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2006年5月31日 (水)

中村雄二郎・木村 敏 監修『講座生命 2004 vol.7』(河合文化教育研究所刊・04.12.10)

 あらゆる学を横断させるかたちで、「生命論」を主題とした論稿集を一九九七年に発刊して、ほぼ二年ぶりの第七巻が、本書だ。
 とくに、哲学と精神病理学を交錯させて、臨床哲学という知の領域を開示しようという木村敏たちの試みは、本巻でもまた刺激に満ちた論稿を提出している。
 本書の構成は、前巻と同じだ。「河合臨床哲学シンポジウム」(今回が第三回、「交錯する自己―ブランケンブルク追悼記念」と題されて二〇〇三年六月二八日に開催された)の演題を基にした論稿を特集として前半部に配置し、後半部は、「メルロ=ポンティにおける現象学と精神分析の交錯」をめぐる加國尚志の「肉と渦動」、神経生理学者ベンジャミン・リベットについて考察した深尾憲二朗の「自己・意図・意識」、臓器移植をめぐる意欲的な思考を提示した林晶子の「投げ出されるからだ」、そして、今井弘道の「三木清の『世界主義の哲学』の思想史的意義」の諸論稿が収録されている。このなかで、わたしの関心が強く向いていったのは、今井の論稿だ。私事を述べれば、最近、京都学派たちの東條内閣への関わりを示す諸文献を読む機会があった。そこで、西田幾多郎の『日本文化の問題』(一九四〇)から、大東亜共栄圏的思想へと流れ込んでいくプロセスを確認して、ある了解性をもったといっていい。今井は、三木清のスタンスを西田や田辺との差異に求めているように思う。「情況」誌最新号の論稿でも、三木の「世界主義の哲学」に表徴されるような東亜共同体的思考を再評価すべきだという主意だったような気がする。
 本論稿での今井は、「帝国主義と国家主権の理念を否定する『東西文化の融合もしくは統一の理念』」(294P)とか、「三木の個々の国家を超えた『「東洋」の形成』という言葉に含意されている『形』が、従来の『国家』という『形』を否定するものである」(321P)と定義づけているが、わたしにはどうしても、三木の哲学構想力に裏付けされていく東亜共同体的思考は、国家性を逸脱する概念を内包しているようにはどうしても思えないのだ。視角を変えれば、反西欧観は、大アジア主義にそのまま収斂していく道筋しかないように思える。わたしなら、超国家的思考はむしろ権藤成卿や北一輝の方が遥かに深遠さをはらんでいると見たいのだが。
 特集は、「自己―視点の交錯の中で」。内海健、河本英夫、谷徹、木村敏らが執筆している。なかでも、特集に収められた木村敏の「一人称の精神病理学へ向けて」の論稿と、特集と後半部の諸論稿を連結しているかたちで収載されている木村敏・谷徹・斎藤慶典の鼎談「アクチュアリティとヴァーチュアリティの関係をめぐって」は、多くの刺激的な問題を内在していて、わたしは、おおいに啓発されたといっていい。
 木村の論稿は、これまでの批判を受けるかたちで提示したものだ。統合失調症の患者との対の医療の現場からの思索的発信が、その骨子となる。自らの立ち位置を、木村は次のように述べる。
 「現象学的精神病理学は、薬物その他の身体療法をあくまで副次的で暫定的な対症療法と位置づけて、患者の人間存在、自己存在そのものの病理を問題にしようとする。」(125P)
 さらに、鼎談者でもある斎藤慶典の批判に応答するようなかたちで、人間の意識・無意識の環界を説明していく。
 「自己の自己性をめぐる現象学的・精神病理学的な問題が発生するのは、この自他未分の非人称的な基底層と、自他がすでに分離し三人称化した表層とのあいだの『境界』、あるいは前者から後者への『移行』の過程においてである。(略)アクチュアリティはヴァーチュアリティからの『発生期の状態』としてしか成立しえない。」(131P)
 「非人称のヴァーチュアリティ、一人称のアクチュアリティ、それと三人称のリアリティ、この三者の関係は、一般の人においても決して単純ではない。そこには非常に込み入った基礎づけの循環関係が見られる。」(144P)
 さてここから、鼎談での問題点に触れねばならない。木村が、人間の意識・無意識の環界を、ある意味、循環関係として措定しようとしているのに対して、斎藤は、明確な境界性を設定した上での哲学的論議を遂行していくべきだと見なすことができるように思える。ここには、〈実践の学〉と〈知としての学〉との対峙・対立がある。斎藤の哲学的な原理論からいえば、木村の論旨は緩やかに感じられるのだろう。木村の対の患者たちも、健常者と思い込んでいるわたしたちにしても、結局おなじように意識・無意識の環界は、曖昧な領域が交錯し連関しているものだという了解を、木村論稿からは、窺い知ることができる。
 「統合失調症者の世界が自己との共軛的な『自覚』を妨げられているとすれば、その世界とは、事物的世界、道具的世界であるよりも、まずは人間の世界のことである。」(145P)
 〈実践する知〉が開示していく領域をこの言辞に象徴させても構わないだろう。

(『図書新聞』05.5.7号)

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2006年5月30日 (火)

日本カント協会 編『日本カント研究5 カントと責任論』(理想社刊・04.7.20)

 本書は、日本カント協会の機関誌・論集(年一回発行)である。二〇〇三年十一月に開催された同協会の第二八回学会におけるシンポジウム並びに一般研究発表の論議をもとにした論稿で構成されている。シンポジウムのテーマは、「カントと責任論」であり、これが本書の書名として採られている。シンポジウムの提題者、三人の論稿が、本書の巻頭に配置されている。蔵田伸雄「人間の尊厳を守る責任」、舟場保之「応答可能性としての責任とカント」、木阪貴行「一貫性要求と実質的価値」の諸論稿だ。以下、千葉清史「『純粋理性批判』第一版第四パラロギスムス論における検証主義的真理概念」他七論稿と、カントを論じた近著五冊の書評が掲載されている。
 ところで、カントといえば、わたし(たち)にとっては、埴谷雄高が一九三二年、二十二歳の時、獄中で『純粋理性批判』を読み大きな影響を受け、その後、書き始めることになった長編小説『死霊』の重要なモチーフとなった〈自同律の不快〉の想を、「先験的弁証論」から得たといわれていて、そのことが強い印象としてある。また、柄谷行人の著書『トランスクリティーク』は、副題が「カントとマルクス」であったことに意外な思いを抱くことになる。カントの「コペルニクス的転回」をモチーフにした、この近年の柄谷の仕事のなかでも最大の著書は当然、本書でも書評で取りあげている。また外へ向ければ、カント哲学を政治哲学として読み解いたハンナ・アレントを想起することができる。
 わたし(たち)は、埴谷、柄谷、アレントといった先行する思想家・文学者たちによってカント像を得たとしても、そこにはやはり、ある種の不分明な思考の位相とでもいうべきものを認知せざるをえない。それは、批判哲学といわれるカントの思想を、いま、どう見ることができるかということの不分明さでもあり、研究者たちが思考する位相と、わたし(たち)が抱えている混迷した思想の水位とどう関わっていくのかということが、可視できないからでもある。
 しかし、本書の蔵田伸雄「人間の尊厳を守る責任」、舟場保之「応答可能性としての責任とカント」のふたつの論稿は、“いま”とカント思想を連結させる試みであることに、わたしは強い関心をひかれたといっていい。
 蔵田の論稿は、カントの『判断力批判』、『道徳形而上学』から「尊厳」という概念を援用しながら、クローン技術の進展に対して価値論的にその有意味性を無化していこうとする試みである。
 「(略)『人間の尊厳』とは個々のヒト個体に内在する価値につきるわけではない。『人間の尊厳』とは『人類(Menschheit)全体に備わる価値』である。人間の尊厳という価値は、個の価値に尽きるものではなく、類の価値でもあると言ってよいだろう。」(13P)
 こう述べていく倉田の論旨は、「特定の人と同一の遺伝子構造を有する人を(略)作り出」すことを、「クローン規制法」で、「人の尊厳の保持」により禁止していることに着眼しつつも、そのことの内実を、カントの「人間の尊厳」を対置させて、さらに明解にしていこうというものである。
 舟場の論稿は、加藤典洋の『敗戦後論』、高橋哲哉の『戦後責任論』をテクストにして、日本の戦後の「責任」を、「他者からの呼びかけに応答する責任」という位相から析出すべき問題を提示していこうとする意欲的な試みである。舟場は、「応答可能性としての責任」というモチーフを設定することによって、カント倫理学から「自己自身に対する義務」という概念を援用して論述していく。
 「(略)カントが、人間の『自己自身に対する義務』の『最大の違反』とみなしている悪徳は、虚言(Luge)である。虚言が問題なのは、それによって他者に対して損害を生じるからでも、また自己自身に損害を招くことになるからでもない。カントが繰り返すのは、虚言は『自己自身の人格のうちにある人間性の尊厳を損なう』ということであり、それは『自己の人格性の放棄』(ebd.)を意味するということである。」(27P)
 舟場は慎重に、迂遠して加藤の論点、「自国の死者を先に弔う」という言述に対して、カントの倫理哲学概念を皮膜のようにかぶせながら、剥ぎとった時、カントと加藤の地平は異和をもつことになるといいたいようだ。わたしなら、「自己自身に対する義務」というものをもっと拡張して考えてみたい。そしてカントのこの極めて、潔い倫理性をもった概念を直截に援用してみたくなる。「他国の死者」も「自国の死者」も同義的・同時的に見做すべきだと。「虚言」とは、どちらかを先にするという繕いであって、「義務」とは、自己と他者との応答があることによってはじめて思考しうる自己があるのだというように。
 しかし、こうして本書の論稿に触れて感じることは、「哲学」の現在という水域は、ある意味、アクチュアルになっているということだ。例えば、知野ゆりの「醜いものと不快の感情」という論稿も、わたしにとっては「哲学」という領域を考えれば、出色な視点だと思う。
 このようにカントの思想が、“いま”あるということを、本書は示しているのだといってもいい。

(『図書新聞』04.11.13号)

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2006年5月28日 (日)

「秋山清紀行 5」

 秋山には戦前、三冊の著書がある。いずれも高山慶太郎名義で『南洋の林業』、『チークの話』、『日本の木、南の木』とすべて、木材関係の専門書や入門書である(戦後の著書はもちろんすべて秋山名義)。秋山が参加していたアナキズム系詩紙『文学通信』(三五年終刊)には、局(つぼね)清詩集『山羊詩篇』の近刊予告が載っていたが、刊行されることはなかったようだ。戦後も、この高山、局のふたつの筆名は秋山名義と並行して、六十年代末頃までしばしば使われていた(それ以外にも、夏川小吉、秋村清司など多くの筆名を使用している)。局は、母方の姓であり、秋山の出自にまつわることを考えれば、局清という筆名に、ひとつの想いと強い意志が感じられる。高山はどうだろうか。筆名のいわれに諸説あっていまひとつ確かなことは分からない。それでも著書が三冊もあることを思えば、重い意味を込めているといっていいだろう。わが国では戦前はもちろんのこと、戦後しばらく木材事業は重要産業であった。秋山は、木材通信社という業界紙を発行する会社に勤めていたが、国家基幹産業に関係する仕事に従事しているというよりは、年少の時から草花や木々が好きだったことを考えれば、熱意を持って仕事を遂行していたように思う。

(「秋山清ワールド・秋山清著作集Website」、『図書新聞』06.6.3号)

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2006年5月27日 (土)

原田金一郎 著『周辺部としてのラテンアメリカを歩く―中米、カリブ、ペルー紀行30years』(大村書店刊・04.6.10)

 かつて、中南米は、第三世界といわれ、米ソ二大〈帝国〉の対立に象徴された東西冷戦構造に楔を打つべき「場所」として称揚されていた。七〇前後の世界的な新左翼運動のうねりの中で、ゲバラやフランツ・ファノンを思想的基軸にして第三世界革命論が提起され、それは、反スターリニズム潮流の中心理念のひとつとしてあった。これはもちろん、帝国主義(あるいは、前近代的資本主義)支配によって経済的に後進性へ押し込められていたことからの脱却を図ろうとした五九年のキューバ革命が、大きな契機としてあったことは確かだ。当然、第三世界革命論の方位は、中南米の次はアフリカやアジアの辺境地域、中近東といった場所へ移していくことでもあった。
 中南米地域は、1492年、コロンブスが、「バハマ諸島中のサン・サルバドル(San Salvador)島に到達することによって、カリブの近代史の幕が上げられた。カリブの歴史は征服と植民地化にはじまり、この地域はあたかも植民地主義と帝国主義の世界的ショーウインドウとなり、現在にいたってもその歴史は続いている」(本書134P)といっていい。アフリカから黒人を強制移住させ労働力として奴隷化し、先住民族を圧制・抹殺した結果、先住民人口が大幅に減少し、地域農業生産力が低下していく(166P)。後進性による貧困性ではなく、むしろ地域共同体の解体が別の意味での貧困性を招来しているのだ。そして、そこには、「中心的視座」から見れば、後進性の低所得者層で構成された国家群が形成されていくというアンビバレンツが発生することになる。
 だから、ラテンアメリカ経済研究家である著者は、わたし(たち)の既知の視線ではない、「中心的視座」をとらないあらたな、「周辺部ラテンアメリカという概念」を提起する。
 これは、「貧困に苦しみながらも先住民共同体や伝統的社会がいまだ息づいている」(11P)ことを重視し、「中心部の資本主義的発展の踏み台として、中心部の発展と反比例的に低開発と従属の深底に追い落とされ、世界史の闇の部分に閉ざされつづけた周辺部の側に視座を置くことにより、世界史性の再構築を試みる」(22P)という「周辺的視座」のことを意味している。
 著者がこのようにして、ラテンアメリカへ向ける視線は、「今世紀ラテンアメリカ最大の思想家の一人」であり、「ラテンアメリカ最初のマルクス主義者」(40P)と呼ばれるペルーのホセ・カルロス・マリアテギ(1894~1930)の主著『ペルーの現実解釈のための七つの試論』(1928)に出会ったからである。本書を構成する主要部分は、著者がマリアテギの思想的な軌跡を訪ねるペルーを中心としたラテンアメリカへの旅をめぐる文章群だ。単なる紀行文ではない、著者の「周辺部」への熱い視線が、ラテンアメリカ世界の奥深さ示してくれているといってもいい。七〇年にキューバを初めて訪問して以来、長く精力的に続く中南米への旅程はマリアテギの著書『ペルーの現実解釈のための七つの試論』の翻訳作業の資料検証のための訪問が主たる目的であった(八八年刊行)。
 著者によれば、「マリアテギの特異性は、〈周辺的視座〉によるマルクス主義の再生(普遍化)の試み」(22P)にあるとし、またその思想的視座は「コミンテルン派に代表されるような、当時のラテンアメリカに蔓延していたスターリニズムの呪縛には縁遠かった」(37P)し、「ヨーロッパ社会の底辺層であるプロレタリアートにあたるものとして、ペルー社会の最底辺層としての先住民層をとらえた」(38P)ことにこそ、その独創性はあるという。著者のラテンアメリカ周辺部への旅はこうしてペルーを中心に、ニカラグア、メキシコをめぐり、そしてペルーの首都リマから近距離の南東にあって元スラム街だったビジャ・エルサルバドルという「自主管理都市共同体(CUAVES)」へと行き着く。下からのある種、民主主義的な住民コミューンであるこの都市共同体の理念性のなかにマリアテギの影響を著者は見てとろうして、この周辺部紀行の到達点を明示している。
 「そもそも『貧しさ』がいつ生まれたかといえば、それは16世紀以降の世界資本主義の発展過程という近代過程によって生み出されたものである。それ以前は、中心=周辺の支配関係がなかったから、各地の経済は自立性を保っており、発展という豊かさがないから低開発という貧しさもなかった。(略)つまり、『貧しさ』とは相対的なものなのである。(略)近代化はわれわれの知る社会発展や文化などの多くのものを生み出してきた。しかし、裏面においてその同じ近代過程が、非ヨーロッパ世界において飢餓、疾病、文盲などからなる貧しさを生み出したのである。市場経済に代表されるこのようなシステムは、人類全体にとって完全なものではけっしてない。」(166P)
 この著者の深い真摯な結語に、わたしなりにもう少し何がしかの言葉を重ねるならば、資本主義も共産(社会)主義も、それが世界システムという相貌をもつとき、個別地域の原初の共同性を後進のもの、あるいは異貌のものとして排除し切り捨てていったことは、これまでの歴史が指し示してきたことだといっていい。発展もしくは段階を踏んでいくということは絶えず、その遺制性・古代性の残存を、人類の固有性・母型性として「史観を拡張」(吉本隆明『アフリカ的段階について』)してとらえることを熟考していくべきなのだ。
 著者のマリアテギの思想をめぐる旅、周辺部ラテンアメリカをめぐる旅について記された本書に収められている文章群は、こうしてグローバリニズムをあらたな「帝国」主義とみなす視点を提起しながら、わたしたちをもう一度、初源への思いを喚起する旅へ誘(いざな)うことになる。

(『図書新聞』04.9.18号)

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2006年5月26日 (金)

大嶋 浩 著『痕跡の論理―写真はおのれを何と心得るか』(夏目書房刊・04.6.25)

