の基本的テーマは二つのことに絞られる。ひとつは古典的革命戦略を離れ、かつそれを脱中心化すること。もうひとつは、状況そのものが文字通り〈要請〉する様々な課題をどのように見、そしてどのように問うかといった、いわば新たなる実践的視座を獲得することである。(略)むしろ注目しなければならないのは、この書が完結した分析や『表象的』理念によって構成されているのではなく、実践的な要請にもとづいた『問い』と『鍵』の提出を通奏低音としていることである。(略)権力奪取の放棄、モデルなき闘い、革命的前衛の拒否、グローバリズムに対するローカリズムへの執着、そして反権力の『政治』。切子細工を容器の内側から眺めるようなそうした煌きがこの書には確かにある。」(215~216P)
 もちろん、これ以上のことを本書に対して付言するつもりはない。

(『図書新聞』05.5.28号)

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2006年6月15日 (木)

日本アナキズム運動人名事典編集委員会 編        『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版刊・04.4.20)

 日本における「アナキズム」あるいは、「アナキズム運動」とは、何であったろうかと考えてみる(いや、何か、というふうに本来なら現在的に考えるべきかもしれない)。
 誰でもが真っ先に、幸徳秋水、大杉栄に代表される明治期・大正期の思想家・革命家像というものを思い描くに違いない。明治天皇暗殺を企図したとされる大逆事件の首謀者とみなされた幸徳、関東大震災時の混乱を利用して虐殺された大杉というこのふたりの革命思想家の死がもたらした衝撃性は歴史のなかに明確に刻印されている。そのことが、わが国の「アナキズム思想」や「アナキズム運動」のその後の展開に大きな影響を与え続けてきたのは確かだ。だが、それは、いってみれば足枷のように思想というドグマを発生させて、戦後のアナキズム潮流に停滞と退廃をきたしたともいえる。
 人間の存在を絶えず抑圧する装置としての国家やそれに恒常的に張り付く権力に徹底的に抗し、思想を優先させるのではなく、生活の根源的な所在を希求していこうとする、「アナキズム」という思考方法は、なんの衒いもなくいえば、多くの人たちの好感を得てきたはずだといっていい。だが、結局、「アナキズム運動」といった凝縮したかたちをとりえず、広く社会運動(あるいは社会主義運動)全般のなかに埋没していってしまったのだ。そのことには、いくつかの理由をあげることができると思うが、アナキズムに内包する余りにも直接的な反権力・反組織指向に起因するともいえるし、アナキズムの訳語が「無政府主義」としたことによって、その苛烈性が直接行動・テロリズムといった位相を仮想させたことにもよるといえよう。そして、思考の苛烈性、過激性は、逆に反動として一部のアナキズム・セクションをディレッタントなサロン集団にしていってしまったということもまたいえるはずだ。
 そして、いま六年余りの年月をかけて、『日本アナキズム運動人名事典』が、このほど刊行された。“人名事典”ということ、アナキストではなくアナキズム運動という視点、このことだけでも本書刊行の衝撃度はある意味、大きいともいえる。幸徳・大杉以後の「アナキズム」の思考と方法の所在を俯瞰しうる時間性を果たして提示しえるのかという疑問や疑念は誰でもが抱くはずだ。その困難な作業を、すくなくとも想像しうる限り、遺漏のない、精度ある“完全な”事典などというものは望むべきではない。にも関わらず、この九〇〇頁近い大冊には、まぎれもなく、多くの反抗と信念と真摯な生き方をした人々の膨大な累積がある。いわば、こうした膨大な累積は、アナキズム・セクションだけに内閉させるべきではなく、もっと広大な思想の海へと押し広げていくべきだといってみたい。
 だからこそ、本書を眼前にして、わたしは、やはりどうしても、「アナキズム」とは何かということに改めて拘泥せざるをえない。そして、ふたつの論述をこの事典に対置させたい欲求を抑えることができないのだ。
 ひとつは、いまから三十五年ほど前の著作で内村剛介が、「アナキズム」について論述したことだ。
 「『政府』イコール『国家』イコール『くに』といった具合にきわめて手軽に観念が短絡するわがくにの民俗にあっては、『無政府主義』という杜撰な訳語が一般に『くに』に対する反逆のイメージを喚起したことはたしかだろう。そうだとすれば、無政府主義は日本人の日本人としての存在の根元を無視する反秩序の無頼ぶりであるということになる。アナーキズムは抑圧の権力に対抗するものであり、その限りにおいて政府も国家も敵として登場するのであって秩序そのものを敵視するものではない―という正当な了解が、『没権力』『否権力』に代って『無政府』という語が現れたときに失われたのだ。(略)われわれは始原は一つ、原点は一つ、というあちらの風土生まれの思想に挑戦することによってわれわれのアナーキズムをつくるべきか、それとも、ついにアナーキズムのエピゴーネンに終るかを考量しなければならぬときにさしかかっているのではないか。」(「わが風土」・評論集『わが思念を去らぬもの』・所収)
 「われわれのアナーキズム」という内村の提示は、重い。わが国の、特に戦後の「アナキズム運動」は結局、エピゴーネンから抜け出すことができず、その思想的な内閉へ向かっていったからだ。もちろん、「われわれのアナーキズム」を模索する動きがないわけではない。それがもうひとつの論述だ。二〇〇一年に創刊された雑誌『アナキズム』(『アナキズム』誌編集委員会・発行、ぱる出版・発売)の「発刊に際して」で、次のように主張する。
 「十九世紀において、社会構造、人間の社会的諸関係そのものの変革を企図する、まさに革命思想として花開いたアナキズムは、その後アナキズム運動内に様々な潮流を生んだ。それ以降は運動論や組織論、果ては人間社会に対する認識の仕方等々の差異や位相の違いから、良くも悪くも『思想としてのアナキズム』が内包する多様性に対する寛容さを損なわせ、『自由、平等、友愛』という理念に対する忠実さを競うことが、変転してセクト間の争いへと転化してしまった歴史であるとも言える。(略)その意味で誌名を『アナキズム』と付けたのは不適切かもしれないが、我々を取巻く諸権力の解体を従来の古典的枠組みからはみだすような形で追及する試みが必要であるというのが我々の共通認識であり、また唯一の共通テーマでもある。」(「アナキズム」・第一号、二〇〇一年十二月刊)
 「我々を取巻く諸権力の解体を従来の古典的枠組みからはみだすような形で追及する試みが必要」だとする指向は、いわば「われわれのアナーキズム」を模索することでもある。さらに、「『思想としてのアナキズム』が内包する多様性に対する寛容さ」という時、それは、そのまま本事典の主意に連鎖していくものだ。
 本事典の「まえがき」では、「アナキズム運動なる概念の外延を最も広く設定する。」、「アナキズム運動との関わりをクローズアップする。」という主意が述べられている。「多様性に対する寛容さ」は、そのまま〈思想としてのアナキズム〉の内実を問うことでもあり、それが収録人名三〇〇〇余名という膨大さに表われているといってもいい。権藤成卿、橘孝三郎といった、これまでのアナキズム思想史には入らなかった思想家から、石井恭二、岩淵五郎といった出版人、埴谷雄高、高橋和巳といったアナキズム的理念を文学方法とした作家までと、確かに外延は「多様性」をもっている。そのことが本事典の出色さを示すものであり、既知の「社会(主義)運動事典」の類書を超えたものになっているといっていいと思う。

