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2006年5月 9日 (火)

「『千年の愉楽』考・三」

 『義賊』。新一郎は、十七の時に、男親の死を契機に、「誰も手をつけられないような盗人に成長してい」(『ラプラタ綺譚』)た。じぶんを義賊に擬して、別当屋敷や群長の妾の家、鉄道疑獄で捜査されそうなバス会社といった場所に入っては、盗んだものを路地の辻に捨てていた。路地のものたちは、それが盗んだものだと知りながら、しぶんたちものにしていく。だから、誰も新一郎の行状を責め立てるものはいなかった。たまりかねた礼如さんは、何度も意見をすることになるが、聞き入れることもなく、破天荒な所業は続いていく。だが、「川向こうの製紙会社を荒して失敗し」てからは、盗人を止める。そして、しだいに「中本の血の本性を顕わしはじめ」る。新一郎は、旦那に囲われている芸姑の歓心を買うために、草履や下駄の「直し」の仕事につく。茶屋の玄関脇で、鼻緒のすげかえをすることで、芸姑との機縁をつくり、「愉楽」の関係へとすすんでいった。

 『銀の河』。ふたりの噂が花町でたってきたため、かつての所業が知れることを恐れ、新一郎は、行方をくらます。やがて、南米へ渡り、オリュウノオバ宛に絵入り手紙が送られてくる。二年のあいだに届いた六通ほどの手紙は、「銀の河の事が繰り返し出て来」た。新一郎は路地に戻ってきても、すぐには南米のことを語らず、三年経ってようやくオリュウノオバに語る。「ラプラタは銀の河だが、そこもやはり路地と同じように人間の住むところで、羽の生えた天女も臭い女だったしイーグル男もみにくい奇形のアル中にすぎなかった」と。中上が描出していく路地の世界は、場所性を逸脱していく。それは、路地という空間を外部へと連携させたいからにほからない。アルゼンチンとウルグアイの国境間に流れ出るラプラタ川という実際は、「銀の河」という換喩で、わたしたちがもっている路地という空間のイメージに繋がっていく。しかし、中上はこの物語の主人公に水銀を飲ませ自死させるのだ。

 『達男』。わたしたちは、六篇からなる連作短編集『千年の愉楽』を俯瞰して、ようやく最終章へ至る。この「カンナムイの翼」は、オリュウノオバの「死の床」から描き出されていく。だが、全篇に渡ってそうであるように、ここでもまた、時間を往還しながらオリュウノオバの視線から物語は、紡ぎ出されていくのだ。「通夜の今日は、到るところに散った路地の出の者だけでなく、誰もが、どんな時代に生きた者も集まる」という共同性の表象として「死の床」は描かれている。路地の唯一の産婆としての存在性は、多くの路地の者たちの「生」を認証し、「出自」を保証していく有り様を示している。女に刺されて瀕死の中本富繁は、生まれてくる子供のために、五体満足で生まれてくるようにと大蛇が棲むというお堂に潜んで祈願していた。だが、「ふくろうが鳴いた夜」に、富繁は大蛇に飲まれて死んだ。その時、達男は、「何一つ欠ける事なく余分な物もなく」、オリュウノオバにとりあげられたのだ。

 『人間の路地・アイヌのコタン』。十五になった達男は、「何代にも亙って若死にし浄化を繰り返してきた果てに生れたこの上なく尊い仏の現身のように」黄金色に輝いていた。夫の礼如さんが遠くへ通夜で出かけ不在の時、オリュウノオバは、達男と情交し、朝早く戻ってきた礼如さんの知ることとなる。「親が子を抱くように抱いて何が悪いんなよ」と言うのに対して、礼如さんは「ようも、ようも」と絶句するだけだった。この「カンナムイの翼」一篇は、濁流のように中上健次の物語への渇望を凝縮しているといっていい。アイヌ(のコタン)と路地を連結させて、「愉楽」の世界に投げ入れようとしているからだ。達男は、北海道の鉱山へ働きに出で四年ぶりに、アイヌの若い衆とともに路地へ戻ってくる。ここで、達男は、アイヌは人間という意味で、カムイは自然や神のことだと、オリュウノオバに教える。そして、達男は、連れてきた若い衆に「ポンヤウンぺの産婆」だと紹介する。

 『千年の愉楽』。ポンヤウンペは、「キラキラひかる揺り籠(シンタ)に乗ってやって来た神謡(ユーカラ)の、半分は自然・神(カムイ)、半分は人間の名だ」と聞いたオリュウノオバは、「外からやってくる敵を撃退しろと」いう意味に思った。ここに至って、過激な思いを、オリュウノオバに仮託していく。「人間(アイヌ)の路地(コタン)と路地を結び、理由なく襲いかかってくる者ら」に対して、弓矢や鉄砲、爆裂弾で戦争するという想起。それは、「天子様暗殺謀議」で逮捕・処刑されて和尚不在となったのを礼如さんが変わりに路地をまわるようになった因縁ともつながる。この最後の一篇は、達男とアイヌの若い衆が、北海道に戻り、鉱山の暴動を組織して殺されたことに象徴されるように、物語はさらに過剰化していく。愉楽は共同性が孕んでいる熱い渇望なのだ。千年とは、そこに内在している「生」であり「性」でもある。そして忌避できない「死」という場所を意味しているのだ。(了)

(『点』03号・05.6.15)

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