 「写真」という領域が持っている位相は、例えば、映画(あるいは動画映像一般)、絵画といった視覚表現領域とは、多様な差異を有しているといっていい。それは、「写真」における多義な有用性から由来している。さらには、わたしたちが、フォトグラファー(写真家・撮影者)をどのように規定しているかということにも通底していく(他の分野に比べ、写真装置の手軽さによって、近似的な存在として認識することになる。この程度の写真だったら自分にもできるという錯覚を生み出すということだ)。絵画は、確かに画家という存在と、日曜画家や絵画教室に通いながら絵を描く人たちと歴然なテリトリーがある(必ずしも表現水位を意味するわけではない)。映画に関しても演出(監督)や撮影(カメラマンという言い方は最近されなくなった。そして撮影監督という言い方が主流になりつつある)を、素人(未経験者)が、誰にでも手軽にできるというわけではない。「写真」はというと、映像文化という領域に入るとはいえ、そこでは、いわゆるプロとアマの境界が極めて曖昧だ。そして、アマの裾野の広さをみれば、言葉の世界での「俳句」に似ている。「写真」がある意味「俳句」的ともいえる気がするし、「俳句」は、その描出する世界が、瞬時にイメージを喚起する時、「写真」的であるということがそんな共通性をもっているのかもしれない。なぜ、ここでこのように迂遠して述べるかといえば、「写真」に張り付いてしまっている、「事実」と信じている(あるいは信じたい)事柄を「記録」し、「記憶」するという意義・価値が、「写真の現在」を暗渠に陥らせているからだ。
 本書の著者は、「写真」が持ってしまったイメージを次のように述べる。
 「記録と記憶。前者が現実(対象)の複写とすれば、後者は感情(撮影者)の複写である。窓と鏡。いずれもその前提となっているのは、痕跡としてのイメージにほかならない。現実の被写体であれ、感情であれ、あらかじめあったものの再認と追認。」(3P)
 そして、この写真がもっている「痕跡としてのイメージ」あるいは、「痕跡の論理」を「解きほぐしてみること」が、本書の主旨だと著者はいう。
 確かに「写真」が美術(芸術)としての表現を獲得していった時、記録と記憶を対立するものとしてしか措定できず、結局、隘路に陥っていくことになると著者は「痕跡」というタームに託して語っていると思える。六〇年代末の中平卓馬たちの『プロヴォーク』運動が、その象徴であり、九〇年代の「“荒木経惟の子供たち”に代表されるような、極めて私的・感情的な写真」(175P)は、写真行為を「充填行為」にして「写真=記録という枠組み」のなかに終始させてしまっていると批判する。
 著者がここで展開する写真論は極めて〈理念的〉だ。消費と表現行為のただなかで、「写真の現在」は、「フィルム」から「デジタル」へ移行しつつある。そして旧来のフォトグラファーたちの多くが、まだ、その幻影としての表現性を「フィルム」写真に固執し、「デジタル」写真を表現性から遠く離れた方途だとして斥けていることに、本書の著者は明確に批判を提示する。ジル・ドゥルーズが全篇に渡って援用され、バルトやフーコーも鋭利な論旨のなか、引用されていく本書は、写真論であるとともに、デジタル論を機軸として、いま一度「現在」を捉え直してみたいという意思がうかがえる論述になっている。著者が「デジタル写真」を「現在」論として展開する時、テクストとしたのは、小林のりお、佐藤淳一、高橋明洋、丸田直美といったWeb上で「写真活動」をするフォトグラファーたちだ。
 「彼らは写真に対して、残す、痕跡、記録といった、これまでの写真の力と言われてきたものとは、まったく別の力を見出そうとしている。それこそが『消えるイメージ』の積極的な面であり、批評性でもある。」(120P)
 本書には、残念ながら引用されているフォトグラファーたちの写真作品は掲載されていない。わたしは、それぞれWebを検索して見てみたが、一見、無機質性を意識した対象の選択と私性を排除したアプローチは、作品評を忌避したものだ。著者がいうように、作品自体が、一つの批評性をもって「写真の現在」を問い詰めているといっていいのかもしれない。
 「ぼくが懐疑的なのが、芸術写真としての報道写真の類だ。とりわけ額装され、美術館やギャラリーに収まった報道写真。報道写真が“芸術の力”に依存したときに、腐敗が始まる。(略)“表現としての写真”が感じ方(感覚)に関わるものだとすれば、報道写真は、ぼくらの考え方(概念)に属するものではないか。だから、報道写真が言葉を忌避し、写真だけで何かを訴えようとするとき、最も危険な陥穽が待ち構えている。
 最もやっかいな存在が、広告写真だ。とりわけ現在の広告写真、“表現としての写真”と見分けがつかない。それでもやはりぼくは、そこで問題となる“力”に違いがあると思っている。」(208~209P)
 「写真を撮ること、それは美でも、記録でも、失われつつあるものへの慈しみでも、忘れられたものへの共感でもない。写真をいかなるものにも還元させないという意志がもたらす、何か別のもの。
 写真を撮ること、それは既成の美学、視覚に無数の水漏れを起こすことかもしれない。(略)水漏れの後には、何が残るのだろうか。“無”とでも言いたくなるが、ぼくはそれをとりあえず、“理念としての力”とでも呼んでおきたい。」(215~216P)
 こうして著者の論述を引用してみて分かることがある。「写真」を制度(システム)=物語から奪還して、「写真」自体として屹立させたいという、ほとんど倫理観のようなものを、「理念としての力」という著者の言葉なかに、わたしは感じないわけにはいかない。

(『図書新聞』04.9.4号)

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2006年5月25日 (木)

田畑信廣・和田渡・庭田茂吉他 共著『〈思考〉の作法―哲学・倫理学はじめの一歩』(萌書房刊・04.7.10)

 本書は、「哲学・倫理学の教科書」として当初、企画されたものだ。だが、著者たちの思いは、読者を拡張させる方向へと至ったようだ。必ずしも学生のための哲学・倫理学入門書といった限定した内容をもっているわけではない。なるほど、書名を『〈思考〉の作法』とした所以が了解しうる構成と論旨をとっているといっていい。全体を三部構成にして、第Ⅰ部「日常の中の『?』編」は、入門編といった意味合いをもたせている。だが、この第Ⅰ部こそ、本書を類書にない独自なものとして際立たせているところだ。著者たちは、本章の巻頭で次のように述べている。
 「日常生活の中で感じるふとした『?』。実はそれが哲学や倫理学の始まりなのです。何でもない当たり前のことも突き詰めて考えてみると、当たり前だと思うことにまったく根拠がなかったり、あるいは逆に当たり前でない何か特別なことのように思えてきたりします。」(3P)
 そして、ここで語られていくことは確かに、日常生活の中の率直な疑問を発露とした論旨が展開されていくわけだが、むしろ、自分自身が、現在おかれている場所を様々な角度から切開していく方途を示しているともいえる。
 経験(人間関係性や読書・学習も含めて)だけからは、現在の問題の「?」という問い掛けや疑問が発生しにくくなっているということはいえるはずだ。思想や哲学的なこと、あるいは思索的、思考方法といったことは、自分を取り囲む場所に対して、「?」という問い掛けや疑問から始まるが、方法論や思考マニュアルといったことを何の必然もなく、いくら多様に重層に習得したところで、日常という時空間に根ざしたものでなければ、空無な知識でしかないといえる。「なぜ自分のことが分からなくなるのだろうか?」、「『自己チュー』のどこが問題か?」、「なぜ思い通りにならないのだろうか?」、「良いことをするってどういうこと?」、「人間、どこまで責任を負ったらよいのか?」などの設問をたてながらも、ここでは、けっして人生訓や善悪論、皮相な社会正義論といったことを述べていくわけではない。あくまでも、日常という時空間に根ざした疑問を発生として、先行する哲学思想の思考方法のエッセンスを簡明に解説しながら、それらの疑問の切開へと至る方途の道筋を自力で推し進めることへ、著者たちは導いていこうとしている。本書は、いうなれば、極めてセンシティブな哲学のガイダンスといっていいかもしれない。「なぜ『ノー天気』じゃいけないのか?」では、こんな結語を示している。
 「『悩みつつ生き』『生きつつ悩む』こと、言い換えれば『哲学する』ことは、決して無駄ではない。それはあなた自身の人生を、深め、広げてくれるはずだ。」(27P)
 これは、率直な評言だ。第Ⅰ部で展開していることは、「哲学・倫理学」を特別な知識の習得といった地平から解き放とうということだといっていいと思う。簡明な入り口を設け、著者たちの熱い思考へのこだわりを読むものへと伝達しようという試みが、本書の第Ⅰ部の骨子であり、また本書全体の企図であるといってもいいはずだ。
 ところで、第Ⅱ部はいわば用語事典編であるが、ここでも第Ⅰ部の主意は継続している。「哲学や倫理学にとっての基本概念のほんの一部を、哲学史的な知識をできるだけ織り交ぜて、分かりやすく説明」(71P)していくために、絞りに絞った用語が引かれている。
 「意識」、「価値」、「神」、「行為」、「死」、「自然」、「実存」、「自由」、「真理」、「生命」、「存在」、「他人」、「歴史」、「私」の十四項目の選択眼は、確かなものだ。
 第Ⅲ部は、「講義や試験で出される課題や設問に答える際のお手本になりうる」(129P)として「お手本編」と題して、簡明さを強調しているかのようだが、熟読すれば、どうしても哲学・倫理学論稿集といったかたちになっているといいたくなる。たぶん、著者たちの本領は、ほんらいこの第Ⅲ部の論稿群にあるのだろうが、実は極めて、抑制的な論述が収められているのだ。まさしくそのことこそ、作法としての〈思考〉を表現しているのだといっていいのかもしれない。それでも、わたしは、次のような印象深い記述を、取り出したくなる。
 「神無き時代、しかもコミュニズムといった言わば『熱い正義のイデオロギー』の仮面が暴かれ、もはやそれに没頭できない現代において、『グリーン』は新しい宗教の代替物、救済のイデオロギーだというのである。むろん、こうした物言いを無批判に受容することは危険であろう。しかし、環境倫理思想、環境運動の将来を見定める上で無視することはできないと思う。(略)『緑のナチ』、これは私の愚かな『妄想』にすぎないのだろうか。が、すでに、『環境ファシズム』と言われる極端な『全体論的保存論』があることを指摘しておこう。」(179~180P)
 「現在、国際化とかグローバル化ということが、よく言われる。しかしその正体は、単にアングロ‐サクソン化することにすぎない場合が多い。これは文化帝国主義に屈することである。本当の国際化、グローバル化は、他なる者、差異に出会い、文化帝国主義や政治的テロによらずに連帯しようとすることから始まる。」(193P)
 これらの論述は、哲学・倫理学が学際的な場所を超えて、わたしたちの実感としての〈思考〉と重なっていく場所だといっていいはずだ。

(『図書新聞』04.7.24号)

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2006年5月24日 (水)

「物語の像・1」

 かつて、吉本隆明は、「現在書かれている小説の作品は、どういう形で現在のなかへ入ってくるのか。そのためになにを失いまた失わないか。そしてわたしたちは現在をどういう形で眼に視える言葉の風景として捉えられるのか。」(『空虚としての現在』・一九八二年刊)と述べていたことがある。このことは、現在の日常的な風景や事象(多様な情況性も含んでいる)に、空疎感や閉塞感をもっているわたしにとって、ひとつの想いを喚起させてくれるものだ。もちろん現在という場所を視えるかたちで捉え返したからといって、それがどんな事態を予期することになるのかということを、考えたいわけではない。
 小説作品をひとつの物語として読み解くとき、作者は、意識的にせよ、無意識的にせよ、避けようもなく現実的な場所から言葉を紡ぎ出さざるをえないならば、その言葉の重層は、必然的にある像(イメージ)をかたちづくることになるといっていいはずだ。
 もし、それを「物語の像」として、捉えることができるとしたなら、現在という場所は、どんなふうに視えてくるのだろうかというのが、さしあたってわたしの切実な想いである。そして、そこにどんな予見ももたず、視線をくぐらせてみたいと考えている。
 「ディスカバリー・センターの出現は、ダンチに住むおびただしい家族と、この町に住む多くの人間を救ったと、あたしは信じている。便利になったことはもちろんだが、もっと精神的な意味合いにおいて、だ。」(角田光代『空中庭園』)
 ディスカバリー・センターとは、いわゆる郊外型巨大ショッピングモールのことだ。東京・横浜という大都市郊外はもちろんのこと、各地方都市に高度消費社会の象徴としてつぎつぎと大型商業施設がつくられていったのは、八十年代以降のことだ。首都圏ならば、通勤圏の拡大による住宅地の郊外化、地方都市ならば、車社会の過剰化を遠因とする。
 この作者は、郊外大型商業施設を「精神的な意味合いにおいて」、「多くの人間を救った」と高校生のマナという少女にいわせている。もちろん、それは、消費という幻想が過剰化させる病理性を示しているにすぎない。『幸福な遊戯』から始まって、『まどろむ夜のUFO』、『エコノミック・パレス』とつづく作品群をみれば、この作者が紡ぎ出す登場人物たちは、消費の象徴に無意識のうちに心的な依拠をしている様を、ほとんど裸形のままに描出してきたことが、わかる。そして、ここでは「ダンチ」、「あたし」という表出が、そもそも浮遊する心性の鏡像としてある。
 「建ち並ぶ高層アパートの、ほとんどすべての窓は南を向いている。ディスカバリー・センター・メインモールの、北側屋上から見える高層アパートの窓は、だから全部こっち向きだ。(略)その眺めは、なんていうか、ものすごくみにくい。グロテスクだとも思う。」(『同前』)
 登場する人物六人(家族四人、祖母、父の愛人)、それぞれの一人称で綴られる『空中庭園』という物語は、最終章が、マナの弟で中学生のコウの視点で描出される。コウは、マナとは対称的に、自分たちが住んでいる郊外のダンチ空間を「みにくい。グロテスクだ」と感じている。もちろん、作者はここで、冷静な判断をこの登場人物に仮託しようとしているわけではない。コウの抱く思いは、作中人物たち全員が、ほんとうは感じていることでもあるのだ。じつは、「みにくい。グロテスク」なものが、「多くの人間を救っ」ているという表裏性が皮膜のように覆っていることこそが、ここでは問題なのだ。マナとコウの母親・絵里子はかつて、家族性の軋轢のなかにいて、実母(作中の祖母)を殺したいほど憎悪する体験をもっていた。そのことの反転として開かれた家族を構築しようとしていた。だがそれこそが、表裏の皮膜という蓋いでしかないことを作者は鮮烈に描き出している。

(『点』04号・05.12.25)

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2006年5月23日 (火)

遠矢徹彦 著『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』(審美社刊・04.3.18)

 七編の短篇を収めたこの小説集は、表題から受ける軽妙さや静謐さとは違い、硬質な文体とともに、湿気感漂う重く暗い情念をもつ登場人物たちを描出している。そして彼らはみな、かつて政治運動や組合運動を経験し、挫折し、職を追われ、そして職を転々とし、あるいは精神の病に囚われている像としてある。一編をのぞき、すべて「私」もしくは「わたし」の一人称記述で語られる文体は、さらにそのことを過剰にさせていく。任意に引いてみれば、わかる。
 「タミオがハルミと出会ったのは、あるひとつの時代が終わる頃だった。反体制グループの周辺にいたにすぎない無数の若い蛾たちが、不吉な明るさに魅せられて入りこんだその場所には出口がなかった。」(「水域」)
 「私の右隣に、いくらか禿げあがった額にばさっと長髪をたらした男が坐っていた。彼は片頬にみぞをつくってうす笑いを浮かべ、テーブルの上座に陣どっているひとかたまりの古参の労働活動家やアナキストたちが、おぼつかない足どりでテーブルの間を渡り歩き、仲間同士でしわがれた気炎をあげ、よろけるようにもたれあっている姿を黙って眺めまわしていた。」(「淵の見える場所」)
 「漂流物のようにあてどない職場遍歴のすえ、わたしは公共浄水場の派遣技術員の仕事を最後に、次の仕事を探す努力を放棄したのだった。つまり失業したわけである。独身のわたしには、それいがいに失うべきものは何もなかった。が、そのころから内部をしだいに深く蝕んでいく、うす気味の悪いどこまでもつづく湿地帯に似た徒労感が、鎖となって幾重にも巻きつきだし、ついにはわたしの存在そのものを締め上げていくように思えた。」(「ぺちゃんこにプレスされた男の肖像」)
 唯一、一人称記述の文体をとっていない「水域」は、タミオとハルミの関係に、ノボルが割ってはいり三人が破綻してしまう物語だ。「ガス銃に撃たれながら、街角を駆けぬけていたあの頃」(110P)を共通項とした三人が、関係性だけでは、慰藉されえない精神の空洞をもってしまったことを描出している。
 「淵の見える場所」は、古い友人の追悼集会に出て、久しぶりにかつての仲間たちと再会しながらも、ただ想念は沈潜するだけの私(芹沢)を描いている。芹沢は、妻子を捨てて、彫金家の燿子と一緒に奥多摩で隠遁生活のようにしている男だった。「ただでさえ、弱小なおれたちのグループなんだからな。優秀な活動家が二人も蒸発してしまったんじゃ、仲間に与えるダメージははかりしれんのだぜ」(180P)と仲間に冷やかされ揶揄されながら、燿子にまつわる醜聞を聞かされる芹沢はただただ酔いに任せる日々を送る以外、生きようがないように描かれる。
 ひとたび抱いた観念や想念、あるいは思想という過剰さは、生きること、あるいは生きていくことに、どう足枷となって締めつづけていくのだろうかと本書の小説群を読み終えて、わたしは思う。そしてすぐさま、かつてといっても、もう四十年近くになろうとする時間が経過しているが、高橋和巳の小説『憂鬱なる党派』を思い起こした。俗に、転向小説といわれた高橋和巳のこの小説は、本小説の人物たちと同じ様に、転向しきれないでいることの難渋さを物語として描出している。思想や観念が、生きることの足枷だとして、では、なんの拘りもなく生きていくことができないのは、たんなる不器用さに還元してしまうことができるのだろうか。
 「詩人の柩」は、拘りと不器用さが、実は純粋な想念に裏打ちされていることを描いて見せている。わたしが、集中、最も感応しえた力編だ。組合活動に頓挫しながらも、組合の機関紙に詩を書き続ける「私」。そして私が敬愛してやまない詩人の黒木哲夫。作者は、「凍土と化した民衆の夢の地層を、一匹の妄執のもぐらとなって掘り進んでいこうとする執拗で狂熱的な、それでいて彼の魂の中心にある明澄な意志の力が全編を貫いているような作風」(60P)をもった詩人として黒木を描写している。そしてこの詩人の妻、玲子。これらの人々をめぐる物語を描きながら、もうひとつの層を作者は提示する。それは、私が少年期に敬慕した梅園文子と黒木哲夫の関係性だ。このふたりの関係性を、詩人の柩、つまり詩人が机代わりに使っていたリンゴ箱に象徴させて、語って見せている。まるで、「執拗で狂熱的」であり、「それでいて明澄な意志の力」をもったような関係性が、詩人黒木と文子がもった「時間」だったのだ。ふたりはそれぞれに死を迎えたが、転向も挫折も昇華した生き方をしたといっていい。
 著者略歴に、「一九七四年、文芸誌『アンタレス』創刊、秋山清追悼号をもって休刊。」とあった。もちろん、わたしが知っているアナキスト詩人秋山清は、黒木哲夫像とはまったくイメージは異にしている。しかし、作者は、「詩人の柩」のモチーフとして、秋山清をどこかで意識しながら書いたであろうことは、想像に難くない。あるいは、わたしの、一方的な秋山清への思い入れが、そう感じさせているだけなのかもしれない。

(『図書新聞』04.6.19号)

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2006年5月22日 (月)

瀬木慎一・桂木紫穂 編著『日本美術の社会史―縄文期から近代の市場へ』(里文出版刊・03.6.20)