(『図書新聞』04.5.29号)

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2006年6月14日 (水)

山口健二遺稿集『アナルコ・コミュニズムの歴史的検証』(北冬書房刊・03.9.13)

 山口健二の名は、ある種、伝説化した物語を付随して響かせていた。物語は、当然のごとく〈反権力〉、〈反体制〉運動といった磁場のなかからものだ。山口は、戦後すぐに、第一次アナキスト連盟へ参加、アナ連を離れた後、社会党と共産党に二重加盟そして除名。六〇年は谷川雁らの「大正行動隊」に参加して三池闘争を支援。六二年、吉本隆明、埴谷雄高、谷川雁らを講師とした「自立学校」に関わる。六五年、松田政男らと「東京行動戦線」を結成。六六年、「ベトナム反戦直接行動委員会」に関わる。その後、レボルト社を設立して『世界革命運動情報』を刊行、ML派に加盟、東大安田講堂攻防戦に関わる。そして、中国へ渡り、文革左派に参加し、林彪事件に連坐、投獄される。こうして、時間性にそって素描したところで、山口の像はつかみきれるわけではない。
 七〇年以後十数年ほど、山口の消息を聞かなくなった。そのことも伝説化した一因である。八〇年代後半から亡くなるまでは、一貫して、〈アナキズム〉に関わっていくことになる。本書は、遺稿集にして、山口の初めての著作でもある。五〇年に発表した文章から、九八年に発表した文章までと、ほぼ山口の活動の幅を包括させるかたちで編まれている。
 Ⅰ、Ⅱ章に配置された文章群は、やや啓蒙的なものを、Ⅲ章は情勢論や追悼文といったものが収められている。
 書名にとられている「アナルコ・コミュニズムの歴史的検証」と「アナキズムからみたスペイン革命小史」は、刺激に満ちた論稿だ。既知の事柄にもかかわらず、山口の〈歴史的検証〉の手さばきはあざやかだ。
 一九〇五年前後のロシア・アナキズム運動から一七年十月革命以降までを射程に入れた「アナルコ・コミュニズムの歴史的検証」は、レーニンの革命論(それは当然、国家、党、権力の問題にかかわることだ)とバクーニンの苛烈な革命主義の徹底した分析が主題になっているといってもいい(残念ながら、この論稿は未完だ)。例えば、このように。
 「レーニンにしつこくこだわる。アナキストにとって不倶戴天の敵であったレーニンの思想と人間を究明することが、アナキズム―とくにアナルコ・コミュニズムとその主柱となったバクーニン主義の究明に不可欠だと思われるからだ。」(39P)
 山口の考えは、〈党〉の問題を除外すれば、その著『国家と革命』がテーゼとしているものは、コミューン主義でアナキズム的だというものだ。アナルコ・コミュニズムは「過度期論として『パリ・コミューン主義』を継承し」ているとして、レーニンの過度期国家論(半国家論)は、パリ・コミューンに通底していくと捉える(31P)。わたしは、このような見解にそれほど異和は感じない。だが、最も大きな問題は、権力(前衛党の問題も当然含まれる)をどう無化していくかということだと思う。その問題こそ、アナキズムが最もアクチュアリに表出する場所なのだ。過度期論の定立は政治的権力の有効性の是認であり、その限りでは、権力の無化へと向かうプロセスは眺望できないとわたしなら考える。山口は、アナキズムもマルクス主義もその教条性や原理主義にからめとれて、退行化していく様を体験的に知っていた。だからこそ両方のプラス面を補完し、止揚していくかたちの思考を模索していた。アナキズムではなく、アナルコ・コミュニズムと規定したのもそのためだ。山口の鋭利な分析は、どうしても情勢論的なものを払拭できないでいると、わたしは思う。つまり、もっと〈情勢〉や〈情況〉にからめとられることなく自由に振る舞える場所から思考は、表出されべきなのだ。山口は、「全共闘、新左翼党派、武闘中心主義が行きつくところ、日本などすぐはみ出して、ゲバラ主義から中国文革運動参加へのめりこみ、惨憺たる敗北に行き着」(203P)いたと自戒を込めて述べている。そうだろうか。どうして、なにをもって「惨憺たる敗北」といいきってしまうのだろうか。これも、情勢論的ものいいだと思ってしまう。
 「アナルコ・コミュニズムの歴史的検証」や「アナキズムからみたスペイン革命小史」といった刺激的な論稿を展開できる人が「惨憺たる敗北」といってはならない。
 「ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる/ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる/ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる」(吉本隆明「ちいさな群れへの挨拶」)
 この詩を、「いつも心奪われる表現のひとつだ」(199P)と山口健二はいう。 
 一九九九年六月十二日逝去。享年、七三歳だった。

(『図書新聞』03.11.15号)

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2006年6月13日 (火)

木村哲人 著『増補新版テロ爆弾の系譜―バクダン製造者の告白』(第三書館刊・05.7.1)

