« 遠矢徹彦 著『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』(審美社刊・04.3.18) | トップページ | 田畑信廣・和田渡・庭田茂吉他 共著『〈思考〉の作法―哲学・倫理学はじめの一歩』(萌書房刊・04.7.10) »

2006年5月24日 (水)

「物語の像・1」

 かつて、吉本隆明は、「現在書かれている小説の作品は、どういう形で現在のなかへ入ってくるのか。そのためになにを失いまた失わないか。そしてわたしたちは現在をどういう形で眼に視える言葉の風景として捉えられるのか。」(『空虚としての現在』・一九八二年刊)と述べていたことがある。このことは、現在の日常的な風景や事象(多様な情況性も含んでいる)に、空疎感や閉塞感をもっているわたしにとって、ひとつの想いを喚起させてくれるものだ。もちろん現在という場所を視えるかたちで捉え返したからといって、それがどんな事態を予期することになるのかということを、考えたいわけではない。
 小説作品をひとつの物語として読み解くとき、作者は、意識的にせよ、無意識的にせよ、避けようもなく現実的な場所から言葉を紡ぎ出さざるをえないならば、その言葉の重層は、必然的にある像(イメージ)をかたちづくることになるといっていいはずだ。
 もし、それを「物語の像」として、捉えることができるとしたなら、現在という場所は、どんなふうに視えてくるのだろうかというのが、さしあたってわたしの切実な想いである。そして、そこにどんな予見ももたず、視線をくぐらせてみたいと考えている。
 「ディスカバリー・センターの出現は、ダンチに住むおびただしい家族と、この町に住む多くの人間を救ったと、あたしは信じている。便利になったことはもちろんだが、もっと精神的な意味合いにおいて、だ。」(角田光代『空中庭園』)
 ディスカバリー・センターとは、いわゆる郊外型巨大ショッピングモールのことだ。東京・横浜という大都市郊外はもちろんのこと、各地方都市に高度消費社会の象徴としてつぎつぎと大型商業施設がつくられていったのは、八十年代以降のことだ。首都圏ならば、通勤圏の拡大による住宅地の郊外化、地方都市ならば、車社会の過剰化を遠因とする。
 この作者は、郊外大型商業施設を「精神的な意味合いにおいて」、「多くの人間を救った」と高校生のマナという少女にいわせている。もちろん、それは、消費という幻想が過剰化させる病理性を示しているにすぎない。『幸福な遊戯』から始まって、『まどろむ夜のUFO』、『エコノミック・パレス』とつづく作品群をみれば、この作者が紡ぎ出す登場人物たちは、消費の象徴に無意識のうちに心的な依拠をしている様を、ほとんど裸形のままに描出してきたことが、わかる。そして、ここでは「ダンチ」、「あたし」という表出が、そもそも浮遊する心性の鏡像としてある。
 「建ち並ぶ高層アパートの、ほとんどすべての窓は南を向いている。ディスカバリー・センター・メインモールの、北側屋上から見える高層アパートの窓は、だから全部こっち向きだ。(略)その眺めは、なんていうか、ものすごくみにくい。グロテスクだとも思う。」(『同前』)
 登場する人物六人(家族四人、祖母、父の愛人)、それぞれの一人称で綴られる『空中庭園』という物語は、最終章が、マナの弟で中学生のコウの視点で描出される。コウは、マナとは対称的に、自分たちが住んでいる郊外のダンチ空間を「みにくい。グロテスクだ」と感じている。もちろん、作者はここで、冷静な判断をこの登場人物に仮託しようとしているわけではない。コウの抱く思いは、作中人物たち全員が、ほんとうは感じていることでもあるのだ。じつは、「みにくい。グロテスク」なものが、「多くの人間を救っ」ているという表裏性が皮膜のように覆っていることこそが、ここでは問題なのだ。マナとコウの母親・絵里子はかつて、家族性の軋轢のなかにいて、実母(作中の祖母)を殺したいほど憎悪する体験をもっていた。そのことの反転として開かれた家族を構築しようとしていた。だがそれこそが、表裏の皮膜という蓋いでしかないことを作者は鮮烈に描き出している。

(『点』04号・05.12.25)

|

« 遠矢徹彦 著『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』(審美社刊・04.3.18) | トップページ | 田畑信廣・和田渡・庭田茂吉他 共著『〈思考〉の作法―哲学・倫理学はじめの一歩』(萌書房刊・04.7.10) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/92515/1915964

この記事へのトラックバック一覧です: 「物語の像・1」:

« 遠矢徹彦 著『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』(審美社刊・04.3.18) | トップページ | 田畑信廣・和田渡・庭田茂吉他 共著『〈思考〉の作法―哲学・倫理学はじめの一歩』(萌書房刊・04.7.10) »