 本書は、書名からも明らかなように、通常の美術史のカテゴリーにはない複眼的な位相を展開している。作家がいて作品があって、それを時間的に遡及したり、関連性のなかに美術表現の流れを見るといった既成の美術史とは、違った場所への視線を編者たちはもっているのだ。編者たちが、「社会史」としたのは、作家主義的な通史を逸脱させ、もっと広義なかたちで作品が生み出される場所として、社会をかたちづくる人間の集団性といったものを照射させたかったからだ。例えば、こんな記述に、編者たちの思いが率直に表われている。
 「(略)技能というのは、個人的である以上に集団的なものであり、その形態には、それぞれ、多少の差異はあるにしても、特定の指揮者(工匠)がいて、彼によって育成され、各段階に進んで行って然るべき分業を担当する工人たちが、全員の共同作業として一つのものを完成するという基本において共通しており、言わば専門職人の集団であり、後にできる用語での『座』の発生源となる形態だった。そしてそれは家族・近親的単位で堅固に維持され、やがて、必要が生じた場合には、それに応じて拡大・分化もし、相互に競争もし、協力もしつつ発展して、小規模ながら、一種の『社会』(ソサエティー)を形成する。」(13P)
 職能集団がある種の社会を形成していくという発想は、網野善彦史観を連想させる鋭角的ものだ。
 本書はこうして、「絵師」、「仏師」の誕生という記述から始めて、正倉院や「君台観左右帳記」から「美術品」という概念の発生とその収蔵という行為の淵源を求め、御用絵師並びに美術品の鑑定という実態の歴史的検証をしつつ、近現代の美術的市場の興隆まで捉えていくという、先にも述べたように、通常の美術史のカテゴリーにはない大胆な通史を提示している。構成としては、全体を九部に分け、「概説」の後に最も古いもので明治四四年に発表された古筆鑑定家・前田香雪の論稿から、昭和六一年の美術評論家・大河内菊雄の論稿まで、二十八の論稿を収めている。とりわけ、各部のはじめに配置された編者による「概説」は、大変な力論だといっていい。
 例えば、「第一部 絵師、仏師の誕生」の「概説」では、美術(絵画)の発生と展開を当然ながら宗教と関わらせて、次のように述べていく。
 「密教寺院では、従来からの阿弥陀如来、四天王のようなものに加えて、大日如来を中心として、未知の如来、菩薩、明王などを配置し、仏像に変化を見せる以上に、それらのものまでが、曼陀羅図を中心に図像として掲示されることが多くなって、絵画の必要は画期的に高まる。日本における絵画の興隆は、平安時代からとされる主要な要因は、この密教の必要にあった、と言っても過言ではない。」(23P)
 あるいは、「第四部 日本人の美意識と変化」では、次のような論旨を展開する。日本人の芸術的嗜好は、飛鳥・奈良時代から平安時代までを、「色彩の重視であり、しばしば極彩に及ぶ」とし、鎌倉時代から室町時代までは、中国からの禅宗の影響下で、「『無』の思想に基づく非色が尊重されて、嗜好はついには枯淡の境地に達する」(200P)と述べる。だが、編者の優れた論理展開は、ここでとどまっているわけではない。
 「とはいえ、この現象は、一つのものから他のものへと推移し、そのままで固定するという単純なものではなかった。実際問題として言うならば、前時代の様式は薄れたとはいえ、果たしてその基底にあった嗜好は消失したのだろうか、というその根本的な視点から、嗜好史の第二段階の末期に当たる室町時代の文化・芸術を観察するとき、意外にも、そこに先行した時代の嗜好の復活もしくは再生が見出されて、かつてない複雑な文化の相が浮き出しているのではなかろうか。」(2001P)
 いわば、その後の信長政権、秀吉政権をもった安土桃山時代の文化的、精神的位相の萌芽と淵源を編者は類推しようとしているのだ。編者の言葉で言えば「武家階級の二元主義」にうらうちされた美意識ということになる。侘び寂びといった茶の湯の世界を、一方では豪華な茶会で催していくといったアンビバランツな感性は、まさしく同時に日本人の今日的な美意識に通底していくものだ。
 「相反する美意識が内在し、並行」(201P)するという感性は、美意識だけの問題ではない。日本人が、超克することのできないまま温存してきた普遍的な感性だといってもよい。そのことは、むろん、現在も〈社会〉から、〈国家〉までつきまとっている問題だ。

(『図書新聞』04.6.12号)

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2006年5月21日 (日)

関口安義 著『芥川龍之介 永遠の求道者』(洋々社刊・05.5.20)

 漱石や鴎外、さらに芥川や太宰は、わたし(たち)にとっては青春期の必読の作家であっただけでなく、思考の初源を啓発させてくれるものでもあった。わたしの場合、芥川と太宰には、その独特のペシミスティックなニヒリズムとでもいうべきものに早くから泥濘していた。そして、いまでもそのことからの影響は払拭してはいないし、するつもりもない。
 ところで、長年、芥川研究を続けてきている著者は、本書で新しい〈芥川像〉というものを提示している。わたしなどが、いつまでも拘泥しているニヒリズムといった枠から、アクティビティな芥川龍之介というものへと解き放しているのだ。本書の出色さはこの一点に集約されるといってもいい過ぎではないと思う。
 国語教科書から、漱石や鴎外が除外され始め、芥川や太宰がどれほど若い人たちに知られて読まれているかと問えば、たぶん、かつてほどの多くの読者はいないと思うべきであろう。だが、本書の著者によれば、芥川だけは、いくらか様相が違うようだ。高校の国語教科書二十種すべてに、「羅生門」が載っているし、近年は海外での翻訳が活況を呈していて、「芥川作品の翻訳は、世界四〇か国を上回り、翻訳数は四百七十に及ぶ(略)。『羅生門』には三十を超える翻訳が存在する」(8P)という(もとより、黒澤明監督の映画『羅生門』への評価と関連がないわけではないと思う)。特に、韓国や中国で評価が高まっているということは、わたしにとって未知なことであった。著者はそうした状況をふまえ、新しい〈芥川像〉というものを開示してみせてくれている。
 例えば「芥川像の変容」として、韓国や中国での芥川評価は、「日本の研究者が見落としている面を拾い上げて」(92P)、芥川の歴史認識の先見性を指摘しているという。つまり、日本ではほとんど黙殺されている、中国視察旅行後に発表した「将軍」と「金将軍」の二編の小説を手がかりに、日露戦争や朝鮮征伐という歴史に借りて書かれる芥川の視線に注目する。著者がいうように芥川に反戦や朝鮮人への開かれた視角があるとすれば、生来の貧しいものへの同情感(わたしにとって愛読してやまない作品「蜜柑」は、そのことが最も顕著だと思われる)や、正義感のようなものだといっていいかもしれない。あるいは、啄木のように明快に社会主義思想へ共感できない部分が、ある負い目となっていると考えることもできる(「玄鶴山房」の最後の場面にリープクネクトを読む青年を登場させているのは、なにかわざとらしさがあるといっていい)。「芥川という作家を本当に知るためには、周辺を知る必要がある。(略)芥川という作家を知るためには境界はない」(202P)という著者独特の周辺研究の成果として、芥川の潜在するアクティビティのなかに徳富蘆花の「謀叛論」の影響があると著者は捉えている。わたしのように、人間のエゴイズムをほとんど救済のないかたちで描出する芥川文学のニヒリズムに共感することを、反転させる位相に、著者は〈芥川像〉を措こうとしている。もちろん、そういう面も確かにあるはずだと、思わずにはいられないほど著者の論旨は説得力にあふれているのだ。
 そして、「作品というのは、いったん作家の手を放れると自立する」(203P)のだから、多様な解読があってもいいのだとするテクスト論にもとづいて著者は、初期の代表作「羅生門」を次のように大胆に読み解いていく。
 「失恋(引用者註=格式の違いを理由に実父、義父たちに結婚を反対され断念した吉田弥生との関係)のやりきれない気持を、現実には吉原に行ったりして晴らしたけれども、それが単なる一時の慰みにしか過ぎないことを知った彼は、虚構の世界で反逆の論理を獲得するのです。(略)ひとりの貧しい男が羅生門の楼上で老婆と出会い、新しい考え、勇気を得る、それは『謀叛をしなければ人間は生きていけない』との蘆花の『謀叛論』に通う考えです。(略)正装をかなぐり捨てるかのように投げうって、虚構の世界で解放の叫びをあげた。それが『羅生門』であったという読みが浮上するのです。」(204~205P)
 幸徳秋水ら無政府主義者・社会主義者が天皇暗殺を計画したとして、十二人が死刑に処されるという大逆事件(一九一〇年五月)に憤怒した蘆花は芥川が在学していた一高で「謀叛論」と題した講演を行ったのが、一九一一年二月であった。芥川がそのことに触れた記述はないが、親友であった恒藤恭(旧姓・井川)の日記等には、その講演から受けた感銘の記述があるという。だから、芥川も影響ををまったく受けなかったことはありえないと論述していく。これが、著者の周辺研究の躍如だ。「羅生門」の発表は、一九一五年十一月、芥川、二三歳の時だ。「羅生門」が、本書のように、あの大逆事件との連関で、読み解かれることこそ、芥川文学の今日的意義があるといっていいかもしれない。
 本書は、そういう意味でも、芥川研究の新たな達成だというべきであろう。

(『図書新聞』05.8.6号)

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2006年5月20日 (土)

祖田浩一 著『不機嫌な作家たち』(青蛙房刊・04.2.21)

 「作家たち」とは、どういう存在なのだろうか。つまり、自分たちが愛読してやまない小説家の実像をわたしたちは、いくらかでも知りたいと思うはずだ。だが、普通の読者の場合は知ることはできない。しかし、「作家たち」の実像は、しばしば編集者や家族らの記述によってさらされることになる。本書の場合も、編集者という立場からものだが、表題がしめすように、いささか屈折した視線からのものだ。
 「あの頃は、いま以上に作家が輝いていた。どの作家も我儘で、自分勝手で、威張っていた。多忙さ故に『不機嫌』になる人もいたし、こちらの対応のまずさに立腹して、不機嫌になる人もいた。その内実はそれぞれに異なっているが、機嫌の良い日などは滅多になかった。コピー機もファックスも無い時代で、一回三枚分を毎日うかがって頂戴し、それを持って走り廻っていた。当時の原稿取りは惨めなもので、時たま共通の体験をした人にあうと、何故か懐かしさを覚え、話がはずむ。」(267P)
 著者は、昭和三十年代から四十年代前半にかけて、戦前からある「大系社」(長谷川伸の命名によるらしい)という通信社に勤めていた。小説を同人誌などに発表し続けていたいわゆる文学青年だった著者が二十代から三十代前半までの年齢の時だ。現在では、共同通信社が地方紙に様々な記事や企画原稿、連載小説などを配信していることはよく知られている(作家や評論家の小説や文章が、いくつもの地方紙に同時掲載されることになる)。著者が勤めていた通信社は、地方紙へ連載小説だけを専門に提供していた会社であった。出版社や大手の新聞社とは、どうしても差異ができる。多忙な作家の場合は、どうしても後回しになるのだ。そのため、いいようのない屈辱感を著者は数え切れないほど味わうことになる。週に何度も、あるいは一日に何度も作家の下へ行くことになる。あるいは作家の家で何時間でも出来あがるのを待つことになる。惨めというよりも、なにか凄まじささえ感じてしまう。さらに新聞の連載小説には毎回、挿画が入るから、原稿の遅れは画家の方へも波及していくのだ。「当時の原稿取りは惨めなもの」だったと述懐する著者の気持ちは、確かに、本書を読めばよく分かる。
 著者を惨めにした「作家たち」は、今日出海、檀一雄、松本清張、子母澤寛、中山義秀、そして水上勉などだ。
 「我儘」で、「自分勝手」で、「威張ってい」ても、彼ら「作家たち」は、著者がいうように、確かに「輝いていた」といってもいい。
 例えば、今日出海は、「新聞小説として書いたものは、わたしは本にしない。あれは一回ごとに読み捨てるべきものだから、書き下ろしの小説とは全く違うものだね。終わってからも本にしないというのが、わたしの主義です。」と述べたそうだ(14P)。実際は、毎日新聞などに連載した小説を本にしているらしいが、主張としては説得力に満ちている。
 檀一雄は、とにかく原稿をなかなか書いてくれなかったが、それでも檀流クッキングの恩恵をあずかったりして著者はなにか、檀との通交を甘受していたように思える。
 「先生の『小説太宰治』は放埓で、破滅的で、読んでいる分には無類に面白い。けれども若い時ならともかく、ある年齢になってからは共感ばかりもしておられない。今度読み直してみて、かつてのめり込むような形で『無頼派』と呼ばれた人たちと、その日々に寄せた熱狂が、自らの中から引いてしまっていることを実感し、年齢による硬直化であろうかと思ったりした。」(39P)
 松本清張と水上勉は、多忙を極めていた時期に、著者は担当となった。清張の場合は、原稿が進まず、八日間の休載を経験する。著者は「後頭神経痛」で三日間休養したり、胃痛で入院したりしている。水上勉は、清張と同じ様に、原稿の遅れが著しかったが、なぜか、碁をしたり、講演に同伴したりして、いつしか著者の小説を見てくれて、いろいろ教示してくれるという関係性にまでなっていく。そして著者は、会社を辞めた後、水上の秘書になった(264P)。
 本書では、けっして不機嫌ではない作家も取り上げられている。なかでも三宅雪子のエピソードはとりわけ、本書を印象深いものにしている。清張の挿画を担当した永井潔に教えられ、三宅雪子の『貧乏さん』(昭和三十四年七月刊)を知る。著者と同じ島根県で生まれ、精神薄弱児といわれながら小学校を劣等生として卒業し、大阪に出て女給や工員など職を転々とした後、上京し昭和三十一、二年頃、紙芝居屋になる。『貧乏さん』は、「三軒茶屋で一年四ヶ月だけ紙芝居をやった体験と、紙芝居屋になるまでの歩みを書いたもの」だ(99P)。著者は、地方紙に掲載する「異色の作家たち」という企画の記事を書くため、三宅に会いに行く。彼女は漢学者の家で、お手伝いさんのような仕事をして、世話になっていた。
 「通された部屋は、どの畳も破れていて、中の藁ががはみ出ている。どこに座るべきか、一瞬戸惑いを覚えた。一つだけ椅子が置いてあり、三宅さんはそれに座るようにと言われた。そこに腰を掛けていると、お茶を淹れて来て、わたしの足元の破れた畳の上に置かれる。」(105P)
 著者が書いた記事は、いくつもの地方紙に掲載され、そのうちのひとつ「河北新報」を読んだ読者から、「三宅さんの処にカステラ一箱を贈」られてきた。それを、半分に切って著者へといって会社まで(日曜日のため著者は不在だった)、三宅は届けに来たのだ。
 「思い出しても、胸が痛くなる。お礼の手紙だけは出した。その後、もう二度と三宅さんに会うことはなかった。もう生きておられないだろう。若き日のわたしに強い印象を残し、『半分のカステラ』ということを教えてくれた人である。口を開けば原稿料の安さばかり言う一群がいて、その対極に三宅さんのような人がいた。」(109P)
 本書は、このように、「作家たち」を素描していく。

(『図書新聞』04.4.3号)

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2006年5月19日 (金)

ヴォルフガング・ヒルビル 著『私 Ich』(行路社刊・03.11.10)

 『私』と題されたドイツ人によるこの小説を、帯文から受けるイメージでスパイ小説かサスペンス小説のように見なしてしまうと、物語の隘路に入り込むことになる。訳者も明快に言い切るように、統一前の旧東ドイツの政治的闇を告発する小説と見なしてしまっても、本書の価値を遠くへ追いやってしまうだけだ。訳者の次のような叙述をまず念頭に置いて、本書の物語に入るべきかもしれない。
 「ドイツ語の『Ich』は、日本語では『私』ではなく、特別に『自我』という非日常的な哲学用語をあてなければ、理解できないという言語生活(思惟構造)上の問題があることを念のために説明しておかなくてはならない。」(446P)
 本書の概観を訳者の解説にしたがっていえば、九三年、ドイツで出版されたもので、『私』が初の邦訳出版のようだ。著者ヴォルフガング・ヒルビヒは、四一年、旧東ドイツの小工業都市モイゼルヴィッツに生まれる。「肉体労働の職場を転々としながらも作家を志し」、西ドイツの放送局に送った詩文をきっかけに七八年、第一詩集『不在』が出版されるも、西側ではほとんど注目されることはなかったようだが、「壁崩壊後の数年間のうちに前代未聞のスピードで有名作家の地位を得」たという。本書は、自伝小説ではないが、主人公が育った場所や母との葛藤(父親は、早くに戦死し、母の実家で育てられた)、なにやら詩の断片のようなものを書くことを志しているという設定にしているところは、自身を反映させているといえなくもない。
 さて、本書は変わった叙述と構成をとった小説だといっていい。やや不均衡な三章(あるいは三部)だてで、それぞれに「イベント」、「地下の思い出」(この部分が圧倒的な分量だ)、「究明」と題が付されている。そして、変わった叙述というのは、物語の人称が恣意的に変換され、時制が、順序だっていないということを意味している。これは、たぶんこの小説の表題であるとともに、主題としてみなしていい、〈私(自我)〉をめぐる物語性からくるものだ。
 「イベント」では、“私”という一人称で語られていく。
 「権力者たちは、おびやかされているように感じるときが、最高の気分なのである。だから側近の反乱や街頭の反乱の兆候がどこにも認められないときには、そういう兆候をつくりだすのである。」(4P)
 国家公安局の非公式協力者である「私」は、様々なテクストを朗読する会の「イベント・リーダー」の動向を探るよう命じられている。そしてなぜか、東ベルリンの地下通路を往還している生活が描写されていく。「この地下空間はひとりになれる最後の場所だ」という「私」の暗号名が、カンベルト。しばしば登場する「私」の上司は、著名な哲学者を想起させるフォイアーバッハ。なぜかフーコー好きという設定だ。フォイアーバッハにせきたてられるように、イベントに出入りする西ベルリンの若い女性の身辺を探ろうとするがうまくいかない。
 「この現実は何というシミュレーションであろう。私にはその脈絡が失われてしまってからどのくらいになるだろう。」(56P)
 そして、“私”は、非現実となってしまった過去をシミュレーションしていたと語り、“私”と述べながら、三人称としてW(おそらく本名のイニシャル)の過去の物語が語られていくのが「地下の思い出」である。Aという小都市の工場労働者だったWに、捏造されたスキャンダルをたてに「チーフ」が接近してきて、「活動世界」に引き入れようとする。Aからベルリンへ逃げてきたにもかかわらず、非公式協力者になってしまう。そしてC(暗号名のイニシャル)という人称として後半は叙述されていく。
 「究明」は、自制的には「イベント」に戻り、また一人称で語られていく。そして物語は急転する。イベント・リーダーが実は非公式協力者だったことが分り、“私”は、西ベルリンの女性にすべてを言おうとするが逮捕されてしまう。そしてA市に戻されたところで物語は閉じている。
 「この国家の驚くべきところ……謎めいたところは、たえずこの国家のなかで説かれていたこととは一切関係がなかった。(略)……謎は、この国家がつちかってきた憎悪である。(略)私たちは生の影であり、死であった……私たちは人間のダークサイドの化身、影の化身であった。私たちは分裂した憎悪であった。『私』とは憎悪なのである……」(425~427P)
 浮遊する「私」。連鎖されることなく切断される「私」。シミュレーションされる「私」。フーコーやボードリヤールが援用されるこの小説は、「私」を記述することによって可視できない迷路のような現在という世界を描こうとしたにちがいない。不在感という想念は、分断、連結したみずからの「国家」をも不在の場所と見なしていることからくるものだと、この小説を読み通して、わたしには思えてくる。

(『図書新聞』04.1.24号)

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2006年5月18日 (木)

松本利秋 著『国際テロファイル』(かや書房刊・03.9.9)

