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2006年6月17日 (土)

ベナサジャグ/ストゥルヴァルク 著・松本潤一郎 訳   『反権力―潜勢力から創造的抵抗へ』(ぱる出版刊・05.4.1)

 この本に関わって、わたしはいくつかの鮮烈な感受を抱くことになった。それは、アクティビティが生起する初源的な〈力〉の可能性ということであり、また、アクティヴであり続けるということは、運動(あるいは思念)の拡張と連携を必ず呼び起こすものだということであった。
 〈反権力〉といういってみれば、刺激的な表題からイメージされるものは、わたしたちの文脈から類推する表層的な権力論と、いくらか違う位相をもっている。それは、著者たちが想起している基底に、〈抵抗としての反権力〉というムーブメントが絶えず内在しているからだ。著者たちが本書を著わすことになった契機をみれば、了解できることでもある。それは、こういうことだ。
 メキシコ政府がアメリカとの経済統合をおしすすめていくなかで締結した「北米自由貿易協定(NAFTE)」がまさに発効されようとする一九九四年一月一日に、メキシコ東南部チアパス州で「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」が大規模な武装叛乱を起こして、チアパス州の多くの村を自主管理していったのだ。メキシコの人口の25パーセントを占めるといわれている先住民族は、長いあいだ底辺的生活を強いられてきた。サパティスタ革命軍は、彼らの権利を快復するために決起したのだ。そして、当時、彼らの抵抗運動はソ連邦崩壊以後、はじめて顕現した旧来の伝統的な反体制革命運動・反資本主義闘争を揚棄したものとして、世界規模で衝撃的に受けとめられ、多くの識者たちに支持されたものだった。
 「ここ数年、また世界の未だ少しではあるがあちこちで、われわれは『踏み越え不可能な地平』としてのネオリベラリズムを峻拒する広大な運動の、多様な形態の下での出現を目撃している。
 われわれにとってのこうした反攻の出現の象徴でありメモリアル的でもある日付は、サパティスタ革命軍がチアパスのメキシコ領土内にあるラス・カサスの都市サン・クリストバルを占拠した、一九九四年一月一日に定められる。これを契機として、またこの運動から出発して、オルタナティヴな言説と実践が注視されることになったのである。」(17P)
 本書の著者たちもいうように、サパティスタ革命軍による「オルタナティヴな言説と実践」は、はじめての反グローバリズムを標榜した運動として認知され、また、「山中の拠点から、VHFトランシーバーを使ったパケット通信のインターネットを通じ、世界中の支持者に電子メールで情報交換し」(田中宇「メキシコを動かした先住民の闘い」)広報活動を展開したことでも、これまでにない形態の抵抗運動であった。さらに、チェ・ゲバラの再来といわれた副司令官マルコスがとった方法は典型的な左翼ゲリラ戦術でもあった。
 本書の共著者ストゥルヴァルクはゲバラの研究者でもあり、本書の中で、第十章「反権力」に「『チェ』のゲリラ」という項目もある。
 さて、著者たちが指向してやまない反攻へのための起点は、オルタナティヴな場所でありながら、論述の方位は、フーコーであり、ドゥルーズであり、当然、ネグリへの親近性などがみてとることができる。そして、基層にはスピノザがあるのだ。だが、彼らの思考は揺るぎない視線から発せられている。
 「支配されることによる『悲しみ』を踏み越えてゆく諸々の方途を探求しかつ見出すような多数の人々のためのアソシエーションを目指すことである。われわれはこの書物を書く。それは『行動の管理』とみなされた理論としてではなく、『創造としての抵抗』に貢献する補助的な一理論としてである。」(15P)
 ネグリ/ハートの『帝国』で提起されたマルティチュード(多数多様性)の継承がここでもなされていく、ただし、アルゼンチン生れのふたりの著者たち(ベナサジャグは当時の独裁政権によって七〇年代末まで投獄され、その後、パリに在住している)が、想起する地平は、あくまでもローカルポジションやマイノリティからの発信である。そしてなによりもアクティビティと思われるのは、自著を「『創造としての抵抗』に貢献する補助的な一理論」と規定するところだ。高みからの原理論をふりかざすのではなく、「抵抗の所在」を模索していくものとして、本書を位置づけているところに彼らの本領があるといっていい。それは、ドゥルーズを援用しながら、展開していく「反権力のリゾーム」といった独特な基軸にもいえることである。
 「われわれが『反権力』と呼ぶものは『権力に対する』運動ではなく、むしろ権力の論理の『彼方』にある。反権力とは、われわれが手にしている潜勢する力能が、われわれが生存し、順応している唯一の場から各々の状況において、変化への必要諸条件を創造するということだ。」(14P)
 「無数の連帯と集団がここかしこで開花し、真のネットワークを、権力への問いを脱中心化し、とはいえそれを否定するのではないような新たな転覆的主体性のただ中において『反権力のリゾーム』を展開させる。」(18P)
 「権力はその中央権力的バージョンにおいては常に空虚な場であり、その諸力とはただ、基盤にある潜勢力によって構造化された『ミクロの権力』の夥しい諸関係がこの空虚な場にもたらすことのできる諸力であるにすぎない。」(85~86P)
 これらの、鋭角的な論述にみられる視線は、〈権力〉に孕まれている多様な諸力を削ぎ落とすことであり、運動論的には、主導していく側が抱えこむことになる革命的権力をも脱化することでもあるのだ。
 九〇年代、敗走していったとみなされた革命戦略としてのロシア・マルクス主義を通して、すべての反資本主義闘争の無効化が喧伝されている現在、ベナサジャグたちの著書は、鋭利にこの情況を切開していくものだといっていい。
 ところで、わたしと松本勲は、共同執筆で「編集者のあとがき」というものを本書に付している。
 「本書の基本的テーマは二つのことに絞られる。ひとつは古典的革命戦略を離れ、かつそれを脱中心化すること。もうひとつは、状況そのものが文字通り〈要請〉する様々な課題をどのように見、そしてどのように問うかといった、いわば新たなる実践的視座を獲得することである。(略)むしろ注目しなければならないのは、この書が完結した分析や『表象的』理念によって構成されているのではなく、実践的な要請にもとづいた『問い』と『鍵』の提出を通奏低音としていることである。(略)権力奪取の放棄、モデルなき闘い、革命的前衛の拒否、グローバリズムに対するローカリズムへの執着、そして反権力の『政治』。切子細工を容器の内側から眺めるようなそうした煌きがこの書には確かにある。」(215~216P)
 もちろん、これ以上のことを本書に対して付言するつもりはない。

(『図書新聞』05.5.28号)

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