 爆弾によるテロルが、いまほど止むことなく生起している情況はないだろう。それぞれに生起する所以は確かに理解できないわけではない。大国支配に対する抵抗、民族対立、宗教対立、政治イデオロギー対立等々。そして、イラクやパレスチナでの自爆テロは悲痛ですらある。わたしは、善悪でこれらのことを断じるつもりはまったくない。しかし、9・11テロに象徴される「無差別テロ」を考えるとき、行為者の思念と感性にあるだろうわずかな襞のような隙間にいくらかの言葉を投げ掛けたい気持を、わたしは抑えることができない。
 未明のロシア革命時に時の皇帝権力へ、あるいはボリシェビキ政権への爆弾によるテロルを敢行した一群がいた。それがナロードニキ・テロリストたちだ。彼らはあくまでも焦点とする敵のみへのテロル敢行であった。巻き添えや無差別被害を極力避けていた。つまり、本書の著者もいうように、「心やさしきテロリスト」たちだった。
 「幼いころから、武器のメカニズムに興味をもっていた(略)わたしは小学生のころピストルや小銃の解説書や、カタログを集めていた。」(19P)
 著者・木村哲人は、そんなふうに述懐しながら、自らの来歴を語り、その「自叙」のなかに、「テロ爆弾の系譜」を重ねあわせて著わした本書にはいくつかの貌がある。もちろん、主眼は現実的なテロ事件の実際への共感と反感である。そして、反抗心や政治理念との距離感をもった爆弾マニアであることを自称しながらも、著者の思いは、次の様な一節に収斂されているといっていいだろう。
 「今も毎日のように、世界のどこかで爆弾テロは発生しているが、彼らに〈心やさしき人びと〉とよばれたテロリストの栄光はない。(略)キバリチッチに鯉沼九八郎に、ソフィアに、管野すがにあったロマンは跡形もない。ただ無差別の、寒々とした爆弾犯人の狂気だけが吹き荒れている。」(232P)
 キバリチッチは、ロシア・人民の意志党に所属した手投弾の開発者であり、ソフィアは“心やさしき”ナロードニキ・テロリストだ。鯉沼九八郎は、わが国で初めて爆裂弾が使用された、自由民権運動末期の苛烈な抵抗としてあった加波山事件に関わった人物であり、管野すがはいわずと知れた「大逆事件」の首謀者として刑死している(著者は、宮下と管野が作ろうとした爆弾は、たんなる玩具花火程度のものだったと主張する。なぜ暗殺手段の稚拙さをもっとこの事件のフレームアップの主意として指弾しないのかと憤怒している。そのことには率直に同意したい)。著者の彼ら・彼女らへのロマンの託しかたが、本書を仰々しさから解きほぐしている。非党員でありながら、戦後の一時期、軍事路線を遂行していた日本共産党の軍事研究員として爆弾開発をしたというエピソードは、スリリングな描写とともに、イノセントな爆弾マニアの〈像〉を見事に「自叙」している。また、明治期、鯉沼の妻・時子を取り調べた裁判長が、著者の曾祖母の父にあたる飯田恒男という人物であった。鯉沼の爆弾作りに協力していた時子からその方法を取り調べに乗じて聞いた飯田は、代々子孫にそのことを伝えていくように命じたというのだ。飯田から子孫である著者までが、いわば、もうひとつの「テロ爆弾の系譜」ということになる。本書が、いくつかの貌をもっているといったのはそのためだ。こうして、書名の直截さは、ある種の重層さをもった「読み物」性を醸し出している。それは、著者が映画やテレビの録音技師としてあったことと無縁ではないはずだ。
 本書は、一九八九年、三一書房から出版されたものの増補版である。著者と一緒に仕事をし、出版の労をとった大島渚の「録音と爆弾の間」という序文が付されている。一九三三年生まれの著者は、昨年二〇〇四年に逝去している。
 最後に、ひとつだけ付言したいことがある。録音技師としての仕事のなかから生れたであろう多くの著作のなかで『音を作る』というのがある。これは、三谷幸喜監督作品で評判となった映画『ラヂオの時間』のモチーフになっていて、著者自身が効果音監修者として参加している。

(『図書新聞』05.11.19号)

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2006年6月12日 (月)

長崎 浩 著『動作の意味論―歩きながら考える』(雲母書房刊・04.12.25)

 「運動」や「行動」ではなく、「動作」である。そのことが、まず重要な事がらだ。わたしたちの誰にでも「老い」はやってくる。そしてかならず、「死」を迎えることになる。ここでいう、「動作」とは「生き(てい)る」ということと同義だとわたしなら考える。「病」や「老化」によって身体の不備が生起する時、ひとはどんなことを思うのだろうか。「健常者」とそうでない者との違いはなんだろうかとも思う。確実に差異を認めざるをえないのは、「動作」の困難さだといってもいい。
 「動く身体とは、何よりも日常の動作として、私たちの生活に普遍的現象である」(1P)と著者はいう。
 そうではあれば、「病」や「老化」によって生起する事がら、つまり、困難な動作や所作を克服(こういういいかたは、実に皮相なことかもしれない)していくためには、どう考えていかなければならないのかということが、切実なこととしてせり上がってくるはずだ。
 六〇年代末、全国大学闘争高揚期、『叛乱論』という衝撃的な著書で登場した長崎浩(誤解を招かないように付言すれば、長崎はまぎれもない六〇年安保闘争世代である)は、以後、八〇年代にいたるまで、政治思想情況にコミットした論述の担い手だった。少なくとも、わたしの拙い情報摂取の仕方では、九〇年代以降は、環境問題や福祉医療の分野における仕事が際立っているような気がする。本書もまた、「リハビリテーション」研究の延長線上にあると理解できるが、「動作」の“意味”を問う本書は、既知のリハビリテーション医療という枠組みを解体した先を見据えているといっていい。
 いくつかの記述に、著者独自の思考の航跡が窺える。例えば、次のように。
 「(略)人間の身体運動のうちで動作は際立って普遍的な現象である。生きるとは何よりも動作することだからだ。(略)日常動作の遂行パターンは、人類史を通じた行動進化の淘汰を受けてきた歴史的な結果であるかもしれないのである。」(74~75P)
 「直立二足歩行は人類の定義であるとおり、これには何百万年もの歴史があるユニークな生物的現象である。(略)人間はなぜこのような歩き方をするようになったのか、という生物学的な問いが立てられなければならない。これが『起源の物語』の問いであり、生理学や生体力学など物理化学的な説明の仕方をすることができない問いである。」(93P)
 多くの身体論は、心身二元論に基づく科学的分析であったり、「動作」という人間のプリミティブな動きの問題点を身体運動論総体のなかに埋め込んでしまっているという疑義が著者にはあるのだ。それが、「起源の物語」を問うという刺激的な動作の意味づけの論拠でもある。こうもいう。
 「日常動作から色や匂いや重さを剥ぎ取ることはできない。(略)一般に、見る、触る、聞く、味わうなど、いわゆる知覚動詞は日常の基本的な言葉であり、同時に、(略)見る、触ることが、すでにすなわち動作なのである。」(160P)
 著者が目指すのは、現在という場所から、あえて人間のプリミティブな有り様を問うことでもあるといっていい。しかし、それは安直な時間性の遡及を意味しているわけではない。人間の身体にとって、何が健常で、何が障害の表徴なのかという差異は、動作のもつ「起源の物語」、つまりプリミティブな様態を措定してみせることで、相対化できるはずだという思いがあるからだ。
 例えば、機能障害にたいして、より精緻なリハビリテーション医療にもとづいた回復訓練で運動障害を克服するということを著者は主張したいわけではない。
 「(略)動作の再建は、当の本人に任されようが治療の介入を受けようが、可能な無数の経路からひとつを選んで行われることになるであろう。(略)再建の経路とはいわば種の進化の系統樹に似ている。(略)健常人ならふだんは使わないがやろうと思えばできる動作のパターンがあり、そのひとつが患者の選択肢になる。(略)人は異なるやり方で同じ動作課題が達成できるのであり、繰り返しいうように日常動作はそのうちから歴史的に選ばれた形にすぎない。別の経路に別の最適化基準がありうる。」(278~279P)
 長崎浩の新著は、こうした論述に見られるように、身体論・リハビリテーション論を再構築しうる視線と方法を開示していると、わたしなら躊躇なく断言したい。
 「再建の経路とはいわば種の進化の系統樹に似ている」という「起源の物語」に向けた思考は、わたしたちの未知の未来をも視野に入れたものだといっていいはずだ。