 テロリズムとは何かと、問われれば、わたしなら、あの9・11テロのことに関連して述べたりはしない。時間性をかなり遡及させて、ロシア革命前夜のアナキストや社会革命党の活動家たちの帝政権力へのテロルを真っ先に思い浮かべるし、わが国のことであれば、完遂できなかったテロルとして、大正ギロチン社のことを想起する。テロとは、反権力的であり、常に反体制的なのだ。テロという言葉が、現在において醸し出すイメージは、無軌道で狂信的かつ暴力的な破壊行為ということになると思うが、確かに過激性を内包するとしても、本来、基底にある感性は、個的で純化に満ちた心性だといっていいはずだ。例えばイスラム原理主義者たちの過激な自爆テロに象徴される近年のテロリズムは、個的というよりは、イスラム世界という宗教的な共同性を膂力としているだけに、わたしが考えるテロルとはいくらか位相を異にしているといわざるをえない。それでも、そこに流れているものはやはり反権力、反体制的であり、自分たち(民族)を抑圧しようとする敵への憎悪感であるといえるはずだ。
 本書は、テロリズムの現在といったことを包括的に把握できる内容をもったものだ。政治的にも思想的にも微妙な視点を強いるテロリズムの現在を、極力、主観性を抑制した記述で、読者にテクストとして提示するという著者の意図は充分、達成されていると思う。
 「(略)『なぜ国際テロリストが存在しているのか』を考えると、実に奥深い歴史の内部にスポットを当てざるを得なくなる。テロリストが生まれ、組織をつくり、国際的ネットワークを張れるのも、われわれが常識として持っている世界通史とは別の側に存在する人間たちのもう一つの歴史が要因であることが見えてくるのだ。これらは一般の日本人の知識にはあまりない事柄であったからこそ、長い歴史ドラマの一環として噴出するテロリズムが、われわれには、連続ドラマの前後が切り取られた一シーンのようにしか見えてこないのである。」(2P)
 著者は、こう述べながら、「地域別のテロリスト状況やその国内および国際情勢、歴史的背景などにもできるだけ言及し」ている。
 確かに、本書を読みながら、テロリストたちには、「奥深い歴史の内部」があることを理解できるし、「われわれが常識として持っている世界通史とは別の側に存在する人間たちのもう一つの歴史」を抱え持っていることにも気づくことになる。
 全七章(アジア、アフリカ、アメリカ合衆国、ラテン・アメリカ、中東、ユーラシア、ヨーロッパの各地域に分けて章を当てている)の構成で、それぞれの地域の主要なテロ組織を各章に付している。植民地化した地域が独立することによって、政情の不安定さから、対立する組織間のテロを生起する場合もあれば、独裁政権が長期化することによって噴出するテロもあるし、長年にわたる民族・宗教間の対立に起因するテロもあるというように、多様な「奥深い歴史の内部」が底流には常にあるのだ。それにしてもと思う。中東パレスチナにおける自爆テロと強力な軍事力との絶えることのない抗争を見るにつけても、「終息」とか「平穏」といったことが訪れない国々のほうが、圧倒的に多いのが、現在の「世界」なのだ。
 「(略)アンゴラでは一九七五年の独立以来、内戦が絶え間なく続き、独立国家としての経済・社会の建設はおろか、国民の誰一人として戦時以外の生活を知らないというきわめて異常な状態が三〇年近くにわたって続いているのである。冷戦時代にはそれぞれの陣営がそれぞれの反対勢力を軍事支援し、内戦を拡大していったという不幸な歴史の後遺症を、この国はいまだに引きずっているといえるのだ。」(100P)
 ここでは、テロによって引き起こされる内戦状態をただ政情不安に帰することは出来ないということを著者は象徴的に強調している。
 また、9・11テロの一年後、モスクワの劇場で起きたチェチェン武装勢力による立てこもりによる大惨事は、世界に衝撃を与えた。著者は、「チェチェンの分離独立運動は、二〇〇年にわたって、帝政ロシア、後にはソ連邦に支配されてきた少数民族の悲願を達成しようとする運動である」(262P)と述べる。そして、「第二次大戦末期には、ソヴィエト政権に反抗の姿勢を崩さないチェチェン民族が、ナチス・ドイツに協力することを恐れたスターリンが、民族を丸ごと中央アジアやシベリアに強制移住させてしまった。戦争が終わって一二年経った一九五七年、ようやく故郷へ帰還が許されたのだが、その間には人口の約六〇%が犠牲になったといわれるほど、ソヴィエト政権の仕打ちは過酷なものであった」(同)という。ソ連邦崩壊後も、分離独立は認められなかった。「強大なロシア軍の圧倒的な軍事力」の支配に対抗するには、全ロシアに向かってテロを実行する以外にないというわけである。
 強大な国家の歴史だけが、正史ではない。歴史の内部にこそもうひとつの「歴史」が隠されているのだ。そして、そこにはテロリズムという哀しい歴史の影が映されることになる。

(『図書新聞』004.1.17号)

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2006年5月17日 (水)

武井昭夫 著『武井昭夫対話集 わたしの戦後―運動から未来を見る』(スペース伽耶刊・04.7.31)

 いま、わたしの手元にこんな本がある。表紙カヴァーの色は、薄いグリーンとでもいおうか、その上に、鳥をアレンジしたカットが配置され、書名、著者名、版元名はシンプルな細いゴジック体だ。判型は新書判、頁数は250P、奥付発行日が1956年9月20日。著者名はふたり、吉本隆明と武井昭夫(てるお)だ。書名は、もちろん、『文学者の戦争責任』。わたしが、何十年も前に古書店で買い求めたものだ。実際に手に取るまで、この本に様々な思いをもっていた。吉本にはこの本に先行して二冊の詩集があるが、いずれも私家版発行であるから、武井と共に実質的に最初の著書という記念すべきものだといっていい。わたしが、この本を求めたのは、吉本の著作を読み進めていたからであり、収められていた論文は、すでに全集等で読んでいたとはいえ、後年、花田清輝と対立していくなかで、最初の著書の共著者が、花田に随伴して、吉本と離反していった(ようにみえた)ことが、よく理解できなかったからだ。いや、そういう言い方は、転倒している。吉本と深く対立していた武井が、共に最初の著書の共著者だったということを、よくわからなかったというべきかもしれない。
 実際に、『文学者の戦争責任』を手にしてみると、やはり、吉本にとって最初の著書としてふさわしいものだった。武井にとってはどうだったのだろうか。本書や前著『映画論集 戦後史のなかの映画』をあらためて読んで、やはり、武井の出発点を凝縮したものであり、現在まで一貫して追及している武井のモチーフが最初に顕在化したものだったといっていいと思う。
 「わたしは、今日戦争責任を扱う場合、戦後責任の観点をぬきにして論ずることはできないと思っている。わたしは、つねにこの戦後責任の解明という観点にたって問題を提出しつづけてきた。」(武井昭夫「『あとがき』にかえて」・『文学者の戦争責任』所収)
 武井のこの思いは、本書や前著の表題に表れている。そう、「戦後」というタームだ。武井の営為を、「Ⅴ 拉致報道と草の根ファシズム」の対話者のひとり、山口正紀は、「戦前と戦後の継承性みたいなもの、それから、戦争責任の問題とかを運動がどうやって問い続けるかという」(310P)ことだと述べている。これは、〈戦後〉という「一つの視点」からの「運動的思考」ということを意味しているし、それを実践の場で弛まず継続してきたということでもある。それは、“拉致報道”に対する、武井の批判にも表われている。戦前の朝鮮半島へのわが国の不当な行為を糊塗して、拉致批判することの浅ましさを徹底的に論及している。北朝鮮(武井は「共和国」と称している)への戦後保障を一切抜きにした拉致批判は、戦後とは戦前からの地続きであると思考する武井にあっては容認できることでない。わたしも、もちろんこの拉致問題への報道ファシズムといっていい情況を、現在の空虚な陥穽を示していると思っている。
 ところで、武井の膂力の源泉は、いうまでもなく、戦後間もなく結成され始動した全学連運動(武井は初代委員長)であり、さらに、「新日本文学」における文学と政治の争闘であった。『武井昭夫論集・全四巻』として刊行開始された前著『映画論集』に続く本書は、「対話集」であることが、様々な武井の思想の相貌が明快に提示されて、「戦後」の“始まり”の問題点をリアルに浮き彫りにしている。特に、小松厚子との「Ⅰ わたしの戦後―運動から未来を見る」のなかの前半部「1 大衆運動としての全学連」、「2 戦後初期の文学運動の中から」や、青木実との「Ⅲ この国の『戦後責任』とは―文学者の戦争責任論を振り返って」の前半部「1 『文学者の戦争責任』論とはなんだったのか」は、戦後、六〇年近く経過した時間を埋めて、〈現在〉へと敷衍した問題性を表出している。
 「最近、国立大学の独立行政法人化など現今の資本主義のグローバリゼーション体制に合うような大学制度再編成が進められていますが、敗戦直後、GHQから出された、あの『大学法』原案の考え方が、新しい時代に会わせて、また登場してきた感があります。これ一つとっても、運動と歴史の継続というか、継承の大切が痛感されますね。」(22P)
 「戦前の転向ドラマが戦後の文学運動のなかにも弱さとしてあるんだ、と痛感したわけです。だからわたしのモチーフは、だれそれの戦争中の責任を追及しようというのではなく、問題を解明したいというところにあった。」(183P)
 武井は、わたしたちが想像もつかないかたちで、思考の継続ということを自らに課してきたといっていい。わたしのように、あるいは、「Ⅱ 五〇年代の運動空間」のなかで、柄谷行人、絓秀実のように吉本・花田論争を好奇な視線で、武井の考えを聞きだそうとするのは、本当の意味で「戦後」という場所をわかっていないということになる。
 「(略)吉本さんから『試行』(六一年~)発行を吉本・谷川(雁)・武井の三人でやらないか、と相談もあったくらいですから。わたしはおことわりしましたが。ですから、当時わたしは、花田・吉本論争では、考えおよび気持ちでは花田さんを支持しているのですが、位置としては『現代批評の会』の協力と交友の情が続いていて、揺らいでいた、という状態だったのですね。」(145P)
 この章は、柄谷たちの雑誌「批評空間」でのインタビューを収めたものだが、わたしは、ふたりの横柄といっていい聞き方に対して、真摯に応答する武井の姿を想像しながら、「戦後」という問題の〈深さ〉、〈困難さ〉に向かい続けている武井の膂力の大きさを思わずにはいられなかった。

(『図書新聞』04.11.6号)

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武井昭夫 著『武井昭夫映画論集 戦後史のなかの映画』(スペース伽耶刊・03.9.20)

 わたしは、武井昭夫(てるお)という名を聞いて真っ先に思い浮かべることが、ふたつある。全学連初代委員長(四八年)だったことと、武井の最初の著作が、吉本隆明との共著・『文学者の戦争責任』(五六年、淡路書房刊)であったことだ(吉本にとっても、先行するのは二冊の私家版詩集だから、実質的な最初の著作といっていい)。
 七十年代に未来社から『武井昭夫批評集(文学編)』全三巻が出されて以降、わたしにとって武井の名は、「批評空間」第Ⅱ期第20号(九九年一月)のインタビューと本書の巻頭に配置されている、「戦時下の黒澤映画」(「映画芸術」第三九五号、二〇〇一年四月)で久しぶりに見ただけであった(武井は、「批評空間」のインタビューで六九年以降、雑誌「社会評論」、新聞「思想運動」を中心に活動してきたことを述べている)。
 本書は、『武井昭夫論集・全四巻』の最初の刊行として企図されたものだ。以下、学生運動論集、状況論集などが予告されている。
 さて、この映画論集は、『文学者の戦争責任』の著者らしく、「戦後五十年以上経た今でも、(略)日本映画の世界では、映画および映画人の戦争責任についてほとんど追及も追究もなされていない」(10P)という視線を一貫してとりつづけている。特に、黒澤明の戦時下の映画作品『一番美しく』(四四年)の作品性とこの作品に対する黒澤の姿勢を徹底的に批判している。わたしは未見だが、武井によれば、「戦争遂行に積極的に協力した」内容をもっているにもかかわらず、黒澤は、「小品ではあるが、わたしの一番かわいい作品である」としか述べていないことに疑義を呈する。そして、武井の強い視線はさらに黒澤の作家性そのものへの析出へと向かう。
 「ここには(註=『一番美しく』のこと)黒澤明という監督がすでに戦争中に確立した、すさまじいばかりの映画作りの方法と人の組織化というものが示されている。映画の作り方だけではなく、黒澤氏の人生観・人間観も強烈に打ち出されている。また、そこには非常にヒューマンで仲間には民主的で、優しさもあるが、じめじめうじうじした弱さを嫌い、正義感の強い自我を貫こうとする黒澤氏の姿勢がくっきりと出ている。そういう人間像を作ろうとする点で、黒澤監督は戦中も戦後もその姿勢は変わってない。(略)
 黒澤氏に決定的に欠けているのは国家観です。誤った国家観にしばられていると言ってもいい。(略)そのために国家のために働くという観念に従って、戦争中はまじめに戦争協力にひきこまれる。この観念を脱却できないから、反省もない。だから、戦後になっても権力というものとの本当の、そして直接的な対決が出来ない。」(22~23P)
 わたしは、『七人の侍』(五四年)はもとより、黒澤映画にほとんど感心したことがない。黒澤が描出する、まさしく武井がいうような「弱さを嫌い、正義感の強い自我」をもった造型の登場人物たちに、まったくじぶんの感性を仮託することが出来ないのだ。武井がここで述べている黒澤映画の析出は、まったくその通りだというしかない。
 ところで、本論集のⅠ章は「戦時下の黒澤映画」として『一番美しく』を、「敗戦直後の黒澤映画」として『わが青春に悔いなし』(四六年)を取り上げて検証しているわけだが、『わが青春に悔いなし』の方を、武井が評価していることにわたしは疑義を呈したい。黒澤を武井は国家観、権力観が欠落していると指摘しているように、この作品は戦時中から敗戦直後までの時間性を生きぬいている女性(原節子=滝川事件とゾルゲ事件をモチーフにしたこの映画は、滝川をモデルにした人物の娘で、尾崎秀実をモデルにした人物と恋愛関係になる女性を演じている)であるにもかかわらず、背後にある歴史性を表層的にしか描いていないと思った。例えば、原たち家族の生活は、まるで昭和三十年代の裕福な人たちといった雰囲気にしか見えないし(敗戦直後に撮った作品がそう見えるとしたら皮肉ではなく予見性をもっているということになるのか)、原が藤田進に再会する場面も、映像的なユニークさはあっても、戦時下の切迫感は伝わってこないのだ。だから後半からラストの場面に至る展開が、まったく感動とはかけ離れた黒澤のたんなる積み木細工的表現でしかないといっていい。Ⅱ章、Ⅲ章に収載している日本映画、外国映画の作品評は、作品の背後にある歴史性をいかにアクチュアリに作品化しているかという視点で多くの批評を割いている武井にあって、なぜ、『わが青春に悔いなし』は評価するのか(質問者との応答では、いくらか評価を修正しているが)、わたしには納得がいかなかったと、述べておきたい。
 さて、本書の巻末にⅤ章として「日本映画年表(一九三〇~二〇〇二年)」が、掲載されている。この年表に選択されている上映作品のリストは、非常に特色あるものになっている。七四頁にもわたる長大な年表は、その時々の出来事も記載されていて、資料的な重要さはもちろんのこと、年表作成者たちのひとつの表現だといっていいと思う。
 Ⅳ章の「現代日本映画を語る」は、八十年以降の作品への評価、ドキュメンタリー映画の分析、そして批評家の問題へと展開している。ひとつだけ取りあげていえば、主題性からあえて遠ざかって批評する蓮実重彦にたいする批判だ。
 「映画の世界で映像表現を抜きにして主題の展開はありえないし、反対に主題に結晶しない、あるいは主題に結びつかない表現というのは大した意味はない。〈表現〉と〈主題〉の両者は、まさに表裏一体であって切り離せないものでしょう。(略)一方を否定して一方を肯定する、あるいは一方のみを強調するというのではなくて、両者の関係、つまり、新しい主題の発見と新しい表現の創造とは、絶えざる緊張関係のなかで切り離しがたく結びついて続けられる、というのでなければならないのではないか。」(374P)
 この武井の批評眼がもっとも象徴的にわたしに切迫したのは、花田清輝を敢て批判しつつ展開した『灰とダイヤモンド』論だった。この力論の基底にあるものは、本書の骨子になるものだし、場所はポーランドであっても、本書の書名にも通底していく、〈戦後〉という問題を真摯に表現した〈映画〉への評価ということで、わたしには本書の重厚さを支えていると思った。

(『図書新聞』03.12.6号)

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2006年5月16日 (火)

うらたじゅん 著『眞夏の夜の二十面相―うらたじゅん作品集』(北冬書房刊・03.8.15)

 誰もが、過去という時間をもっている。だが、必ずしも自分が体験したことの累積だけで過去の時間を記憶しているというわけではない。例えば、幼少期に見た映画や体験、あるいは親、年長者に読んでもらった書物の中の物語や語ってくれた体験などが、記憶として累積されていく。だから記憶の場所は、自分が生まれる以前の遠い過去へと遡及していくことができる。
 過去という時間は、わたし(たち)にとってどんな意味をもっているのだろうか。あるいは、過去を振り返る時、現在という時間・場所はわたし(たち)にとってどんな意味をもってくるのだろうか。現在という時間・場所は、過去へ遡及していける方位をもっていると同時に、未知の未来への通路でもある。だから、記憶の場所から紡ぎ出される物語は、わたし(たち)を未来へ連れていく視線の力を持つことになるといってもいいはずだ。
 わたしにとって、うらたじゅんという漫画(劇画)作家は、いつもこのような〈記憶の物語〉とでもいうべきことを考えさせてくれる。独特の柔らかな描線、巧みに時間を重層的に往還させる物語性、うらた作品は漫画という境界を越えて、傑出した物語作家という位置を獲得しつつあると、なんの衒いもなくわたしは言い切ることができる。
 そして、ついに待望の第一作品集が刊行された。
 わたしが、うらたじゅんの作品に初めて出会ったのは、「幻燈」創刊号(九八年三月刊)で発表された「冬紳士」だ。ほぼ同時期に「ガロ」(九八年四月号)誌上に掲載された「思い出のおっちゃん」も印象深い作品だった。読後、奇妙な懐かしさを感じたことを覚えている。毎年小学校の校門の前で露店を営む“おっちゃん”との出会いを綴ったものだが、作者は“おっちゃん”のエピソードを回想しながら語っていく。わたしは、この“おっちゃん”の造形が実にいいと思った。作者の体験からくるものなのかは分らない、だが、“おっちゃん”の快活さのなかに孤独さ、寂しさといったことを淡々と描出していく作品の力に、この作家の今後に期待感をもったと記憶している。
 「冬紳士」と表題作でもある「眞夏の夜の二十面相」(「幻燈」二号―二〇〇〇年一月)は、モチーフに類似性はあるものの、作品の方位は違う。むしろ、このふたつの作品を並べてみることで、うらたじゅんの限りない力量を感じることができる。
 「眞夏の夜の二十面相」は、現在から過去(七〇年頃)を重層的に往還する。江戸川乱歩の世界に魅せられ、ペンネームを明智六郎と称した男。今は画家で、子供時代、六郎とともに少年探偵団ごっこをしたこともある従妹の映子。そして映子が好きになる壮一、この三人が織り成す過去の記憶の物語だ。モチーフの類似性は探偵だ。なぜ、作者は探偵に拘るのだろうか。何を探し見つけ出そうとしているのだろうか。探偵団ごっこをした時の二十面相が、壮一であったかもしれないということを作中で描出して、〈終景〉は、その少年壮一の二十面相の「さらば」という言葉で閉じている。それは、壮一の〈死〉を予感させるものだ。
 「冬紳士」の探偵役は、過労と飲みすぎから倒れ、記憶喪失になり、やがて散歩の途中で亡くなった父のこれまでの時間を見つけ出そうとする娘、木村サトコだ。本書の巻末に配置した「道草日記」には、作者の父とのことが記載されている。木村サトコ(うらたじゅん)は、父の生きてきた時間をまるごと記憶の場所として作品の中に、描出しようとしたといっていい。
 だが、このように記述することに、わたしは、ある種のむなしさを覚えてしまう。いつだって批評の言葉は対象とする作品を超えることはできないのだ。わたしの、なにやら重たそうな記述は、ふたつの作品のそれぞれの〈終景〉の卓抜さに、どう考えても、到達できそうもないからだ。ほんとうは、「ぼくの名前は木村サトコもうじきハタチ」とサングラスをはずし、帽子をとって佇む〈終景〉に、ただ素直に感動するだけでいいはずなのだ。 
 それでも最後に、こんなふうに、わたしはいってみたい。現在という時間・場所が失いつつある様々な物語を、遠い記憶の場所から紡ぎ出して再生させるという豊穣力をもった作品をうらたじゅんはつぎづきと描き続けているのだと。

(『図書新聞』03.10.25号)

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2006年5月15日 (月)

堀田貢得 著『実例・差別表現―糾弾理由から後始末まで情報発信のためのケーススタディ』(大村書店刊・03.7.7)

