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2006年6月11日 (日)

うらたじゅん、山田勇男他 著 『幻燈 6』(北冬書房刊・05.11.5)

 つげ義春・つげ忠男以後の劇画・漫画表現を追及し、多くの秀逸な作品群を掲載し続けてきた『幻燈』の第6集が一年半ぶりに刊行された。うらたじゅん、菅野修、西野空男らがそれぞれ二作品を、『夜行』の常連、斎藤種魚が『幻燈』誌上初作品(第1集の装幀を担当しているが)、「アヌス・スプリングの虹」を発表し、また、映画『蒸発旅日記』の監督・山田勇男の漫画作品と劇評そして天野天街との対談など、読み応えのある作品・論稿が数多く収載されている。
 作品として真っ先に取り上げたいのは、河内遥の「ねむりじたく」だ。前作「乙女チャンラ」で『幻燈』初登場以来、注目されるこの作家は、大手少女漫画誌での本格デビューも近いようだ。独特の呼吸感漂うこの作品は、浮遊する現在をうまく投影させている。少女漫画への指向も持っている河内だが、確かに圧倒的な技量性がある。だが、それに寄りかからず、むしろ大胆に自らの世界を描出していくべきかと思うが、どうだろう。初登場の木下竜一は、「神隠し」、「旧友」の二作品とも四頁の短いものだ。線描のタッチと独特な構図が醸し出すものは、一枚一枚の絵画作品を積み重ねたような構成をとっている。次作はどういうものを見せてくれるのか、期待したい。「アヌス・スプリングの虹」は、斎藤種魚の詩的世界を久しぶりに見せてくれている。この作家は、『幻燈』のような場所がふさわしいと、あらためて思った。
 劇画・漫画作品以外では、宮岡蓮二の評論「英霊異論―うらたじゅん『鈴懸の径』は『靖国』を撃つか」は力論である。力論であることを認めつつも、しかし、わたしにはどうしても釈然としないものが、読後、残ったといってよい。十五年戦争下の戦死者を「英霊」として祀る靖国神社の問題は、国家と天皇制の切開を迫っていくものだ。そのことにもちろん、異存はない。かつて加藤典洋の『敗戦後論』が提起したのは戦争責任と戦後責任のある意味、切断であり、責任という概念を拡張することにあったとわたしは見ている。つまり、「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か」というものであった。そのこと自体、必ずしも錯誤的な論述だったとわたしは思わない。戦争責任・戦後責任の問い掛けの多くは、加害者として、アジア二千万の死者への哀悼を先行すべきだというものだ。宮岡の論旨もその中にはいる。ならば、加害者とは誰かという問題、あるいは戦時下における被害者はアジアや南方地域の人たちだけなのかということが、厳密な意味でほんとうはせり上がってくるはずだ。わたしなら、〈死者〉とは誰か、〈死者〉とはなにかということを、すべての国家(間)による戦争を考える時に、まず、想起する問題だ。宮岡は、うらたじゅんの「鈴懸の径」(『幻燈 3』収載)に、「『加害者』という認識が欠けている」と批判する。それは、十五年戦争下における父の世代の青春期を描出したこの作品に対して、「加害者」の視線を具体的に描出しなければ、作品として高い質を持つことができないと論述しているのに等しい。たぶん、宮岡はうらたとの近接した通交のなかで感じた「あやうさ」(本論でそういういいかたをしているが、実は、この「あやうさ」を宮岡は具体的に述べていない)から、そのような思いを抱いたのかもしれない。しかし、それは作品論として逸脱しているとわたしは考える。宮岡が、現在の情況に苛立ち、憤激していることは分かる。だが、そのような思想情況とうらたじゅんの「鈴懸の径」の作品を対峙させて語るのは、かなり強引な手法であるといいたくなる。そもそも、宮岡は、この作品のモチーフになっている灰田勝彦の「鈴懸の径」という歌に対しても疑念を持っているようだ。たぶん、軍歌はすべて否定すべきものという思いもあるはずだ。そこが、わたしとの差異になっている。わたし自身もこの作品に、少なからず疑念がないわけではない。だが、わたしなら加害者の視線のなさということを、この作品に対しては導入しない。このことは、機会があれば、別の場所で述べるつもりだ(ひとことだけいえば、時間軸の移動が作品構成上うまくいっていないということがある)。ところで、この宮岡のうらた批判に呼応するかのような作品が、今集の新作「金魚釣りの日」である。父の幼馴染はビルマで戦死したとされるが、もしかしたら生きてジャングルを彷徨っているかもしれないと思われていた。自分のために金魚を釣ろうとして川で溺れた友達の男の子を助けてくれた人が、父の幼馴染に似ていたとイメージしていく終景への展開のさせ方は、うらたがあらたな段階へと達したと感じさせる作品になったと、わたしは思う。うらたは、この新作でも、「鈴懸の径」でも、〈死〉というものを、あらゆる予見(反戦や聖戦という意識性)を排してイノセントに救済させたかったのだと、いっていいかもしれない。

(『図書新聞』06.1.28号)

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