« ベナサジャグ/ストゥルヴァルク 著・松本潤一郎 訳   『反権力―潜勢力から創造的抵抗へ』(ぱる出版刊・05.4.1) | トップページ | 『清水径子全句集』(清水径子全句集刊行会刊・05.2.27) »

2006年6月19日 (月)

暮尾 淳 著『ぼつぼつぼちら』(右文書院刊・05.10.31)

 暮尾淳の新著を前にして、なにから書き始めたらいいだろうかと、逡巡する。だが、どうしても私事にまつわることから書き出してみたくなる。わたしと暮尾との通交は、ここ一年ほどのごく最近のことだ。その間、なにげない会話のなかで、家族のことに及び、暮尾はわたしに、ふたりの姉弟が自死していることをたんたんと(そのように、わたしが感じたにすぎない)、語ってくれた。その後、ベトナム戦争を精力的に活写し続けたカメラマン・岡村昭彦のことを、わたしは、ほとんど忘れかけていたのだが、「岡村昭彦の会」というものがあることを知った。そこに米沢慧、芹沢俊介などともに、暮尾淳の名を見つけ、そのことを訊ねた時、暮尾は、岡村のアシスタントのようにしてベトナムへ行ったことなどを話してくれた。しかし、詩人・暮尾淳とその岡村との接点に、なにか釈然としなかったことを覚えている。
 本書『ぼつぼつほちら』は、構成的にいえば、「詩」三十五篇、「俳句」百八句と、石垣りん、伊藤信吉、そしてその岡村昭彦への「追悼的エッセイ」の三篇からなっている。ほんとうは、「石垣りんについての諸家の書いた文章のなかでも屈指のもの」だと編者の堀切直人がいい切る「石垣りんさん」という文章から真っ先に触れるべきであろうが、わたしはどうしても、「走れメロス」と題した岡村への追悼文へ視線がいってしまうのだ。そして、それを読んで、暮尾と岡村とのもっと深い関係性を知ることになる。
 「今となっては何かに生かされてきたとでもいうしかない過ぎた日々のために、摩滅しかけている記憶の襞々を、懸命に手繰り寄せなければならない。」と述べながら、「死んだ人たち」のことを、「そっとしたままで、裏町の酒場でひっそり酒を飲んでは偲んでいたいというわたしの気持に迷いが生じたのは、いつの間にか老年の坂に差しかかり、若くして自ら命を絶った姉の純子や弟の聡それに現在の自分より九歳も若かったアキヒコの病死にまつわることどもが、重荷のように感じられ始めたからであろう。」といい、アキヒコと姉の純子との関係に触れていく。姉の死の時、暮尾は中学一年生だった。
 「生前最後となった純子が家を出て行くときの姿をを見たのは、家族のうちではわたしだけであるが、それが生涯にわたってわたしの人生に消えない影を落と」しつづけていったと述べる。暮尾のアドレッセンスに、後年の詩人・暮尾淳の作品世界を読み解く必然があるなどと、ここで訳知り顔にいいたいのではない。「死んだ人たち」のことを、「裏町の酒場でひっそり酒を飲んでは偲んでいたい」というように、たぶん、暮尾は、これまで詩もかいてきたはずだと思うからだ。わたしの関心が向いていく先は、そういうことが、「重荷のように感じられ」たり、通交のまだ浅いわたしにでも、たんたんとそのことを語ってくれるようになった暮尾淳の〈現在〉ということなのだ。
 「いまはおれの言いなりで/どこにでも気さくに付いてくる/死んだ弟と/トタン屋根の上で/巴旦杏を食いながら/星空をながめていたら/生あたたかい風が/さわさわと夜を渡り/星が流れ/ヘール・ボップ彗星がという/アナウンスが聞こえ/おれはあわてて眼をこすり/B747機の窓から/青白い渦巻模様が/冥い宙に浮かんでいるのを/ぼんやり見たが……」(「ヘール・ボップ彗星」)
 かつて、秋山清は暮尾の詩集の跋文で「暮尾淳は詩がうまい。(略)おまえさんは誰のために詩をかくのか」と厳しく問いかけながら、「詩とは自分を欺かぬこと、だから自分のためにだけ在るもの」と記している。むろん、秋山は、暮尾が誰よりもそのことを理解している詩人であることを承知のうえで、述べているのだが、この詩篇は、わたしに秋山のそのような言を思い出させずにはいられない。「死んだ弟」と「巴旦杏」を食べながら「星空をながめ」るという心象から、「彗星」を機内から見るという現実へ重ねながらも、実はそのことが、もうひとつの心象であることを示している。「死んだ弟」を「おれの言いなりで/どこにでも気さくに付いてくる」とすることで、暮尾の心奥の「重荷」を解き放ち、イノセントなアドレッセンスをイメージさせる「巴旦杏」という詩語と「ヘール・ボップ彗星」という詩語の対称が、沈潜していく抒情を逸脱させ、付着し続けた「消えない影」を昇華させていくのだ。芹沢俊介は、かつて「戦後詩の帰路」という命題をたてた『戦後詩人論』を著したことがある。いま、わたしは、いくらかその命題を援用して、この詩篇のなかに、さらに入り込んでいきたくなる。「死者たち」を、「酒場でひっそり酒を飲んでは偲」ぶということは、「生者」にとっては「往路」にあたる。つまり、関係性や世界との関わりを意識的にせよ、無意識的にせよ、抱えこんでしまうことを「往路」であると、わたしは捉える。そして、関係性や世界性との対自から、自分というものを解いていく方位を「帰路」といいたいのだ。いわば、そこにいたって、初めて「自分を欺か」ず、「自分のためにだけ在る」といった地平に降り立つことができるのではないのかと思う(誤解のないように、付言すれば、「往路」や「帰路」は時間性を意味しているのではない)。だから、わたしは、暮尾詩の〈現在〉を、「帰路の詩」の場所であるといってみたくなる。
 「自裁とはおまえのことだよ冬の虹」
 「はや落葉貧乏ゆすりふと止みぬ」
 もちろん、暮尾にとって俳句も「帰路の短詩」ということになるはずだ。
 そして、こういいたい。書名にとられている「ぼつぼつぼちら」といういいまわしを、わたしは、けっして軽妙には感じない。明確でつよい主意の表明が、そこにはあると。

(『図書新聞』05.11.26号)

|

« ベナサジャグ/ストゥルヴァルク 著・松本潤一郎 訳   『反権力―潜勢力から創造的抵抗へ』(ぱる出版刊・05.4.1) | トップページ | 『清水径子全句集』(清水径子全句集刊行会刊・05.2.27) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ベナサジャグ/ストゥルヴァルク 著・松本潤一郎 訳   『反権力―潜勢力から創造的抵抗へ』(ぱる出版刊・05.4.1) | トップページ | 『清水径子全句集』(清水径子全句集刊行会刊・05.2.27) »