 中上健次は、被差別部落を「路地」として物語化した。わたしは、初めて中上の小説を読んだ時、「路地」を言葉そのものの意味として表層的にしか理解していなかった。もちろん、彼が出自とした場所を考えれば、もう少し踏み込んで理解できたかもしれない。だが、住井すゑの小説のように直喩的に語った時、その作品はどう位置づけられていくだろうか。あるいは、藤村の『破戒』のような作品を読もうとしたとき、または読み終えた時、作品理解は、どういう方位をもつことになるだろうか。中上の小説作品がもっている意味は、それらとは違った位置と方位をもっているといっていい。
 わたしは、中上が被差別部落を「路地」として物語化した時、初めて差別・被差別といういわれなき幻想の構図が解体されたと思った。中上の優れた小説作品の数々は、その作品性の達成度は当然のこと、被差別部落という位相をわたしたちの観念の諸相から排除したことが、作品はひとつの世界性を獲得したのだいっていいと思う。
 だから差別表現・差別用語といった問題を考える時、わたしは真っ先に、中上の「路地」という言葉を想起する。現実の差別構造が、差別表現・差別用語を喚起しているとしても、表現や用語への徹底した制限や停止という行動は、必ずしも差別・被差別構造を解体していく道筋に連動していくとは限らないとわたしには思える。中上のような「方法」で、そのような隘路を切開できないものかというのが、差別表現・差別用語の問題へのわたしの接近の仕方である。確信的に差別性をもって表現される言葉は、当然、否定されるべきあるし、逆の立場、つまり表現者側の表現の自由への侵害だと主張する、あるいは“言葉狩り”だと反論する立場にわたしは同調するつもりはない。難しいのは、無意識から発せられる表現・言葉であり、全く関連性がないと思われていた表現・言葉を掘り起こしてきてまで抗議する根拠への疑念である。
 長年、出版社で雑誌編集を体験し、「表現を考査する立場」にいた著者が著した本書は、“人権差別”という視点を基底に置いて、差別表現を徹底的に検証し、多様な経験から導き出された著者なりの「表現基準」を提示したものだ。差別用語をまず例示し、それにまつわる事件例を紹介し、著者の解説が示されていくという構成をとった本書は、表現に携わる者にとっては格好の手引書的意味をもっているといっていい。
 だが、本書がもっている意義あるいは意味はマニュアル書的な場所ではない。また、差別をめぐる表現の在り様とは、著者が強調するような“人権”という位相に関わることではないとわたしは考える。言葉で何かを表現するということは、伝達行為であるとしても、そこでは、関係性のなかの言語という場所を引き寄せている。発する言葉・言語・表現が関係性のなかでどういう意味を帯びていくのかということに、わたしたちは自覚的であるべきなのだ。語る相手・表現対象が、被差別部落出身者であるとか、在日朝鮮韓国人であるとか、身障者であるということが問題なのではない。異和は異和として認識すべきであって、異和が差別化・差異化に転化していくことを、わたしたちは意識下で制御すべきなのだ。何気なく、相手の容姿や体形、性格をあげつらうことでも、差別(差異)用語を発したことになる。言語や言葉は想像(イメージ)の表現なのだ。直接的で皮相な表現は、関係性の齟齬を招くだけだ。
 例えば、賭殺場や魚市場で働く人達を、腐臭を嗅ぐように言葉を発したら関係性は崩壊する。職業を差別化して、“ふぜい”と形容することも当然避けるべき言い方だ。わたしは、言葉は想像力の表現だと考えるから、著者がいう“人権”や表現の自由といった問題に必ずしも収斂させるべきではないと思う。差別意識や差別構造を問う前に、まず私たち個々人が関係言語をどう発すべきかという原初の問題にたつべきなのだ(表現行為を仕事としているものにとっては当然のことだ)。わたしは、あまりに空無な原理論を展開しているのだろうか。そうではない、中上の「路地」という言葉の想像力こそ、差別意識や差別構造を解体できる道筋だという考えを、わたしは手放すことはしないといいたいだけなのだ。
 「言葉は時代とともに変わって当然のもの、人間対人間の最大のコミュニケーションツールなのだから、その言葉が相手の心に痛みを感じさせたり、屈辱感を与えるものならば、変わって当然だと考えるからである。(略)言葉は結果として人間を幸せにするツールでなければならない。『表現の自由』も同じである。時代とともにしなやかに変化して当然なのである。」(191P)
 著者がこう述べることに、わたしはもちろん異論はない。

(『図書新聞』03.9.13号)

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2006年5月11日 (木)

檀 一雄 著『太宰と安吾』(バジリコ刊・03.4.30)

 太宰治、坂口安吾そして檀一雄と並べてみれば、誰でもがこの三人を、「無頼派作家」というカテゴリーの中に入れるはずだ。安吾は壇より六歳年長、太宰は三歳年長だが、それぞれ濃密な関係性をもっていた。檀は安吾との通交を「私の生涯の出来事で、この人との邂逅ほど、重大なことはほかにない。」(本書262P)と言い切り、太宰とは、「破滅していたもの同志が、わずかに最後の狂乱を演じていた」(97P)ような「親昵(しんじつ)」な関係だった述べている。
 本書では、「無頼派作家」ならではの象徴的な出来事が綴られている。「第一部 太宰治」では、「熱海行」、「第二部 坂口安吾」では、「安吾・川中島決戦録」がそうだ。
 「熱海行」は、こうだ。太宰の最初の妻初代に頼まれ、七十円をもって仕事で熱海に長逗留している太宰のもとへ届けに行く。その金は、宿泊代はもとより飲み代、遊興代の支払いのためであったが、檀が着くや否や、なぜか支払い先の飲み屋の親父ともども、三人で「生簀から抜いてくる」たねであげる〝てんぷら屋〟で早速、二十八円七十銭を使ってしまう。その後は、太宰と檀の「狂乱」の日々がつづく。三日後に、檀を残して太宰は、「菊池寛の処に行ってくる」といって東京へ発つ。しかし、何日か経っても太宰が戻ってこなかったため、たまりかねて、東京へ戻り、太宰を捜し当てる。太宰は井伏鱒二の家にいた。結局、宿代、遊興代は、井伏の奔走で佐藤春夫の世話になる。太宰は自分のことを信じてくれずに、東京に戻ってきた壇に言う。「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と。壇は、「この言葉は弱々しかったが、強い反撃の響きを持っていたことを今でもはっきりと覚えている。」と記す。そして、このことが、後年、作品「走れメロス」の「心情の発端」になっているのではないかと、壇は考える。
 一方、「安吾・川中島決戦録」は、安吾が亡くなる二年ほど前の夏の出来事だ。このころ安吾は、激しい鬱気に襲われることが多かった。出版社の企画で謙信を安吾に、信玄を壇に見立てて川中島の現地取材に行き、松本に十日ほど逗留した時だ。「いやはや、大変な旅であった。折からの炎暑のせいでもあったろう。安吾の鬱気が爆発して全く酸鼻と言いたい程の荒れ模様を呈し、殆ど収拾がつかなかった。」と壇はその時のことを回想する。「酒・薬・女」の日々だ。夜になって急に上高地へ行こうと言い出し、ウィスキーをあおりながら芸者たちとともにタクシーで向かう。泊まるところがなく、結局、宿に戻ったのが夜中の二時だ。檀が不在の時、安吾は暴れ出し宿の鏡台を二階から投げ飛ばし、日々の暴発に番頭がついに警察沙汰にしてしまい、留置される。翌日、宿に戻ると、息子が生まれたと連絡が入る。「赤ん坊は親父がブタ箱に入ったことをチャーンと知ってやがる。それで、親父がブタ箱から出たところを見はからって、オギャーとうまれてきたらしいや。」と安吾は壇に「ホッと一息ついたような(略)淋しい、しかし毅然とした微笑」で語りかけてくる。
 これらの出来事を、「無頼派作家」達らしい顚末として読み通してしまうことは簡単だ。待つ身と待たせる身について吐露する太宰にしても、毅然とした微笑をする安吾にしても、わたし(たち)は、「無頼」という言葉がもつイメージから遠く離れた感性を見る思いがする。そういう感性の場所を、吉本隆明は「解説」で次のように見事に言い当てている。
 「太宰治、坂口安吾の他、織田作之助、石川淳、檀一雄といった、いわゆる無頼派と呼ばれた作家たちは、それぞれ良質な作品を残しているが、彼らは、女、薬、酒といった表層的なデカダンスと裏腹に極めて大きな倫理観を持っていたように思う。これが一見無頼派的にみえる彼らの作品の奥底に流れていた、生涯をかけた大それたエレヴァスであった。」
 確かにそうだ。檀の太宰や安吾に対する語り口に、親和性を読み取れることは、当然として、その親和性は、「表層的なデカダンスと裏腹に極めて大きな倫理観」からくるものだといってもいい。
 「太宰は自分のひそかに愛するものがあると、その表現に心魂を砕く。」(「紫露草と桜桃」86P)
 「殊更、太宰治は初代夫人と別れなくてはならないような出来事が起こったり、パビナール中毒が昂じたり、まったくのところ、破滅寸前でありました。
 その太宰が、辛うじて、逃げのびていったところが、御坂峠の天下茶屋であり、その時の蘇生の記録が、ほかならぬ『富嶽百景』であります。いきいきとした素朴な蘇生の感情がみなぎっており、まわりの風物と美しく照応しながら、時にユーモアさえ溢れ出して、稀に見るような傑作をなしております。」(「太宰治と人と作品」196P)
 「安吾その人は、一見はなはだ磊落放胆に見えながら、その実、きわめて暗鬱厭人の人柄でもあった。その放胆は、即ち傷つきやすい安吾の尖鋭な精神が装った人間に対する優しい最後の友愛の手でもあったろう。」(「坂口安吾論」212P)
 「心魂を砕く」、「素朴な蘇生の感情」、「優しい最後の友愛の手」といった檀一雄の太宰と安吾へ向ける視線もまた、〝優しい〟倫理観のようなものが漂っているといってもいいはずだ。一九六八年に刊行されたものの復刊である本書は、最高の表現者たちの息遣いを、生き生きと伝えていることで、時間を超えて、〈現在〉を考えるためのテクストであると言い切ってしまうことは、わたしの過剰な思い込みだろうか。いやそうではない、そう言い切ることに、わたしなら確信がある。

(『図書新聞』03.10.4号)

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山折哲雄 著『日本人の情感はどこからくるのか』(草思社刊・03.5.9)

 『天皇の宗教的権威とは何か』、『神から翁へ』といった代表的著作を通して、七〇年代から八〇年代にかけて、わたし(たち)に大いなる刺激を与え続けた山折哲雄の最新著作は、著者には不釣合いな感じにも思える、よくありがちな〝日本人論〟といったマニュアル本的な装いをもって出された。雑誌「草思」に「女子大生のための日本文化史」と題して、二〇〇一年五月号から二〇〇二年四月号まで連載された文章を中心に纏められた本書を、〝入り口〟が一見やさしくみえるという意味で、ありがちなマニュアル本と、いったまでだ。通読してみれば、山折の思考が変わらず刺激的に展開して、難渋な思想的世界を開示しようとしているのが分かる。七〇年代から八〇年代にかけての山折哲雄の刺激的な仕事をある意味凝縮し、ここでは平明に語りながらも、その思考の方位はけっして揺れ動くことなく表明されている。
 本書は、十五本ほどある文章群を、ある程度の共通する内容の腑分けをして全体を三章で構成している。
 以下、概括してみれば、まず第1章「日本的情感とは何か」では、「日本人の涙」について独特の切り口で語り、村瀬学の『13歳論』に喚起されながら、少年と大人の境界域について光源氏を通して述べていく(「光源氏が『男』になったとき」)。そして、一九九七年の八月、イギリスのダイアナ妃が事故死した時の、日本の新聞報道に関して言及していく(「『ピープル』をめぐる混乱」)。首相のブレアがダイアナを「ピープルズ・プリンセス」と発言したことにたいし、各紙が「猫の目のようにクルクル変わる名称で表現した」と指摘する。例えば、毎日新聞は、「人民の皇太子妃」、「民衆のプリンセス」、「国民のプリンセス」と変動していたという。読売新聞はピープルを一貫して「国民」とし、朝日新聞は、「市民」と「国民」が混在していたとして、山折の思考は次のように発露される。
 「私は、『ピープル』か『ネーション』かといった難しいことをかならずしもいっているのではない。いったいいつまで、われわれは国民、民衆、市民、人民、大衆といった、言葉の重層性の森のあいだをさ迷いつづけていくのだろうか、という自己認識の錯乱のことをいっているのだ。」(80P~82P)
 「そのような自己分裂的な性格を、私は以前、『半・日本人クライシス』と呼んでみたことがある。(略)そのような『半・日本人クライシス』の意識の中に、むしろ日本文化における固有の問題があるいはひそんでいるのかもしれない。文化や文化意識の『重層性』の問題といってもいい。」(87P~88P)
 ここでいう重層性は、いつしか多様性へ、あるいは曖昧性へと連関していくといっていいはずだ。
 第2章「十字の文化、卍の文化」では、「心臓の交換」に視線がいった。キリスト教と仏教の差異のなかに、臓器移植や脳死の考え方が内在していることを指摘して、興味深かった。第3章「失われたものへの思い」では、俳句に関して述べている「銀河と共に西へ行く」が本書の中ではいくらか異色な文章といえそうな気がする。「俳句研究」誌に発表されたその文章を、なぜかわたしは、初出時に読んでいる。虚子は、わたしにとって、それほど親近性がもてない俳句作家だ。しかし、この銀河の句といい、「貫く棒」の句や、山折は引いていないが「春風や闘志抱きて丘に立つ」といった虚子の句は、花鳥諷詠を認ずる作家の作品とは思えない際立った作風だといっていい。山折はそんな虚子の「不遜」な句の裏側を分析してみせてくれている。
 わたしが、本書の表題(主題)にそって〈日本人の情感〉を考えてみる時、やはり天皇制の問題に突き当たる。『天皇の宗教的権威とは何か』の著者ならではの文章「天皇と玉座」が第2章に収められている。宇多田ヒカルや浜崎あゆみの詩が引かれたり、『ゴルゴ13』が援用されたりする本書だが、この「天皇と玉座」こそが〈主題〉として読まれるべきである。
 「そもそも『女帝』というのは、『皇帝』の女性版ということだろう。けれども私は、(略)天皇はそもそもエンペラーなどではなく、テンノウというほかない存在だと考えてきたからである。(略)天皇という呼称のなかには、そもそも男性も女性も含まれていたからだ。」(131P)
 雅子妃が内親王を生んで、女帝待望論がマスコミを駆け巡っていることに対し、このように、述べていき、そして王が即位する時に儀礼的に座る玉座について、解説しながら、天皇の継承祭儀、大嘗祭へと言及していく。
「はじめに」で、山折は日本人の情感はどこからくるのかと自問すれば、「想像の翼がどこまでものびていくような気がする。」と述べている。比喩的な捉え方をすれば、「言葉の重層性の森」を「想像の翼」がどこまでも飛翔して、言葉と思想の問題の端緒を切り開いて見せてくれているのが、山折哲雄の最新著作だといっていい。

(『図書新聞』03.7.12号)

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2006年5月 9日 (火)

「『千年の愉楽』考・一」

 『夏芙蓉 』。不思議な響きがする。フヨウやスイフヨウではなくナツ・フヨウだからだ。夏(ナツ)がひとつのイメージを付加している。濃厚な香りを放ち、酔芙蓉は花の色を変えるという。切実さ、切なさ、拙速さ。わたしなら、寂しさとともにそんなイメージを思い浮かべる。夏は、その表層さがもたらす熱さよりも、拙速に消滅に向かっていく様を喚起させる。だから、こんな書き出しで始まる、ひとつの物語に胸が熱くなるのだ。
 「明け方になって急に家の裏口から夏芙蓉の甘いにおいが入り込んで来たので息苦しく、まるで花のにおいに息をとめられるように思ってオリュウノオバは眼をさまし、仏壇の横にしつらえた台に乗せた夫の礼如さんの額に入った写真が微かに白く闇の中に浮きあがっているのをみて、尊い仏様のような人だった礼如さんと夫婦だった事が有り得ない幻だったような気がした。」(「半蔵の鳥」)
 この物語を著した作者は夏に死んだ。

 『天鼓』。 天上界から舞い降りてきた太鼓といった意味をもつこの言葉は、この物語の作者中上健次が畏敬してやまない谷崎潤一郎の『春琴抄』を思い出させる。盲目の主人公春琴は、「飼っている一番優秀な鶯に『天鼓』という銘をつけて朝夕その声を聴くのを楽しんだ」。わたしは、映画『春琴抄』(七六年、監督・西河克己、主演・山口百恵、三浦友和)で物語の後半、春琴が佐助に口紅を塗ってもらいながら、鶯の鳴く様を聞いて、嬉しそうに、「いま鳴いたのは天鼓やな」 という場面に、強い印象をもっている。暗い結末をもつこの映画で、明るい慰藉するような鶯の声は、「テンコ」という響きとともに、胸を打つ。
 中上の物語は、こうだ。「明けてくるとまるで瑠璃を張るような声で裏の雑木の茂みで」鳴く鳥が、オリュウノオバには、「半蔵が飼っていた天鼓という名の鶯」のように思いだされてくるのだ。そして、この鶯は、半蔵の熱い関係性を象徴している。

 『中本の血』。オリュウノオバは「路地」でただひとりの産婆だ。半蔵の姓は、オリュウノオバの夫の礼如さんと同じ中本だ。「中本の血がよどみ腐っている」象徴としての弦とはイトコ同士だ。半蔵が二十歳の時、女と暮しはじめる。女が身ごもった。半蔵はオリュウノオバに弦のような子が生まれないかと心配で尋ねる。そういう思い、つまり中本の血の宿運は、そのまま「路地」の若衆たちの存在の苦悩でもあった。まるで、そのことを払いのけるかのように、熱く生き急ぐ。
 天鼓という鶯をもらった若後家の家に、入りびたる。鶯は、この家に出入りするもうひとりの男から貰ったものを女が渡したのだった。山仕事の仲間の怪我の治療費を無心に女の家に行くとその男と出会う。半蔵は、「鶯の声をあんなに綺麗になるほどに仕込んだ」ならと、酔いにまかせその男と、若後家を天鼓のように仕込んでやろうといたぶっていく。男と女。男と男。熱い性愛。やがて死。

 『路地』。 読み書きができないオリュウノオバは、生れてきたものの生年月日と、死んだものたちの年月を諳んじることができた。そうすると、「路地」がまるで、「 死んだ者や生きている者らの生命があぶくのようにふつふつと沸いているところのような気がして」ならなかった(「六道の辻」)。
 「何百年もの昔から、今も昔も市内を大きく立ち割る形で臥している蛇とも龍とも見えるという山を背にして、そこがまるでこの狭い城下町に出来たもう一つの国のように、他所との境界は仕切られて来た。」(「同」)
 「路地」という場所はそういう空間性をもったところだ。中上健次が紡ぎ出した物語の数々は、「路地」の物語だ。そしてそれは、わが国に潜在する共同性の態様を析出した物語でもあった。アジア的遺制の残存が、わが天皇制の虚構の物語だとすれば、ここ「路地」は、そのことを無化すべく存在せしめられた場所だと、中上は物語っていくのだ。