(『図書新聞』05.2.26号)

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2006年6月11日 (日)

うらたじゅん、山田勇男他 著 『幻燈 6』(北冬書房刊・05.11.5)

 つげ義春・つげ忠男以後の劇画・漫画表現を追及し、多くの秀逸な作品群を掲載し続けてきた『幻燈』の第6集が一年半ぶりに刊行された。うらたじゅん、菅野修、西野空男らがそれぞれ二作品を、『夜行』の常連、斎藤種魚が『幻燈』誌上初作品(第1集の装幀を担当しているが)、「アヌス・スプリングの虹」を発表し、また、映画『蒸発旅日記』の監督・山田勇男の漫画作品と劇評そして天野天街との対談など、読み応えのある作品・論稿が数多く収載されている。
 作品として真っ先に取り上げたいのは、河内遥の「ねむりじたく」だ。前作「乙女チャンラ」で『幻燈』初登場以来、注目されるこの作家は、大手少女漫画誌での本格デビューも近いようだ。独特の呼吸感漂うこの作品は、浮遊する現在をうまく投影させている。少女漫画への指向も持っている河内だが、確かに圧倒的な技量性がある。だが、それに寄りかからず、むしろ大胆に自らの世界を描出していくべきかと思うが、どうだろう。初登場の木下竜一は、「神隠し」、「旧友」の二作品とも四頁の短いものだ。線描のタッチと独特な構図が醸し出すものは、一枚一枚の絵画作品を積み重ねたような構成をとっている。次作はどういうものを見せてくれるのか、期待したい。「アヌス・スプリングの虹」は、斎藤種魚の詩的世界を久しぶりに見せてくれている。この作家は、『幻燈』のような場所がふさわしいと、あらためて思った。
 劇画・漫画作品以外では、宮岡蓮二の評論「英霊異論―うらたじゅん『鈴懸の径』は『靖国』を撃つか」は力論である。力論であることを認めつつも、しかし、わたしにはどうしても釈然としないものが、読後、残ったといってよい。十五年戦争下の戦死者を「英霊」として祀る靖国神社の問題は、国家と天皇制の切開を迫っていくものだ。そのことにもちろん、異存はない。かつて加藤典洋の『敗戦後論』が提起したのは戦争責任と戦後責任のある意味、切断であり、責任という概念を拡張することにあったとわたしは見ている。つまり、「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か」というものであった。そのこと自体、必ずしも錯誤的な論述だったとわたしは思わない。戦争責任・戦後責任の問い掛けの多くは、加害者として、アジア二千万の死者への哀悼を先行すべきだというものだ。宮岡の論旨もその中にはいる。ならば、加害者とは誰かという問題、あるいは戦時下における被害者はアジアや南方地域の人たちだけなのかということが、厳密な意味でほんとうはせり上がってくるはずだ。わたしなら、〈死者〉とは誰か、〈死者〉とはなにかということを、すべての国家(間)による戦争を考える時に、まず、想起する問題だ。宮岡は、うらたじゅんの「鈴懸の径」(『幻燈 3』収載)に、「『加害者』という認識が欠けている」と批判する。それは、十五年戦争下における父の世代の青春期を描出したこの作品に対して、「加害者」の視線を具体的に描出しなければ、作品として高い質を持つことができないと論述しているのに等しい。たぶん、宮岡はうらたとの近接した通交のなかで感じた「あやうさ」(本論でそういういいかたをしているが、実は、この「あやうさ」を宮岡は具体的に述べていない)から、そのような思いを抱いたのかもしれない。しかし、それは作品論として逸脱しているとわたしは考える。宮岡が、現在の情況に苛立ち、憤激していることは分かる。だが、そのような思想情況とうらたじゅんの「鈴懸の径」の作品を対峙させて語るのは、かなり強引な手法であるといいたくなる。そもそも、宮岡は、この作品のモチーフになっている灰田勝彦の「鈴懸の径」という歌に対しても疑念を持っているようだ。たぶん、軍歌はすべて否定すべきものという思いもあるはずだ。そこが、わたしとの差異になっている。わたし自身もこの作品に、少なからず疑念がないわけではない。だが、わたしなら加害者の視線のなさということを、この作品に対しては導入しない。このことは、機会があれば、別の場所で述べるつもりだ(ひとことだけいえば、時間軸の移動が作品構成上うまくいっていないということがある)。ところで、この宮岡のうらた批判に呼応するかのような作品が、今集の新作「金魚釣りの日」である。父の幼馴染はビルマで戦死したとされるが、もしかしたら生きてジャングルを彷徨っているかもしれないと思われていた。自分のために金魚を釣ろうとして川で溺れた友達の男の子を助けてくれた人が、父の幼馴染に似ていたとイメージしていく終景への展開のさせ方は、うらたがあらたな段階へと達したと感じさせる作品になったと、わたしは思う。うらたは、この新作でも、「鈴懸の径」でも、〈死〉というものを、あらゆる予見(反戦や聖戦という意識性)を排してイノセントに救済させたかったのだと、いっていいかもしれない。

(『図書新聞』06.1.28号)

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2006年6月 9日 (金)

大月隆寛 著『全身民俗学者』(夏目書房刊・04.9.1)

