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2006年6月 8日 (木)

三村晴彦 著『「天城越え」と加藤泰』(北冬書房刊・04.10.21)

 映画『天城越え』(1983年)は、わたしにとって思いで深い作品である。本書の著者・三村晴彦の第一回監督作品でもあるこの映画作品の始まりのかたちから終わりのかたちまでを、わたしは、リアルタイムで遠望していたからだ。
 数々の名作を東映で発表し続けていた加藤泰は、1966年にはじめて外部(松竹)で撮り始める。三村は、『男の顔は履歴書』(後に撮影された『阿片台地・地獄部隊突撃せよ』が、先に上映されている)から、『江戸川乱歩の陰獣』(1977年)までの加藤泰の松竹作品すべてに助監督で参加している。なかでも、加藤泰のまぎれもない傑作であり、代表作の『みな殺しの霊歌』(1968年)では、単独脚本家としてクレジットされている。
 三村と加藤泰の関係は、通常の映画界での師弟関係と幾分、様相を異にしている。確かに、ことあるごとに三村は加藤を師として仰いでいることを明言している。それは、本書に収められている文章群によっても明らかだ。だが、本当は、加藤が外(東映以外の場所)で自らの作家意志を貫くためにどうしても、三村の助力が必要としていたから、時として強引に伴走を求めていた関係だったといってもいい。もちろん、脚本参加を求めるほど、加藤は三村を信頼していたからこそ成立した関係だったともいえる。
 加藤は、いろんな意味で妥協しない映画作家だった。だから当然、現場でも様々な軋轢を生んできたといっていい(本書でも記述されている、『人生劇場』での森繁久弥とのトラブルなど、大物俳優との軋轢は加藤の場合、多々ある)。名匠と呼ばれる映画監督であっても、結局は、孤立した存在なのだ。加藤泰の松竹での傑作群は、三村晴彦の助力なくしてはありえなかったはずだと、加藤が亡くなって十九年、わたしはいま思っている。
 本書は、映画『天城越え』の企画の始まりから完成までを記した文章と加藤泰との通交を語る文章からなる、書名と同じ表題の長編エッセイを巻頭に配置し、以下加藤泰作品『人生劇場青春・愛慾・残侠篇』(1972年)の撮影日誌、『天城越え』撮影ドキュメント、そして加藤泰との共同脚本『天城越え』のシナリオを一冊に収めたものだ。
 ここには、〈映画〉への熱い言葉が凝縮されている。加藤泰を「加藤さんは映画の英雄だった」(『加藤泰の映画世界』所収)といったのは、鈴木清順だ。三村もまた、加藤泰と同様に、「映画の英雄だ」と、わたしはいいたくなる。それは、「あとがき」を引いてみれば分かる。

「映画は死んだ。
 二十世紀でその使命を終えたのか。
 しかし、腹の底に、その炎はまだ確実にく
 すぶり続けている。
 そして、むかし学んだスタイル、姿勢で、
 僕は現在、テレビを撮っている。
 愛する映画に感謝を込めて―。」

 この痛切で、〈映画〉へ熱愛あふれる言葉は、あの少年(伊藤洋一)と娼婦(田中裕子)のみずみずしい情愛を描ききった『天城越え』の監督ならではのものだ。上映時間、一時間四十分ほどのこの映画は、少年をめぐる事件の表層を時間性をカットバックさせながら、開巻四十分過ぎに「私はハナ」、「咲いた咲いたのハナ」といいながら田中裕子演ずる娼婦ハナがようやく登場するシーンで、わたしたちは、鮮烈な印象を与えられることになる。雨が振り続けるなか、警察署から移送される田中裕子の表情、顔のアップ、スローモーションの美しさに、わたしは、震えるような感動を受けたことを、いまでも鮮明に覚えている。本書の表紙カバーは、その場面のスチール写真が見事にデザイン化されている。田中裕子はこの作品でモントリオール国際映画祭、毎日映画コンクール、ブルーリボン賞、キネマ旬報賞の各主演女優賞を総なめし、作品は、「映画芸術」誌、「キネマ旬報」誌の83年度ベスト・テンに見事、ランクインしている。

「ゆれて闇から見ている放れ猿の目。
 狐の目。その燐光。
 蜥蜴の目。

 これらのカットを、野村(引用者註=プロデューサーでもある野村芳太郎)意見に従い外し、通して観ると、流れがあまりにスムーズ過ぎて、何とも気のいかぬ空虚感を覚えた。〈映画は理屈ではない。つまるところ、監督の感性である〉と主張して、残すことにした。『天城越え』が、僕の最初で最後の作品になろうとも、後悔だけは残さぬために。」(33P)

 〈映画は理屈ではない。つまるところ、監督の感性である〉という三村の強い思いは、間違いなく映画『天城越え』に開花した。
 だがしかし、この文章は、『天城越え』撮影時から九年後のものだが、その間、三村は、加藤泰、音楽監督菅野光亮、照明技師宮原敬、撮影チーフ鈴木則男を亡くしている(さらに付言すれば、三村とともに松竹加藤作品を支えた丸山恵司カメラマンも亡くなっている)。

「あれから九年が経った。
 僕を取り巻く映画状況はすっかり変わった。大手の映画会社が自主制作を激減し、現在、映画を創っているのは、プロダクションとは名ばかりの、小金を持った街の資本家たちである。創り手たちも、プロフェッショナルが軽視され、アマチュアの跋扈である。日本映画にとって、最悪の季節というしかない。
 僕は、『天城越え』の後、映画を三本、テレビを四本監督したが、松竹で撮ったのは、その中の映画二本だけで、平成元年七月に、二十八年間お世話になった松竹を離れ、フリーになった。」(34P)

 そして、さらに十年以上経過している現在、わが国の映画状況は一見、華やかなようだが、それは違う。松竹大船撮影所の閉鎖、築地の松竹本社は何を目的にしているか分らない高層ビルになり、寅さん映画が終了した後、ヒットしたからといって、今度は山田・藤沢時代劇映画を延々創ろうとしている。そう、だから空虚としての日本映画(松竹映画)の現在なのだといっていいかもしれない。
 だからこそ、本書の熱い言葉たちがせめてその空虚さに風穴を開けて欲しいと思うし、開けるはずだと確信もしている。映画はいつでも豊穣な物語をもちうる器なのだから。

(『図書新聞』04.12.11号)

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