 『桜の木』。半蔵より十歳も若いが、叔父にあたる田口三好は、「十五ほどで、もうその頃は大人の中に立ち混って闇市の中で商売をはじめ、不良少年団の親分」(「六道の辻」)のようにふるまっていた。オリュウノオバは、「意地も屈託もない青年団の若衆よりも、(略)飯場で手に入れた金を一晩出かけた博奕であらかたなくし、残った金で(略)女に流行の柄のゆかたを買って使いきり、花火のように瞬間に燃え上がればいいと思っている三好の方が数段女としては惹かれると思った」。亭主もちの女と関係し、亭主を殺す。無垢で、人を殺しても悪いと思わず、「血の中で女を裸にしてつがるという」考えをする三好をオリュウノオバは、「分かりすぎるほど分かっ」ていた。二十歳になった三好は飯場で怪我をする。「眼がおぼろげにしかみえなくなっ」たのだ。やがて、「夏芙蓉の花が閉じはじめる頃」、三好は、桜の木で首をつって死んだ。〈死者の像〉が累積していく。

(『点』01号・04.4.15)

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「『千年の愉楽』考・二」

 『鴉天狗』。「路地」でただ一人の産婆であるオリュウノオバが語る「浄らかだからこそ澱んでいる」、「中本の一統」の血をめぐる物語は、「路地」が招来してしまう忌避できない死という劇だ。それは、「路地」の若者たちの熱くたぎる生き急ぎが、外界を「路地」に反照させて、解体させているからだといってみたくなる。オリュウノオバは、産婆であることで、若者たちの「生誕」に立会い、そして、生き急ぐ若者たちの早すぎる「死」を抱懐する。「死」を「再生」させるかのように、また、産婆として「生誕」に関わっていく。オリュウノオバの視線は、「髪が黒々として体中くまなく産毛と言えぬような毛でおおわれ」て生まれ、「女親のカネが異類の子を孕み産んだのではないか」と思われた文彦へと向けられていく。全身の毛は一月経って消え、「どんな異類の徴候もみられな」い文彦が六つの時、「鴉天狗」を見たと告げる(「天狗の松」)。オリュウノオバは、暗い予兆を思うのだ。

 『巫女』。文彦は、中学を出てから飯場を転々とする。修業する巫女の集団が、食料や生活のために必要なものを買い求めるために飯場の近くで女郎屋をはじめた。そこで知り合った女を、「山の中で出会った」として、文彦はオリュウノオバのもとへ連れて来て「どうしたらいいだろうか」と聞く。巫女だった女と文彦の出会いを「中本の血の若衆にふさわしい淫蕩だがあえかな物語」だとオリュウノオバは思った。天狗の化身かとも思った巫女と文彦の暮らしが始まる。だが、ふたりの過剰な性愛の果てに、女は死に至る。中上健次の描写力は、この女の「死」を流麗に描ききったことにある。「一瞬に光りの塊のようになって熊野の山々が重なった方に飛び去った」女は、男を救済していくかのように死んでいったともいえる。中上の視線は、「路地」の若者たちへの熱愛がこもったものだ。 しかし、「生きていく気が抜けた」文彦は二十四の時、「路地の松に首をくくって死ん」だ。

 『タンゴ』。連作六篇からなるこの『千年の愉楽』は、「天人五衰」で物語を転位させているかのようだ。ある種、静謐な劇の流れから、戦後という時空がそうであったように、喧騒の場所を過剰に描出していく。明治近代国家は、「穢多解放令」を公布した。だが、むしろ苦難の時間性は重層していった。だからオリュウノオバは、「猿のように獲られて死んだ者」を思いながら「滅びるより増える方がよいと説いてまわり産ませ」てきたのだ。路地の若者あるいは中本の一統は、沈潜した時間性を払拭させるかのように、熱くたぎる夢想を抱こうとする。それは、なによりも「路地」の宿運を解き放ちたいという無意識の「夢」だといっていい。終戦の翌々年の夏の盛りに康夫は、誰も眼にしたことのない蓄音機を携え路地に戻ってきた。そして、タンゴを聞かせ路地の者たちを驚かした。「音」が「声」が「踊り」が聞こえてくる。中本康夫ことオリエントの康はそんふうに登場する。

 『理想の国』。中上の描く「路地」は、国家や共同体から排除された場所だ。だからこそ、「路地」の失われた共同性を獲得し、転化させ、それを発露として、世界へ反照させていくしかなかったのだ。オリエントの康は、「新天地をつくりたいと奇異な情熱を持って」路地の若衆たちを説いて廻っていた。それは、「路地の高貴な汚れた血の本能の命ずるまま」つくるもう一つの満州国のようなものだった。昔、子供の頃に路地から何家族もバイアという土地へ移住していったことを、康は覚えていた。譲司に新天地の場所を聞かれ、「南米のバイヤじゃの」と答えるのだった。こうして、「日本人として新天地で理想の国をつくる事」など、「三カ条の規約をつくり六人の血判を押し」て鉄心会という名の組をつくった。そんなオリエントの康をオリュウノオバは想う。「誰かの為にそんな見も知らぬ他所の国へ行こうとしたのではなく」、ただ死に向かうオリュウノオバの為だった気がした。

 『蓄音機』。オリエントの康は、ダンスホールで地廻りの若衆たちにピストルで撃たれ瀕死の重傷を負う。鉄心会の手下たちが地廻りの者たちとイザコザを起こしたからだ。
「痛みが心臓の動きと共に響いているのを耳にしながら、(略)眼を閉じれば裸足で新天地の道路を横切っている髭面の自分が見えると思い、痛みの呷きとも溜息ともつかぬ声をあげて手をのばして自分をはげますように蓄音機を廻して針を下ろした。」(「天人五衰」)
 やがて、康は集団で新天地に行く事を断念する。そして、蓄音機から鳴るタンゴの音とともに路地の者たちが踊っている場所で、一番の手下だった譲司にピストルで撃たれる。二度の「狙撃の祝福が厄を払った」かのように死ななかったが、その後、一人、南米へ渡り「死んだ」。「音楽は物の怪の力をもち」、「オリエントの康を彼方にとじ込め」たとオリュウノオバは思う。物語は、過剰な死を累積させながら、鮮烈な生を描出していくのだ。

(『点』02号・04.11.15)

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「『千年の愉楽』考・三」

 『義賊』。新一郎は、十七の時に、男親の死を契機に、「誰も手をつけられないような盗人に成長してい」(『ラプラタ綺譚』)た。じぶんを義賊に擬して、別当屋敷や群長の妾の家、鉄道疑獄で捜査されそうなバス会社といった場所に入っては、盗んだものを路地の辻に捨てていた。路地のものたちは、それが盗んだものだと知りながら、しぶんたちものにしていく。だから、誰も新一郎の行状を責め立てるものはいなかった。たまりかねた礼如さんは、何度も意見をすることになるが、聞き入れることもなく、破天荒な所業は続いていく。だが、「川向こうの製紙会社を荒して失敗し」てからは、盗人を止める。そして、しだいに「中本の血の本性を顕わしはじめ」る。新一郎は、旦那に囲われている芸姑の歓心を買うために、草履や下駄の「直し」の仕事につく。茶屋の玄関脇で、鼻緒のすげかえをすることで、芸姑との機縁をつくり、「愉楽」の関係へとすすんでいった。

 『銀の河』。ふたりの噂が花町でたってきたため、かつての所業が知れることを恐れ、新一郎は、行方をくらます。やがて、南米へ渡り、オリュウノオバ宛に絵入り手紙が送られてくる。二年のあいだに届いた六通ほどの手紙は、「銀の河の事が繰り返し出て来」た。新一郎は路地に戻ってきても、すぐには南米のことを語らず、三年経ってようやくオリュウノオバに語る。「ラプラタは銀の河だが、そこもやはり路地と同じように人間の住むところで、羽の生えた天女も臭い女だったしイーグル男もみにくい奇形のアル中にすぎなかった」と。中上が描出していく路地の世界は、場所性を逸脱していく。それは、路地という空間を外部へと連携させたいからにほからない。アルゼンチンとウルグアイの国境間に流れ出るラプラタ川という実際は、「銀の河」という換喩で、わたしたちがもっている路地という空間のイメージに繋がっていく。しかし、中上はこの物語の主人公に水銀を飲ませ自死させるのだ。

 『達男』。わたしたちは、六篇からなる連作短編集『千年の愉楽』を俯瞰して、ようやく最終章へ至る。この「カンナムイの翼」は、オリュウノオバの「死の床」から描き出されていく。だが、全篇に渡ってそうであるように、ここでもまた、時間を往還しながらオリュウノオバの視線から物語は、紡ぎ出されていくのだ。「通夜の今日は、到るところに散った路地の出の者だけでなく、誰もが、どんな時代に生きた者も集まる」という共同性の表象として「死の床」は描かれている。路地の唯一の産婆としての存在性は、多くの路地の者たちの「生」を認証し、「出自」を保証していく有り様を示している。女に刺されて瀕死の中本富繁は、生まれてくる子供のために、五体満足で生まれてくるようにと大蛇が棲むというお堂に潜んで祈願していた。だが、「ふくろうが鳴いた夜」に、富繁は大蛇に飲まれて死んだ。その時、達男は、「何一つ欠ける事なく余分な物もなく」、オリュウノオバにとりあげられたのだ。

 『人間の路地・アイヌのコタン』。十五になった達男は、「何代にも亙って若死にし浄化を繰り返してきた果てに生れたこの上なく尊い仏の現身のように」黄金色に輝いていた。夫の礼如さんが遠くへ通夜で出かけ不在の時、オリュウノオバは、達男と情交し、朝早く戻ってきた礼如さんの知ることとなる。「親が子を抱くように抱いて何が悪いんなよ」と言うのに対して、礼如さんは「ようも、ようも」と絶句するだけだった。この「カンナムイの翼」一篇は、濁流のように中上健次の物語への渇望を凝縮しているといっていい。アイヌ(のコタン)と路地を連結させて、「愉楽」の世界に投げ入れようとしているからだ。達男は、北海道の鉱山へ働きに出で四年ぶりに、アイヌの若い衆とともに路地へ戻ってくる。ここで、達男は、アイヌは人間という意味で、カムイは自然や神のことだと、オリュウノオバに教える。そして、達男は、連れてきた若い衆に「ポンヤウンぺの産婆」だと紹介する。

 『千年の愉楽』。ポンヤウンペは、「キラキラひかる揺り籠(シンタ)に乗ってやって来た神謡(ユーカラ)の、半分は自然・神(カムイ)、半分は人間の名だ」と聞いたオリュウノオバは、「外からやってくる敵を撃退しろと」いう意味に思った。ここに至って、過激な思いを、オリュウノオバに仮託していく。「人間(アイヌ)の路地(コタン)と路地を結び、理由なく襲いかかってくる者ら」に対して、弓矢や鉄砲、爆裂弾で戦争するという想起。それは、「天子様暗殺謀議」で逮捕・処刑されて和尚不在となったのを礼如さんが変わりに路地をまわるようになった因縁ともつながる。この最後の一篇は、達男とアイヌの若い衆が、北海道に戻り、鉱山の暴動を組織して殺されたことに象徴されるように、物語はさらに過剰化していく。愉楽は共同性が孕んでいる熱い渇望なのだ。千年とは、そこに内在している「生」であり「性」でもある。そして忌避できない「死」という場所を意味しているのだ。(了)

(『点』03号・05.6.15)

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2006年5月 8日 (月)

中野徹三・藤井一行 編著『拉致・国家・人権―北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』(大村書店刊・03.11.30)

 北朝鮮・金正日独裁政権が日本人拉致を認めてから、一年半近く経過した。五人の拉致被害者の帰国から何の進展のないまま、東アジアの政治情勢は、依然、泥濘のような状態が続いている。日本政府の無能さは、金政権の欺瞞性と五十歩百歩だ。だからといって、わたしは、被害者家族たちを支援している現代コリア研究所の佐藤、西岡や反共を標榜する政治家たちを容認はしない。日本政府(日本国家といってもいい)と北朝鮮という宗教国家は本質的に同じ病巣を持っているという視線がぬけているからだ。
 この間の、拉致論の多くは日本も核武装して北朝鮮と対峙すべきだという最強行論や徹底的な経済制裁を加えるべきだという対話回避論から、和田春樹・岩波「世界」グループのような戦前の日本の戦争行為、朝鮮人強制連行といったことがらを謝罪し、平和的対話のなかで日朝間の関係を構築すべきだという空虚な理想論まで、幅広くなされている。しかし、それらのすべてに国家論の空洞性があることを見逃してはならない。
 かつて、ロラン・バルトは大都市・東京の中心にある皇居を指して、「その中心は空虚である」(『表徴の帝国』訳・宗左近)といった。そして関川夏央は北朝鮮旅行記で、北朝鮮の有様を「退屈な迷宮」といった。
 〈空虚な中心〉、〈退屈な迷宮〉はそれぞれ、戦後の象徴天皇制と金王朝の実態を見事にいいあてている概念だ。そしてそれは、同時にわが国と北朝鮮の共通の国家の本質を示唆する言葉でもあるのだ。一方が繁栄、もうひとつの方は飢餓と貧困と表層的に見えても、実体は、「空虚」であり、「退屈」なのだ。拉致にからんだ北朝鮮論の陥穽のほとんどが、鏡として国家を見ることのできない空洞に陥っていることだ。
 金正日にとって高度消費社会のわが国はいつになっても帝国主義国家であり敵国なのだ。そしてわが国の多くの人びとは、北朝鮮を遅れた個人崇拝の独裁権力国家だと見なすというまったく交差することのない視線がかわされているうちは、関係性の構築はありえないといってもいい。わたしの考えは簡単明瞭だ。半島の問題は、北と南の二カ国間だけでやるべきなのだ。アメリカもロシアも中国も、ましてやわが国も介在すべきことではない。拉致に関しては、アメリカのバックアップを期待したり国際世論を背景にしてやるのではなく、わが国単独で矜持をもって交渉すべきことなのだ。そんな力量もないから、先進国首脳会議や六カ国協議の議題にのせようとしてうまくいかず、外務官僚の無能さだけが目立ってしまうことになるのだ。
 さてこうして私見を述べてしまえば、本書の主旨と私の考えが、どこで重なっていくのかと思われそうだ。だが、本書はこれまでの拉致論・北朝鮮論とは一線を画したものとなっていて、わたしに、多くのことを示唆してくれている。編者たちは、トロツキー研究会のメンバーで、「三五年来の反スターリン主義闘争の盟友」(「あとがき」)なのである。
 本書で編者の一人、藤井一行は次のようなトロツキーの言説を引いている。
 「私的所有が社会的所有になるためには、ちょうど青虫が蝶になるためにさなぎの段階を経なければならないのと同じように、不可避的に国家的段階を経なければならない。しかしさなぎは蝶ではない。無数のさなぎが蝶になれずに死んでしまう。国家的所有は、社会的な特権や差別が、したがってまた国家の必要性も消滅していくその度合に応じてのみ『全人民的』なものになっていく。言いかえれば、国家的所有は国家的であることをやめるにつれて社会主義的なものに転化していく。」(250P)
 レーニン以上にレーニン的な国家論だといってもよい。藤井は、この後、このように述べていく。
 「トロツキーの指摘はもちろん北朝鮮にもあてはまる。ただしソ連では、スターリンを首領とする党官僚体制が全体として特権層として存在していたのにたいし、北朝鮮では首領唯一体制になっている。九八年憲法では、『国家所有は、全人民の所有である』と規定されている。しかし、首領絶対主義のもと、『朕は国家なり』に等しい金正日体制のもとで、国家所有は、金日成・金正日所有となるほかない。」(251P)
 戦前のわが国が、天皇を絶対神としたある種の宗教国家だったように、北朝鮮もまた金親子を絶対神とする宗教国家であり、社会主義国家ではなく金王朝国家であるという認識のもと、通交を見定めるべきだと思う。よど号メンバーが何年ぶりかで姿を現したとき、見事なまでの主体思想のスポークスマンになったのを見て、わたしは、実際的に囚われの身であったとしてもマインド・コントロールの恐ろしさを痛感したものだ。宗教国家だから、内部からの崩壊は、まず期待できないとみるべきだ。国連の安保理事会が形骸化しているいま、中野徹三がいうようにICC(国際刑事裁判所)に、人権侵害(拉致も含む北朝鮮民衆への人権的圧制)ということで、金日正王権を提訴するという方法も、あるかもしれない。だが、わたしは北のマインド・コントロールを解くのは、同胞でもある南の人たちであるべきだと思っている。
 未来への通路は、半島を二つに分けた国家たちにゆだねるべきではない。

(『図書新聞』04.2.21号)

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和田春樹 著『日本・韓国・北朝鮮―東北アジアに生きる』(青丘文化社刊・03.1.20)

 著者の和田春樹は、かつてロシア・ナロードニキの先駆的な研究者だった。本書のプロフィールでは、あまりその形跡を窺い知ることはできない。同時期にナロードニキやアナーキズムを研究対象にしていた京大の勝田吉太郎が、その後、いわゆる右へ旋回していったことと、和田がソ連のペレストロイカを積極的に支持し、実践的には東アジアへシフトしていったこととは、そんなに違いがないと、正直思っていた。久しぶりに、和田の名前が、わたしの眼に飛び込んできたのは、あの拉致騒動の渦中だった。詳細を知っているわけではない。たぶん、現代コリア研究所の怪しげな一統と、拉致被害者家族から、北側の擁護者として一方的に批判されているのだろうと、推測している。あえていえば、拉致は確かに許されざる国家犯罪ではあるが、佐藤や西岡達、現代コリア研究所の面々と被害者家族達は、戦前のわが国の半島への侵略支配行為(強制連行も当然含む)をまったく捨象しているように見えて、わたしには彼らの声高の告発にまったく親近感を持つことができない。独裁権力者金正日を、全面否定できたとしても、戦前の半島への行為が無化されるわけではないのだ。だからといって、金丸の土下座外交ではないが、和田がいうような日本政府として正式に謝罪することで、北朝鮮が納得して開放的な外交をするとも思えない。
 わたしが、つねづね考えていることは、わが国と、東アジア(韓国・北朝鮮・大陸中国・台湾中国)との時空的な関係のありかたは、自虐史観でも駄目だし、戦前の国家行為を糊塗した先にあるわけでもない。植民地支配・侵略行為を率直に認め、国家・政府として戦後補償をしたうえで、戦後の政治的パラダイムの転換を認識したなかで互いに主体的にそして率直に主張すべき事はするという関係性を構築することだと思う。
 しかし、現実はそういうことにはなっていない。わが国政府の主体性のない戦後処理の対応の不充分さ、いつまでたっても戦前の政治的パラダイムのなかでしか日本を見ようとしない東アジアの国家たちというように、停滞した状況が続いているというしかない。大陸中国や韓国、北朝鮮が強大な軍事力をもちながら、わが国にことあれば軍国主義の復活だと批判するのは、矛盾と錯誤の国家論理だといっていい。
 和田が、日本は戦前の行為を謝罪すべきだと、本書で一貫して述べている。確かにそのことは、率直性に満ちた正論だと思う。だが、それは、こちら側(わが国)の内省の問題だとわたしなら思う。本書の大部分が韓国の新聞、雑誌に発表された一九八八年から二〇〇二年までの文章だが、そこで、村山謝罪発言(自衛隊を簡単に容認したように、自社政権というまったく錯誤の政権の首長がいったことは空語でしかないというのがわたしの考え方だ)を金科玉条のようにわが国の公的なものとして有効性を力説しているが、それは韓国の読者を困惑させるだけだと思う。わが国の政権執行者の言葉がいかに公的な意味を持たないできたかは、誰でも知っていることだ。日朝国交促進国民協会の訪朝団の団長が村山で、秘書長が和田という関係が、そういう連帯感をもった論述になるのかもしれないが、わたしには、承服できないことだと、あえていっておきたい。
 しかし、なるほど、和田は先駆的なロシア・ナロードニキの研究者だったなと思ったのは、「東北アジア共同の家」という提言においてだ。
 「(略)はっきりしていることは、日本からは政治的なリーダーシップも、新しい哲学も、ヴィジョンも発信されていないということである。日本は経済力を除けば、一個の巨大な空白である。このことが東北アジアにとっては致命的な問題である。
 東北アジアの現在の情勢の諸要素を考えると、最大の課題は北朝鮮の改革開放だということになる。東北アジアの将来は北朝鮮の転換にかかっているのである。(略)朝鮮が二つの体制をもちながら、開放協力の体制をつくれるならば、そのあり方は東北アジア全体の開放協力体制のモデルになるということができる。中国と台湾のよき関係にとって、そのモデルが役立つだろう。東北アジア共同の家をつくることに進むことができ、その中心に朝鮮半島がくることになるであろう。(略)
 当然ながら東北アジアの共同の家が生れるには新しい文明的メッセージが共有されなければならない。何より民族的遺産、文化の相互尊重の上に、ナショナリズムを越える原理を求めなければならない。」(114P~122P)
 「民族的遺産、文化」を〈相互尊重〉するということは、そのこと自体、ナショナリズムを越えなければできないことだ。アジアはある意味もっともナショナリズムが強い地域だといっていい。高度資本主義であっても半資本主義化した社会主義であっても、強度の宗教国家体制であっても、〈アジア性〉は、絶えずナショナルなものを温存しているのだ。「東北アジアの共同の家」という考え方が、アジアの未来の道筋をつけていけるのなら、〈戦前〉という時空は、超克されることになる。勿論、越えなければならない障壁は数多くあるが、それでも〈アジア性〉を開いていくことがこれからは、必要なのだ。