 最近では、テレビ番組(「BSマンガ夜話」)の司会者などでマルチな活動が目立つ大月隆寛が「民俗学者」という“肩書”をもっていることに留意しているひとは、あまりいないのではないかと思われる。たしかに最初の著書『厩舎物語』にしても、学としての「民俗学」がけっして焦点をあてない競馬の世界の、しかも裏方へ向けたフィールド・ワークだったが、わたしは、独自性と新鮮さにおいて出色な著作だと思っていた。そしていま、あえて、やや衝撃性を与えかねない〈全身民俗学者〉と題した本書を著者は提示する。一九九〇年から九七年まで発表された文章を収録した大月における初めての民俗学評論集成だ。しかし、大月にあっては“民俗学評論”といっても、わたしたちが一般に思い描く「民俗学」というイメージからは、やや遠い場所にあるものにフォーカスをあてている。だが、それはいってみれば、“民俗学的なるもの”がどういう位置付けにあるのかを考えてみれば分かることだ。「学」である以上、わたしたちが想起する場所とは、いつだってフォーカスのずれといったものを生じさせているのだ。たとえば、民間伝承といった研究を俎上に乗せたとして、果たしてその「民間」という概念をどう措定するのかといったことをかならずしも厳密に検証していくわけではない。いつも茫漠たる民俗学的前提があるだけなのだ。
 「民俗学的知性というのがあるとして、それはまず具体的なもの、小さなもの、微細なものに半ば手癖のように焦点を合わせてしまう五感を持ってしまったものであり、そのような五感のもたらす官能によってまず現実をかたちづくってゆくようなものである。
 それは、アカデミズムとジャーナリズム、学問と世間といった、それ自体は当たり前のような二文法をハナっから蹴飛ばしたところにいきなり現われるようなものでもある。雑然とし騒然ともした日々の流れに水泡のように湧き上がり、群れ集まってはいつか何かかたちあるものになってゆくような『教養』のかたち。説明つかないもの、来歴のわからない“もの”が静かに増えてゆく近代の過程の内側から、その“もの”の遍在と文字の遍在との間を繋いでゆこうとすれば、このような手癖の知性を志すことは確かにひとつの方法たり得る。」(59P)
 このような視線を抱懐する大月は、「学問の耐用年数」、「ジャーナリスト・柳田國男の志」、「未来を選ぶ『学問』」、「もう二度と『再生』などと言うな―柳田國男と民俗学の幸せな訣別のために」といった文章群のなかで、学としての「民俗学」的世界に対して厳しい楔を入れている。
 「ひとつの指針としてあり得ると思うのは、かつて柳田國男が『山の人生』などと言った時のあの『人生』の五感に対応するような、同時代の日本人の日常生活誌といったゆるやかなくくり方の中でどのような仕事ができるのかを考えることじゃないだろうか。」(129P)
 「(略)『柳田学者』の中にいわゆる『民俗学者』は含まれないのが常です。今、世間にどれだけ自称他称の民俗学者が存在するのか知りませんし知りたくもありませんが、少なくとも(略)肩書を『民俗学者』としてものを書き、(略)発言する人たちの間には、柳田國男について正面から語ることを潔しとしない雰囲気が未だ濃厚に漂っています。(略)民俗学者という看板をあげて世渡りする者の多くは程度や流儀は異なってもいずれ『地道』という民間信仰の信者であって、(略)良く言えば堅実、悪く言えば凡庸で了見の狭い人々であることが多いために、ご本尊の柳田國男とその仕事について世間に向かって世間が腑に落ちるようにきちんと語る言葉を獲得しようという余力を持てなかったという事情があります。」(157~158P)
 「民俗学の歴史とは、この国の民間学問システムの歴史に他ならない。それはそのまま、この国の民間人たちがどのような世界観で学問を構想していったのか、というまた違った近代史の範疇にある。民俗学の歴史とは実はそのような“方法の歴史”であり、(略)知識の社会史につながるものである。」(173~174P)
 「世間」というしかないもの(共同的感性から倫理性の意味あいを抜き取った位相として大月はこの言葉をしばしば援用している)、あるいは社会、俗世間、世の中、日常性といったくくり方からでは捉えきれないものへ“五感”をもった視線を向け、そこに遍在する「モノ」、「コト」を、大月ふうにいえば、“ことほぐして”なにが見えてくるのかということを開いていくことが、「民俗学者」・大月隆寛の「方法」であるとわたしには思える。
 このように、本書は、「教育」、「家族」、「事件」、「アニメ」、「食」、「住い」から「柳田國男」、「赤松啓介」、「平岡正明」まで多層、多様なモノ、コト、ヒトへと、まさしく縦横に大月の「世界観」をめぐらせた、「方法としての民俗学」評論集成なのだといっていい。

(『図書新聞』05.1.1号)

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2006年6月 8日 (木)

三村晴彦 著『「天城越え」と加藤泰』(北冬書房刊・04.10.21)

 映画『天城越え』(1983年)は、わたしにとって思いで深い作品である。本書の著者・三村晴彦の第一回監督作品でもあるこの映画作品の始まりのかたちから終わりのかたちまでを、わたしは、リアルタイムで遠望していたからだ。
 数々の名作を東映で発表し続けていた加藤泰は、1966年にはじめて外部(松竹)で撮り始める。三村は、『男の顔は履歴書』(後に撮影された『阿片台地・地獄部隊突撃せよ』が、先に上映されている)から、『江戸川乱歩の陰獣』(1977年)までの加藤泰の松竹作品すべてに助監督で参加している。なかでも、加藤泰のまぎれもない傑作であり、代表作の『みな殺しの霊歌』(1968年)では、単独脚本家としてクレジットされている。
 三村と加藤泰の関係は、通常の映画界での師弟関係と幾分、様相を異にしている。確かに、ことあるごとに三村は加藤を師として仰いでいることを明言している。それは、本書に収められている文章群によっても明らかだ。だが、本当は、加藤が外(東映以外の場所)で自らの作家意志を貫くためにどうしても、三村の助力が必要としていたから、時として強引に伴走を求めていた関係だったといってもいい。もちろん、脚本参加を求めるほど、加藤は三村を信頼していたからこそ成立した関係だったともいえる。
 加藤は、いろんな意味で妥協しない映画作家だった。だから当然、現場でも様々な軋轢を生んできたといっていい(本書でも記述されている、『人生劇場』での森繁久弥とのトラブルなど、大物俳優との軋轢は加藤の場合、多々ある)。名匠と呼ばれる映画監督であっても、結局は、孤立した存在なのだ。加藤泰の松竹での傑作群は、三村晴彦の助力なくしてはありえなかったはずだと、加藤が亡くなって十九年、わたしはいま思っている。
 本書は、映画『天城越え』の企画の始まりから完成までを記した文章と加藤泰との通交を語る文章からなる、書名と同じ表題の長編エッセイを巻頭に配置し、以下加藤泰作品『人生劇場青春・愛慾・残侠篇』(1972年)の撮影日誌、『天城越え』撮影ドキュメント、そして加藤泰との共同脚本『天城越え』のシナリオを一冊に収めたものだ。
 ここには、〈映画〉への熱い言葉が凝縮されている。加藤泰を「加藤さんは映画の英雄だった」(『加藤泰の映画世界』所収)といったのは、鈴木清順だ。三村もまた、加藤泰と同様に、「映画の英雄だ」と、わたしはいいたくなる。それは、「あとがき」を引いてみれば分かる。