(『図書新聞』03.6.21号)

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2006年5月 5日 (金)

瀬戸内寂聴・鶴見俊輔・いいたもも 編著『NO WAR!―ザ・反戦メッセージ』(社会批評社刊・03.6.15)

 「反戦・平和運動」とはなにか。わたしは、誰でもが当たり前のように思うはずの「反戦・平和」という言葉に、長い間、釈然としない思いを抱いてきた。「反戦」と「平和」は、けっして並立されるものではないという考えを、わたしはもっている。「平和」や「幸福」といったことは、確かに人間の営みのなかで究極的な願望であり到達点かもしれない。しかし、同時にそれらの言葉のなかに含意する曖昧性を、見過ごしてはならないと、わたしなら思う。究極の願望や到達点を、自己目的化した時の、陥穽というものがある。「平和」であればいい、「幸福」であればいいと思うほど、そこへ至る方途を何処かへ置き去りにし、現実的困難さを回避するという状態を、生み出してしまうのだ。
 この間の、米英の独断的なイラクへの侵略戦争は、ブッシュジュニア、ブレアという国家の首長が、権力の行使を自己目的化した彼らなりの虚妄の「世界平和」を追求した結果だといっていい。もちろん、ブッシュジュニアの背後に戦争・石油利権屋がいることは自明のことだ。だから、米英のイラク侵略に対して「反戦」をいうのはいい。しかし、それは、同時に「反国家権力」という視座をもたなければ意味はない。ブッシュジュニアが権力を行使する現在のアメリカという国家とフセインが君臨するイラクという国家を同時に解体した先にしか、いわゆる「平和」というものの〝第一段階〟は訪れないと断言できる。だから、「平和」という状態がいかに至難なことなのかということを、認識すべきだというのが、わたしの考えだ。
 わたしが、ベトナム反戦運動以来の高揚する「反戦・平和運動」といわれる米英のイラク侵略戦争への抗議行動を、全面的に評価しようとは思わないのは、口あたりのいい「平和」という言葉に疑念があるからだ。
 本書は、四章立てで構成されている。「Part1」と「Part2」は、この間のイラク戦争に抗議する内外の様々なメッセージを紹介している。R・アルトマンの映画『ザ・プレイヤー』や『ショート・カッツ』で好演した俳優ティム・ロビンスやアカデミー賞で苛烈な受賞挨拶をしたマイケル=ムーアの発言は、それなりに説得力に満ちていると思ったが、それ以外の芸能人や著名人の、あるいはイラクの子どもたちの声といった多様な「反戦・平和」に関するメッセージは、それが芸能人や著名人ということで、影響力があることは認めても、わたしには重要な発言だと思うことはできなかったし、安直な平和への希求は、ブッシュジュニアやブレアと同じ虚妄性があると、あえて言っておきたい。むしろ、「Part3」の「高校生・自立する市民らのピース・アクション」の様々な報告の方に、わたしの関心は向けられたといってもいい。
 「(略)イラク攻撃を止めようといてもたってもいられなくて動いてみた。(略)そんな中で気になることがあった。『非暴力で行動しよう』という言葉を参加者から幾度となく聞いた。『平和を守ろう』『罪のない人を戦争で殺すな』というシュプレヒコールも聞いた。平和じゃないからデモに参加している、罪のある人だって戦争で殺してはいけない、そもそも罪とはなんなのか、そんな思いを抱かずにはいられなかった。
 非暴力でも合法的でないこともあるし、目の前の理不尽な暴力に対応しなければならないことだってあるかもしれない。(略)非暴力を貫くには、とても難しい技術がいるはずなのだ。それをすっとばして非暴力を安易に言えばどうなるのか。」(106~107P)
 ソメイヨシノが咲きつつある中で、吉祥寺の井の頭公園から米大使館までのピース・ウォークデモとでもいうべき反戦行動に参加した岩沼るるの報告だ。反戦プラカードをもって電車通勤するとか、ローソク集会で、反戦・平和を主張するというのは、それぞれの参加のしかただし、それ自体わたしにはなんの感慨もない。もちろんウォークデモもそうだ。しかし、岩沼が感じた、「非暴力」や「平和」を安易に主張することにたいしての疑念や戸惑いを、わたしたちは、真摯に受け止めなければならない。「Part4」で、いいだももが、ベトナム反戦運動とイラク反戦運動を混在させて自伝風に、悦に入って語るほどわたしたちの現在は、反権力闘争・反戦運動が真に高揚しているわけではないのだ。
 最後に、「反戦ネットワーク」のnoiz(本書では大文字で表記されているが小文字が正しいはずだ)と、本書の実質的な編者であの反戦自衛官の小西誠の文章にふれねばならない。
 9・11テロからアフガン空爆へいたるアメリカの覇権戦争を契機としてたちあがった「インターネット上の反戦プロジェクト」は、「特定の運動団体が運営するウェブサイトではな」く、「アフガン侵略戦争に反対する個人が自らの意志を表し、ともにその意志を連ねていくということを表現する」(139P)ものだ。わたしは、すでに何度かこのサイトを見ていたが、ウェブ上で運動の細やかな報告と精緻な情況分析をおこなっていることに驚いたものだった。かつては、〝紙の中の活字〟で表現されていたものが、このように開かれたかたちで(それがウェブサイトの特徴でもあるが)運動が表現されていくことに、深い感慨を覚えずにはいられなかった。
 「実際の運動体とは何ら関係も持たない特異な『意志の集合体』としては、いまだウェブ上の実験は続行中なのである。そして反戦ネットワークの未だ定かでない現在的意義はそこにあるのかもしれない。」(141P)
 noizはこのように述べる。個人の意志が、運動表現としての共同性を形づくっていくのには、ネットが重要な役割を果たしているのが、現在なのだということを、わたしはあらためて認識したといっていい。
 小西論文は、アメリカ軍の暗部を衝く。徴兵制廃止に伴い、入隊者に様々な特典を与えることになって、「米軍は主としてマイノリティと白人の低所得者層の兵士で構成されることになった。」(174P)という。イラク戦争での米軍兵士の戦死者のほとんどがマイノリティたちだったとし、「米軍が平均的なアメリカの『富裕層』を含めて構成されていたとしたら、ブッシュは今回のイラク戦争をかくも理不尽に強行しただろうか?」(175P)と小西は疑念を呈する。
 二人の際立った文章によって本書は極めてアクチュアリ性をもったものになったといっていい。

(『図書新聞』03.9.27号)

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2006年5月 3日 (水)

今井 一 編著『「9条」変えるか変えないか 憲法改正・国民投票のルールブック』(現代人文社刊・05.5.9)

 「憲法改正」が、いよいよ具体的なかたちで国会(国会議員)レベルの俎上に乗りつつある。発足以来五年、四月十五日に自民、民主、公明三党主導によって押し進められてきた衆議院憲法調査会は、最終報告書を提出した。続いて、参議院も二十日に提示している。だが、戦後憲法が制定されて六十年近く経過して、制度疲労を声高に主張し改憲を目論むわが国のネオコンたちと、宗教のお題目のように護憲を言い募るだけの社民・共産グループとの対立軸は、わたしたちにはなんの衝迫性も与えない政治劇になっている。村山政権時の自衛隊合憲発言で、事ここに至れりと思ったのは、わたしだけではないはずである。自衛隊合憲(ついでにいえば天皇制支持もだ)と九条固持と、なんの矛盾もなく鼎立させる政治理念が、既に社民党(社会党)を破綻させているのだ。共産党はいわずもがなである。国会(国会議員)レベルでの憲法改正の進行過程は、誰が考えても粛々と進んでいくはずだといっていい。そして、憲法改正を可能にする最終段階が、国民に対して、信認を問う「国民投票」なのだ。本書は、その「国民投票」の意味と意義そしてもちろん重要性を、憲法改正(こういういい方は、曖昧だ、明快に「九条改正」といっていいと思う)に絡めて、懇切に解説し論述したものだ。本書の骨格を構成しているのは、三月二十一日に行った憲法調査会の国会議員たちによるシンポジウムである。わが国の歴史上、初めて実施されるであろう「国民投票」を、どういうかたちで、なされていくべきかということが、主題であったため、出席していた議員たちの憲法(九条)理解や理念を、具体的に聞くことはできなかったとしても、会場にいたわたしは、彼らの高み的発言としかいいようのない論旨を不快な想いで聴くことになる。国会議員は、有権者の付託を受けて政治行為をする存在である(ちなみに現衆議院議員は有権者の六割に満たない支持を受けている。それを国民全体の絶対多数の付託か、一部の付託かと捉えるかで立ち位置が違ってくる)。しかし、おそらく、ほとんどの議員(九条を改正しようと考えている議員)は、選挙時に九条改正を明確に主張して当選したとは思えない。では、誰にどのようなかたちで改正を付託されたといいたいのだろうか。
 出席議員のひとり、枝野幸男(民主党)は、このように述べている。
 「(略)憲法というのはわれわれ政党が相撲をとる土俵を作っている。公権力行使の限界、あるいは公権力行使の権限の源を規定しているのが憲法であって、その中で各政党がそれぞれの主張する政策を実現する。与野党で相撲をとる。その土俵作りであると思っています」(79~80P)
 倒錯した論理とはこういうことをいうのだ。自分たちを「公権力」の代位(これは国民主権の上位の概念と見做すことができる)のように錯覚し、居丈高になって「この国のかたち」を憂えてみせ、「民主主義というイデオロギー」に酔いしれていくのだ。「デモクラシー」を誤訳して、「民主主義」という、イデオロギーのような“主義”という訳語を付した時に、言葉は欺瞞に満ちたイメージを纏っていき、ほんらい、社会を構成するシステムや手続き的ものに過ぎないはずの「デモクラシー」が変容させられていったのだ。同じように、憲法もまた、わたしたちの生活と有様から乖離して、公権力行使の根拠となっている。
 「そもそも憲法は、国民が政治家に国政を付託した時に、やっちゃいけないことを決めたものです。(略)だから、今、国会で言っているような『国のかたち』をどうするなんてことは、ぜんぜん関係ない。」(二木啓孝「『憲法改正』とは、」・「情況」六月号)
 わたしの考えは、この二木の発言とまったく同じものだといっておきたい。戦争の放棄をいいながら専守防衛はいいとする改憲派は、論理の矛盾に気づかないのだろうか。森達也が何かのアンケートで、戦争をしたいから自衛隊を国軍にしたいのだと改憲派は明確にいうべきだといっていたが、まさしく、その通りだと思う。それで、「国民投票」によって信認されても、編者の今井がいうようにわたしたちは否とはいえないのだ。なによりも問題なのは、護憲派が、九条理念を実際的にどう実行していくのかを具体性をもって述べるべきなのに、空疎なキャッチフレーズレベルのことしかいわないという停滞性にある。
 「一部の『九条護憲派』は、実態はどうあれ条文さえ護れば九条の本旨を温存できると思い込んでいるようで、『明文改憲』の動きに対しては厳しい反応を示すのに、『解釈改憲』に対しては批判しながらも許容範囲とするような反応です。」(19P)
 今井の厳しい視線の先には、もう政治家たちに自己充足的に九条を弄んで欲しくないという想いがあるといっていい。「国民投票」というまたとない、わたしたちの真意が試される時がいずれやってくるのだ。本書の詳細な解説を理解したうえで、主権行使としての「国民投票」によって、公権力という幻想を解体し、霧散させていくべきだと思う。

(『図書新聞』05.10.8号)

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2006年5月 2日 (火)

高田 健 著『改憲・護憲 何が問題か―徹底検証・憲法調査会』(技術と人間刊・03.1.20)

 かつて、江藤淳は、その著『一九四六年憲法―その拘束』(一九八〇年刊)で憲法成立事情を徹底的に、そして精緻に研究、調査した結果、連合国最高司令部が憲法草案を起草したという事実を提示した。江藤の真意は、九条第二項の「戦争放棄条項」は〈平和条項〉として偽装しているが、〈主権制限条項〉であると解すべきだとするものだった。江藤の論述は、ある意味、説得力にあふれ、また当時、憲法成立事情を詮索することがタブーであったことから、言論空間に風穴をあけたという評価を与えられたものだった。わたしは、自主憲法制定を画策する一部の潮流と、江藤の真意は必ずしも同じではないという理解のうえで、なぜ、江藤はそれほどまでに国家主権と自己の主体性を同一化したいのか、疑問に思い、またそういう江藤の感性に興味を引かれたといってもいい。わたしは、江藤と違って、自己と国家をアイデンティファイしたいとは思わないし、国家とはひとつの共同性の僭称であってシステムとしての統治性をできる限りゆるやかにし、様々な制約的機能は開いていくべきだという理念にたっていた。だから、九条よりはむしろ一条がある限り憲法は認めがたいという考え方を持っていた。象徴天皇制、あるいは天皇制の条項が憲法から除外した時に初めて、九条の理念が意味をもってくるし、国家という共同性が開いたことになるという思いが強くあったといってもよい。草案が強制であろうが、すり寄せた結果であろうが、天皇制の存続と戦争放棄がリンクしていることは、誰の目にも明らかなはずだ。
 だが、ここ十年ほどの世界史的な時空を見れば、わたしが拘泥する一条はいずれ空語化していくとしても、九条がもっている理念と意義は、ますます大きくなってきたといえる。冷戦構造は、実態のない戦争シミュレーションという様相をもっていたから、九条の理念は言葉だけの世界のなかで閉じていてもよかった。だが、東西対立が解けた後、局地的な民族・宗教対立の頻発、そしてなによりもアメリカの一国覇権主義による戦争行為の激化が、世界情況を一変させて来た現在こそ、究極的な意味で〈非戦〉、〈非核〉理念であるわが国の九条憲法は世界的な位相において、普遍性をもっているといってもいい。
 しかし、わが国の政府とその同伴者たちがとっている姿勢は、九条理念から遠い場所へいこうとしている。本書は、憲法調査会なる欺瞞的な機関を設置して、憲法改正(悪)をもくろむわが国政府の錯誤的姿勢を徹底的に検証し批判したものだ。著者は、「許すな!憲法改悪・市民連絡会」結成に関わって、市民運動の立場から衆参両院の憲法調査会の活動を三年近い期間にわたって傍聴し、監視活動をした報告書とでもいえる本書を著した意図を、「憲法の改悪に反対する『市民運動の憲法論』の一つの視点を提起しようと」したと述べている。
 そもそも、憲法調査会とは、どういう意味をもち、いつ設置されたものだろうか。わたしを含めて多くの人はあまり認知していなかったと思われる。「改憲の機関ではなく、憲法問題を議論するための場の設置であり、論憲のためだ」として議案提出権をもたないことを条件に、野党も巻き込んで、二〇〇〇年一月、衆参両院に設置されたものだという。しかし、そもそもそれより先立つ九七年に、「憲法調査会設置推進議員連盟」が結成されている。一応、超党派ではあるが、顔ぶれを見れば、明らかに「改憲」を主張する議員たちで構成されていたと著者はいう。この「改憲議連」がそのまま、現憲法調査会を主導しているということになる。
 「もし、国会が『論憲』ということで憲法について真剣に議論するというのであれば、まず日本社会がいかに憲法を実現しているのか、それとも実現していないのかを調査・点検しなくてはならない。そして現実が憲法の原則からますます乖離し、憲法がますます空洞化させられている実態が明らかになれば、そうした違憲状態を即刻、改革するようにとりくむことが国会の責務である。憲法三原則の実行を回避し、空洞化させておいて、そうした違憲状態にある現実に憲法を合わせるための議論を始めるなどというのは本末転倒もはなはだしいものであり、国会議員としての責任を回避するものにほかならない。」(70p)
 著者の論述は、明快だし正鵠をえたものだ。本書の書名もそうだが、よく改憲にたいして護憲という言葉が対置されるが、本当は、憲法を正しく行使するということを措定すべきだと思う。「憲法は単なる理念ではなく、実行するものだ」と、沖縄の公聴会での公述人で弁護士の新垣勉の発言を、著者は紹介している(103P)。そして、著者は、「憲法に関する立法不作為を言うのであれば、まず憲法九条を具体化するための平和外交基本法とか、東アジア非核地帯推進法、経済の非軍事化基本法などこそ制定されるべきであった。」(149P)と述べている。そのことに、わたしも異論はない。
 昨年の十一月に衆議院憲法調査会の「中間報告書」が、衆議院議長宛に提出された。今国会では、昨年から引き続いて「有事関連三法案」の審議が国会で行なわれている。他の条項をたてに憲法が現実に適合しなくなったといって、実は九条の足枷をどうにかしようという動きや声高に有事といって危機感をあおり九条を空洞化しようとする動きは一体のものだということを、本書は具体的に報告しているといっていい。

(『図書新聞』03.5.17号)

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2006年5月 1日 (月)

『松田修著作集・全八巻』(右文書院刊・~03.5)

 松田修が、わたし(たち)に鮮烈な印象を与えたのは、思い起こせば七十年代初頭だった。『刺青・性・死』(松田は刺青を「しせい」と呼ぶ)という衝撃的な表題とモチーフを突きつけて暗渠の世界をわたし(たち)に開示してみせてくれた。そしてさらに、『陰の文化史』、『闇のユートピア』、といった著作を通して独自の確たる松田修の世界を展開していく。一方、小川徹が編集する「映画芸術」誌に、精力的に映画批評も発表し、松田の表現方位は多層に渡っていった。
 七十七年、わたしは、松田と近接の場にいた。松田は、「暗黒舞踏」論とでもいうべき「肉体の千年王国」(著作集・第六巻収載)と題した論稿を発表する。掲載されたのは、わたしが編集に関わっていた「無政府主義研究Ⅷ」という雑誌だ。
 冒頭まず、ジャン・ジュネの映画『愛の詩』がひかれる。独房で踊る若者の痙攣する様に松田の視線は向けられる。「踊り」を、「恍惚への肉体としての試行錯誤」、「逡巡するためらい傷」、「錯誤の傷たちによって深まってゆく致死の傷(真実の傷)」と見做す。そもそも傷や痛みという言葉は、松田の拘泥する位相だ。「痛み」だけが、「愛のたしかな憑り代」(『刺青・性・死』)だと捉えたり、「信仰も愛もみな苦痛を通じてのみ、確信できる」(座談「世捨て思想と現代」)と述べたりしている。この論稿が、発表する雑誌の特異性やモチーフの親近性によるためか、松田の思念が凝縮された一篇だったと、今にして思う。もう少しこの論稿を辿ってみる。
 「『火傷の痛み』としての土方のきり展いた世界」に、「もっとも前衛的なものが、すでにもっとも土着的であるという逆説」をみることができるとし、「一筋の白粉が、異形との親和をもたらすほどには、そり落とした髪と眉は、異形の世界へのパスポートでありうるだろう。政治的・思想的な面からではなく、土方たちは、その反市民・反近代を、フォルムの側から迫ってゆく」と述べ、次の様な結語へと至る。
 「はたして肉身が痙攣し、痙攣することによって肉身であるものならば、魂=霊も痙攣し、痙攣することによって、魂=霊であろう。またしてもねじれかえった指、背……精神と物質の暗黒がつづくかぎり、弧状列島を覆って痙攣は、波うち、どよめきつづけるだろう。」
 松田独特の表現と文体のリズムは、わたしたち(読者)を未明の場所へ誘って、いつしか異形、異端の群れこそが、弧状列島・日本の暗渠を撃つ共同性なのだと気づかせてくれるのだ。個という舞踏表現から国家・弧状列島へ至る道筋をつける思索を行為できるのは松田修であればこそだといえる。
 このように、松田が提示する思念は、常に体制的なもの、秩序的なものへの反措定を孕んでいる。異端、異形、被差別、無頼、畸型、不具といった様態へ、視線を向けていくことで、必然的にそうならざるをえないともいえる。だが、しかし、松田が向けていく視線の先はけっしてイデオロギー的場所ではない。松田の視線の方位は、濃密な愛と根源的な美の所在を求めているのだ。
 『刺青・性・死』に次の様な一節がある。
 「刺青、それは閉ざされた美である。暗黒のゆえに極彩の美である。秘めよ、秘められよ、開かれてはならない。それはいつの日にも俗物への、体制への、衝撃であらねばならない。(略)地下へもぐり、異界にひそみ、ある日、突如日常をやぶって花を開く。その一瞬を、われわれは回復せねばならない。」(著作集・第一巻)
 松田にとって刺青は、まさしく刺青そのものとして共感の位相であることは、確かだ。しかし、わたしたちは、松田の魅惑あふれる言説にふれることで、むしろ、様々な想念を沸き立たせるものとして、刺青をメタファーとして捉えることになるといってもいい。このことは、松田の著作の数々が、けっして偏狭な学究的なものではないことを意味している。そのことの証左として、座談・対談での発言をみるのが、わかりやすい。本著作集は、各巻に、座談・対談が収載されているのが、特色だが、松田の思念世界への入り口としても、格好のテクストだといえる。なかでも、第四巻収載の中上健次との対談「物語の定型ということ」は、言葉の往来が濃密な関係をつくりあげている。例えば、こんな往還だ。
 松田が言う。
 「言語の虚構性が、新しい文学のジャンルを拓く。言葉が定型を喚び起こし、喚び起こしつつ定型を裏切るーー。物語の定型を降霊しつつ、反物語である。」
 中上が言う。
 「やっぱり物語というのは僕はーー松田先生もそうだと思うんですけどーーある原形というのは、差別というんですか、あるいは差異といってもいいと思います。そこから出て来ると思うんです、物語という部分が……。(略)単純に言いまして、なぜ最近物語がつまんなくなったのかというと、差別に関していまの現代作家たちは非常に鈍過ぎる。要するにもっと差別心なり、あるいは被差別心なり、そういう意識なりを回復しなくちゃどうしようもないんじゃないか。」
 この往還を松田は、次の様に見事に締めくくっている。
 「そもそもーーこう言えば少し大袈裟ですか、言語の構造そのものが、差別(一般的な意味での)から来ているでしょう。差別なしには言語は存在しない。遡れば溯るほど、本質的になればなるほどにーー。」
 松田の視線は、絶えず言葉の概念を転倒させながら、根源性を切開しようとする。だから、歴史論においても、「逆転歴史観」(中込重明・解題)といわれる所以だ。
 このように、松田の思念世界はけっして過去的テクストに収斂されるものではない。わが列島国家は、依然、病理という暗渠を払拭できずにいるのだから。
 だからこそ、いま、あらためて松田修の多岐に渡る仕事のほぼ全体像を俯瞰できる著作集の刊行は、なんの衒いもなく思想的な事件だといってもいい。全八巻の構成のもと刊行が開始されたのは、昨年の九月だった。そして半年あまりで、全巻が刊行完結する。
 松田修の世界は、まだ未明の場所にある。

(『図書新聞』03.5.3号)

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M・L・ブッシュ 著(指昭博・珠恵 訳)『ヨーロッパの貴族―歴史に見るその特権』(刀水書房刊・02.11.30)

 わたし(たち)が、〈貴族〉というものを考えた時、わが国においては、平安朝時代の一時期を、ヨーロッパならイギリスに象徴される〈貴族〉階層というものを思い描くに違いない。
 戦前、〈華族〉と任ぜられた一群があった。近代天皇制の確立のなかから発生した特定士族の族称の意味合いがあって、かならずしも、〈貴族〉と同じ位相を持った階層というわけではなかった。わが国では、武士階級の台頭によって、いち早く〈貴族〉も天皇家の権力も無化されて、近代へ到達しただけに、長く歴史のなかに位置づけられ、しかも今でもイギリス社会に歴然として存在し続けているという意味では、〈貴族〉という階層概念は、君主制や王制に支えられたヨーロッパ独特のものだといっていいかもしれない。
 本書は、ヨーロッパ全域を対象に、時間性も古代末から現在までと、幅広く〈貴族〉の特権をめぐって論述している。
 「本書でまず第一に、そして何にもまして大きく取り扱うのは、貴族の特権である。なぜなら、特権こそが、ヨーロッパの貴族の唯一絶対欠くことのできない特質だからである。土地を持たない貴族もいたし、支配機構を持たない貴族もいた。また、その生活様式が、社会の他の人々と区別できないような貴族もいた。しかし、特権を持たないような貴族は存在しなかった。」(「序」)
 そして、著者は、「特権」を必ずしも権威や権力と結び付ける言葉として捉えていない。 「特権」とは、「慣習や法によって認められた権利であり、特定の社会集団だけが持つことを許され、また、親から子へと継承されうるようなものである。」と著者はいう。本書は、一貫してこのモチーフと視線を通し論述されているといってよい。しかし、正直言って、かなり難渋する著作だ。「特権」の内容をいくつかに細分化し、それを章立てにして構成し、地域・国家間を横断させ、時間も錯綜させながら論述していくという著者の方法は、精緻に論じていながらも、どうしても散漫さを感じざるをえなかった。
 このような、わたしの本書に対する初発の印象を払拭するかのように、訳者は、「あとがき」で、つぎのように述べている。
 「ブッシュが取ったのは、(略)これまで蓄積されきた先行研究をもとに、貴族の特権についてのエッセンスを絞り出すといった手法であった。それは、非常な力業を要する作業であり、おそらくは、新たに同じ作業を行なう研究者が今後現れることは期待できないだろう。」
 「エッセンスを絞り出す」手法といえば、確かにそうともいえそうだ。一九八三年にイギリス、マンチェスターで刊行された本書における〈貴族〉の「特権」というテーマを、二十年後の現在からの射程で捉え返すとしたらどうなるだろうかという、わたしなりの疑問は保留するとしても、著者ブッシュの手法が難渋さを感じさせながらも、それがかれの独自の際立った方法論からくるものであることは認めざるをえない。ただ、いくらか不満をいえば、「特権」をこれほどまでに細分化して論ずる必要があるのかいうことだけである。つまり、免税特権という財政上の特権、法的な免責特権、官職保有や議会における特権、名誉をめぐる特権、領主権や地主特権、といったこれらのことは、常にパラレルなものだといっていいはずだ。起源や発生の端緒、そして影響力の分析から消滅へ至る過程を丹念にそして微細に例証していく著者の方法は、訳者もいうように間違いなく力業に違いないが、わたしには、もう少し統合してロジカルに展開できなかったのだろうかという気がしてならない。しかし、〈貴族〉という位階制、「特権」という権威・権力性といった、どうしても、イデオロギー的な視線を向けやすいテーマを、著者は抑制した精緻な例証を変えることなく展開している。そのことは、歴史研究の重さを充分わたし(たち)に、指し示すことになるといってもいい。
 「貴族の特権は、貴族を平民から区別することによって社会を組織立てるとともに、さまざまなタイプの貴族のあいだに区別をつけることで、貴族階級を階層化させた。貴族の内部に階層があっても、平民と区別されるという効果がそのせいで損なわれることはなかったので、特権の存在は、貴族という階級に一体感を与えるのに役立っていた。」(27P)
 「特権が減少し、さらに貴族の称号が侵害されたことによって生じた階級秩序の混乱は、貴族の性格に深刻な変化をもたらした。(略)貴族は、概して爵位貴族と同義になったのである。(略)世襲貴族は、もはや階級というよりカーストの様相を呈するようになり、没落を運命づけられた。没落の原因は、(略)社会のエリート集団のなかで周縁的な存在にすぎなくなったことにあった。」(204P)
 「特権は、貴族の構造や定義を規定しただけでなく、特権以外に貴族らしい性格を何ひとつ持たない貴族の存在を認めたという点でも、貴族階級の成り立ちに深く関わっていた。」(292P)
 社会のなかのエリート集団でなくなるということは、ヨーロッパの歴史のなかでの〈貴族〉の問題だけに還元することではないかもしれない。例えば、大企業に勤務する人達が考えもしなかった倒産やリストラにあって、ただの周縁的な存在になってしまうことの恐怖が、この高度消費資本主義社会の現在に、間違いなく訪れているのだから。

(『図書新聞』03.4.12号)

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バーマン-アサド 著(有川ひふみ他訳)『ソ連はなぜ崩壊したのか―英雄的たたかいと苦い敗北』(スペース伽耶刊・03.1.15)

 ソ連が崩壊して十年が経過した。ベルリンの壁が無くなり、東欧は、西側がいうところの〈民主化〉がなされた。だが、その後の十年で冷戦以後の世界は、どう変容したといえるのだろうか。ソ連や東欧の社会主義政権の瓦解は、資本主義の勝利、社会主義の敗北といったイデオロギー的な捉え方で事足りたわけではない。当時、ソ連共産党政権の崩壊といった一連の事象に、困惑し迷走した左翼潮流は擬制的なマルクス主義の亜流たちにすぎない。六〇年安保闘争を主導した諸党派は、明確に、ソ連スターリン主義政権と日本共産党に訣別したし、その後の新左翼運動も、なんらソ連や東欧諸国のスターリン国家群の動向に影響されていたわけではなかった。すくなくとも、わたし(たち)は、擬制的なマルクス主義(スターリン主義)の破産は認めても、マルクスの理念や思想は依然有効だと思っていたはずだ。これはすでに言い古されたことだが、マルクスの理念とマルクス主義というイデオロギーはイコールではない。
 さて、本書では、著者の履歴や、著者が所属しているだろう運動体あるいは研究母体を明らかにしていないので、推察の域をでないが、「まえがき」のなかで献辞している「革命的な指導を行なったガス・ホール同志」がアメリカ共産党議長だということが本文を読んでわかった。著者バーマン・アサドは、何らかのかたちでアメリカ共産党(実をいえば、わたしは、存在自体知らなかった)に関わっているのだろうと思える。
 書名から喚起されるイメージで、本書に入っていくと、ある意味、難渋することになる。一九一七年十月革命を最大限評価しそこから始まった共産主義革命の道程を、丹念に検証するというのが、本書の骨子だといってもいいからだ。著者は、「まえがき」で次のように述べている。
 「十月社会主義大革命によって開始された社会主義建設の過程は、世界全体に拡大し、一〇〇を超える共産党・労働者党がこれに加わった。ゆえに、その歴史的成果と欠陥についての評価は、それらのすべての諸党・諸国民―とりわけソ連邦とソ連邦人民―の経験をとりまとめ、検討し、分析としてまとめないかぎり、包括的に行なうことは不可能である。」
 著者のこのような視点が、極めて強固に貫かれながら展開されている本書を、果たしてどう評価すべきか、正直なところ逡巡する思いだ。
 具体的に言ってみよう。
 著者は、まず綿密な経済的数値を挙げながら、例証していく。十月革命時のソ連は、欧米諸国に較べてはるかに劣化した経済状況だったという。そもそも、マルクスたちが予見した社会は、資本主義社会が一定段階に達した時、様々な矛盾が露呈し、そこで始めて、社会主義革命の端緒が開かれるというものだった。しかし、ロシア革命にしても、その後の社会主義政権の誕生した国家群も、いわば後進地域といっていい。著者は、このソ連(ロシア)の後進性からの脱却を優先せざるをえなかったことが、社会主義社会建設の困難さを抱え持ってしまったと指摘する。スターリンの主導による「急速な工業化」は忌避できないものだったとうのが、著者の考えだ。そして、ソ連の急速な発展が、欧米帝国主義群にとって脅威となり、軍事的、経済的、反共産主義包囲網ができたことによって、どうしても対抗上軍事的拡大路線をソ連はとらざるをえなかったという。果たして、そうだろうか。欧米の資本主義国家群を帝国主義と断じるなら、例え社会主義という衣を身に纏っていたとしてもソ連もやはり帝国主義だといわざるえないのでないか。対抗上軍拡をせざるをえないとしても、軍事とはすべて覇権主義という権力性の表象だといっていい。
 著者はいう。もともと経済的基盤が脆弱だったところに、成長途上で過剰な軍拡のため経済がだんだん立ち行かなくなったことが、ソ連崩壊の第一段階だったと。そしてもうひとつの要因として、「急速な工業化」を推進するため、国家体制を途上の状態で確立してしまったことを挙げている。「全人民の国家」という、党や階級概念のプロレタリア性を否定する政府を上位とする国家性の考え方が官僚制の瀰漫をはびこらせ、政治システムの退行化が始まったと著者は分析してみせる。
 ある意味、精緻さをもったソ連崩壊劇の解析だと思う。だが、どうしてもわたしは、素直に納得するわけにはいかない。ソ連における過度期国家性、過度期権力の問題が、いわば、スターリン主義として立ち上がってきたことを留保していると思えるからである。スターリン主義はファシズムと同じように普遍的な超克すべき課題だと、誰でもが考えることだと、わたしは思っていたのだが。本書の著者は、そこには重点を置かずに、崩壊劇の無念さを強調している。

(『図書新聞』03.4.5号)

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森 茂起・森 年恵 著『トラウマ映画の心理学―映画に見る心の傷』(新水社刊・02.12.10)

 本書は、今までになかった入り口をもっている。臨床心理学の著書として読めて、さらに映画批評・映画論としても読めるという極めて独自性をもったものだ。だからといって過剰さを押しつけるようなことはない。著者(たち)は、率直に本書の意図を、「あとがき」で次のように述べている。
 「本書の狙いは、トラウマに関する知識を、説明するよりも、映画に描かれたトラウマを考えていくことで、その直面の過程を少しでも言葉にすることにあった。」
 確かに、具体的な臨床例を叙述されて、トラウマ論を展開されるよりは、映画の物語に添って、「心の傷」をもった登場人物の内面を分析して語られるほうが、はるかに了解の道筋は見つけやすい。しかし、トラウマ映画とは、なかなか意味合いを持った銘々だと思う。トラウマを描く映画という意味であるとしても、考えてみれば、映画や小説は、どこか「心の傷」を持った人物やモチーフというものがなければ、物語としての厚みがないといってもいい。映画や小説は、広義の意味において、すべてトラウマを扱っているというべきかもしれない。
 本書では、九本の映画作品をテクストとして選んでいる。洋画では、『質屋』、『フィアレス』、『心の旅路』、『秘密の花園』、『めまい』、『バッファロー’66』の六本。邦画は、『愛を乞うひと』、『噂の女』、『ユリイカ』の三本だ。このセレクションが、妥当かどうかということは問題ではない。本書の意図に沿っていうならば、臨床心理学的アプローチで、これらの作品を、どう分析しているのかが重要になってくるのだ。そして、さらに、それらの映画作品批評が屹立した地平へと到達しているのであれば、著者たちの意図が完遂したことになるといっていい。
 読後、著者たちの意図は十全に果たせたなというのが、わたしの素直な感想である。作品の物語を丹念に辿りながら、映画的手法の解説も適時にしつつ、それぞれの作品世界を批評として提示する手さばきは、見事という他はない。
 例えば、『質屋』のフラッシュバックシーンにふれながら、「トラウマによって引き起こされる心の働きの離断」を「解離」と呼ぶと説明して、次のように述べていく。
 「解離された記憶には、通常の記憶とは違うきわだった特徴がある。(略)自分の意志と関係なく、いきなり襲ってきたり、また思い出そうとしても思い出せなかったりする。記憶がなにか異物のようにして心の中に食い込んでいて、勝手に暴れたり静まったりするのである。『質屋』のフラッシュバックシーンは、このような記憶の性質をよく表している。」(20~21P)
 さらに、『愛を乞うひと』にふれながら、「本書で扱う映画の多くが、過去が現在の中に入り込む物語である。その入り込み方とその扱い方に、主人公のトラウマの性質が現れているとともに、それぞれの映画のトラウマ理解やトラウマ表現の核心がある。」(46P)と著者たちはいう。
 わたしが、本書で取りあげた映画作品の中で最も関心をもったのは、『ユリイカ』だ。
 この上映時間、三時間三十七分に及ぶ長大な作品は、公開時、様々な波紋を呼んだ。作品評価は、批評家にはおおむね高かったといっていい。バスジャック事件に遭遇し、生き残ってしまったバスの運転手(役所広司)と乗客だった兄妹(宮崎将、宮崎あおい)の「心の傷」を描いた青山真治監督作品は、確かに大変、力ある映画だ。本書の著者たちもいうように、事件の描き方は秀逸だ。トラウマの契機となった事象を描出せず、しかも、一切フラッシュバックは用いない。運転手の止まらない「咳」と、言葉を発しない兄妹たちを、延々カメラの視線が追い続けるといった映画なのだ。事件から二年後の、運転手と兄妹たちとの奇妙な共同生活は、見る側にとって大変退屈で時間の流れの緩慢さに苦痛ですらあった。しかし、マイクロバスで旅立とうとするまでの契機を描くためには、この遅延した映画的リズムは、この作品の最も重要な場面の連鎖だといえるのかもしれない。宮崎あおい演ずる妹、梢は最後に言葉を発する。ユリイカとはギリシャ語で「発見する」というほどの意味だが、言葉をついに発したからといって、けっして救済されたというわけではない。全篇セピア色のモノクロ,シネスコで撮られたこの作品は、最後のシーンは、役所と宮崎あおいの二人のショットをカラー映像の空撮で終えている。著者たちはいう。
 「最終シーンの色からうける印象はおそらく人によって違うであろう。私の個人的印象で言うならば、映画に色がつくことで、突然現実に引き戻されたような失望感があった。(略)現実的な色彩の世界に出ることは、目に痛いとでも表現したいような『苦痛』を伴うものだった。(略)梢がトラウマの領域を出て、現実世界を生きるには、この苦痛の何万倍もの苦痛を伴うのではないかとも感じる。」(217P)
 わたしの関心からいえば、本書は映画批評の中に、新たな波をたてるはずだと確信している。

(『図書新聞』03.3.1号)

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