「映画は死んだ。
 二十世紀でその使命を終えたのか。
 しかし、腹の底に、その炎はまだ確実にく
 すぶり続けている。
 そして、むかし学んだスタイル、姿勢で、
 僕は現在、テレビを撮っている。
 愛する映画に感謝を込めて―。」

 この痛切で、〈映画〉へ熱愛あふれる言葉は、あの少年(伊藤洋一)と娼婦(田中裕子)のみずみずしい情愛を描ききった『天城越え』の監督ならではのものだ。上映時間、一時間四十分ほどのこの映画は、少年をめぐる事件の表層を時間性をカットバックさせながら、開巻四十分過ぎに「私はハナ」、「咲いた咲いたのハナ」といいながら田中裕子演ずる娼婦ハナがようやく登場するシーンで、わたしたちは、鮮烈な印象を与えられることになる。雨が振り続けるなか、警察署から移送される田中裕子の表情、顔のアップ、スローモーションの美しさに、わたしは、震えるような感動を受けたことを、いまでも鮮明に覚えている。本書の表紙カバーは、その場面のスチール写真が見事にデザイン化されている。田中裕子はこの作品でモントリオール国際映画祭、毎日映画コンクール、ブルーリボン賞、キネマ旬報賞の各主演女優賞を総なめし、作品は、「映画芸術」誌、「キネマ旬報」誌の83年度ベスト・テンに見事、ランクインしている。

「ゆれて闇から見ている放れ猿の目。
 狐の目。その燐光。
 蜥蜴の目。

 これらのカットを、野村(引用者註=プロデューサーでもある野村芳太郎)意見に従い外し、通して観ると、流れがあまりにスムーズ過ぎて、何とも気のいかぬ空虚感を覚えた。〈映画は理屈ではない。つまるところ、監督の感性である〉と主張して、残すことにした。『天城越え』が、僕の最初で最後の作品になろうとも、後悔だけは残さぬために。」(33P)

 〈映画は理屈ではない。つまるところ、監督の感性である〉という三村の強い思いは、間違いなく映画『天城越え』に開花した。
 だがしかし、この文章は、『天城越え』撮影時から九年後のものだが、その間、三村は、加藤泰、音楽監督菅野光亮、照明技師宮原敬、撮影チーフ鈴木則男を亡くしている(さらに付言すれば、三村とともに松竹加藤作品を支えた丸山恵司カメラマンも亡くなっている)。

「あれから九年が経った。
 僕を取り巻く映画状況はすっかり変わった。大手の映画会社が自主制作を激減し、現在、映画を創っているのは、プロダクションとは名ばかりの、小金を持った街の資本家たちである。創り手たちも、プロフェッショナルが軽視され、アマチュアの跋扈である。日本映画にとって、最悪の季節というしかない。
 僕は、『天城越え』の後、映画を三本、テレビを四本監督したが、松竹で撮ったのは、その中の映画二本だけで、平成元年七月に、二十八年間お世話になった松竹を離れ、フリーになった。」(34P)

 そして、さらに十年以上経過している現在、わが国の映画状況は一見、華やかなようだが、それは違う。松竹大船撮影所の閉鎖、築地の松竹本社は何を目的にしているか分らない高層ビルになり、寅さん映画が終了した後、ヒットしたからといって、今度は山田・藤沢時代劇映画を延々創ろうとしている。そう、だから空虚としての日本映画(松竹映画)の現在なのだといっていいかもしれない。
 だからこそ、本書の熱い言葉たちがせめてその空虚さに風穴を開けて欲しいと思うし、開けるはずだと確信もしている。映画はいつでも豊穣な物語をもちうる器なのだから。

(『図書新聞』04.12.11号)

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2006年6月 7日 (水)

神津 陽 著『新選組 多摩党の虚実―土方歳三・日野宿・佐藤彦五郎』(彩流社刊・04.9.10)

 神津陽の新著だ。神津が長らく日野市に在住していたのを本書ではじめて知った。神津にとって、〈新選組〉は、近接したモチーフだったということになる。ところで、わたし(たち)にとって、神津陽という名は、三十数年前、第二次共産主義者同盟叛旗派のイデオローグとして知られている。叛旗派の前身は、共産主義者同盟・三多摩地区委員会であった。いまにして思えば、「多摩」という照合がすでにあったことになる。
 わたしが、〈新選組〉に関して強い関心をもったのは、子母沢寛や司馬遼太郎の作品からではない。ただ一点、加藤泰監督作品・映画『幕末残酷物語』(1964年)の衝撃的イメージからだけのものだ。この映画は、個と共同性の問題を皮相な政治的文脈からではない、女と男の凝縮した関係性を視線に入れた強度の関係性の物語を構築したものであった。さらに、組織とはなにか、革命(政治運動)とはなにかといった〈新選組〉内部の位相を見事に活写したともいえる。そして、わたしはその後、不思議な感慨を持つに至る。そう、幕末から近代国家へ移行しようとした天皇制政権の負の残滓として〈新選組〉をみるようになったのだ。そこでは、ある種の思い入れを抑えることができなくなる。さて、わたしの感慨はそうだとして、かつて〈関係のかくめい〉を主張した神津陽が、〈新選組〉をどう捉えるのか、実は、強い関心をもって本書を読んだ。
 わたしの気負った視線を外すかのように、神津の筆致は淡々と〈新選組〉の出自と暗部に分け入っていく。一見、郷土史的スタイルを採りながらも、そこには、なるほど神津陽ならではと思わせる論及が散見される。例えば、こんな箇所だ。
 「新選組についてまとめるに当り、新選組ブームに仮託された今の庶民の為政者への怨念や圧殺された抵抗者へ同調する心の振幅をこそ掘り下げたい。つまり私は為政者には目障りな、現在の政治的無関心や非政治的構えの全容を正面から扱いたいのである。(略)ここで問題とする新選組への根本的な〈謎〉は、大多数の新選組ファンに無視されても、右の特攻隊と同様に組合運動や全共闘などに遭遇し関わらざるを得なかった経験を持つ、行動的批判者の心情には届くかも知れない。なぜ多摩では百姓の剣術修行が容認されたのか、なぜ新選組は連合赤軍のリンチを思わせる内部粛清を重ね暴力集団として純化したのか、なぜ農家の穀潰し連中が盛名のある浪人連中に対して指導権を握れたのか、なぜ敗北必至の戦闘への転戦を選んだのか等の考察は、未だに不明確な各自の抱える歴史の闇を解く糸口となるかも知れないからだ。」(50~51P)
 さらに「新選組の戦闘性」に関しては、「日本的組織集団体質の延長が日本軍隊の強さと弱さ・我慢強さと残虐性にも継承されて」、「全共闘の開明性や開放感も、その裏面では党派的独善や凄惨な内ゲバを許容していた」(158P)位相へと通じていくと捉える。そして、神津新選組論の骨子は、その出自を掘り起こすことによって、日本的共同性の原質を取り出そうというものだ。だから、「多摩」であり、「日野」なのだ。
 〈新選組〉の中枢部が、多摩出身者で形成され、それが、「『郷党』的結束の深さ」(116P)で組織されていることから、神津は、「新選組多摩党」と称している。その結束点は、日野宿の名主であり幕末期には本家上佐藤家に代わって本陣となった下佐藤家当主、佐藤彦五郎にあるとみる。彦五郎は、土方歳三の義兄であった。彦五郎は宿場の治安や自衛の目的で、牛込の天然理心流試衛館道場に通い近藤勇を知る。後に自宅に佐藤道場を開き、土方はじめ新選組の母体となる面々が剣術に励んだという。神津は、近藤、土方が主導する新選組をその後、様々に支援する佐藤彦五郎が、本家に代わって台頭した経緯こそ、〈新選組〉の共同性の原質に根拠を与えるものだと推断していくのだ。
 それは、嘉永二年(一八四九年)に発生した日野宿内紛(火災と殺人)に契機があったとする。事件は、長年の上佐藤家と下佐藤家との怨念的対立によるものだった。分家であった下佐藤家の理不尽な台頭に上佐藤家の前当主が憤り、彦五郎の祖母を刺殺するというものだ。事件後は、彦五郎と代官所との親密さもあって、下家は宿の全権を握っていく。この彦五郎の巧みな戦略、政治性は、土方にそして〈新選組〉自体へも影響を与えたはずだというのが、神津の論点の着地点だ。
 「この事件は確かに彦五郎に自衛の必要性を自覚させ、剣術修行へ歩ませた。だがこのことから彦五郎はもっと重要な、刃物を動かす人間の心理や意地や怨念や大義をこそ学んだのだ。彦五郎の経験は義弟の土方歳三に直伝され、政治の大道も政治の裏面の知識や知恵や技術の集積を含めて、『新選組史』に確実に影響を与えていると断言出来る。」(169P)
 そして、嘉永二年事件以後という時空は、内紛の暗部の位相において「より深く新選組に連動して」いき、「新選組の源泉は日野宿にある」というテーゼを神津は、導いていくのだ。
 NHKTVの大河ドラマに乗じて、〈新選組〉観光ブームを招来しようと目論む日野市の観光当局は、本書のような“暗部としての源泉”を提示する研究書は、忌避したいかもしれないが、少しでも、〈新選組〉に関心をもっているものにとって、斬新で衝撃的なものとして受けとめることができるはずだ。

(『図書新聞』05.2.12号)

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2006年6月 6日 (火)

蓮見博昭 著『9・11以後のアメリカ 政治と宗教』(梨の木舎刊・04.10.20)

 予想通りだったのか、期待はずれだったのか、アメリカ大統領選はブッシュが再選された。選挙結果の分析で、早速、ブッシュを支持した保守的なキリスト教団体の存在に焦点をあてた報道があった。中東のイスラム教各派の差異が、わたしたちには理解し得ないのと同様に、アメリカのというよりは、キリスト教自体、様々な宗派があることは知っていても、そのことの違いを指摘できることは、なかなかできないといっていいだろう。そして、その宗教が、実際、現実の政治をアクチュアルなものにしているから、さらに認識の困難さを招来しているともいえる。
 2001年9・11テロ以降、とりわけ宗教と政治の問題は、ますます切り離しては考えられなくなったといっていい。それともうひとつ、ここ数年来、言われ続けているグローバリズムの問題だ。それにリンクするかたちで語られている、ネグリ/ハートの『帝国』が提起した、まさしく〈帝国〉という視点からの問題は、あきらかに揺れ動く世界情勢の中心にアメリカをおいて、その核心を解析していこうとするものだ。
 「(略)アメリカは新しい帝国だと呼ばれるようになった。私たちの若いころには、いわゆる左翼的な若者などが、アメリカ帝国主義、『米帝』と批判していた。その当時の帝国主義というのは、レーニンの『帝国主義論』という社会主義的、共産主義的言い方で、(略)使っていたわけだ。一番異なっているのは、アメリカの当局者たち自ら、アメリカは帝国になるのだとか、帝国にならねばならないと言い出している点だろう。」(本書166P)
 本書の著者は、さらに、七〇年代にいわれ出した「覇権安定(理)論」を付加するものとして、「世界を超大国アメリカが支配するシステム、体制ができれば世界は安定するという」、「新覇権安定論」が登場し、また、「ネオコンの人たちを中心にブッシュ政権が『新帝国主義的大戦略 Neoimperial grand strategy』を構築し、実行に移していこうとしてきた」と述べている(167~169P)。
 もちろん、このことは多くの識者たちも指摘したことだし、ほとんど定説化していることかもしれないが、本書の著者は、それをただ政治的言語や文脈だけで言い切ろうとしているのではない。現在のアメリカが表出している〈新覇権主義〉や〈新帝国主義〉への傾斜は、ながく潜在しつづけてきたアメリカにおける宗教と文化の停滞と疲弊からくる綻びの象徴だと捉えていることだ(さらに付言すれば、キリスト教独特の、善悪二元論や選民思想がその根拠となることを著者は指摘する)。
 アメリカは依然、キリスト教国家ではあるが、ほんらいのキリスト教を逸脱したかたちでキリスト教国家としてあろうとしていると分析し(「1『キリスト教国』でなくなるアメリカ」や「2アメリカの戦争と平和とキリスト教」での論述)、いわば、ゆがんだかたちで露出するアメリカ国家像を本書では描出している。これは、大変、新鮮で刺激的でもあった。そして、「5デモクラシーの背後で働くもの」や「7『教師』&『反面教師』としてのアメリカ地方自治」での論述は、洲単位独自の地方自治は、いかにもアメリカデモクラシーの所以であるかのようにいわれているが、これとても、「小さな政府」と「大きな政府」という政治統治システムのゆがみであり、陥穽でもあるという指摘だ。
 「現在の対テロ戦争というものは、一見アメリカの国民統合・団結を演出している、いかにも今アメリカ人が団結し共生しているかのように思われるかも知れないが、それは、多文化共生が行き詰まっているのを隠している、見せないようにしているに他ならない。アメリカ人は、戦争になると団結するが、平和になるとバラバラになる傾向がある。」(86P)
 マイケル・ムーアの映画でも執拗に取り上げられていたが、9・11テロ以後、ブッシュ政権はテロリスト対策として「愛国者法(パトリオット法)」なるものを施行した。極めて人権(アメリカ的いえば公民権)を侵害してしまうだろう悪法をアメリカ国民は受け入れたのだ。
 そして、著者は、「問題なのは、このように急速に市民的自由ないし基本的人権が侵されていくのに、アメリカの心ある人々はどうしているのか、どうして黙っているのか、ということである」(98P)と述べ、センチュリー財団理事長リチャード・レオンの著作からの
言葉として、アメリカは「沈黙の共和国」になってしまったと紹介している。なるほど、この「沈黙の共和国」が「あらたな帝国」としてあろうとする時、わたしたちにとって、はなはだ脅威として二一世紀の“怪物”は君臨していくことになるのだろうか。
 著者は、明確に断言する。この間のイラク戦争の強行に対して反米的拡がりがはっきりしたし、覇権国家としては衰退しつつあると。また、「アメリカの政治経済システム全般」が「制度疲労」をおこしており、「『二一世紀もアメリカの世紀になる』とは、お世辞にも言えない」(178~182P)と言い切っている。
 著者の本書での刮目すべき論述を糧に、わたしは、いま一度、〈帝国アメリカ〉を透視したくなった。

(『図書新聞』05.3.19号)

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2006年6月 1日 (木)

吉本隆明・芹沢俊介他 共著『還りのことば 吉本隆明と親鸞という主題』(雲母書房刊・06.5.1)

 吉本隆明の『最後の親鸞』(1976年)は、吉本の代表作のひとつであるばかりでなく、戦後のわが国における尖鋭なる思想的所在を指し示す最重要な著作といっていい。宗教論という枠組みを超えて、『共同幻想論』以降の喚起するモチーフ、〈国家〉、〈宗教〉、〈法〉という人間の観念が発生せしめた制度・システムと存在することの方位(生と死の環界)をめぐって真っ芯に考究した仕事だった。
 それから、三十年。吉本と親鸞の通交の場所をいま一度、再検証し、この閉塞した現在を撃つ手立てを模索する試みとして本書は提示される。
 前半部は、吉本を囲んでの鼎談二篇(「還相の視座から」、「〈空隙〉より出る言葉」)。後半部は、芹沢俊介「吉本隆明『存在倫理』をめぐって」、今津芳文「『正定聚』をめぐる断章~主に吉本隆明の親鸞論から」、菅瀬融爾「已然形の親鸞」の三論稿で構成される本書の眼目はなんといっても、オウム以後・九・一一テロ以後における現在という場所をどう措定するかということだ。
 「宗教というのはかたちが変わる部分と、かたちは変わらないけど段階が変わる部分とがある(略)、宗教のある部分を法律的なものが代表するようになってくる(略)、法律のある部分は民族国家や国民国家が代表するようになります。」(39P)
 「社会倫理でも、個人倫理でも、国家的な倫理でも、民族的な倫理でもなく、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだという、全く別な倫理がある。つまりそこに〈いる〉ということ自体が〈いる〉ということに対して倫理性を喚起していく。この存在の倫理を設定してみると、テロの巻き添えを食って死んだ人と、乗客をおろさなかったこととは、同じに見えてもまったく違うことなんですね。」(54P)
 二〇〇一年、アメリカの同時多発テロにおいてニューヨークの二棟の世界貿易センタービルにそれぞれハイジャックされた旅客機がもろとも激突していった事件は、依然、多くの傷痕を残しながら、その後のアメリカの覇権戦争というグローバリズムに拍車をかけていった。当時、事件直後、吉本は、激突されて亡くなったビルの人びとと、ハイジャックされたまま亡くなった乗客とは、その死に関して位相が違うといったことを述べ、〈存在倫理〉という概念を提示した。かつて吉本は、オウムが生起した事件をめぐって、地下鉄サリン事件は否定・指弾はできても、麻原の教義理念はある程度、評価せざるをえないと発言して、多くの誹謗中傷にさらされた(本書の共著者、芹沢もそうだった)。そしてまた、九・一一テロをめぐっての、〈存在倫理〉発言は、多くの誤解と非難の情況をかたちづくっていったことは、記憶に新しい。なぜ、そのような誤解と錯誤の情況を生起してしまうのか。どのようなテロ行為によって惹き起こされようが、死はすべて同じもので認めることができないということは、一見、普遍原理のような命の等価という倫理性を満たしているようにみえる。しかし、よく考えてみるならば、エキセントリックで、しかも欺瞞に満ちた正義の戦争を宣言するブッシュ発言と同じ水位に敷衍できることに気づくべきなのだ。そこには、普遍原理、普遍倫理という纏いを抱きながらも実は、存在の深度を含まない、政治的・宗教的言説にうらうちされた傲慢な視線が内在しているのだ。
「(略)人間力というのは根本的に何なのか。一言でいうと、自己についての自覚ということになります。
 つまり思考することと実行することの間にはあるひとつの空隙、分離があって、そこの分離のなかに人間だけが言葉を見出したりするわけです。(略)この分離が非常に重要なことで、その場合にはかんがえる自己であるところの〈自己としての自己〉と何かを行うところの自己である〈社会的自己〉との分離ということになります。」(90P)
 吉本が、〈存在倫理〉から〈人間力〉としての〈自己〉の存在根拠へと思考の深度を深めていったのは、ビルに突入してビル内の人びとの多くに死者が出たことは仕方がないが、乗客を乗せたまま激突したのは容認できないといった転倒した考えを披瀝しようとしたいからではない。
 ブッシュがテロ後すぐさまテロ犯を特定できた(したかったというべきか)のは、宗教国家のひとつの最終形態である国民国家(もっと率直に帝国と擬定してもよい)・アメリカと、もうひとつの最終形態である民族国家・中東国家群との国家間戦争(もちろんキリスト教対イスラム教という宗教戦争でもある)が、とうに発生していたことを容認したものなのだ。だから、テロ以前、以後にかかわらず、既に戦争下にあったと見做すべきだといってもいい。とすれば、「戦争では非戦闘員が死ぬこともあり得る」(53P)という位相において、ビル内の死者は戦争下における非戦闘員と見做せるが、乗客たちはそうではない、非戦闘員ではないのだから、降ろした後に突入すべきだったという根拠を、吉本は、〈存在倫理〉から〈人間力〉としての〈自己〉へという思考を深化させて提起しようとしているのだ。テロ犯における思考と行動のなかに分離・空隙を埋めるものがないことを析出する吉本は、そのまま、現在、わたしたちが難破してしまった場所へと見通していく。
 「存在あるいは存在根拠というのが(略)問われた場合には、(略)他者との関係とか時代との関係といったあらゆる関係がぜんぶどこかに集約されて、集約されていながらその区別はきちっとついているという状態が、ぼくらが現在望み得る人間力としての最後の課題なんだとおもいます。」(98P)
 いま、切実に存在の深度を見定め、捉え返すことの必然を、吉本の新著から突きつけられたとわたしは思っている。

(『図書新聞』06.6.10号)

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